つれづれに

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 外は大風が吹いている。 木枯らしというところか。





・・・・・・
2004年11月26日(金)
1333, 2000年前のポンペイ -4

遺跡の中でポンペイの遺跡は、奇跡に近い状態で当時の世界をそのまま閉じ込めて
現在に提示してくれている。この世界のグラビアの本を開いているだけで、
気持ちが2000年の時空を飛び越えてローマの時代にはまりこんでしまう。
この小プリニウスの手紙には、大きな衝撃を受ける。この青年の知性にも、驚きざるをえない。
それと、大プリニウスの行動にも当時の知的レベルの高さを知ることができる。
この内容が、2000年前の事実がそのままドキュメント風に記載されているから
迫力があるのだ。人間の変わらない感動、恐怖、そして生活がそのまま伝わってくる。
街全体が、当時のまま残っているから、更にこの手紙の内容が生々しい。
18世紀の初頭まで人々の記憶から忘れ去られたことが、当時のままの姿を残すことにもなった。
35年前の日記を昨日のように感じるのは何ら不思議ではない。全て昨日のようなものである。
数ヶ月前に放映されたTVドキュメントは、この手紙を忠実に映像化をしていた。
そして、爆発が起きてからポンペイが埋まるまでの19時間も、当時の遺体の様子から
想像をしたドキュメントが生々しく時系列で構成されていた。。
ー6月20日の手紙
私は先に、あなたの求めに応じて、伯父の死についての手紙を書き送りました。
手紙を読で、ミセヌムに残されたこの私がいったいどんな恐怖を味わい、
そしてどんな危険にあったかぜひ知りたいと貴兄はおっしゃいます。
実は、先の手紙ではそれを書こうとしていて、筆を置いてしまったのです。
「思い出すのもつらく、悲しみは深いけれど、とにかくやってみましょう」
(訳注:ウェルギリウスアエネーイス』からの引用)。 伯父が出発した後、
私はずっと勉強をして過ごしました。そのために残ったのですから当然です。
それから入浴と食事をし、そして短く途切れがちな睡眠をとりました。
それまでも、前ぶれのような地震が幾日も続いていましたが、カンパニア地方では
珍しいことではなかったので、さほど恐ろしくはありませでした。
しかし、その晩起こった地震はあまりに激しく、もはや揺れているという程度ではなく、
すべてがひっくり返ってしまったかのようでした。
 母が急いで私の部屋にやってきました。私の方ももう起き上がっていて、
母がまだ眠っていたら起こそうと考えていたところでした。私たちは中庭に避難し、
腰を下ろしました。そこは海と建物を隔てる格好の空間でした。
当時17歳だった私は、落ち着いていたというか、無分別だったというか、
ティトゥス=リウィウス(訳注:古代ローマの歴史家、『ローマ建国論の著者)の本を持って来させ、
いかにも暇を持て余しているかのようにその本を読み、やりかけのレジュメを続けていました。
そこへ伯父の友人がやって来ました。
伯父に会いにスペインから戻ったばかりだというその友人は、私が母と一緒に座って
本を読んでいるのを見て、私の無気力と不注意を責めました。
それでもなお私は、熱心に読書を続けようとしていたのです。
 もう昼の第1時だというのに、光はなおもぼんやりとして、まるで病人のように
弱々しいままでした。すでに建物には亀裂が入っていました。
私たちは屋外にいたのですが、建物が崩れ落ちたときのことを考えると、その狭い場所では
安全とは言えませんでした。ついに私たちは町を出る決心をしました。
私たちの後には茫然となった群衆が続きました。人は突然激しい恐怖に襲われると、
自分の決断より他人の決断に従う方が賢明だと考えるらしいのです。
私たちは町を出ようとする人々の長い列にせきたてら、押し流されていきました。
建物のある区域を過ぎたところで私たちは立ち止まりました。
ここで私たちは、とても恐ろしく、また驚くべき経験をしました。
というのは、私たちが引かせてきた荷車が、坂道でもないのに、様々な方向に動き出していたのです。
小石で輪留めをしてあるのに動いてしまうのです。そのうえ海が、まるで地震によって
押し戻されたかのように引いていくのが見えました。
