つれづれに

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 昨日は、夏ばてで、二日目の長岡花火は行かないで寝ていた。
それでも、夜半、目がさめることなく寝ていたのだから10時間は
寝ていたことになる。 夏ばてだろう!汗が絶え間なく、滲み出てる。

 以下には8年前の長岡花火について書いてあった。

・・・・・
1949, 長岡の花火
2006年08月04日(金)         
          おはよ~!(*^ワ^*)i   (~O~)ふぁ・・

*第一日目(8月2日)
以前は、取引先の小さなビルの屋上で見ていたが・・・
最近は、信濃川の土手まで行って見るのは三年に一度位。
自宅近くの土手から、遠方の花火も風情があると決め込んでいた。
去年の震災復興記念花火で超大型花火・フェニックスが打ち上げられたが、
居酒屋でオヤジ相手に飲んでいた。
こういうイベントに乗るのが嫌いで、わざわざ人ごみの中にいくのが
面倒でもあった。しかし兄嫁と共に行った家内の話によると
「フェニックスが凄くよかった!」という。
 ということで45分かけて、信濃川の土手まで歩いていった。
さすがに土手で見ると、迫力がある。
しかし一時間もしないうちに眠くなり帰ろうとすると、
家内が「最後のフェニックスは見るべき」という。
そこで、あと30分我慢することにした。    (-_ゞ (~O~)ふぁ (~O~)
そして打ち上げ、過去に見た花火の中で断トツのNO・1である。
10個のスタマインが同時に横1・6?にわたり超ワイドスクリーンのように
打ちあげられた。フィナーレは薄オレンジ色に統一されているため、
幅1・6?わたる花火が一つの花火のように感じられる大パノラマ。
 息を飲んで見入ってしまった。
なるほど去年、多くの人が涙をしたというのも解るような気がする。
そういうわけで今日もまた、見に行くことにした。
 ところで、昔から長岡花火で地方的な面白いことがある。
花火のパンフレットが新聞の折込に挟まってくる。
花火の提供者の企業名簿が、長岡のその時のステータスになる。
あのスーパーがスタマインを例年提供していたのに、
今年は出てないのは、他のスーパーに・・とか、
あの小さな企業が出せるようになった・・とか、
それが、花火会場のお喋りのネタになる。 まあ、地方的な風情だが。
 ー花火の華?といえば、
・ミラクル・スタマインー幾重にも重なる華やかなXの線を描く
・ワイド・スタマインー5色の色で彩られる華やかなスタマインで、
           5台の打ち上げ台から同時に打ち上げられる。
・正三尺玉    ー長岡の名物花火、しかし最近では近郊の片貝が4尺玉を
          売りにしているので、少し影が薄れた。
・ナイアガラの滝  -ナイアガラの滝を思わせるような花火、
           長生橋から流れ落ちるように花火が舞い降りる
・フェニックス   -横に広く10個のスタマインが同時に打ち上げられる豪華な花火。
           ワイドスタマインの大きいもの・・   等々である。
 ーーー
*第二日目(8月3日)
                 \(~o~) n(0 ̄)             
初日のフェニックスが良かったので、また行くことにした。
二日続けていくのは、10年いや20年に一度である。
前日より少し遅めに出かけ、20時15分に土手に着いた。
土手には多くの人が行き来している。少しでも立ち止まるとガードマンが
執拗に注意する。前日もそうだが、土手の席の通路ぎりぎりの端のところにシャガム。
ガードマンが注意しそうに近くに来るが、何くわない顔をしていると、
前日のようにブツブツ行って通り過ぎる。
 ところが、前の席の人が「どうぞ!」と、席の一部を譲ってくれた。
こういう時は有難く好意に甘んじることにする。
家内が「何時から席取りをしているのですか?」と聞くと、「午前の9時から」という。
 二日にかけて、苦労して席をとったギリギリの境に新聞を敷いて、
ガードマンの嫌な視線の中で花火見物・・・ 他人の軒先を借りてズルをしていたことになる。
初日が、久々に土手で見たことも加味しても、
    二日目はかなりダウン。
辛うじて、フェニックスが前日と同様良かった!
他は??、二日続けて大当たりは期待するほうが無理!ということ。              
 60歳代のテーマは「ミーちゃん、ハーちゃん、になること」 
元々そのレベルだから、ミーちゃんハーちゃんに徹するということか!
今まで、イベントには、あまり興味を示さなかったが、
何でも観てやろう、聴いてやろう、してやろう、読んでやろう、の心がけである。
 自分の今までの垣根を一度、鳥瞰した上で、大きなイベントには参加したりして、
垣根を取り払うのも面白そうだ・・・
やはり自分に向いてない!と思わないようにして・・                 
      
