ドキュメント ~「モーガン・フリーマン 時空を超えて」

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   * テーマは「この世界は仮想現実なのか?」
◉ 老い先短い時節に至り、圧倒的に多い過去を慈しむ時間に、これまでの行蔵を
見つめ直すことが多くなっている。昔、住んでいた住居の近くを通り思うことは、
往年の悩んだ心の傷や、腹を抱て笑ったのは何だったか?などを考えると、当時、
自らを包み込んでいた世界は、仮想現実でしかなかった?と思うと不思議な感覚
になる。 あと5年~10年があるかなしかの先からすれば、これまた夢幻… 
…だったら、同じ一日を面白可笑しく生きた方が良いが、そこに残るのは虚しさ。
何ごとも夢幻、共同幻想でしかないのは他者を凝視すれば、容易に理解できる。
◉ 300本のブルーレイの録画に『モーガン・フリーマン 時空を超えて』があった。 
人生74年を振返ればアッという瞬時でしかない。 世界の片隅で、ほんの僅かな
ことしか知り得ない。その小さな経験、知識で膨大な宇宙と、世界を垣間見て、
それが全世界と信じて疑わない。それは仮装現実でしかない。その小さな知識・
常識が分厚く自らを覆い新鮮な感受性を歪ませる。 一々、小難しく考えること
なく、大方の人は、何も気づかず人生を終える。
  
  ~番組紹介~
≪ 俳優モーガン・フリーマンが案内人となり、空間、時間、生命など宇宙の
 秘密に迫るシリーズ。今回は、生命には何か究極の目的が存在するのかを
さまざまな角度から探る。
 私たちが今ここに存在することに理由はあるのだろうか。
生きる意味は何なのか。 ある進化生物学者は、数十年におよぶ実験を実施。
生きることの意味を進化の観点から説明する。生命の本質はアルゴリズムだと
主張する物理学者も登場。多種多様な進化は、周囲の情報をより効率的に収集
するためだと考えている。生命が存在する理由、そしてその究極の目的を、
さまざまな科学的アプローチで探っていく。≫
  ~あるビュアーの書込みが解りやすい。
≪ …印象に残った個所といえば…
◉ 「映画「マトリックス」のように、この世界は仮想現実かもしれない」
「もしすべてがプログラミングされているとしたら?
 さまざまな科学者が展開する、奇抜な理論を紹介する」
アメリカのある哲学者は、我々は子孫のコンピューターの中で
 生きているという可能性を指摘している」
「あるコンピューター科学者は、わずか10行程度のコンピューターコードで、
 全宇宙を動かすことが可能だと主張する」
「この世界がコンピューター上のシミュレーションではないかと考える
 理論物理学者もいる」
「この世界は仮想現実なのか、あらゆる側面からその可能性を探る」
 と紹介されている。
 ―
◉ 宇宙の始まりや未来を考えた時に、人生で苦しみを味わったときに、
おそらく誰もが一度は考えたであろう事。「自分がいるこの世界は作られた
空想の産物で、この世界の外側にそれを作り出した存在があるのではないか」
「そう考えれば世の中で起きる不思議な現象も理不尽な世界も納得ができる」と。
でも現実は無情にも現実で眠りから覚めると前の日の続きから始まる。
過去に起こった事実は変わらない。でも、もしそれが作られた仮想現実だとしたら、
それはそれで恐ろしいように思える。人生は悲しく辛い事ばかりではない。
「楽しかった思い出」や「面白いと感じ夢中になった事」もプログラムだった
では、それはそれで悲しい。 昔、何かのテレビ番組で見たことが思い起こされる。
それは将来、温暖化などで人間が地球に住めなくなる事態が目前に迫ったとき
「人間の意識をネットやコンピューターに移植する」というもの。
実体は無くて、そこにあるのは電気信号とそれを伝えるための機械だけ。
機械の中で電気信号と化した意識が思いめぐらし何かを感じる世界。
ただ、番組の予告を見ると そんな奇想天外な事を本気で考えている科学者が
いるように思える。
 ―
紹介文の一つに『我々は子孫のコンピューターの中で生きている』とある…
このキーワードからは以前のテーマ「宇宙は永遠に続くのか」の中で語られた
「現在は未来からの投影」が思い出される。そこでは、未来は既に存在して
いて現在や過去はその投影でホログラムのような存在だとする説。
☆ こちらの記事もいかがか
 >>「宇宙は永遠に続くのか」>「現在は未来からの投影」
ただ「祖先が作ったコンピューターの中で」なら、あながち ありえなくもない
と思うが「子孫が作ったコンピューターの中で」なら、その子孫はどこへ行った
と仮定すればつじつまがあうのか?
