つれづれに

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 昨日の金曜日はシネマの日。 『ワイルド・スピード』で、90点。
ただ破壊と、スピードと、殴り合いの連続。
何時も思うのが、20人以上も、入っていることだ。
ただ見る方も、スカッとすればよいことを前提で作られている。
 http://euro-mission.com/

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1197, ユング臨死体験
2004年07月13日(火)
 臨死体験といえば、立花隆が「文芸春秋」で特集で連載をしたことがあった。
死にかけたときに生じる脳内の異常状態から見る夢か幻想と思うのだが。
ユングの書の中の「臨死体験」を読んでいるうちに、何か今までの世界観が変わってしまった。
ユングが書いた時は、まだ宇宙衛星が地球外に出てない。しかし、ユング臨死体験で見てしまった
宇宙からの景色と,宇宙船から飛行士が見た景色が全く一緒だったという。
何とも不思議な気持になってしまった。
ーその部分を抜粋してみる
 ---
1944年のはじめに、私は心筋梗塞につづいて、足を骨折するという災難にあった。
意識喪失のなかで譫妄状態になり、私はさまざまの幻像をみたが、それはちょうど危篤に陥って、
酸素吸入やカンフル注射をされているときにはじまったに違いない。 幻像のイメージがあまりにも
強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。後日、付き添っていた看護婦は、
『まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした』といっていたが、
彼女のつけ加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。
私は死の瀬戸際にまで近づいて、夢みているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。
とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。  
 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、
そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかか なたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。
私の視野のなかに地球 全体は入らなったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に 
照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところど ころ燻銀のような
濃緑の斑点をつけていた。(中略)
 どれほどの高度に達すると、このように展望できるのか、あとになってわかった。それは、驚いたことに、
ほぼ1500キロメートルの高さである。この高度からみた地球の眺めは、私が今までにみた光景のなかで、
もっとも美しいものであった。
 ーこのときユングが見た地球の姿の記述は、立花隆も指摘するようにアポロが撮った地球の写真の姿と合っている。
それをユングはアポロ宇宙船よりも以前、それどころかガガーリン以前に書いているー
しばらくその美しい地球を眺めたあと、自分の家ほどもある大きな隕石のような黒い石塊が宇宙空間を
ただよっているのを発見する。その石の中央には入口があり、その中はヒンドゥー教の礼拝堂になっていた。
その中に入っていった。  
 私が岩の入り口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。つまり、私はすべてが
脱落していくのを感じた。私が目標としたもののすべて、希望したもの、思考したもののすべて、
また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。
この過程はきわめて苦痛であった。しかし、残ったものはいくらかはあった。
それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったすべてで、それらのすべてが、まるでいま
私とともにあるような実感であった。それらは私とともにあり、私がそれらそのものだいえるかもしれない。
いいかえれば、私という人間はそうしたあらゆる出来事から成り立っているということを強く感じた。
これこそが私なのだ。『私は存在したものの、成就したものの束である。』 
 この経験は私にきわめて貧しい思いをさせたが、同時に非常に満たされた感情をも抱かせた。
もうこれ以上に欲求するものはなにもなかった。私は客観的に存在し、生活したものであった、
という形で存在した。最初は、なにもかも剥ぎとられ、奪われてしまったという消滅感が強かったが、
しかし突然それはどうでもよいと思えた。
 すべては過ぎ去り、過去のものとなった。かつて在った事柄とはなんの関わりもなく、既成事実が残っていた。
なにが立ち去り、取り去られても惜しくはなかった。逆に、私は私であるすべてを所有し、私はそれら以外の
なにものでもなかった。「私が目標としたもののすべて、希望したもの、思考したもののすべて、
また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった」
 これに対し、彼に残されたものは何だったか。孤独な宇宙空間にただよいながら、かつて自分が地上で経験し、
行為したことのすべてが自分とともにあるという実感だけは残った。
そのとき残されたぎりぎりの「私」とは、自分がこれまで地上で経験し、行為したもろもろの事実のみであった。
それは要するに、「私」とは私のカルマ(業)にほかならないということなのか。
私に所属する多くが離脱しても、私の行為のすべては、おそらくは死後もカルマとして存続する。
 ーー
以上であるが、鈴木秀子の臨死体験に似ている部分がある。現実のとらわれから解放される部分である。
  ユング(1875-1961 Carl Gustav Jung)
スイスの精神医学者,分析心理学の創始者。ボーデン湖畔ケスビルに牧師の子とし
て生まれる。
バーゼル大学医学部卒。E.ブロイラー,P.ジャネ,S.フロイトらに学ぶ。
とりわけフロイトとは1907年の初会見以来親交を重ね一時後継者と目されるが,
1913年に訣別。

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2003年07月13日(日)
830, アラスカ旅行記ー5
ーアラスカつれづれに
 アラスカで感じたのは、豊かさである。ーそして、その対比としての日本の豊かさの底の浅さだ。
・高校の前を通ったら、大きな駐車場があった。 16歳で免許が取れるという。
多くの高校生が車で通学をしているという。16歳以下でも親と一緒であれば運転できる免許もあるという。
・また地域性もあるが、50人に一人当たり割合で飛行機を持っている。 飛行機の車輪部分を季節ごとに
変えることができる。 冬はスキーを履き、夏は車輪、湖や河では浮き輪を付け替える。
 安いので500~600万で買える。夏は釣りや泳ぎに、冬はスキーとかに、色いろの場所に
下りて遊ぶという。 それでも、夏の期間が短く、秋はほとんどなく冬が長いために、
鬱病になってしまう人が多いとか。
・アンカレッジの街を歩いていても、豊かさが直に伝わってくる。
 ワンフロアーの大きい住宅、そしてこじんまりとした芝生と花のある庭。
・しかし乞食があちこちで見ることができた。
 アルコールでやられるらしく、彼等を収容するシェルターがあるという。
 特に地元インディアンに、生活に適応できない人が多いとか。
地球の歩き方』に面白そうな日本料理店があったので行ってみた。
「やまや」という店で正しく国内の居酒屋そのもの。
 小さなカウンターが5~6席に、テーブルが16席。
 50歳位のマスターと20歳位の男のアルバイトが二人で働いていた。
 「何が美味しいか?」と聞いたら、「ユーコン川で獲れたキングサーン の刺身がお勧め」、
 とのことで注文したが、もちろん絶品。 鰊の塩焼きと子持ち昆布もなかなかであった。
 少しほろ酔いの頃、40歳ぐらいの白人が一人入ってきた。
 マスターが「よー!食い逃げのジョー」と日本語で声をかけると、赤い顔をして「食い逃げのジョーじゃなくて、
 朝逃げにジョーだよ」と嬉しそうに答えていた。常連らしいので話しかけると、何と今回の現地日本人ガイドの上司。
 三重県の津に2年いたこともあるとかで、飛行機の整備士からガイドにトラバーユしたといっていた。
 その時60歳がらみの人品のよい日本人が入ってきた。そして我々の間に座った。知り合いらしく急に
 ジョンは大人しくなった。 そして英語で二人話し始めた。 後で家内がいうには今回のジャンボの機長では
 ないかという観測。 私もその時に一瞬そう思ったが、商社関係者ということもありうると それ以上考えなかった。
 でもTPOSから考えても、ジョンの態度からみて機長の可能性が強い?
 一度店を出たがジョンの写真記念をと、とって返して思わず「ただ乗りのジョン、写真を一枚撮らせて下さい」
 といった。 本人曰く「ただ乗りのジョンでなく、朝逃げのジョンです!」
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2002年07月13日
旅行中
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2001年07月13日
旅行中