つれづれに

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 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=QvoONUcRa0Y

 プロ野球もキャンプに入り、そろそろ新春に入り始めた。
ここにきて、世の中が更に変わろうとしている。スマートフォン
タブレット・パソコンに普及も大きい。それに身体に装着するPCも
今年から多く世にに出るだろう。 4年前に、多機能TVを入れ替えて、
TVの見方が一変した。パソコンも、iPadを入れて、これまた様変わり。
 情報量が格段に多くなった。 

 せっかく地球に生まれ、68年間生きてきて、あとはせいぜい7~8年だろう。
それまでに、より深く、より広く世界を更に見つめ直す必要がある。
そのためには、心と脳を純化して置かないと・・ 
 ここまで、世の中が激変するとは、その上に、これほど世界を
見て歩けるとも、思ってもいなかった。だから、あまり人生に後悔はない。
 分厚い先入観が、どんどん壊れ、中の自分が見えてきている。
人生は一期一会で、二度とない! だから良いのである。


・・・・・・
1766, こころの羅針盤(コンパス) -1
2006年02月02日(木)
                     -読書日記
三十篇の文章を、どれを読んでも深い心の世界に引き込まれる。
「私たちは羅針盤の針にしたがって航海しているわけではない。
行くべき場所へむかうために羅針盤を用いるだけだ。」という言葉一つ捉えても、
ハッとする内容が次から次へと出てくる。その幾つかを抜粋してみる。
 まずは、「こころの震えを感じるとき」
 ─まえがきに代えて─
                    五木寛之
「人生いろいろ」という歌があったが、こころ模様もいろいろである。
「こころの羅針盤」というタイトルヘの感想もまた、各人各様だろう。
「こころ」という言い方がなあ、と苦笑する人もいるだろうし、
「こころ」に羅針盤なんていらねえよ、と、そっぽを向く人もいるにちがいない。
しかし、本のタイトルなど、本当はどうでもいい事なのだ。

「題名いろいろ」と、歌いとばしてもらっても一向にかまわない。
とりあえずここにギュウギュウづめになっている三十篇の文章を、どこからでもいい、
パッとぺージを開いたところから読みはじめてごらんなさい。
「人間いろいろ」「文章もいろいろ」、こんなに各人各様でいいのかしら、と、
あっけにとられる位に個性的な書き手のオンパレードである。
声に出して笑ったり、ため息をついたり、なるほどなあとうなづいたりと、
私自身、人生を三十回生きたような感じがした。
 才気あり、含蓄あり、厭味あり、教養あり、風格ありと、
活字を読む楽しみこの一冊につきると言えば、いささか香具師の口上めいてくる。
羅針盤の針は必ずしも一点を指すわけではない。
 実際に磁石を使ってトレッキングしたかたなら経験がおありだろう。
震える針は揺れ動きながらも、最後は落ち着くところに収まる。
この三十篇の文章は、右へ左へと跳びはねながら、最後は或る一点に読む人を導く。
 それは「こころ」という実体など、じつはどこにもない、という乾いた真実である。
私たちが「こころ」と信じているものは、存在する人間の影にすぎない。
ひとりひとりの性格や体型が異なるように、その影も異なったかたちをしている。
 私たちは羅針盤の針にしたがって航海しているわけではない。
行くべき場所へむかうために羅針盤を用いるだけだ。
ここに集められた文章のすべてに、その確かな意志がひそんでいる。
 そのことが感じられたとき、震える私たちの「こころ」は、
それぞれの一点にむけて収斂するにちがいない。
        ここにあるのは、そのような力を秘めた見事な文章ばかりなのである。
ー評ー                        
  作家は、どうしてこのような上手い文章を書けるのか、
  その博識に驚かされ、ただ感じ入るだけだ!    (σД≦)ネムゥ~
つづく                
 ーーー
「こころの羅針盤(コンパス)」五木寛之選 2005/11/09

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2005年02月02日(水)
1401, 危ない格言ー4