もし、この世が仮想現実だとしても「仮想現実の外の世界を知るためには
仮想現実世界の殻を破る」ことが出来なければ知る由もない。
この「外の世界を知る」がキーワードになるなら以前のテーマ
「宇宙人も神を信じるのか?」の中の[宇宙の全てを知りうるのか?]が思い出される。
自分たちの存在より大きなものを知るには「より大きなものを知らなければならない」
とする説。
☆ こちらの記事もいかがでしょう
 >>「宇宙人も神を信じるのか?」>[宇宙の全てを知りうるのか?]
科学者は真剣に仮想現実と外を結ぶゲートの様なものが存在すると言うのだろうか。
番組にどんな科学者が登場するのか興味が湧く。
 
 ――
▼ なかなか広くて深い問題。せっかく選ばれて地球旅行に来ているのだから、
 早々に可能な限り、地球を観光するにこしたことはない。 知れば知るほど、
見れば見るほどに、この地球に興味が湧いてくる。 80年では全く足りないが、
それでも分厚いサングラスを外して、見るべき一部は見たつもりだったが、それ
さえ幻覚、幻想… 仮想現実でしかない。 それでも充実し、面白かった。
 もし、この新型コロナで死ぬとして、人生を振返ると、なんと歪んだ人生と
我ながら思うしかない。それを白日にさらし、自ら知り得ただけでも充分と…
ここに… 「現在は未来からの投影」とあるが… 未来は既に存在していて、
現在はホログラムのような存在」とは、世界は仮想現実のべつ表現になる。
プラトンの‘現実は洞窟の背後の投影の影絵’と同定できる…!

・・・・・・
6595,閑話小題 ~つれづれに哲学 ~考えましょうよ
2019年04月06日(土)
   * 一番の重労働は、「考える」ということ!
 ブルームバーグの言葉… 
<考えるということは、あらゆる作業の中で一番の重労働なのですが、そこを
 省いてしまう人が多い。そこを楽にしようとしても、何も手に入らない。>
何ごとも、利益の源泉となるのは、肉体的な労働で汗をかくことでなく、物事を
効率化できる仕組みや方法を考えること。 その為には、まずは絶対量の読書
の確保から、その質を高める生活習慣が必要となる。それを確保するために、
早朝の多くが寝入っている時間帯と、移動時間などの豆(隙間)時間の活用から
始めることが第一歩。人は経験と、触媒の範囲からしか、考えることはできない。
烏合の衆的集まりとの触媒は、「独りに徹して考える重労働」を放棄した人の
群れのため、表面的付き合いに陥ってしまう傾向が強い。「哲学とは、考える
ことを考える学問分野。 早々に、ベースに組込んでおく必要がある。
世間話だけで生きている9割方の一員として、些細な世事の判事、検事、弁護士、
時には被告、訴追者になり、それしか知らない世界で、現実の世界に溺れた
土左衛門として生涯を過ごす。昨日録画をしてあったギャング映画で、
殺し屋の呟きが強烈であった。 大雑把だが… 
<黙っている奴に気をつけろ、奴らが何を観察しているか、何処に注意を向けて
いるか、何を考えているかに全神経をはる訓練をすること。そして黙ること!
