つれづれに

イメージ 1

今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=ofR6EniPMw4
http://www.youtube.com/watch?v=T47OcLPJupU


寝正月も終わり、そろそろ始動。 年中、正月のようではあるが。
先ほど、録画をしていた15代の楽家の茶碗の焼き物の創作のプロセスを見たが感動もの。 
すばらしい!の一言。

1月3日(木)午後9時~10時、
NHK 番組「プロフェッショナル・仕事の流儀」新春スペシャル『樂家十五代 樂吉左衞門』
樂 吉左衞門は、千家十職の一つ、楽焼の茶碗を作る茶碗師の樂家が代々襲名している名称である。
2010年現在、15代(1949年- 、1980年に襲名)が当主である。

http://www.nhk.or.jp/professional/2013/0103/index.html
http://blog.goo.ne.jp/anpversam_2007/e/2c0ff401da4245b41cc9829d5ff1c842





/////
1005, 「この俗物が! 」- 読書日記
2004年01月04日(日)

この著者の
「自分様と馬の骨―なぜ認められたいか? 」
「ぶざまな人生」
「こういう男になりたい」
「わたしを認めよ!」
 を読んできたので、「やっと続刊がでてきた!」
というのが、本屋で見たときに感じたことである。

 私の人間観にピッタシの人間解剖をする。
馬鹿で可愛い人間を、冷たくも暖かく見つめる視点が好きである。
馬鹿な男を非難していながら実は自分の姿でないかと、ハッと
したことは誰もあるはずである。
面と向かって「お前馬鹿か!」とか、歩いていて誰かに聞こえよがしに
「・・・の馬鹿が!」とか、何度言われたことか。実際そうだから仕方ない。
 言い返せないレベル?に対して黙殺をせざるを得ないことが何回もあった。
その時、心の中で「この馬鹿どもが!」「虚勢犬め!」「子狐め!」とか言っている自分がいた。
その言葉の背後には、この「俗物が!」と言う気持ちが込められていた。
しかし、同時に自分も大して変らないのだろうという諦念と自虐もあった。
この随想日記の中に何度も書いてある。
他人の俗物性を指摘しながら、実は私のことだと同じパターンで書いている。
一種の人間関係の自己癒しをしているのだ。
 俗物はバカよりも奥が深く、おもしろい。俗物が俗物たるゆえんはどこにあるのか?
世間価値としての地位、権力、金、女、知識(教養)、モノ、学歴、有名性、
言葉、自尊心…これらの「手段価値をあたかも目的価値として血道をあげる類」
の人間を俗物というのだ。誰も持っている愚かな自惚れの側面をいうのだ。
この世に生きているかぎり、すべての人間は俗物たることは免れないのが
悲しい人間の性なのだ。
俗物は全ての人間を映しだす鏡である。

 だいたい「面白く、おかしく、楽しんで生きる」ことは俗物そのもので
あろう。人生で、それを追求することは俗物そのものである。
以下の著者のタイトルを一つの文にしてみると面白い

「自分様と馬の骨―なぜ認められたいか? 」「ぶざまな人生」
「こういう男になりたい」「わたしを認めよ!」
ー私を認めてほしいのだ。自分様が馬の骨ではないことの証明の為、
「こういう男になりたい!」という自己証明と追求をしないと、無様な人生になってしまう。
私はその辺の「この俗物が!」とは違うのだから。
誰もが持っている「俗物」としての赤裸々な言葉になる。

ーーーーーーーーー
「この俗物が! 」  勢古 浩爾 (著) 出版社: 洋泉社
目次
第1章 みんな俗物だあ!(「あーあ、かっこつけて」
 福田恆存の「俗物論」 ほか)
第2章 男の自尊心、女のプライド(なぜ「俗物」が罵倒語となるのか
 聖なる人々 ほか)
第3章 この俗物が!(世間価値に首までつかる
 いきなりその気か―地位 ほか)
第4章 俗物で悪かったな!(俗物たちの氾濫
 俗物のほうがずっと人間くさいか)
第5章 非俗の人(サムライに俗物はいない人間の形式 ほか)
権力、金、女、知識、モノ、学歴、有名性、言葉、自尊心と
ありとあらゆるものが俗物化する要因であり、それらに関わる俗物の
いやらしさを(あくまで著者の視点で)解説している。
・自宅のベランダでバーベキューをする家族、
・ピーコにファッションチェックを受けたがる自信満々の愚女、
・たかが寿司屋風情やラーメン屋風情のくせに客に食わせてやってるんだ
 とのぼせあがる店主、それに媚びてありがたく食べさせていただくという
 店主以上に輪をかけて情けない客、
・『トリビアの泉』を購入し早速「それ、3ヘエ」とかいっているやつ・・・
などなど『なんでもかんでも俗物』じゃあないかというほどである。俗物根性に対する
するどい指摘にはどこかむず痒いような鋭さがある。そしてその強引さと潔さは笑える。