・・・・・・・
2005年08月04日(木)
1584, 2005年分路線価が公表

先日、2005年分路線価が公表された。
その要約は
・東京都が13年ぶりに上昇。
 山手線外側にも値上がりが波及しだした。
・反面、全国平均は-3.4?で、13年連続下げ。
都内では2割近く上昇する地点がある一方、上野や新宿の歌舞伎町など
下落点ものこった。利用価値で二極化が広がった。
値上がりの背景には不動産ファンド浸透も背景にあるという。
東京以外にも横浜、京都、大阪の最も高い路線化が上昇に転じた。
反対に地方の衰退が更に進んでいる。
甲府では25?も下落、ピーク時の12?まで落ちた。
新潟市の最高路線価は14?の下落で、まだまだ落ち続けている。
東京の値上がりも、一部大型マンション建設のあおりを受けている一時的現象でしかない。
地方の下落は、地方にあった機能が東京に集中した結果のもので、値下がりはまだまだ
続きそうである。この最高路線価は、その地域の実質的価値をあらわしている。
シビアな算定である。
数年後に、東京の勝ち組といわれている土地の暴落も確実と言われている。
不動産の価格は「世につれ人につれ!」である。面白いものだ!
以下は、ある新聞社のHPの記事のコピーです。
 --
路線価、下げ幅93年以降最少の3.4%・東京は13年ぶり上昇。
国税庁は1日、2005年分の相続税贈与税の算定基準となる路線価
(1月1日現在)
を全国の国税局、税務署で公表した。全国約41万地点の標準宅地の平均路線価は、
1平方メートル当たり11万2000円で、13年連続の下落。
しかし下げ幅は3.4%にとどまり、下げに転じた1993年以降最小なうえ、
東京都では13年ぶりに0.4%の上昇に転じた。
バブル崩壊以降の地価下落傾向から、
都市部を中心に脱却しつつあることが鮮明になった。
 圏域別で04年分からの下落幅の縮小ぶりをみると、
愛知万博などで活気づく名古屋圏が3.9ポイントで最大、大阪圏で3.2ポイント、
東京圏1.9ポイント、地方圏も4年ぶりに1.1ポイントの縮小となった。
 都道府県別の平均額では、上昇に転じたのは東京のみだったが、
下落幅が縮小したのは前年の21都道府県から29道府県に増加した。
また2ケタの下落は12.8%の秋田のみとなった。

・・・・・・・
2004年08月04日(水)
1219, 「君のためにできること」-2 

20年来、年に10回は酒を飲んていた友人が末期癌になり、
終末医療の病院のビハーラに入院している。
本人が言うには、「24時間が拷問である」
見舞いに行くたびに衰弱をしていくのが、わか解るから辛い。
丁度その時に、この文章を読んだこともあって身に沁みる内容であった。
お盆は20年近くも、古町を飲むのが恒例になっていた。そして、今年も
その時期が目前になっているが、もう無理である。何か寂しいお盆になる。