沈黙、孤独、目立たないこと。いざ、行動の前に、考えて考えて考えること。
そして一度、決定したら怒涛の如く実行することさ。それ以上に、断念の決断も。>
考えることを、「働き」「遊び」「学び」の何処に重心を置くか、その三位一体
とみるか。まあ、考え過ぎて、捩じれた己が脳も問題もあるが、考えないのは?
 たしかに、「考えるのは重労働」。 でも、面白くして軽減することは可能。
「バカな考え、休むに似たり」があるが… 「バカ考え」を考えている内に
己がバカに気づくだろうから、考えないより、まだマシ? いや、その分、
他を楽しめるはずだから、ボーッとした方が、周囲の迷惑にならない? 
 
 後記: これまた偶然だが、以下の内容が、丁度、脈絡として続く。
    ふと見ると、昨日、図書館で借りてきた本が
   『人生の9割は逃げていい。』井口晃著 があった。次回のテーマ?

――――
6232,閑話小題 ~逃げろ、生きろ
2018年04月06日(金)
              <「群れるな」寺山修二著>
   * 逃げろ、生きろー 『旅の詩集』より
 強烈なインパクトのある文章である。
誰の心の奥底には、生命が進化してきた過程に、あるいは、「若気の至り」
による原罪が隠されている。その「若気の至り」の儀礼通過をしてない人間を
私は信じないと下ネタ女流作家の言葉があって。 寺山は、アメリカで、これを
目にして、逃げた奴隷は、今でも逃げ続けているのだろう、そして「逃げろ、
生きろ」と思ったと… 
 
≪ アメリカへ行ったときの話をしよう。私はケンタッキーの旧家に民宿し、
 チャーチル・タウンで行われるケンタッキー・ダービーの開催日を待っていた。
 夜中に停電があって、庭では犬が吠えていた。女主人はもう九十歳を過ぎていた
ので、私がかわって、地下室にある配電盤をたしかめにゆくことになり、燭台を
もって石の階段を下りていった。私はそこで、思いがけぬものを見出したのだった。
  「逃げたわが家の奴隷をさがしています 懸賞金つきです」
それは卒業証書か何かのように、額に入っていたが、中には一人の黒人の写真が
入っているのだった。写真の中で、黒人は笑っていた。私には、この埃をかむった
古い手配書がどんなドラマを秘めているのかよくわからなかった。
おそらく、事件の核心にふれるためには「アメリカの歴史」にまでかかわって
いかねばならないことだろう。
しかし、逃げていった一人の黒人は、(百年の時の経過を超えて)いまでも、
まだ、シカゴかマンハッタンのハーレムにかくれているのではないか、という
気がした。かくれている黒人は、ときどき、このケンタッキーの家のことを思い
出すこともあるだろう。夏に咲く花のことや、喘息病みの女主人のこと。
そして、一度逃げはじめたものにとっては「逃げる」ことが生きることになり、
どんな充たされた場所や条件を与えられたとしても、定住すること自体が桎梏
であるということに気づき、「永久逃亡」のほかに、生きるすべがないという
ことを悟るのである。≫


▼ 昔みた重い夢の話をしよう。私が、強姦をして山の中に埋めた殺人者本人に
 なって逃亡している夢である。前もっていうが、〈男の多くが、この類の夢を
みている〉ことを、あるフロイト系の本で知ったが、当時は全く知らなかった。
その夢が連続したドラマになって、毎晩のように続いていたことがあった。
そう、アメリカのTv連続ドラマ『逃亡者』があった。それもあって、この内容に
異様に反応したのだろう。私は引き際は心得ている。これが私の特徴でもある。
 7年前も! その30年数年前も然り。昔みた夢の殺人犯が、自分自身の心底に
ある原罪である。 良くいえば、自己配転、予定挫折。悪くいえば、「逃走」
になる決断。それに対峙する私に、「逃げろ、生きろ!」と、絶叫する誰か! 