           -読書日記ー
ー愚者と賢者についてー

・最も贅沢で、最も洗練された社交ーできる限り一人で過ごすこと。
(my感想)ーどうでもよい人となら、一人の方がズットよい。
  そのために本があるのだ。但し、よい本である。どうでもよい人でもよいから、
  一人でいたくない時があるのが‘にんげん’だろうが。
・人々が社交の中に求めているのが孤独からの逃避としても、
 そこで手にするのは、せいぜい孤立からの休暇だ。
 (my感想)-そのバカンスが楽しいのだ、と!バカンスと割り切ればよいのか?
・ひとは、他者のなかに褒めるに値する特質を目にしても、
 十中八,九は見逃すが、馬鹿にしえる欠点や不足に気がつくと、
 十のものに二,三を足すような見方をするものだ。
 (my感想)-だから、生きていけるじゃないか人間は!
   但し、下等な人間に、その傾向が大であるが。
・その場にいない他人の悪口は、話題に詰まった会話の下剤としてよく効く。
 (my感想)-あちこち、下剤を飲んでいるようだ。
   たく、もう!、腐った女のような男は下剤が好きのようだ!
   あの男!下剤瓶を幾つもカバンに入れている。腐った女は下痢症か!いや、便秘か。
・利害で結びついた人間は、感情によって引き離され、感情によって結び付けられた
 人間たちは、利害で分かれる。
 (my感想)-感情でなく、勘定じゃない?
・巧みな皮肉の弱点は、それが向けられた相手が、まさにその皮肉を感受し、
 理解するだけの感受性や知性を持っていることが、滅多にないというところにある。
 (my感想)-ジョークに、それが更にいえる。ワザワザ、説明しなくては
   解らない人に説明しながら言っているが情けないというより?!
・分別あるものは、分別を説かない。説教によって人間に分別ができるなんてありはしない
   ーそんなことも解らない者は、分別をわきまえているとはとてもいえない。
 (my感想)-この事で、変なことはいわないがよい。
   分別の無い人もみている可能性がある?何よりも、分別のない自分が
   言っているのだから間違いがない!親に分別の無いのが、その子供に何言っても駄目。
・生まれてこなければよかった ーそれも生まれてこなければ、わからなかったことだけど。
 (my感想)
  -結婚と同じだ!
 「生まれてこなければよかった!」
 「環境に馴染めない!」
 「何か毎日が面白くない!」
  とかいっている人、世の中に多いんだってさ。
  こういう人、したい事があると言葉で何時も潰している!
  今度にしようとか、面倒くさいとか、それで何にもしないで
 「毎日が面白くない!」とのたまっている。
  その内なる言葉を引っぱり出して、潰さないで。
  面白くないのは、自分自身で面白くなくしているのに!
  現実に溺れてアップアップしているだけで精いっぱいなのさ!
  せめて、犬掻きぐらいすれば!
  犬掻きの名人が言っているのだら、間違いはありません!
        