ー以下は、作家・大崎善生の奥さんの高橋和の「第24回 言葉にできない」
のエッセーであるー (サロンのコーナーに、HPが貼り付けてある) 
  ーーー
あれはもう15年以上も前の話になるのだろうか。
将棋道場へ行った日だから土曜日のことだ。
夕飯の匂いが辺りに漂い始めたころ、友人から電話がかかってきた。
 「ワガセンが死んじゃった……」
 ワガセンは小学校時代にお世話になった先生だった。
私を見つけると「おーい、やまとー」と言いながら髪の毛がくしゃくしゃに
なるまで撫で、最後にニッと笑って去っていく。
風貌はライオン丸、でもその目は穏やかで優しく、大好きな先生だった。
 ワガセンが亡くなったことを聞いた私は無意識に足がガクガクと震え、
初めて自分が悲しんでいるということに気がついた。
物心ついてからそれまで「人が死ぬ」ということに直面したことがなかったので、
これが大切な人を失う喪失感なのだと理解した。しかし、頭で理解するのと感情は違う。
もう15年以上経っているというのに、顔も忘れかけているというのに、
あのワガセンの瞳だけは記憶よりも鮮明に心に焼き付いている。
『あなたに会えて ほんとうによかった
     嬉しくて 嬉しくて 言葉にできない』
 小田和正さんの名曲「言葉にできない」。
言葉にしようとしても、それが見つからないというこの歌は、
聴いた人それぞれにそれぞれの思いを抱かせる不思議な力をもった曲だ。
それはおそらく、誰しもがそういう出会いと別れを経験してきたからなのだろう。
 その中でも特にもう二度と会えない人との別れには、深い後悔と感謝の気持ちが入り混じる。
  ーー
「息子のためにサインを書いてもらいたい」。そんなメールをいただいたのはちょうど
3カ月前のことだった。インターネットという顔の見えないところでの話だったので、
半分は信用し、半分は疑いの目を持っていたことは事実だが、とにかく本人に手紙を書かせて
ください、と私は返事をした。
 彼は10歳の男の子だった。どこで知ったのかは分からないが、私が子供たちに
将棋を教えているのを知り、とてもうらやましい、自分も教えてもらいたいのだが、
体調があまり良くないので行けない――といったことが綺麗な字で書かれてあった。
少年がくれたクマのぬいぐるみ。
「2つあるので1つあげる」――そんな優しい心の持ち主だった(撮影・高橋和
「おとうさんから高橋先生もこどものときにこうつうじこで大けがをして
たいへんだったことをききました。
まだいたいですか。いたくならないようにおいのりしています」。
 私は10歳の子がこんなに心配してくれるなどとは思ってもみなかったことだったので、
なんだかとても嬉しい気持ちになり、お礼の手紙と一緒に色紙と使い古しの扇子を送った。
 そして彼からまたそのお礼の手紙が来て、その返事を私が出して……
という具合に手紙をやりとりするようになっていった。
 どんなことが好き? 夢はあるの?
 手紙の内容はそのようなものだった。しかし彼の手紙は必ず
「せんせいのあしがいたくならないようにおいのりしています」
という言葉で締めくくられていた。
 私が“異変”に気付いたのは2カ月ほど経ったころ、彼の手紙の文字を見た時だった。
今まで上手に書かれていた文字はだんだんと大きくなり、そして少しゆがみ始める。
 この時、彼は既に病魔に襲われていた。震える手を抑え、必死に書いた手紙は、
身体中に管を巻きつけられ、痛さに震えながら書いたもの。後に彼のお父さんからの
メールで、「お医者さんに話をしたら、今の状態で手紙を書くのは奇跡のようなものだ」
と言われたくらいに書くことなど無理な状態でのものだった。
 しかし、そのような中でも、
彼は「せんせいのあしがいたくならないようにおいのりしています」と書き続け、
実際に亡くなる前日まで毎日祈りを捧げてくれていたという。
 普段私たちが軽く口にする「優しさ」というものがいかに傲慢で、独りよがりで、
優しさでも何でもないことを痛感させられた。人は人を深く思いやることができることを
10歳の少年の方がよく分かっているのだ。彼はもうこの世にはいない。
しかし、彼の優しさは私の胸の中でいつまでも生き続けることだろう。
ー感想
「死は直視できない太陽のようだ」というが、この子の肉体的苦痛は、
想像を絶したものであることを見つめてやらなくてはならない。
その中で、憧れの先生に対する苦痛に対する祈りは、キリストが十字架で
苦痛の中で死んでいった姿に重なる。
何かにすがりたい、「いつまでも友達でいてほしい」という願いが心の奥に
響いてくる。このような手紙をもらったら、本当に辛いであろう。
人は簡単にすくうことはできない。神様でないのだから。
そして神は必要なのです。

・・・・・・・・
2003年08月04日(月)
852, 孤独について -3
 『人は人、我は我、されど仲良く』と武者小路実篤がいっていたが、
それこそそれぞれの 「独」を認め、かつ自分の「独」を大事にする言葉である。
『和して同ぜず』も母校の長岡高校の校是であるが、意味がほぼ同じだ。
 孤独を特に感じるのは、一人旅であろう。
若い人のバックパッカーの聖書になっている沢木耕太郎の『深夜特急』という小説に、
「独り言をブツブツ言いながら一人、旅をしていた」と書いてあった。
サルトルのいう「即自」と「対自」の会話である。青年期によく国内だが一人旅をした。
一人旅に出なくては精神のバランスが崩れてしまいそうであった。
帰ってくると何か大きなものによって満たされる感じがよかった。
旅行の最中は寂しいということは全く無かった。誰かと対話をしていたのだろう。
旅は孤独のプラスの異次元の世界に浸れる。いま振りかってみて、
「旅日記を克明につけておけばよかったのに」と悔やまれる。
「孤独」というキーワードで検索をしていたら、脳性麻痺の青年のホームページが出てきた。
「孤独などと軽がるしく使うな!」とどやされたようだった。
口がきけない人や、盲目の人の孤独感は想像すら出来ない。
私の強みは「孤独に強い」と思っていたが、とんでもないことと思い知った。
「孤独は人を殺さないが、絶望は人を殺す」という言葉をアンドレ・マルローが
いっているが、孤独の中の絶望に潰されてしまうのが問題なのだ。
その時こそ愛読書が一番自分を癒してくれる。
大いなる孤独ー作家の心ーとの出会いが本を通じて可能になる。
孤独であればあるほどその邂逅が大きくなる。
 いま一つの孤独で考えさせられるのが老人の孤独であろう。
結婚後、母と同居をしている時にトラブルが何回かあったときに、
母が「独り暮らしの孤独の知人がいっぱいいる。彼等はどんなにトラブルがあっても、
子供から離れてはならないとシミジミ言っている。我慢をしなくては」とポツリと言った事があった。
知人に数人家庭内離婚者がいる。ほとんどが浮気がきっかけだ。
それでも離婚をして一人暮らしよりましの為だろうか。
一番嫌いなのは、孤独と孤立の違いも解らない輩だ。群れたがる内なる羊である。

