四四太郎の霊日記 -14

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ところでワシは御主に言っておきたいことがある。
御主の祖先を辿ると鮫ヶ城の城主の堀井宗親というが、あれは間違いじゃ。
あれは堀江宗親であって、堀井ではない。四四太郎のワシは堀江の家臣の一人でしかないのじゃ。

あとでよ~く資料を調べてみるがよい。
御館の乱」か「鮫ヶ城」で調べると、その辺のことが詳しくかいてある。
そんなものは、どうでもよいことだが、あの裏切り者の汚名の城主が祖先でなくて良かったということじゃ。 確かに、裏切って影虎を自殺に追いやったまでは良いが、その後武田の没落で影勝の立場も
微妙になり、ワシ等も何時危なくなるか判らなくなり、片貝式部殿を頼って小千谷の郊外の池津の村に
お世話になったのじゃ。 田畑は14反をあてがわれた。 まあ、ほんの前の出来事のようじゃ。 そこで、百姓をしながら生き延びることが全てであった。 とはいえ、それはそれで激しい人生であった。

元々、侍とはいえ、百姓侍だったから、百姓をすることには何の抵抗はなかったのじゃ。
残った親戚も、お互いにいがみ合い苦労をしたと風の便りに聞いていたから、新井の土地を離れたのは
正解であった。 生きるのは、4百数十年前も、御主の生きている時代も同じことじゃ。
いや、一つ間違えば殺される当時からみれば、今など刺激は少ないくらいである。
当時は、それこそ小さな世界で小さくなっていなければならないのも辛いことじゃった。