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2004年02月02日(月)
1034, ダヴィンチが知的障害?
ある本を読んでいて、目が釘付けになった。天才といわれている、
レオナルド・ダヴィンチとアインシュタインエジソンが知的障害だったという。
天才の90㌫が梅毒という話は知っていたが、この3人が知的障害だった?
エジソンが3ヶ月しか学校に通わなかったことは有名な話である。
典型的な注意欠陥障害のハンデキャップを負っていたという。
注意欠陥障害といえば注意散漫と思われがちだが、反対に注意が一点に釘付けをされて、
他に移動できない障害も含まれるという。これは日常生活には不便であるが、
この障害を反転させて強みとして活用した事例と捉えることができる。
彼の異常な集中心は、その欠点を逆転して強みに変えたと解釈できる。
彼は暗算が全くできなかったという。
アインシュタインも、何と暗算が殆どできなかったという。心の中で言葉で
考えることができず、ひたすらビジュアルでしか考えることができなかった。
そのためにビジュアルで思い描く能力が異常に発達した。
ダヴィンチもアインシュタインと同じ障害を持っていたといわれる。
だからこそ、ビジュアルの視覚に頼る能力が発達したのだ。
語学能力は全く駄目で、そのかわり、せっせととスケッチに励んだ。
読字能力の障害を、視覚能力を活用することで矯正したのだ。
知的障害を持って克服をした人は枚挙がない。
左脳が働かないからこそ、右脳を異常に発達させていった。
そして、その後に左脳を修正をしていった。特に、こういう時代は右脳が重要になる。
といって左とのバランスがより求められるのだ。
彼らの凄いのは、左脳をうまくカバーできたことだ。
戦後の日本の教育は左脳が駄目なら、そこで全てを否定して切り捨ててきた。
そう考えると、学校教育そのもの自体の誤りがよく理解できる。
TVタレントの黒柳徹子も、エジソンの注意欠陥障害に近い状態だった。
大問題児で、学校では手に負えなかったという。しかし注意が一点に集中する能力は、
タレントとして一番要求される。彼女はその能力を伸ばしていったのだ。
美空ひばりも楽譜が読めなかったという。しかし一度、音あわせで全て憶えてしまったとか。
それにしても、あらゆる分野に能力を発揮をしたダヴィンチが知的障害とは驚きであった。
あらゆる分野の積み重ねの上に特性ができあがるものと思っていたが、
「変形を逆に利用して個性にまで持ち上げていた」とは!
長島茂雄は馬鹿かどうか」という議論があるが、以上の理屈からいえば彼は天才ということだ。
あの野球に対する異常なほどの取り組みは、この三人に共通するものと同じである。
毎日が新しい発見である。知的障害ーいや痴的障害?の自分として、非常に励まされた。
ただ能力が発揮できなかったのが違うが。それはただ馬鹿ということか!

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2003年02月02日(日)
669, ぶざまな人生

本屋で見かけた本のタイトルである。
「ぶざまな人生」というタイトルにハッとさせられる。
軽く1分程度立ち読みした程度だったので概要は主観的になる。
「人生を捉えてみると誰もが皆ぶざまな人生だ。
それを初めから割り切って自分のやりたいよう、生きたいように生きるべきだ」という内容だ。
シビアなタイトルだが、皆「ぶざま」という言葉に呪文をかけられている。
誰もが本当はぶざま人生じゃないか、見っともないという他人への
思惑など捨て切って、自分のやりたいことを、やりたいように生きるのが本当だ。
政界のプリンスと、この前まで言われていた鳩山由紀夫だって、
最後は見っともない醜態を曝け出してしまったではないか?
でもこれからが本人の真の力が湧き出てくるかどうか試されるのだろう!
凡人が「ぶざまな人生」と初めから割り切れるかというとなかなか難しい。
よほど哲学的に裏づけか信念が必要だ。それがその本の主旨だったようだ。

「ぶざま」という言葉を使う人は「教養のない中年のオバサン」だろうが。
心の奥に誰もが「ぶざまな人生だけはおくりたくない!」
あるいは「みっともない最後だけは人に見せたくない」というのがある。
自分の人生を顧みて、ぶざまとも格好よかったとも思ってない。
それではやりたいこと出来たか?というと、こんなものかという感がする。
ただ専攻が人間関係学であった為、人生のトータルデザインを考えて生きてきた。
自分の真にやりたい事を一生通して追求するのは自明の事であった。
「ぶざま」という言葉自体が「世間様」という虚構の言葉である。
それでは「ぶざまな人生とは、どういう人生だろうか?」
その言葉にやはりこだわって何も出来ないで終わってしまった人生のことだ。
それなら「初めから人生はぶざまなものと割り切ってしまえば、開き直った生き方が出来る」。