「永久逃亡」しか、生きるすべがないのが人間。若い時、勤務先の老いた夜勤の
(太平洋戦争の生残りのパイロットだったという)オジサンに言われた一言。
 「黒い影が見受けられるが、何に追われているの?」。 今から思うと、
「自分の理想の影」。青雲の影である。今でも、逃げ回っているのだろう。
無知蒙昧のバカの影である。面白いのが、他者の陰影の重なり。殺人逃亡犯が、
逮捕をされ、監獄で大イビキを書き、寝入っている日々? 
 ここで、「捨てる」ー『書を捨てよ、町へ出よう』に対する某・書評が良い!
【 一つの時代に、詩人がいた。その詩人は、ライスカレーの幸福に安逸する
サラリーマンに嘆息し、生活を極貧の底に落とす程に全てを捧げてでも
マセラティイタ車)を買えと、平均を逸した極点を持てと言った。詩作も、
競馬も、自殺も、その手段だ。時代を捉える言葉がある。社会評論家が語る
無味乾燥な「分析」ではなく、例えば文学の中にポロッと出て来る、その時代に
おける「いま、ここ」を捉える言葉。それはもちろん、僕たちの「いま、ここ」
ではない。しかしご存知の通り、そのかつての「いま、ここ」は、時に千年の時
をも耐えて語り継がれることもある。】

・・・・・・
4403, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ -3
2013年04月06日(土)
        『 隠居大学ーよく遊びよく遊べ 』天野祐吉、お相手
* 第二時限 「ゆっくり急げ」 外山滋比古講師
   ー人生二毛作の進めー
 二期作二毛作の違い、「二毛作は、ひとつの耕地で、一年で種類のちがう
作物を二度栽培すること。二期作は同じ作物を二度栽培をすること。
人生においては、二毛作をすべし!」と、「ゆっくり急げ」が御隠居の要。
 そのために、これまた長年かけた準備が必要になる。土壌は今さら変える
ことは無理。ならば移住するか、その土壌に合った新しい作物を長年かけて
用意しておかなければならない。  ーその辺りを抜粋するー
≪ 外山:わたしもそうですが、長いこと組織の従業員をやってきた
 サラリーマンの場合はですね、それまでの価値観を、いっぺんひっくり
返さないといけません。前半の人生ではだれかに仕えていた人も、後半の人生
は自分が自分の大将になり、自力で道を歩むための新しい志をかかげなければ。
そういう意味で、この隠居大学というのは、たいへん面白い試みですね。
天野:あまり実践的でない大学ですが、気楽におしゃべりで、いろいろな
隠居の楽しみ方を紹介する遊び場になればいいと思っているんですよ。
ところで、外山さんの『「人生二毛作」のすすめ』、すごく面白く読ませて
もらいました。二毛作っていうのは、ひとつの耕地で、種類のちがう作物を
二度栽培することですよね。たとえば、春から夏にかけて稲をつくったら、
二回目は大豆や麦なんかをつくる心つまり隠居の楽しみというのは二毛作目の
ようなものであって、前半の人生と同じものをつくったんじゃ面白みがないと。
外山:そうそう。人生も折り返し地点に来ると、価値観というものがおおむね
 逆になります。そもそも、前半で立てた志というのは、学校出て就職したら
ある程度の方向が決まってしまうようないいかげんな志です。わたし自身も
そうでしたが、いちどエスカレしターに乗ったら、自分の力で歩かなくても
成長しているような気になって、それでは本当に生きてきたといえるかどうか。
天野:もし二毛作にチャレンジしなかったら、どうなるんでしょう。二期作
 いうのかな。前半の人生と同じものをつくる。たとえば、定年を迎えたけれど、
嘱託社員として会社に残って、空いた時間で好きなことをするというような・・
世の中には、そういう隠居スタイルの人もいると思うんですけど。 
外山:いや、それはエセ隠居です。高級官僚の天下りがいい例です。二毛作
 をやるのは面倒くさいし、自信がないから、とにかく一毛作の延長で行こう
としがみつく。そんな甘い考えではいい年寄りになれません。といってもわたし
もね、少々まわり道をしたんですよ。大学で教師をしていたんですが、最初の
勤め先を定年退職後、もう一度別の学校に勤めに出たが、がよくなかった。≫
▼ 私の長年の友人は、ほぼ二毛作の人生を過ごし三毛作の人もいる。
 転進すべき節目時に決断している。情報を持っていたのである。逆に一毛作
でハッピーエンドだったら、小さな畑で隣の田畑と比べるだけの水平の人生も、
それもご愛嬌。 価値観の転換など関係のないのも、これも人生。
死んで三日も経てば、みな同じ。あるのは?永遠の虚空だけ!
