つれづれに

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今日のYoutube
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 たまたま二年前の同月同日に、「悲しみの詩」があった。「10歳の放浪記」の続編の感想文。
   なかなか印象深い内容。 暗い中にある明るさがよい。
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3102, かなしみの詩
2009年10月02日(金)
  かなしみの詩 ー「10歳の放浪記」その後ー  上條さなえ著
 たまたま図書館で、ある本を必死に探していたら偶然、あの「10歳の放浪記」の続編が目に入った。
今年の1月の発刊だから、最近に図書館に入ったばかりだろう。 図書館の天使が導いたのだ。
「10歳の放浪記」では、その後、養護学園に入るところで終わった。その「おわり」に、その後の
「非情な虐めがあった」と書かれていた。 学園の中では、一人ひとりの幼い子供たちの哀しみがあり、
本人の哀しみの傷があまりに哀れ。11歳といえば自分を考えても、厳しい人間関係の基礎が出来る時期。 
不幸な子供たちほど仲間への虐めも辛らつになる。その中で彼女の逃げ場がトイレと誰も居ない図書館。 
そこで、自然と本を手に取るようになる。そして、そこで先生に手渡された石川啄木の詩集「一握の砂」。
  いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ
いのちなき砂のかなしさよ という言葉が、さなえの心を捕らえたのだ。「かなしさ」を表現しても
いいのだという驚き。
  かなしみといはばいふべき  物の味  我の嘗めしはあまりに早し
この歌に出合った瞬間、さなえの胸に吹き矢が当たったような気がしたという。
 そして歌集の啄木の写真をみつめ、もしかしたら11歳の初恋だっかかもしれない、と。
山本先生に「啄木の歌をいくつ覚えた?」と聞かれ首をかしげた。「うーん、80ぐらい・・かな」
「一番好きなのは?」 「みんな好きなんですけど・・・」少し考えてから言った
 かなしみといはばいふべき 物の味  我の嘗めしはあまりに早し
山本先生は、黙ってきいていた。 そして、「早苗ちゃん、早苗ちゃんは食べることが好きだね。
食べ物にはね、うま味、塩味、あま味、から味、さんみがあるというけど、僕はもう一つあると思っているんだ」
「かなし味、かなしみという味を知る人は琢木もそうだけど、人にやさしくなれるんだ。とっても大切な味なんだ。
早苗ちゃんは、かなしみの味を知っているから、いい子なんだね」私は俯いたまま涙をこぼした。
わたしは、やっぱり山本先生のような先生になりたい。
  ~以下は、この本の紹介文~
 昭和36年、10歳のホームレス生活を経てたどりついた学園で、11歳の著者を待っていたのは…。
愛情あふれる先生と、それぞれに事情を抱えた生徒たちとの出会い、将来の夢、友情、勉強する楽しみ、
そして、文学への目覚め…。「10歳の放浪記」の著者が描く、再生の物語。児童文学作家・上條さなえ、
渾身の自伝第2弾。
 養護学校に暮らす子どもたちの中でもひときわ貧しい風体の主人公・早苗は、意地の悪い男子生徒などから
いじめに遭う。それでも、思いやり深いよい先生に恵まれ、たくましく生き抜いていく。
また、石川啄木の短歌との出合いから読書の楽しさに目覚め、そのことが、のちに児童文学作家として
立つ原点となる。 《竹田養護学園での日々は、ホームレスだったわたしの再生の日々でもありました。
(中略)わたしは山下先生との出会いにより、「教師」になろうという夢をもちました。
その夢が、どれほどわたしの励みになったことでしょう。 友だちのいじめに耐えられたのも、
夢のおかげだったと思います。また、わたしはホームレスの日々を経て、強い少女になっていたのでしょう
(「おわりに」)》 
  後記) アウシュビッツで殺されたユダヤの子供たちに、それぞれのドラマがあったのだろうに!

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2007/07/04
2283, 10歳の放浪記 ー1         才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)   
 この日曜日の朝、偶然にBS・NHKハイビジョンで 「私が子供だったころ」を観て、
思わず涙が溢れてしまった。昭和25年、東京生まれの児童文学作家・上條さなえさんの実話。
10歳の時、父親が事業に失敗し家族離散、父親と池袋でホームレスの生活を1年過ごし、その後
児童福祉施設を経て、後に小学校教員になった経歴を持つ。その過酷な子供の頃の生活を
「10歳の放浪記」と題して本にした。あまりにも悲しい過去のため出版は躊躇していたが、
出版社から「いじめ問題や親子問題が多い現実にひとつの警鐘を」とくどかれ思い悩んだ末、
出版したという。この本を忠実にドラマ化したのが、TVの内容であった。
 ーその大筋を書いてみるー
不動産業をしていた父が事業に失敗して一家は離散。父と東京・池袋の簡易宿泊街で暮らした。
酒浸りの父に代わってパチンコでかせいで夕食にありつく毎日。
高度経済成長期の昭和35年の頃の、学校に行けなかった1年間の生活を淡々と描写してある。

父とふたり、池袋のドヤ街でその日暮らしをしていた彼女を支えてくれたのは、街で出会った
パチンコ屋の兄さん、やくざのお兄さん…など普通の人々である。弱者に対して優しかった時代であった。
そこは池袋駅西口を背にして左に数分歩くと、東京芸術劇場がみえてくる。
目的地はその斜め向かいにあるホテルメトロポリタンだ。そこには1泊100円の簡易宿泊所があった。
昭和35年、小学5年生上條は、当時43歳だったその日暮らしの父親と2人、やむなくのホームレス生活。

10歳という年で、道にお金が落ちていないか、道をさまよい、パチンコ屋の前で玉を拾い、パチンコをする。
1個、2個、3個と球が無くなり、4個目にチュウリップに入り玉が出る。
5個目の球が、途中でひっかかると、隣のおばさんが「このスイッチを押すと店員さんが来てくれるよ」と、
教えられ、ブザーを押す。そこの店員が機械が壊れたと思い「どうしたの」聞いた。
さなえは自分がどうしたのかと聞かれたと思い 「お父さんが病気なの」とかぼそい声で答えた。
それを聞いた店員は気の毒に思い、多くの球が出してやる。さらに金に換える方法を教えてくれた。
教えられて行った景品屋のヤクザが同情して、高い値段で買い取ってやる。
それから毎日、パチンコに通い、生活を支えた。 しかし、ついに父が言う、
「なぁ、なこちゃん、父ちゃんお前を育てるのに疲れちゃったよ」「なこちゃん、死のうか」 
しかし、「子どもって、かなしいよね。大人に決められたら逆らえないし、 どんないやなことだって、
がまんしなきゃならないもんね」「でも、なこちゃんは幸せだよ。お父さんも、お母さんも、
お姉ちゃんも、いるから」。 いつも友のこの言葉を反芻(はんすう)し、壊れていく父を励まし、生き抜く。