つれづれに

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http://www.youtube.com/watch?v=gQaIa9eF5ds
http://www.youtube.com/watch?v=_cneKq8lXKM&feature=relmfu
http://www.youtube.com/watch?v=P8hquqUxRho&feature=relmfu

このTVドラマと、本は強烈な印象が残っている。小学校の頃、似たような境遇の
子供たちが小学校に何人か居た。子供の頃、みかん箱の板で作られた数坪しかない
家を見た時のショックが生々しく残っている。戦災孤児で寺に養子のようなカタチで
住んでいたり、二号さんの子供だったり、芸者の置屋で訳ありの女の子がいたりした。
昭和20年代は、貧しさが当たり前だった。 学生時代に、池袋の、そのへんの映画館に
度々、行っていたので、そのへんの雰囲気がよく分かるから現実味がある。

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2007/07/12
2291, 10歳の放浪記 -3
 この番組の中で、作家がドラマの中の10歳の頃の子役を抱きしめた場面を紹介したが、
これは深い意味が含まれている。この行為そのものが「究極の癒し」になるのである。
精神症や精神病の原因として最近「トラウマ」が取りあげられている。
辞書でトラウマを調べると、「耐えられないような体験・その痕跡
。内的原因(欲動興奮的)と外的原因(侵襲破壊的)がある。」とある。
特に幼少時のトラウマが大きな原因となっている場合が多い。
癒し系の本には、その時の自分を思い出して、イメージとして抱きしめることが、
本人のトラウマの一番の治療になる、とある。
ところで、NHK/BSで「わたしが子供だった頃」のシリーズで、童謡作家の上条さなえさんの
「10歳の放浪記」をドラマ仕立て観て、感動し、この随想日記に二回にわたり書いてきた。
本を買おうかどうか迷ったが「図書館にあるかもしれない」と思って、買うのを控えていた。
先日の日曜日に近くの図書館のファンタジーなどのコーナーで探したが、無い。
 諦めかけたが、それでもと思い直し更に探したところ、あったのである。

  ー以下は、この本の一番のクライマックスの場面であるー
四月になると、暖かい日が続いたので、早苗は母が買ってくれた半コートを
父のボストンバッグにしまった。父は数日にわたって、風邪で熱を出していた。
早苗は天井を向いている父の横で、算数の計算ドリルをしていた。
「なこちゃん」父が目を開けた。「ン?」早苗が父の顔をのぞきこむと、「死のうか…」と、
ポヅリとつぶやいた。「やだ。まだ、マティー二を飲んでないもん」早苗は首をふった。
(映画館で見た、マティーニを飲むことを夢みていたのだ)
「もう、金がないんだ。明日の朝十時にここを出たら、行く所がないんだよ」父の言葉が、ショック。
早苗は大きな溜め息をはくと、外に飛び出た。姉は、東京の巣鴨だときいていた。
姉なら、なんとかお金を貸してくれるだろうと思ったが、電車賃がなかった。
早苗は歩く道々に、お金が落ちていないか目を皿のようにして探した。
駅前の通りを歩いていると、パチンコ店の中から『軍艦マーチ』の曲がきこえてきた。
早苗がその曲につられるようにして、店内を見ると、銀色の玉が一つ、二つ、
床に落ちているのが見えた。 ここで稼ぐしかない。

ドアを開けると、耳をつんざくような軍艦マーチ一の曲と、チン、ジャラ、ジャラという
音が聞こえてきた。床に落ちている玉を探し求めて、何個かの玉を握りしめた。
人に怪しまれないように、早苗はおばあさんの隣を探して座った。
そうすれば、祖母と孫だと入は思うだろうと考えた。