・・・・・・・・・
 2003年01月04日(土)
631, 文化と文明

文明と文化の言葉の意味を明確にしておきたいと思い辞書でひいてみた。
1、世の中が開け、生活が高度に進むこと
2、人類のあらゆる時代を通じ、人間が自然に働きかけることによって、
 みずからも自然状態から脱して作り出してきた物質的・精神的ないっさいの成果。
 フンボルト以来物質的文化を文明、精神的文化を文化と呼び分けることが多い。
これまでは文化の積み重なりとしての遺産を文明。その現時点の花開いている集合体を
文化と理解していた。時間軸でショートスパンで捉えたものを文化。
ロングスパンのものを文明として捉えていた。
しかしインターネットでで調べてわかった事は以下の事である。
ー各ホームページから抜粋したものを纏めたものであるー
・文化は個々人の心(意識と無意識)であり、
・文明は人間を取り巻く環境(自然環境、建築環境、社会環境)です。
ー文明とは人間が造り出した目に見える物質的なものに対して向けられる言葉であるが、
ー文化とは人間の身につけた自らの行動を律する目に見えない精神的なものに対して
 向けられる言葉である。最近の言葉でいえば「ハード」と「ソフト」との違いと言うことになる
「文化」と「文明」という言葉のつく固有名詞を考えて見ればこの違いはより明確になる。
・「○○文明」と言われるものの多くは「インダス文明」とか「古代文明
 などのように、特定の時代の、しかも特定の人々の社会もしくは
 その経済的所産を指しており、その多くはすでに歴史の流れの中で過去のものとなっている。
・これに対して、「○○文化」と呼ばれるものは「イスラム文化」とか「仏教文化」というように、
たとえその誕生した時期や地域が特定されるにせよ、その時代や地域に制約されることなく、
その多くは今日まで何らかの形で生きている。 確かに文化と文明とは人間の歴史の中で
一体となっており、文明なしの文化、 文化なしの文明などあり得ないのであるが、
これらは決して同一のものではない。

 高度の文化を持ちながら、しかもずっと低度の文明しか持たない民族がいる
 ――例えば古代インド人――一方、大いなる文明を持ってきたが、
 比較的低い寄せ集めの借りものの文化しか持たない国民――例えばローマ人、
 そして現代ではアメリカ人――がいるのである。
 歴史の隠れたドラマは、人類の内的価値と外的価値の永遠の闘い、精神と物質、
 文化と文明との闘争であるとさえ言いうるであろう。
 アメリカとアラブの闘いは文化と文明の闘いと思っていたが、文化と文化の争いでしかない?
 ーー自分である問題を提起すると、一瞬のうちに纏めができることに驚いている。
 幾つかのホームページの要点を張り替えただけでチョッとした学者並みの小論文が出来上がる。
 
 ・・・・・・・
 2002年01月04日(金) 290、歓喜ー2

TVであるが、元旦の小沢征爾のウイーン・フィルニューイヤ・コンサートが
素晴らしい内容であった。
あまり興味のない分野だが、日本人初のこの指揮を生放送ということで
見てみた。もちろんウイーンからの生である。
シュトラウスの「ラデッキー行進曲」やワルツ「美しく青きドナウ」などであった。
それに合わせ他の?お城でダンスを踊っているのが中継されていた。
夢のような世界であった。
指揮者・演奏者・観客が一体になり音楽の世界に入りこんでいる、歓喜の世界であった。
当然最後はアンコールの拍手の渦であった。この音楽会でこの曲を聴く前と後、
というくらいのインパクトを与えるのが芸術の力である。あの場面にいたら、その位の気持ちに
なったのでなかろうか。歓喜・感激はそれ位のインパクトを人間の心に与えるものである。
音楽などの芸術は、宇宙・大自然の中のあるメッセージを一瞬にとらえ、作品に仕上げたものであろう。
それを会場の全員がそのまま受け取っているのでないか。歓喜は当然のことだ。

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
1月4日  1969年
10時に起床する。食事をして、顔を洗い、新聞を読んだりして時間を過ごす。
午後は裏に住む姉の正子さん宅の屋根の雪下ろしだ。2時間した。
従妹の旦那の関口さんが来る。高専の先生をしている。
彼と学生運動から教育論について話す。気がついたら3時間も経っていた。
気持が若く開放的だ。先生とはこういうものかと思った。
20時からジャスコオカダヤの論文の構成を考えるが、上手くいかない。
この程度の問題がナカナカ上手くいかない。如何したのだろう。