・・・・・・
2002年08月04日(日)
477, 人口問題と今後の日本
先日平均寿命が発表された。
女85歳、男78歳。
女性の半分以上が88歳の米寿を祝う事ができるという。
童謡で「今年60の爺さんの・・・」と歌っていたが、
いまや爺さんは80歳か90歳である。
100年前の日本の人口は4400万人で、現在までに約3倍になった。
これから100年後は丁度半分の6000万前後になるという。
100年で3倍になり、これから100年で半分になる。
人口のピークは2006年で、翌年から60万人が毎年減っていくという。
100年前65歳以上が5?であったのが、後10年後には28?になり、
50年後は37?を超えるという。考えたら背筋が寒くなる。
周辺は年寄りだらけになる。
よくぞ100年で人口が3倍になったものだ、それも第二次大戦をのりこえて。
更に国民一人当たりの所得が世界のトップクラスになったのだから。
この100年のシステムは奇跡的な効率であった。
そのシステムがもう終わってしまったことは、誰の目にも明らかである。
中世でヨーロッパの人口が飛躍的に伸びたのは、
南米から芋などの穀物の種が流入したことと、アフリカから椰子の実から取れた
石鹸の流入という。高地で旱魃に強い芋などが飢饉を避ける事が出来るようなった。
石鹸は疫病を激減させた。
日本のそれは工業化と儒教天皇制度が有効に働いた為である。
今後思い切ったシステムを作らなくては衰退の一途になるだろう。
それよりシステムの均衡縮小をバランスをとりながら目指すのが筋である。
今の若い人たちはこれから大変である。少し硬い話になったが。
デフレはますます進むし、中国の世界への仲間入りで間接的に生活の圧迫が
厳しくなる。これでもまだ90?手つかずで背後に控えているという。
中国の人件費のアップは今後無いという。
中国の人件費は日本の100分の1、その中間あたりが落としどころとして、
今の10分の1に無限に近づいていくのが自然である。
子供は一人っ子になっていきざるをえない。
国内需要の右上がりは夢の夢だ。

・・・・・・
2001年08月04日(土)
[98] 現地日本人ガイド

旅行シリーズもそろそろ終わりに近づいてきた。
考えると話題はいくらでもある。現地日本人ガイドのことである。
彼らによって印象が全く違ってくる。
添乗員から聞いた話だが、彼らが言い出さない限りあまり聞かないほうがいいらしい。
彼らは考えてみれば、色々な事情でそこでガイドをやっていて当然である。
でもそれなりに見えてくる。ここで数回に分けて事情を書いてみよう。
イスラエルのガイドの話。
63歳の独り者の男性のガイド。イスラエルに来て10年以上とか。
日本の客は本当に少ないらしい。滞在中一回しかシスターの数人連れしか会わなかった。
本人も久しぶりの日本人の為、うれしくて仕方がないらしい。
マイク口からはなさず、喋りっぱなし。
一年前癌の手術をして、放射線にかかっているっらしい。
神学生崩れらしくて、神学のイスラエルの大学を卒業しているという。
旧約聖書にしても、新約聖書にしても博識だ。
ただいつ死がくるかもしれない不安と、外地で虚無になってしまうかも
しれない不安がそのまま伝わってくる。
それがイスラエルの地で聖書の話をすると迫力がありぴったしなのだ。
あまりに面白いのでメモをとりいっぱなしであった。