とにかく海は岸へと変わり、乾いた砂の上に海の生き物がたくさん残されました。
一方、赤く恐ろしげな雲は、ジグザグにきらめいて走る熱風に切られて大きく裂け、
稲妻のような、大きく長い炎を形作っていました。
しかしその時、例のスペインから戻ったという伯父の友人が、先程より力強く、
有無を言わせぬ調子でこう言いました。
「もし貴女の兄上が、そして貴君の伯父上が生きておられれば貴君らが助かることを
望まれるだろう。もし亡くなっておいでなら、貴君らには生き残って欲しいと思われるだろう。
なにゆえぐずぐずしておられるのだ」
私は伯父の安否が分からないのに自分たちのことを考える気にはなれないと答えたのですが、
彼は逃げ遅れることを恐れて、私たちを置いてすさまじい勢いで走り去っていってしまいました。
ほどなく、雲が地上に降りてきて海を渡りました。雲はカプリ島を包み込んで視界から消し、
ミセヌム岬を隠しました。その時、母が私に逃げてくれと懇願しました。
私は若いから逃げられるが、母は年老いて太っているから体が言うことを
きかない、母のせいで私が死ぬのでなければ喜んで死んでいけるというのです。私は逃げるなら
一緒でなければ嫌だと言いました。そして母の手を取り、無理矢理に急いで歩かせました。
母はしぶしぶ言うことに従ったものの、足手まといになるといって自分自身を責めました。
このとき灰が降ってきましたが、まだまばらでした。
振り返ると、黒く厚い霧が背後に迫り、地面に広がる急流のように追いかけてきていました。
「視界のきくうちに回り道をしよう。闇の中でころんで、一緒に逃げている群衆の下敷きになる
といけないから」と私は言いました。そうして、ちょうど腰を下ろしたとき、夜がやってきました。
月のない曇った夜というよりは、明かりを全部消して閉め切った部屋のような闇でした。
女たちのしゃくり上げる声や赤ん坊の弱々しい泣き声、男たちの叫び声が聞こえました。
父や母を探す声もあれば子供や妻を呼ぶ声もあり、みな相手の声を聞き分けようと必死でした。
自らの不幸を嘆き悲しむ者、家族の運命を嘆き悲しむ者、死の恐怖にかられて死を望む者、
両手を差し出して神に救いを求める者。もうどこにも神はいない、この永遠の夜が世界の
終わりなのだと説く者も数多くいました。
見せかけや偽りの恐怖こよってかえって危険を増大させている者も少なくありませんでした。
ミセヌムではあの建物が倒壊した、あの建物が焼けたなどと触れ回る者が現れました。
それはデマでしたが、信じる者もいました。
弱々しい光が現れましたが、それは昼の光ではなく、火が近づいてきたしるしのように思われました。
ただし、少なくとも、火はかなり遠いところで止まったようでした。再び真っ暗になり、
重い灰がどっと降ってきました。ときどき起き上がって灰を払い落とさなければなりませんでした。
さもないとすっかり灰をかぶり、その重みでつぶされていたでしょう。
私は、これほど恐ろしい危険の真っ只中にいながら、嘆いたり、情けない言葉を吐いたり
しなかったと豪語することも許されるでしょう。それは、自分とともに万物が滅びるのだと
考えることで、つらいながらも慰められたからだったかもしれません。 最後に黒い霧は薄れ、
煙か雲のように消えていきました。まもなく太陽が姿を現し、本物の昼が訪れました。
とはいえ、その太陽は日食のときのように青白い色をしていました。まだおぼつかない視界では、
あらゆるものが雪のような厚い灰の層に埋もれ、新しい様相を呈していました。
ミセヌムに戻った我々は元気を少し取り戻し、希望と恐れとが入り交じる不安な
一夜を過ごしました。それでもやはり恐れの方がまさっていました。
というのは、地面は相変わらず揺れていたし、ぞっとするような予言に錯乱した者が方々で
自分や他人の不幸を嘲弄して回っていたからです。しかし、このときでさえ、
危険の訪れを懸念しながらも、伯父の消息が分かるまで出発する気はありませんでした。
  以上が私の身に起こった出来事です。
歴史に残すにはふさわしくないつまらない話ですから、お読みになっても貴兄の著作に
書き入れる気にはなれないでしょう。また、もしこれが手紙の名にさえ値しないとしたら、
私に頼んだ貴兄自身を責められるべきです。では。