・・・・・・
5500,閑話小題 ~『男って、定年になったらいらないのよね!』~③
2016年04月06日(水)
          『老いかたレッスン』渡辺淳一著 より
  * 70歳代、特に後半は、すざましい!
「70歳代、特に後半は、すざましい!」は、医師である著者からみて、私の
同世代からみて、充分に頷ける。 数ヶ月前に70歳代になって感じたことは、
「(3年を見据えた)一年単位でしか、人生計画を立てられない」という実感。
後方から迫ってきた己の死が、真正面から迫りくるような感覚は、やはり60歳代
とは、全く違う。 人生の峠から見えてきた風景も、寒々としてきた。 
  ~その辺りから~  
≪ 六十代で運動して、体力をつけるのも悪くはないが、外に出てさまざまな
 人と触れ合い、話し合うのは、それ以上に明るく、若返らせるはずである。
 そして七十代、これはなってみて改めてわかるが、すさまじい世代である。
すさまじいとはなにか。これをあえて具体的にいうと、日々、確実に老いて
弱っていく年代、とでもいおうか。
 その前、六十代は老いるとはいえ、まだ鍛えようによっては伸びる、
強くなる余地もないわけではなかった。しかし、七十代はすべて下るだけ。
あれ、こんなことができなくなった、これも無理かと、不可能なことが増える
ばかり。といって、努力しても無駄。 かくして、ここからは「諦めの時代」、
老いてやがて死ぬ、そのための準備期間といえなくもない。
 こう書くと、人生の末期、暗いだけの時代、と思うかもしれないが、
そうともいいきれない。 このすべて終わりに向かって傾き出す、このときに、
とてつもない発想にとりつかれ、動き出すことがある。 たとえば、突然、
動物や植物に異様に熱中したり、今迄と全然、別の仕事に全力を注ぎこんだり、
激しい恋に溺れたり。
 七十代の高齢者とは思えぬ、激しい行為に熱中する人が少なくない。
そう、わたしも七十代後半になって、突然、自らの不能、インポテンツに
ついて書こうと、思いついたけど。これも、七十代の狂気かも。
賀寿のなかで、七十七歳を喜寿としているが、なにをやらかすか知れない、
狂寿としたらどうだろう。とにかく人生、長く生きてみるとそれなりに
妙味に富み、面白いものですよ。 ≫
▼ 夜半に目が覚めて、フッと自分の死を考えることがあるが、ここにきて、
 それが、リアルなフラッシュの塊と、生きてきた人生が小さな丸=(。)
に凝縮して、それが更に点(.)になり、無限の極小になり、消滅していく
イメージが出てくる。 そして我に返ると、その微小の人生が愛しく思える。
その点の中には、両親、亡くなった兄姉、因縁のあった知人たち、恩師が
リアルに生きている。そして行蔵が詰まっている。 我が人生、万歳。
我が両親、万歳。我が恩師、万歳。我が因縁在りし恩人たち、万歳。
残された人生に、万歳。 考えてみれば、『人生はそのものが狂寿』である。
「誰の?」「すべての!」 だったら、せめて心の底で、狂喜乱舞したら?
考えたことが無かった? なら、考えてみたら! 考えている? 本当に?
