つれづれに

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写真は、30数年前の息子!

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1512, こころを凛とする196の言葉ー1 
2005年05月24日(火)
読書日記
最近、あまりこだわりを持たないで、色いろなジャンルの本を読むようになった。
その中に、女性が女性向きに書いてある文章がある。
読んでいると、切口が鋭いことと、少し言葉を変えると「男」にも当てはまる内容が多い。
特に、服装に対する心構えなどは男性用のものは殆どない。
外見に対して気をつけることとして、「清潔7割、色気3割」は、男にとって「清潔7割、着こなし3割」
と考えればよい。それとも、色気3割も必要なのかもしれない。
とにかく、読んでいて男の自分が「ハッ!」とする内容が次々と出てくるから不思議である。
特に、汚いオバサン化した女性には厳しい言葉である。若い女性には、是非読んでほしいものものばかりだ。
女性の気の使い方が読んでいて面白い。大事なことだが、でも? まあ、いいか!
女性の化粧は、欠点をカバーするもので、特にアンバランスを調整する為にするのが基本であるという。
ブランド物でどういうバランスを保てるのか疑問符があるが。
ー幾つかを書き出してみるー
・美の真骨頂は7対3
 私が街で振り返ってしまう女性は、いつも決まって同じタイプ。
 清潔感と色気がきっちり7対3の女たちである。
 --
・清潔感を毎日ひとつ
 メイクでも服でも香りでも何でもいい。
 毎日ひとつでも、清潔感を放つものを体にくっつけて出かける。 それが「清潔感のある人」・・・
 ーー
・服のルール
 おしゃれとは、年齢とともに失っていく清潔感を取り戻すためにある。
 ーー
・地味の落とし穴
 他人の視線が気にならないのは、ある意味でとても「おさまり」のいい日。
 でもその「おさまり」こそ、言ってみれば「地味」の正体。
 人目を煩わせずに、ひっそりとしていれば心身ともに疲れない。
 だから気がつくと「地味」の中にぬくぬくとうずもれてしまいがち。危険なのは、そこである。
 「地味」はやがて体の中までしみ込んで細胞代謝を低下させ、女性がもっているべき艶まで失わせてしまう。
 ーー
・自分をキレイに扱う
 仮に美人でなくても美しく見える人は、なぜそう見えるのか?
 逆に美人なのに美しく見えない人は、なぜそう見えないのか?
 美人か否かの分かれ道はいろいろだが、ひとつだけ決定的なことを言うなら、自分自身が自分を
「美しいもの」として扱っているかどうか、それで女は決まると思う。
 ーー
・見せる顔、
 見せない顔
 女の美貌はある意味「体力」に似ていて、 人知れずどこかできっちり鍛えておかないと
基礎体力はついていかない。素顔の美しさにも、同様のトレーニングが必要だと思う。
 女は二つの顔を両方とも鍛えないとだめ。「一人に見せるための顔」だけ必死につくっていては成長はない。
 「人に見せない顔」で自信を得てこそ、見せる顔も光りだす。
 ーー
・ブス
 安心が女をブスにする。
 ーー
・流行力
 女にとって流行は、老けないためのストッパー。
 ーー
・ブランドはプライド
 女にとって「いかに生きるべきか?」と「次にどのブランドの何を買うか?」は、
 下手をすると同じくらいの重さを持ったりする。たぶんブランドは、プライドだから。
 少し自信が足りない女のプライド・・・。
 ーー
・美容の掟
 化粧もカーラーもバレたら無意味。 高校生の私は、そこで自分のなかに初めて
掟が生まれたのを感じた。 美容はバレちゃいけないのだという・・・。

「こころを凛とする196の言葉」 著者 斉藤薫
                
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2004年05月24日(月)
1147, 「唯脳論 」 
この本も、なかなか面白い。情報化時代だからこそ脳が問題になる。
脳こそ、情報器官そのものであり、それがコンピューターと結びつき、さらに
インターネットでネットされた現代社会では、最も注目されてしかるべきである。
自分の脳を公開して、さらに自分で時間をおいてみてみると、自分でも面白いのだから、
他人が見たらもっと面白いだろう?この随想日記は「唯脳の世界」そのもの、それも重層に重なっている。
「現代人は、脳の中に住むという意味で、いわばお伽噺の世界に住んでいるといっていい。」
と著者は書いているが、ある意味で、このホームページもお伽噺なのかもしれない。
ー以下は、あるホームページの抜粋を、再構成したものである。
それにしても、神様か、高度の何かが人間や生物を創ったとしか思えないが。
ーーーー
養老孟司著 青土社
●はじめに
・現代とは、要するに脳の時代である。
情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。
ヒトの歴史は、自然の世界に対する、脳の世界の浸潤の歴史だった。それを我々は進歩と呼んだのである。
自然保護運動が、しばしば理性に反するようにみえるのは、その実態が「自然に帰れ」 
 運動ではなく、直感的な「反-脳」運動だからであろう。
現代人は、脳の中に住むという意味で、いわばお伽噺の世界に住んでいるといっていい。
・・・・・ お伽噺に異を立てる現実とは、我々を制約するものに他ならない。
それは歴史的には常に自然だったが、いまでは脳になってしまった。
・我々はかつて自然という現実を無視し、脳というお伽噺の世界に住むことにより、
自然から自己を解放した。現在その我々を捕らえているのは現実と化した脳である。
脳がもはや夢想ではなく現実である以上、我々はそれに直面せざるをえない。」
唯脳論とはなにか
 