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 2003年11月26日(水)
966, 悪口についての一考察 -2

 どんなに憎んでも、面と向かって言ってはいけない言葉がある。
だから、その人の居ないところでいう悪口は楽しいのである。これが人間の悲しい性である。
 4~5年前にある泥酔の高校の同級生二人に呼び出されたことがあった。
片っ端から知人の悪口を言っていたが、私を呼び出す前までは私の悪口を言っていたのがミエミエ。
そして「人の悪口は楽しい!」といっている姿に唖然とした。そう、こう書いているこの文章も、
彼らの悪口である。
 私の場合、こと人間の真髄に関しては何を話しても悪口になってしまう。
虚飾などどうでもよい?見えるのは裸の猿の狂った姿である。
大学のたまたま入った学部が社会学部であった。早くいえば人間学である。
人間関係の網の構造を瞬時に洞察する訓練を受けているから始末が悪い。
さらに、こういう社会学的な本が好きで40年近くも読み続けているから知らないうちに
外語化しているのだろう。表面的な付き合いの人間には、全てが悪口に聞こえるはずだ。
同級生のスナックのママに説教をされたが、その道のアマチュア? ということは知らないようだ。
 ところで悪口という概念は、なんの思想も持ち得ない。
ー怒れば、ストレス解消・精神衛生などという隠れみので、自己のプライドなど微塵もみせず?に
 罵詈雑言をいい続ける。
ー気分の良い時は調子よく聖句などを持ち出してきて、「悪口はいけません」とのたまう。
 この二面性を持っているのが人間の姿である。悪口の後で「仕方ないさ、人間だもの」と繰りかえす。                           
ー悪口をいま思い出せる言葉を羅列してみるとー
「服のセンスが悪い」「だらしがない」「カスが人間をまとっているような奴」
「子狐のような奴」「屑どもめ」「仕事が出来ない」「気がきかない」「痴呆迷死」
「ミス何々ー失敗ばかりする女」「ダニ」「自民党のような奴」「たかり」
「くそったれ」「共同便所のような女」「東京ガス」 悪口はまるで無尽蔵である。

嫉妬心・怒り・敵意・ねたみ・憎しみ・優越感・軽薄など心の底に渦巻いている
ドブから発するガスである。
 ーインターネットで調べた内容をコピーしておきます。
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「悪口をやめよ 」
ヤコブ4:11~12
箴言26:17~28
マタイ5:21~24

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 592,ーこころにのこった詩ー2
 - 2002年11月26日(火)
 ー兄弟ー  びーと たけし

兄ちゃんが、僕を上野に映画を見につれていってくれた
初めて見た外国の映画は何か悲しかった
ラーメンを食べ、喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ
兄ちゃんが、後で入ってきた、タバコを吸っている人達に
殴られて、お金をとられた
帰りのバス代が一人分しかなく
兄ちゃんが僕をバスに押し込もうとした
僕はバスから飛び降りた
兄ちゃんと歩いて帰った
先を歩く兄ちゃんの背中がゆれていた
僕も泣きながら歩いた

 ・・・・・・
これを読んで子供のころの出来事を思い出した
詩的に書いてみるー

小学校の低学年の頃、兄と歩いていた
兄が急に頭に手を当てた

帽子を取ると頭が血だらけだった
兄はそれを見て泣き出した
帽子に穴があいていた

すぐに誰かが空気銃を撃ったのが解った
近くに不良の中校生がいた
彼だろうと思った

兄の手をひいて帰った
その問題は大きくはならなかった
それから10年経ってその少年は殺人事件をおこした

ざまみろと思った

・・・・
この文章を考えて寝たため昨日の朝、ビートたけしの兄弟の夢をみた。
夢の中の対談で私が司会者だった。たけしが兄にふざけて昔貸した200円を返せという。
また二人で読んでいる新聞を取り合いをしている。兄弟でいつの間にコントをしている。
それがこの詩のように仲がよいのだ。何か失われた家族を見ているようであった。
また自分の脳の想像力の凄さ単純さに驚かされる。自分でいっているのだから間違いがない。

