つれづれに

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 今日は、シネマの日。何を見るか? 次から次へと、面白そうなハリウッド映画が続く。
それも、これも面白そう! 平日の昼で、常に20~30人以上が入っている。
 
 現在、随想日記で、金沢の頃を書いているが、偶然、9年、10年前の同日、同月で、
金沢時代のことを書いてあった。面白いものである。その前にも、関連したような
内容ばかり・・・

・・・・・・・
2005年06月06日(月)
1525, わたしの酒中日記ー4
  金沢編ー2      1972年2月某日
武蔵が辻の職場からバスで、20分位のところに寮がある。 その中間点にある繁華街の香林坊で降りて、
老舗風の飲み屋を探す。今夜は片町の大和百貨店の裏にある飲食店のおでん屋に飛込みで入る。
人品の良い美人の母娘がいた。聞いたら、三代も続いている店。 隣の客が話しかけてくる。
「言葉が違うようだが、観光客か?」「いや、勤めの関係で、一年います」地元の人からすると微妙な立場のよう。
とにかく、金沢の人は人なつこいのが特徴だ。それと金沢べんの言葉が心を優しくする。言葉の最後に(?じ)をつける。
「?だよね~」という意味である。 それと「?しまっし」という言葉もよい。 「~しなさい」という意味である。
そのアクセントが何ともよいのだ。特に女性がいうと「あ~金沢」になる。それとおいしい店が多い。ここの土手焼きが美味い。
それと次に頼んだスジ肉の煮込みも絶品である。おでん屋のおいしい店を彼方此方で食べたが、この店はまた格別である。
立て込んできたので、その店を出る。このまま帰るのは、惜しいので大和百貨店の隣の飲食ビルに入る。
安そうなスナックに入って、カウンターに座る。まだ8時なので、お客は誰もいない。素人っぽい20代半ばの店の
女性が話しかけてきた。まだ金沢に来て2ヶ月で、1~2年いたら、何処かに流れていくとか。
若いうちに、彼方此方にいって転々としたいという。こういう生き方もあるのか、驚いてしまった。
「この仕事の接客のポイントは何か?」と聞いたところ、「期待を持たせること」とか。 
まさか「何の期待?」とも聞けないし。「それじゃ?、何か期待してよいか?」と聞くと、
「今度、兼六園を案内してくれる?」というから、「今度ね!」と、空約束をして?店を出る。
バスの定期あるが、歩いて帰ることにした。浅野川の橋を渡って、20分ぐらいはかかったが酔いを冷ますのに丁度よい。
まあ、一人で飲むのも悪くはないが、それにしても金沢には美人が多い。それと金沢の文化と風情がよい。
金沢には、3年間が目安だ。能登半島や、金沢の街を貪欲に知っておかなくては。 もっと一人旅をしなくては。
加賀100万石の城下町の歴史が観光だけではなく、飲み屋や喫茶店などに色濃く残っている。
ここは地元の人には非常に厳しいコントロールがある。 反面、部外者には優しいのだ。
この文化的な特徴は数年住んでみなくては知りようがないが。明日は同期入社の連中との飲み会だ!
ーー
また偶然の一致か、去年の今日も金沢関連のことが書いてあった。
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2004年06月06日(日)
1160, 「武士の家計簿」ー2
いまの時代にタイミングよく出版された、時の書といってよい。現在の日本は、第二次大戦の終戦時や、
江戸末期から明治維新の時期より大きい大転換期にある。
(字数制限のためカット 2011年6月6日)

・・・・・・
2003年06月06日(金)
793, 起業についてー2
 起業について実感のキーワードは「発狂」である。精神の爆発といってもよい。
よし!やろうと決めた瞬間から、もう全てはプロジェクトの完遂をイメージ
して突き進むだけである。よほどの粘りと信念がないと突き抜けることはできない。
当然の事だが、簡単には事業を興して軌道に乗せることは不可能だ。
可能にするのは「的」が間違ってない事と、周到な準備と、信念だけである。
 いまの事業を興した時は500?の成功確率という確信があった。
失敗は許されないし、初めの一歩の重要さを知っていたため、考えられるだけの
ことは考え抜いていた。それと、それまでの成功体験の裏付けがあった。
何事にもいえるが一番大事なことは、成功体験である。それが実績ということだ。
 それと育ってきた家庭環境が大事ではなかろうか。10歳位までに,
両親の立ち上げをみた経験がなければ、計画も準備も甘くなっていた。
また20歳で起業をするという決心をして準備していた事もある。
その瞬間から女性に対しては、気を許さなくなった?
どちらを取るかといえば、迷いなく事業の立ち上げであった。
若い時の最大の難関はまずは女性である、創業以外の事を割り切ることであった。
つまらない男になっていた!それが陰になっていた?ようだ。
 事業を始めるとき、まずは自分の心の問うたことがある。
経営資源として金を含めた資産を全て『博打の札ー事業』に変えるが、
全てを失っても後悔しないと自分に誓えるか?
そして事業を本当にしたいのか?--したい!!」
一人の誓いである!今更だが、それだけ勇気と覚悟が必要だった。
おそらく大小にかかわらず誰もが、その位の自問自答はしているのだろう。
いろいろな危機があったが、最後はいつもこの言葉を繰り返していた。
結局は事業経営は博打でしかない!当たり続ける事はない。
最後は裸になる覚悟は出来ている?のが強みである。しかし、まだ憶えているが、
事業の準備をしていたときのことである。何か一人でTVを見ているとき、
急に不安になり「屋上の手すりの上に立っているような末恐ろしい感覚」
になったのを憶えている。確か借金を初めてしたときである。
この意識下に隠れた不安が意外と経営の原動力になっているのだろう。
立ち上げで判断を迫られるとき、夜半の2時35分が一番冷静な思考になっている。
しかしこの大津波ー大不況に対して、まだそこまで意識がいってないのは
どういうことだろう?!これからか?

・・・・・
2002年06月06日(木)
429,両親の死
両親が亡くなった時、一緒に住んでいた。そしてその死に様から「生きるとはどういうことか」
を学んだ。死ぬとは如何に大変な事を知った。今ひとつ、死の視点から生を見るということを。
世間とか、娑婆の事を徹底的に割り切って見れるのも、両親の死から、それが
いかに幻想である事を学んだからだ。結局,残るのは「子供と愛情」だけ。
それと‘生きてきた事’ー乗り越えてきた「行蔵」それだけだ。
意味とは最後の自己慰めかー心の印ということか?
死を自覚した瞬間の人間の「生に対する渇望」のすざましさに、側にいて身震いした。
その瞬間-死を覚悟した瞬間‘砂漠の真ん中に立たされる残酷さ’を直感した。
‘心’は「主体」と「イメージ」で成立している。心を失っている状態は、
「主体をなくして何も考えられない状態」と考えれば逆に解かる?
何で‘心’が両親の死の話しから出てくるかと言うと、両親が死と直面した時に、
「主体」と「イメージ」が湧き出てくる事実を見たからだ。
それは死の恐怖感からくるものである?
特に「主体」が凄い。人生の全てのことは自分の戯曲でしかない。
それに満足できるか、できないかだ。死ぬ事はそう簡単のことではない。
昨日の朝、隣の主人が亡くなられた。今夜通夜、明日葬式に出る予定!