早苗は・おばあさんのやり方を見た。パチンコ台の右わきの小さな穴に玉を入れて、
バネを右手の親指で掃せばいいのだとわかった。早苗はゆっくり玉を入れた。
そして、ゆっくりとバネを押した。力が弱すぎたのか、玉はパチンコ台のくぎにも届かず
下に落ちていった。二つ目はバネを押す力が強すぎて、台のくぎの外側を大きく回って下に落ちた。
早苗は深呼吸した。三つ目がようやく、台のてっぺんにあるくぎで囲まれた
小さな穴に入ろうとして、くぎにはじかれて下に落ちた。(ここをねらえばいいんだ)
早苗は四つ目を、はじいた。四つ目の玉はてっぺんの穴に吸いこまれるように
ストンと落ちた。チン、ジャラ、ジャラという音とともに、台の受け皿に玉が出てきた。
早苗はホッとして・五つ目を入れた。すると右わきの穴の途中に玉が引かって止まった。
早苗が小さな声で「あっれ」と言うと、隣のおばあさんが、
「上についてるブザーを抑しな」と教えてくれた。

早笛が思い切ってブザーを押すと、台の後ろからニキビがたくさんある若い男の店員が顔を出した。
そして、体を乗り出して台の扉を開けると、引っかかっていた玉を下に押してくれた。それから、
早苗を見て、「どうしたの?」ときいた。早苗は、「どうしたの?」という言葉を、
「どうして子どもが一人で来てるの?」という意味にとって、「お父さんが病気で」と小さな声で言った。
そのあと、早苗の台は、まるで壊れたように玉が出てきた。「あんた、上手だね」隣のおばあさんが手を止めて、
早苗の指つかいを見た。早苗は、バチンコ台の玉が出るようしてくれているお兄さんの秀が迷惑にならないよう、
必死にうった。

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2007/07/05
2284, 10歳の放浪記 -2
            *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ
 この番組の中で、教職員を前に上条さなえさんの講演の一部を放送していた。
  その内容がユニークである。
「あなた方仲間に年配の口うるさいオバサンがいるでしょう。
 彼女らを嫌わないでください。
 彼女たちは誰からも愛されなくなってしまったのです。
 誰からも愛されなくなると、人を愛せなくなるのです。
 先生の仕事は子供を愛することです。人を愛することです。
 その為には人に愛されなければなりません。さらにそのために、
 まず自分を愛せなくてはなりません」という言葉が何とも説得力があった。

一年間のホームレスの後、養護学校に初めて行ったとき、
アンパンを食べようとしていた自分に、男の先生が「自分の弁当と交換してほしい、
東京のアンパンが食べたい」と、家庭の味のする弁当を交換してくれた。
その時、「必ず良い人間になる」と自分に誓い、先生になりたいと決心をする。
教育に無条件の愛情以上に何の能力が必要なのだろうか。ヤクザが気の毒に思い、
10歳の子供にいう。「俺のような人間になっては駄目だ。人間真っ直ぐに生きなくてはいけない」
これも、自己否定からくる良心からの説得力のある言葉である。

「うらやましがられることもあるけど、やっぱり平凡な人生がよかった。
まず親が『幸せ』と感じなければ、子どもも幸せになれない。それぞれの自分の人生に
価値を見いだしてほしい」「私の書く小説すべてがハッピーエンドに終わるのです。
色いろな経験から、そうしなくてはならなくなったのです」の言葉が重い。
最近、14歳というのがキーワードになっている。中学二年生、誰もが覚えがあるだろう、
あの揺れ動いていた時期の日々を。誰も周囲から居なくなって、自分ひとりが
取り残されてしまったような不安の日々。ひとつの節目だが、その前の十歳も大きな節目となる。
そこで決まってしまう時期でもある。初めて自分の自我に目覚め、人間としての最初の?
壮烈な戦場がある。そこには虐めと、虐められるギリギリ中ので、人間としてのベースがつくられる。
 彼女のような経験は特殊だが、しかし大きく揺れる時期でもある。一番問題なのは、親が全て取り仕切り、
自主性を刈り取ることである。 10歳の子供が、ケネディーの「国家が何を自分にしてくれるかより、
国家のために自分が何ができるかを問え」を「親」に切り替えるとは、驚きである。
 