・・・・・・・
238,)糸井重里のインタネット的
- 2001年11月26日(月)
彼の著書の「インターネット的」が面白かった。買おうとしていたところ、
たまたま図書館にあったのを借りてきて読んだ。買うほどでないが読む価値が充分あった。
ーまとめてみると、
 インターネットのキーワードが4つあるという
1、[リンク]ージョイント的のつながりとは違うという。
  ジョイントは‘問いに対する答え’のように交互の繋がりをいうが、
リンクは問いに対していろいろな答えがある、それを有機的につながっていくことが
可能なのがリンクという。それぞれのホームページのお気に入りのコナーから、
新しいページに行き、 そこからまた新しいページにリンクしていける。 これがまず一番の特性。
2、[シエア]ーおすそ分け、情報の無条件の提供である。そうでなくては誰も見てくれない。
自分の利益を考えることは大事だが、それを無条件に公開して与える。
3、[フラット]ーたいらー公平無名性に情報をやりとりすることが大事で、
 そこには肩書きも、立場も意味がなさない。
4、[グローバル]ー民族や国の枠を超える、世界的な視点になってくる。
以上のリンク、シェア、フラット、グローバルの4っがキーワードだ。
自分でこういうホームページをつくって、何のためと自分で自問自答する
ことがある。自分の経験・体験・知識・考えを知らせる事と、問い掛けることである。
毎日目に見えない何人に向って,語りかけを実際しているように書く。
それには虚飾をすて本音で書かないと、すぐ見るる方も書くほうも飽きてしまう。
本音で書き続けると、本音の中にある虚飾に気づくことがある。
今までの日記(ノートに書いていた日記)より、深くなっていく部分と、
やはり観られている為に本音をカモフラージュしている部分が出てくる。
また内容のイイカゲンさは排除しなくてはならない。
その為集中を自分に課せることが必要になる、これが最大の収穫だ。

・・・・・・
ある時間の断片 
          1968年
11月26日
9時15分に起床。
10時半に学校へむかう。川崎と待ち合わせて、ノートを借りる。
食事後川崎と「サルビア」へ行き話す。「昔の彼女に会って婚約を知り、
再び結婚を前提で付き合いたい」といったという。聞いていて馬鹿馬鹿しくなってきた。
「身勝手もいい加減にしろ」と思ったが、口には出さなかった。
試験勉強をする為に、独りで図書館に行き、その後再び川崎と食事をする。
帰寮後、川崎に借りた本をうつしていると、駒村が来る。少し彼と話す。
その後、炊事場で米林から、南波嬢と蒲生が何とやらと聞く。
本当かどうか解らないが、もしそうなら南波嬢もその程度の人かと失望をする。
佐藤に知られなければ良いのにと心配だ。佐藤は気が多い男だからだ。
その後、大妻の宮本さんがくる。彼女から、その女性が「清田」さんと聞かされる。
何回か会ったことがあるが、別に何とも思ってなかったが。確かにスゴイ美人である。
しかし、それを鼻にかけているのが気になる。逃げる理由も無いが、追いかける理由も無い。
宮本さんも面白い人だ。間中君の「自他とも認める何」だから気楽に傍に寄せているが。
彼女が帰った後に、食事に行く。その後、集中して勉強。夜半0時に米林がくる。
佐藤嬢とのノロケを聞かされる。彼は今は女性のことしか頭がないみたいだ。不安なのだろう。
それにしても、シモの具体的なことを何故言いたがるのか理解できない。

後記 2003年11月26日
 書き写していると当時をアリアリと思い出すものだ。よくもまあ、色いろのことがあったものだ。
何事も忘れるから生きていけるのだろう。日記に書いてなければほぼ全てを、忘れていることだ。
過去を振り向かないことを自分に課してきたが、このように思い出すのも面白いものである。