「悟りということは、如何なる場合では平気で死ぬ事かと思っていた事は
間違いで、如何なる時でも平気で生きていることであった」正岡子規の病床六尺の言葉である。
これは「ぶざまな人生を平気で生きることが悟りである」と言える!
完全な人生を求めるな!そんなものは元々ある訳がない。
しかし知らないうちに社会的動物として完全を人生に求めてしまう。
完全でなく充分な人生しか存在しない、それが人生というものだと割り切ってしまえばよい。
充分の人生を初めから求めるべきだ。それを脇で見たらぶざまに見えることもあろうが。
親戚・姉兄や知人を見ていてカッコウいい人生の人など殆どいない。
遠くから見ていて例外の人がいたら、ただそう見えるだけだ。
 書いていたら気分が楽になった!!

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2002年02月02日(土)
319、我が内なる無能性ー具体的内容
我が内なる無能性を具体的話に書いてみる。
周辺にいる特にいる「だめな奴ーあれ」ーなんか虐め!
ーこの特性をあげてみると
1、一回も脱皮したことがない。
  一生をただ何も考えず、そのまま流れている。
2、「他人の目」が全ての価値観ーしたがって[自分の本心]が何かわからない。
  価値という言葉も全く理解できない。
3、その前提として、本を読んだことがない。ーこういう人が本トウにいる。
  ー思考能力ゼロ!!!!!!ーそれだけならいいが、毒ガスを撒き散らす。
4、その結果、仕事に恵まれてない。
  ー会社ではヘドロといわれてる。
5、チャレンジとか闘いを、仕事で人生で経験してない。
  ー逃げ回っている。
6、他人と対話ができない。
  ー聞いているふりの名人で、ただ自分の話を喚いているだけだ。
7、「かにの甲羅」を心の周りにがっちり固めている。
8、関心は誰かの噂話しかない。全てが蟹の餌でしかない。
9、群れたがるーノータリんクラブ、
  ー青年会議所、町内会にでたがる。(人間関係が即仕事になる場合は除く)
  仕事上の利害の関係あるなし関係ない。
10、人の肩書きを利用したがる。
  -貶すことで自己肯定しようとする。
 何かどこかの街の旦那衆みたいな話だ。そして自分の家柄とか誇ってる。
 ー自分に関係ないのに、かつ虚構でしかない!「どこかの同?会の要約人間」みたいだ。
 そこに更に濃いヘドロが何人かいる。 その特性の共通点を挙げると、
a, 本を読まず、人の話を聞かない地元有名校卒ー変なプライド持ち。
b, その結果として、ヒラのまま。
  名刺に何とかが付いている場合がある。ー肩書?長とか。
  それを周囲が皆知っているのに、しかし本人の唯一の誇り。
c、,取得権益でまだ持っている会社ー地銀や地方TV局???
  その為現在、存続の危機にある。
d, ?男が多い。
e, それ(内容がない事を)を隠すため、日々努力しているのが愛想学である。
何処の会社も、何処の街にも一杯いる!そうあの男!
そしてあれも!ー「あれ」と言う言葉がぴったし!ここで書いてはいけないのかも。
これ経営学にしっかり書いてあること。但し、この正反対の特性としてだが。
これを平気で話すから嫌われている、それも濃いヘドロに!
ー真面目すぎるのかなー?
「自分のことを書いているのか」と思った?
だから、我が内なる無能性なのです。自身でもあるからだ。

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2月2日 日曜日 1969年 
13時まで就寝。
それから夕方まで勉強をする。
夜、市川さんが部屋に来る。有神論、無神論を議論する。
その系統は、彼の得意分野で、コテンパンにやられる。
中途半端な知識が露呈してしまった。
新約をギリギリのところで読んだ経験があるが、
科学的・哲学的の系統にとらえた本は皆無であった。
これからの人生では、避けて通ることのできない心の奥底の問題である。
その系統の本を読んで、からかって仕掛けただけだろう。
勤めると、こういう小手先が効くのだ。
翌朝の3時過ぎまで勉強、ラーメンを食べて就寝。
まだ集中が足りない。もっと身を入れなくては。