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  2007/07/04  2283, 10歳の放浪記 ー1        才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
   
 この日曜日の朝、偶然にBS・NHKハイビジョンで「私が子供だったころ」を観て、
思わず涙が溢れてしまった。 昭和25年、東京生まれの児童文学作家・上條さなえさんの実話。
10歳の時、父親が事業に失敗し家族離散、父親と池袋でホームレスの生活を 1年過ごし、その後
児童福祉施設を経て、後に小学校教員になった経歴を持つ。

 その過酷な子供の頃の生活を「10歳の放浪記」と題して本にした。あまりにも悲しい過去のため
出版は躊躇していたが、出版社から「いじめ問題や親子問題が多い現実にひとつの警鐘を」
とくどかれ思い悩んだ末、出版したという。この本を忠実にドラマ化したのが、TVの内容であった。

 ーその大筋を書いてみるー
不動産業をしていた父が事業に失敗して一家は離散。父と東京・池袋の簡易宿泊街で暮らした。
酒浸りの父に代わってパチンコでかせいで夕食にありつく毎日。高度経済成長期の昭和35年の頃の、
学校に行けなかった1年間の生活を淡々と描写してある。

父とふたり、池袋のドヤ街でその日暮らしをしていた彼女を支えてくれたのは、
街で出会ったパチンコ屋の兄さん、やくざのお兄さん…など普通の人々である。
弱者に対して優しかった時代であった。そこは池袋駅西口を背にして左に数分歩くと、
東京芸術劇場がみえてくる。目的地はその斜め向かいにあるホテルメトロポリタンだ。
かつてそこには1泊100円の簡易宿泊所があった。昭和35年、小学5年生上條は、
当時43歳だったその日暮らしの父親と2人、やむなくのホームレス生活だった。

10歳という年で、道にお金が落ちていないか、道をさまよい、パチンコ屋の前で玉を拾い、
パチンコをする。1個、2個、3個と球が無くなり、4個目にチュウリップに入り玉が出る。
5個目の球が、途中でひっかかると、隣のおばさんが「このスイッチを押すと店員さんが
来てくれるよ」と、教えられ、ブザーを押す。そこの店員が機械が壊れたと思い
「どうしたの」聞いた。さなえは自分がどうしたのかと聞かれたと思い
 「お父さんが病気なの」とかぼそい声で答えた。それを聞いた店員は気の毒に思い、
多くの球が出してやる。さらに金に換える方法を教えてくれた。教えられて行った景品屋の
ヤクザが同情して、高い値段で買い取ってやる。それから毎日、パチンコに通い、生活を支えた。
しかし、ついに父が言う、「なぁ、なこちゃん、父ちゃんお前を育てるのに疲れちゃったよ」
「なこちゃん、死のうか」しかし「子どもって、かなしいよね。大人に決められたら逆らえないし、
 どんないやなことだって、がまんしなきゃならないもんね」
「でも、なこちゃんは幸せだよ。お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、いるから」。
 いつも友のこの言葉を反芻(はんすう)し、壊れていく父を励まし、生き抜く。
こうした放浪の状態では、学校に通えなかったが、簡易宿泊所でドリルを使って勉強したり、
ヤクザから算数を習ったり、映画館に通い洋画の字幕などを見て勉強をする。
お金がないのに映画館に通えたのは、「中に父親がいるの。探してもいい?」
と受付の人に言って、映画館に「フリーパス」で入っていく智慧を使う。
 また、当時の米国のケネディ大統領の演説
「国が何をしてくれるか、ではなく、国のために自分が何をできるか」をTVでみて、
「親が何をしてくれるか、ではなく、親のために子供が何をできるか」に切り替えて、
親のために宿泊費を稼ぐ動機にする。
 見かねたヤクザに説教された父親は