・・・・・・
2003年05月24日(土)
780,またおきた「意味ある偶然の一致」
  ー40歳の頃-1986年
過去をこうして書いていると、いかにして今の自分になってきたかの謎解きを一人しているような気分になる。
この頃は第二の増築工事の完成をした年であった。280室に向けて一番勢いがあった。
またギリギリの判断をして、後は野となれ山となれという気分であった。
時代はバブル直前の何ともいえないエネルギーが溢れていた。コンピューターを導入した年でもあった。
政治的には、アメリカとプラザ合意をしてバフルに入った直後であった。気持ちの中ではギリギリの限界であった。
ーこれを書いているときー今、TVから1986年の歌がが流れてきた、それも字幕で1986年と入っていた。
加山雄三の歌がー「北国の~と歌っている」
また起きた感じだ。
NHKのBS・2で、時間は21時55分。
恐ろしい感じがする。
よくおきるがあまりに露骨だ!
シンクロニシティー「意味ある偶然の一致」だ。
嘘みたいだ!
実際のところ、現におきたのだ。
書いている最中に字幕で1986年と出て、歌まで出るのだから!
あまりにも出来すぎている。
これに合わせて引きつけられるように、このテーマを書いていたということになる。
深い自分のしらない何かがあるのだろう。
これだから面白い!テーマが変わってしまった。
 
・・・・・・・
2002年05月24日(金)
416,鳩山家の「勉強法」

何回か立ち読みをして買うかどうか迷っていたが,先日買って読んで面白かった。
しかし本来ある技法を、とってつけたような内容も多かった。
最近ノウハウ書に凝っている。以前はノウハウ書などの小手先の本を甘く見るところがあった。
ところがそれが思い込みでしかないことが、この年で解った。ノウハウ書ばかり偏るのがよくないのであって、
技術の宝庫であることは間違いない。この本もそうだ。ノートのとり方一つでも目から鱗である。
私の場合あまり勉強が得意でなかったこともある。最近凝っている即読法もそうだ。10倍とはまだなってないが、
3~5倍早く読めるようになった。うそみたいな話だが。10歳ぐらいのときに、ある姉が教えてくれた。
「一科目だけでいいから、勉強して一番をとりな!」これが小学年の後半、算数だったと思うが一番になった。
それがきっかけであった。そして中学二年の時、・・・・・と。
さてこれで印象に残っている順に書くと!
・ノートの左右の書き分け  左にキチット先生の教えたことを、ノートにとる。
  右に 右脳的に 絵とか自分の 形に遊びを入れて書き換える。
 また、そのときの部屋の様子や、他のことも書き加える。
 ダビンチのノートもそうだ。 絵と文を交互に空間を広く取りながら書き込む。
 広くとった空間にどんどん書き加える。
・あと問題集を徹底的に解く。 それもどんどん答えを見ながら、先に進む。
・本は全体をとりあえず読む。 そして後ろのほうから、逆読みをする。
 推理小説の犯人を先に知った上で、そのストーリーを読み解く方法を勉強法に取り入れる。
・黒板を周辺に置き、いま覚えるべきところを書き込む。
・勉強をすることが楽しい雰囲気を作る。 音楽はアダージョなどの、アルファー波の出る音楽を流す。
・黒板で自分が先生になったつもりで、生徒に教えるように演技してみる。
・暗記は繰り返し暗記をすれば、誰でも憶えられる。
・頭の切り替えの為、ポイントごとに遊びを入れる。
・最も大事なところは、勉強と終わりに集中させる。
・あくまで本人の主体性を尊重する。
これは別に写したわけでなく、自分の印象に残った順に記憶から記している。
受験なら、どこそこの大学と具体的に目標を決め、その科目を集中して勉強する。
それも高校一年の時から割り切り、他の授業は割り切って進級すればよいレベルにする。
こういうのを戦略的勉強法というんだろうが。
でもそれを出来なかったが、「生き方で戦略的に生きてやれ」と、学生時代に意識できた収穫もあった。

・・・・・
2001年05月24日(木)
ホームページを開いて3週の実感
 今週末に‘写真日記のコーナー’ができると一応ホームページの骨格が完成だ。
パソコンを何のため使っているのかな?使い切っているのかな?と疑問を持っていた矢先
ホームページの開設を思い立ち、そのプロセスの中で他のホームページの構造とユニットをつかむ事が出来た。
 自分のデータベース造り、及びその蓄積になっていくと同時にそれがそのまま外界にリンクしていく
サテライトスタジオ機能を持つことと言える。グローバルに対する自己の開放である。
ホームページはその表紙を語源とする。ということは大項目のデザインということになる。
この数ヶ月かなり追加と変更が予測できる。
 今年の新年の誓いはパソコンとインターネットとホームページをものにする事であった。
特にホームページは思ったより収穫になりそうだ。
 開設の5月2日以前と以後と言うくらいのそこに大きい段差を感じる。