つれづれに

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 今日のYoutube

https://www.youtube.com/watch?v=SEkE2hNw2mc
 一月ぶりのシネマ。この三年来、一月も行かなかったことはなかったが・・・
たまたま面白そうなのが無かったことと、所用が重なったため。
『グレースオブモナコ』は、あまり期待してなかった分、よかった。
 モナコの王様が、どんな暮らしをしているか興味があったが、
映画としても、なかなか面白い! 

 以前、ニースからモナコをバスで抜けたことがあるが、
ニースの飛行場に、プライベートジェット機が100機ぐらい並んでいた。
ジェット機の機長ともども、長期契約で売買されるらしい。モナコの街中を
見ると、数千万もする車が、無造作に、あちこち、置いてあった。
観光バスは、一台辺り、7~8万円も税金でとって、国費としての財源になるとか。
 高台からみるモナコの眺めは、何とも素晴らしい! 



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2396, 白い壁とドア
2007年10月25日(木)
オハヨォ…
「生」と「死」のイメージを詩的に書いてみた。
  --
私の生のイメージ、それは白い四角の立方体の壁に囲まれている空間。
十数年前に一度、そのイメージをリアルに持ったことがあった。
おそらくは、この白い箱の中の壁の何処かに見えないドアがあって、
ある刹那に、その外に放り出されるのである。

白い立方体は生に囲まれた日常である。その意識下の見えない死へのドアがあって、
一度出てしまったら、二度と箱の中には戻ることは出来ない。
白い箱の外は、無。 大きな黒い無限の中で、小さな箱はチリのような存在。
いつか、その白い壁が開いて、その虚無の真っ只中に放り出される。
それがスグ明日かも知れない、それとも20年、30年先かもしれない。
その一瞬、白い壁と黒い虚無の狭間で永遠を見るのだろうか?
それは歓喜だろうか、それともただ寝入る瞬間のようだろうか?

そういえば寝入る瞬間を感じ取ったことがある。
「アッ!」という間の一瞬であった。
それを言葉でいうと、数千秒の一のプツンという刹那のよう。

ーー
以上だが、このイメージにピッタリの詩を見つけた。
死の際にたった魂の叫びが詩の奥から聞こえてくる。
ドアの前に立つと、こんな声が聞こえてくるのだろか!
それとも「おらは死んじまった」の歌声か。
中島義道ではないが、いずれ誰もが直ぐにドアの前に立たされる。

ーー

暗やみの中で一人枕をぬらす夜は

息をひそめて

私をよぶ無数の声に耳をすまそう

地の果てから空の彼方から

遠い過去からほのかな未来から

夜の闇にこだまする無言のさけび

あれはみんなお前の仲間達

暗やみを一人さまよう者達の声

沈黙に一人耐える者達の声

声も出さずに涙する者達の声
                

 ー ブッシュ 孝子 (30年前に28歳で逝った女性の詩である。)
o(*・ー・)〇"ぐっ♪o(*・▽・)ノ"ばーい♪

・・・・・・・・・
2006年10月25日(水)
2031, 「私」のための現代思想  -15
       (+>∀<+)ノ おぁはは~ようさん!
 前・評)
人間は「生きること自体が『緩慢なる自殺』である」と言ってしまえば、それまでだが、
戦争もある意味では集団自殺ともいえる。 いや集団殺戮の方が正しいか?

   《私》にとっての「超越確実言明」を守るために死ぬことも、
    時にとって必要なのかも知れない。
    人間の最後に残された自由へのジャンプとしての自殺もある。

自殺にも正しい自殺と、正しくない自殺があるという。
自分であるために死ぬ、それもイスラエルマサダの砦の集団自殺のように、
自殺厳禁のユダヤ教徒の自殺なのだから意味も深い。
この場合の自殺を正しくないとは言い切れるだろうか。

    誰の目にも明らかな自殺に「子供の道づれ心中」がある。
    子供を自分の所有物と思いこんでいるから、こういう暴挙にでるのだ。
    自殺をするには、それなりの理由があるが、やはり
   「自殺は決して許されるものではない!」のは、道理である。
    それが永遠の自由のためにといっても!

ーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 -?
 *正しくない自殺*

正しい、正しくない自殺というのも変なものだが、
それでも「正しくない自殺」は、誰の目にもハッキリしている。
それを象徴するのがインターネットで知らないもの同士を募り、
複数の者達が一度に命を絶つ「集団自殺」である。
彼らは「死ねば楽になる」という「誤論理」で揺らいでいるので、その揺れを止め、
自殺を遂行するために、<他者>による引き受けを必要としている。

    この場合、普通の他者の共振を受けることもできるが、集団自殺志願者は
    その人たちの《私》を嫌います。
    その人たちの《私》は自らの「超越確実言明」を守る方向に走るからです。
    そのような呼びかけに答えてくるのは、同じく「死ねば楽になる」と感じ、
    死を決意している人たちということになる。
    それはお互いの《私》の「非存在=存在の否定」を引き受けあうのだから。

「《私》の存在を引き受けてもらう」はずの行為が、
「《私》の存在を否定すること」を通して行われるからです。
存在の引き受けは、「存在しつづけることを引き受ける」ことであるはず。
しかし集団自殺は、「ともに存在しなくなること」を引き受けあうになって
しまうからです。

   {解}死に際まで独りでは不安なので一緒に行こうという弱者の論理も
    なるほどと思わないでもないが・・・「死にたいやつは死なせておけばよい」
    と同じ意味で彼らは「死にたいのだから勝手に死なせて」というレベル。
    壊れたラジオは自分地震で自らを直すことが出来ない・・・
    この本を読むまで、自殺について考えたことがなかった。
    しかし考えれば考えるほど、自殺を否定できなくなった。
    自殺を否定したのは、「支配階級が最下層の働き手のロスを最小にするために
    つくり上げた価値観でしかない」という論もある。
    ーー
*正しい自殺*

正しい自殺とは、一回性の人生で、闘いぬき、他の物語を時間の許す限り試し、
その結果としてギリギリの判断において、
「死ぬことによってしか、<私>が<私>でありつづけることができない」
と考えるとき、それは「正しい自殺」となるということです。
これは「名誉のための死」とか、「誰かのための死」を称揚するのではなく、
あくまでも「<私>でありつづけるために死ぬ」ということである。

  ーーー
後評) 正しい自殺かどうか判断できないが、
イスラエルで初めて知った「マサダの砦の集団自殺」である。

マサダ砦は、死海の西南にある要塞。
ヘロデ王の建てた離宮だったが、70年のローマに対する反乱時、
過激派のユダヤ教徒が最後の砦として篭城したが、ローマ軍によって落とされ、
その後2000年間、ユダヤ人は流浪の民となった縁の地である。
ケーブルカーで頂上まで上がるとヘロデ王の宮殿、サウナなどが残っている。

    一世紀、ここを要塞にして戦ったユダヤ教徒約1000人は2年の篭城の後、
    ローマ軍に侵入される直前に集団自殺を遂げた。
    下を見下ろすと、ローマ軍の陣地となった場所がくっきりと見え、
    攻撃のため砦に向かって積み上げられた人工の山が残っている。
    その完成の前日、女子子供数人を残して集団自殺を決行した。
   「奴隷になるよりも死んで自由を」という言葉が、有名である
    現在イスラエルの新兵の入隊式はここで行われるという。
    この集団自殺が正しいかどうかは、歴史が判断するのだろうが、
    意味の無い集団自殺ではない。

肉体的な苦痛から逃れる自殺も、ある意味で容認されてよい。
それは肉体の死によって、肉体の耐えられない苦痛からの避難になる。
現在の社会は、その死を認めていないのは明らかに誤りである。
苦痛の緩和の体制ができていて、その上での話なら別。
  自殺の是非も含めて、全て根本より疑うことも必要なことだ。

         \(^▽^*)バイ!
・・・・・・
2005年10月25日(火)
1666, 日本のこれから 今どきの若者たち

先週の土曜日のNHKで、ゴールデンタイム19時半~22時半まで三時間にわたって
「日本のこれから 今どきの若者たち」 の討論がおこなわれた。
若い人は、何を考えているのだろうと興味を持って最後までみた。
私の場合、三十年以上も若い人を身近でみてきたこともあって、
こんなものだろうという諦念があった。

若者、中年、芸能人、社長など多彩なタイプの人を集めたのが良かった。
一番印象的だったのは、
ハンガリー若い女性の意見であった。
「私は社会主義国だったハンガリーの出身。
アメリカの学校を出て、日本に来た。
この国は社会主義国よりも社会主義的です。そして好きな国です。
あなた達は国の責任とか社会の責任のいうが、自己責任をもっと問うべき。
甘えすぎではないか」それに誰も反論できなかった。
彼女は会場の議論をあきれていたようで、その後何も言わなくなった。