バカバカしい? バカになってみてから言ってみたら! で、『男はつらいよ
を見たら!「泣いても笑っても、同じ空」。「狂っても正気でも、同じ空」。
「エライコッチャ、エライコッチャ、同じアフォなら踊らな、ソンソン」か。
それが面倒だから、ウタタネ寝をしている。それもありか! で、残された
時間を、どうしようか? うたた寝で、心の中で狂喜乱舞か、これまでの
人生で培った材料を駆使して、燃焼するか? それもこれも、今さらか。
・・・・・・
4770,ぼんやりの時間 ー3
2014年04月06日(日)
           「ぼんやりの時間」辰濃 和男(著) 
  * ぼんやりと過ごすために ―その時間と空間
次の問いかけー「むだな時間」はむだか?ーの問いが考えさせられる。 
  まずはーアマゾンのレビューよりー
《 ミヒャエル・エンデの傑作「モモ」の主人公は「ぼんやりしている時間」
 を大切にする少女だ。・・ エンデの作品は、時間泥棒の「灰色の紳士たち」
が、人々から「時間」を奪っていく物語だ。むだだと思われる時間を奪われた
人々の暮らしはどうなるか。それが「モモ」の主題だ。ぼやーっとしている
時間はそれこそ、むだそのものだ。効率至上主義者はそう言うだろう。
むだな時間を幾ら重ねても何の稼ぎにもならない。灰色の紳士たち、つまり
時間泥棒たちは、人々の心に忍び込んでは「むだな時間」を節約し、その分を
『時間貯蓄銀行』に預けなさい」と誘う。銀行に預けられた時間は、すべて
灰色の紳士たちが生存するために使われてしまう。いわば詐欺そのものなの
だが、人々は詐欺とは気がつかず、せっせとむだな時間を削っては、その分、
自分たちの生活を貧しくしてゆく。モモは何処からかふらりとその地にやって
きた少女だった。土地の人たちの好意で、古い円形劇場跡の一角に住まわせて
もらう。少女は、夜空を眺め、夜空の発する「荘厳なしずけさ」をひたすら
聴くのが好きだった。モモにとっては、このぼんやりの時間はけしてむだな
時間ではない。宇宙の静寂の中で時を過ごすと言うのは、モモがモモらしく
生きるための、大切な時間だった。夜空を眺める時間を持つことで、モモは
「荘厳なしずけさ」を感ずることが出来たし、何よりもそういう時間を持つ
ことで、曇りのない目を持つことが出来、灰色の紳士たちのインチキを見破る
ことが出来るのだった。かなしいことに、私たち現代人は、夜空をしみじみと
仰ぐ習性からしだいに遠ざかっている。利潤、効率、管理、豪華さ、スピード
とか、そういうものを生活の拠所とする人々が増え、夜空を眺めるなんて
無駄なことだ、と思う人が増えてきた。しかし、そのむだは本当にむだなこと
なのか。そういうむだがあるからこそ、生活はむしろ、ゆたかなものになって
いるのではないかとエンデは問いかける。》
▼「モモ」の時間が、何か日本人の預金のように感じられる。それを狙った
 偽札が、米国と日本の国債の紙切れ。国内に不安を押し付け、さほど多く
ない収入から、年金をかけさせ、預金をさせ、それと国債を交換するシステム。
その国債の価値の上げ下げの決定権も当然、彼らが持っている。金融工学など
の言葉は詐欺工学と言い換えてよい。おちおちしていると全てを失ってしまう。
豊かさには、お金など資産と、知識と、品性と、時間などがある。
その中で、一番に大事なことが、それぞれ平等に与えられた時間である。
だから、ぼんやりすべきか?、ぼんやりしてないで、有効に使うか? 
その人により違ってくる。ぼんやりの時間は、自然瞑想に近い心の状態では
ないか。『よく働き、よく学び、よく遊べ、しかし時どき、ボ~ッとした
時間を持って、それを味わいなさい!』という。