 ーこの討論の私の印象と意見を書いてみる。

日本経済の大転換期、若者たちの将来に明るさが見えない。
また、携帯やパソコンやTVなどから情報が溢れるほど入ってくる。
その中で、自由を与えられても基礎教養が希弱な若者は、
何をもとめてよいか価値を見出せない。
(高度成長期は右ならえをしていればよかった)
そこで、その同類が携帯電話などで集っているが、
そこには表面的な付き合いしか存在しない。

企業も、一部の選ばれし者以外はアルバイトやパートタイムに切り替えている。
競争経済社会では、そうしなくては生き残れない。
ドロップアウトしたものは将来に明るさを殆ど見出せないまま、
フラストレーションだけが蓄積している。
少し注意されただけで切れてしまい、一生を左右する重大なミスをおかしてしまう。 
彼らは自分で如何したらよいのかの答えを見出すのは非常に難しい。
自分で答えを出すしかないが、情報化社会は価値の多様化でもある。
基礎が出来てない彼らに価値観を追求しろといっても無理の話。
目先の欲望の追求が価値と思い込んでいる。

高度経済社会では、大量生産、大量消費の画一の価値に従えばよかった。
ドロップアウトをしても、それを拾うだけのエネルギーがあった。
しかし、このような社会は全ての場面で競争が激しい。
もし私がこの時代の若者だったら、やはり呆然としてしまうだろう。
「今どきの若者は!」の批難が、右上がりの兆候が隠されていればよいが、
現在は明らかに急激な右下がりの兆候であるから、問題は深刻だ。
さらに彼らが激変している社会に対して不信を持っていることが、
さらに問題を深くしている。

・・・・・・・
2004年10月25日(月)
1301, まさか、地元で大地震!-2

この文章を書き出したと同時に、再び大きな揺れである。
震度5強と予測して、TVを見たら5弱であった。
まだ、震度に対する体感には誤差がある。既に36時間も経っているのに、
今も地震が現在進行形というのが驚きであり、不気味である。
今朝の地震では、電気と水道が止まらなかったのが救いである。

一昨夜の二回目の地震は、揺れると同時に、電気が消えた。
真っ暗になったので、まず仏壇前にあったロウソクを皿に数本立て明かりをとる。
地震が少し落ち着いた後、もう一皿に移動用のろうそくを立てた。
今日仏壇周りを整理して倉庫にしまった,大きなロウソク二本を取ってきて
更に大きな明かりの確保をする。

その後、懐中電灯を探すがナカナカ見つからない。次に携帯ラジオを探す。
両方ともあったが、今度は電池が見つからない。
それでも、やっと見つけ取りあえず居間の整理を始める。
現在から考えてみても、冷静に対処していたようだ。
鉄骨の二階で、かつ座っている場所の空間に、危ないものが無いから冷静でいられる
のだろう。こう書いている現在また震度3の地震がおきている。

慌てて、水の確保を思い立ち、鍋にポットに水を入れる。
(ゆれると同時に、サイドボードの前にいってドアを押さえている)
その合間に、この文章を書いている。 面白い体験である。

電気、水道と、ガスが全て止まると、全く普段の生活がストップしてしまう。
まず、水である。 トイレが使えない(風呂の水が当面使えたが)
飲料水がない。(ジュースが5~6本と、ノンアルコールのビールが10本あった)
TVからの情報が途絶えた(携帯ラジオがあった) 食料はスナックが代用できた。
感覚的には、一週間は代用で持ちそうだ。

近くの24時間スーパーに行ったら、閉鎖していたが、隣のドラッグストアーは、
店内散乱の中で、営業を始めていた。 それでよいのだ、緊急時は。
食品と、飲料水が飛ぶように売れていた。 40人位がレジに並んでいた。

地震から一時間もしないうちにヘリコプターの音がした。
報道か自衛隊か解からないが、発生と同時に準備をしなくては、その時間に
飛んでこれないから、その瞬時体制は凄いものである。

昨夜は市民の4分の1の4万数千人が、避難所に夜を明かしたという。
電気も、ガスも、水道も確保出来ないのだから、それも当然だろう。
近くに住む兄が昨日の午後、訪ねてきたが、やはり家の中は足場も無いほど
倒れたモノが散乱しているとか。また、庭にある石灯篭も二つ倒れ、
隣の家に入り込んでいるという。
                     つづく
・・・・・・・・・
2003年10月25日(土)
934, 成果についてードラッカー

 ドラッカーの言葉の中に「成果」という言葉が頻繁に出てくる。
努力そのものでなく、成果をあげることの重要性を説いている。
経営は理屈ではない、結果をいかに出すかだ。 成果能力を問われるのだ。
成果とは長期にわたって業績をもたらし続けることである。
ドラッカーは人生の生き方を経営学を通して教えてくれる。

ーこの成果について、ドラッカーの本より抜粋してみるー

・「成果が自己実現の前提になる」
ー成果をあげる者は、社会にとって不可欠な存在である。
同時に、成果をあげることは、新入社員であろうと中堅社員であろうと、
本人にとって自己実現の前提である。

・「自らの最高のものを引き出す」
ーまず果たすべき責任は、自らのために最高のものを引き出すことである。
人は自らの持つものでしか仕事ができない。
しかも、人に信頼され協力を得るには、自らが最高の成果をあげていくしかない。

・「成果をあげることは習慣である」
ー成果をあがることは一つの習慣である。実践的な能力の積み重ねある。
実践的な能力は、習得をすることができる。
それは単純である。あきれるほど単純である。

・「成果をあげるための五つの能力」
ー成果をあがるための実践的な能力は五つある。
第一に、何に自分は時間をとられているかを知り、残された時間を体系的に管理をする。
第二に、外部の世界に対する貢献に焦点を合わせる。
第三に、強みを中心にそえる。
第四に、優先順位を決定し、優れた仕事が際立った成果をあげる領域に力を集中する。
第五に、成果をあげるように意思決定をする。

ー以下は字数の関係でカット(2007年10月25日)

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560, ある時間の断片 -5 
- 2002年10月25日(金)
 1968年ー9月15日

朝7時半に起床、食事の後に東京の寮に帰る支度をする。
裏の家で姉の正子さんと、帰省中の3番目の姉の優子さんと、
甥の宗彦ームーチャンと写真を撮る。12時5分発の第三佐渡に乗る。
いやに長く感じられる4時間だった。青雲寮につく、懐かしいわが部屋だ。
市川さんが飼っているミケに子猫が2匹生まれていた。

苦手だった先輩の河路さん、欧州行きが延びてまだ寮にいるようだ。
夕食後漫然とTVを見て過ごす。
またマンネリとした寮生活が始まるが、もう残された学生時代の時間はない。
最後はちゃんとして卒業しなくては。

・・・・・・・
ー現在の感想ー
日記を書く習慣を持っていればよかった。
それと写真をもっと多く撮っておけばよかった。
大学を卒業する前年の8月31日から翌年の2月半ばまでに半年間、
気分が高揚としていたのだろう、日記が残っていた。
たまたま6年前に倉庫を整理していたら、その当時の教科書の一番下に隠すようにあった。

机の引き出しに入れて、読み返している、そして折々にこの随想日記に書いている。
一種の躁の状態の自分の気持ちがそのまま残っている。懐かしい本当に懐かしい!
タイムマシンに乗って当時に帰ったような感がする。
何も変わっていない自分がそのままいるのが奇妙といえば奇妙だ。
社会に出るにあたり不安と希望に揺れているのが懐かしい。
結局私にとって学生時代が人生の縮図であったようだ。
口泡を飛ばして議論をしていた青い時代があった。

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[198] 天の広さ  2001年10月25日                
 井の中の蛙,大海の広さ知らず,

この言葉の後の言葉をもじって‘井の中の蛙大海を知らず!されど天の広さを知る’
この後の「されど天の広さを知る」がいい。世間知らずの学者が考えたか?
「世間知りの、天命知らず」とも考えられる深い味のある言葉だ。
しかし両方でなくては(大海ー世間も天も知らなくては)、
所詮井戸から見た天しか知る事が出来ないのは当然の事だ。
それもこれも全て独り言でしかない、世間のことは自分の想像でしかないのだから。
ーー
ーつれずれに

今更当たり前のことかもしらないが、おかしい! 不況のうえに、
このテロから急に何かおかしくなってきたと感じるのは、客商売をしている為か。
恐ろしいのは、これが序曲ではないかということだ。全く9月11日から変わった。
かなり多くの人があれーテロをTVで見ていたことだ。 あまりに劇的過ぎた。
アメリカだけでなく、日本も準戦争国になってしまった。どう考えても簡単に解決はしない問題だ。

新潟駅前の飲食街は9時を過ぎると、ゴーストタウンみたいに人っ子一人歩いてない。
いるのは呼び込みと怪しげな女性だけだ。他人事みたいだがどうなるのだろう?