映画観賞 ~『パラサイト』

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        ~シネマ 『パラサイト/半地下の家族」―01・10(金)ー
   * 凝縮された貧富の格差
 極貧家族と富豪家族の社会問題の表裏を凝縮してみせる味わいある?映画。
学生時代の苦学生の寮と、ミッション系の学園の二重生活の経験があればこそ、
その対比が実感として理解出来た。失業中の親子4人が富豪の家庭に、身分を
偽って入りこむプロセスや、パラサイトの実態が、韓国的で何とも。
 ー
≪2019年・第72回カンヌ国際映画祭韓国映画初のパルムドールの受賞作品。
キム一家は家族全員が失業中で、その日暮らしの貧しい生活を送っていた。
そんなある日、長男ギウがIT企業のCEOであるパク氏の豪邸へ家庭教師の面接を
受けに行くことに。そして妹ギジョンも、兄に続いて豪邸に足を踏み入れる。
正反対の2つの家族の出会いは、想像を超える悲喜劇へと猛スピードで加速して… 
思いもよらぬ事態が起こる。≫
 ―
▼ 世界共通の直視できない“貧富の格差”の問題。資本主義の価値基準が
 現実は一度お金に換算して身分の優劣をつける社会背景が厳然と存在する。
それが情報化で辛辣に表て立ち、様ざまな問題が発生する。 グローバル化
弱肉強食を、更に押しすすめる。
 最近YouTubeでみたのがシリアスな場面の実写。 警官2人に、法務局員が、
家の差し押さのため、老夫婦と中年夫婦を立ち退かせる一連の映像。数人の
撮影者が、記録のためか、その一部始終を撮影する。筋肉隆々の男と妻が最後
に警官2人に捻じ伏せられ、後ろ手に手錠をかけられパトカーに押しこまれる。 
その前に麻酔銃を撃たれた男が狼狽える姿も。 何度も聞こえてくるのは、
『マイ・ハウス』の中年夫婦の声と、行場のない中高年の一家の極限の姿が。
一つ間違えれば、私も陥っていたかもしれないため、尚のこと同情目線になる。
あとは、浮浪者になるしかない厳しい近未来が待ち受けている。考えてみれば、
私もパラサイト? 奥のPC前と、寝室に追いやられ、家庭内格差そのもの。
 『男はつらいよ』そのもの? 酒と肴を求め独りスーパーを流離うしかない。
面白いさは、この上無いが… でも可哀いそう? 何ごとも慣れてしまえば
 生活満足度が90点?なら、まあ良いか。 

・・・・・・
6514,閑話小題 ~何かしら、嫌味なブログ脳になってしまった?
2019年01月14日(月)
   * さて大相撲が始まった
 昨日から、大相撲が始まった。一時半過ぎにチャネルを回すと、幕下の取組
だったが、何と『この一番まで打ち止!』まで見ていた。長い相撲のTV観戦で
初めてである。それも高校女子バレー、女子ジャンプなどと同時観戦で、一番も
見逃すこともなく… 貴乃花が協会から去って面白味が薄れた感がある。本人は、
サッパリしたのだろうが、元弟子たちの手前、間違っても、口に出せない本音。
 ところで現在の上位陣にスター要素の強い力士が見当たらない。白鵬の天下が
長いこともあり、相撲協会の土壌が腐りかけて…? 白鵬はオリンピックまでの
現役維持のため、休場と優勝を繰返す戦略が見え見え。それは勝負師として当然。
そして休養タップリで今場所は優勝の可能性が大。41回の優勝経験は伊達でない。
ところで元貴乃花の愛弟子を日馬富士の復讐と、暗黙裡のうち、身体の何処か
一ヶ所を集中攻撃をされ潰される可能性が大。気の毒だが、そんなもの!
 ―
   * 何かしら、嫌味なブログ脳になってしまった?
 ブログを書き続けて18年近く、6500のテーマを書いてきて、「ハッ」とし、
自己嫌悪に陥ることが多くなってきた。 あるブロガー曰く、
「ブログってのは、突詰めると自慢話なんだよ…」 
何かしら面白そうな、受けそうなテーマを探しだし、自慢げに提示する。
旅行の感想を書けば、旅行自慢に。中学の同期会で、久々に知人に会って
話す内容といえば、
<18年欠かすことなくブログを書いていてね>とか、
<40,50歳代に年2回。その前後に12回、52回、豪華1点主義でツアーに行った> 
とか。テーマ日記書きの習性で時分を曝け出す。それしかないから、それをいう
が、聞く方からして、「何だ、いきなり」となる。自分の自慢話の曝け出しも、
程があるが、そんなことを気にしていたら、18年も続けることが出来ない。
相手あっての自分。ブログ脳が醸し出す偽悪、偽善、露悪、露無知に、時どき、
底知れない自己嫌悪に陥ることに… 自問自答の世界のドツボから、自分の
無意識を覗き込み、自己嫌悪を勝手にしているだけのこと。40年も前のことに
なるが、仕入れで岐阜から名古屋に向かう普通電車の中に、精神をやられて
青年が独り言が、今でも鮮明に残っている。前の北海道旅行をしたが、その
面白かったこと。そして、友人の批判… そして、自分が変であるのは分かって
いるが、コントロール不能とか、延々と自己問答が続く。車内は、シーンとして
凍り付いたように。 このブログの自問自答と、何が違うというのか?
 で、偶然だが、丁度よい文脈になる。

・・・・・・
6149,閑話小題 ~熊さん、八つぁん、珍問答、再び -3 
2018年01月13日(土)

* 書きネタが無いと、御呼びですか!
大家さん: 書きネタが無くなると、御呼びですか。仕方がないがね。
熊さん: 北朝鮮が、オリンピックに参加だってさ。有得ないと思ってたがね。
寅さん: 精一杯の虚勢さ。まあ、物資不足は明らかだこそ、ここが土壇場。
    国そのものが張りぼて。よくぞ、やってるよ。そろそろボロが出るさ。
大家* 中国が、本気になってきたからね。そこに、韓国が抜け駆けをして、
   オリンピック参加の勧めの尻尾振りをしたから、アメリカと中国は動転?
   韓国も開戦ともなれば、百万、二百万の死者も出るから、解るがね。
八っあん: この時節に冬季オリンピックとは、何でまた?の疑問が残るね。
   ここまでは、手を出せまいという思惑のためですか。
熊さん: これほど辛辣な挑発を繰返したのだから済やしないよ。
寅さん: 何かマンジリしなかったが、数ヶ月の猶予期間を稼げただけでも
   良しじゃないかい。ただ間延びをしただけだと思うけどね。
八つぁん: どうも私たちの心の底には、最悪の事態を期待する悪魔が存在
   しているところがあるね。アメリカ人なら、まさか大陸間核ミサイル
   が飛んでくるとは思わないから、今のうちにヤッチマエと。
熊さん: どうも朝鮮半島問題は暗くなるから、大相撲の話題にしましょうや。
   といっても、これはモンゴル人問題になるか。 …でも気が晴れるね。
大家さん: 朝青龍白鵬が長年かけてつくり上げた「横綱アドバンティジ・
   システム」が、露わになり、使えなくなったから、今までとは違うよ。
   これは八つぁんが創った造語だけど、ズバリ言当てているね。
八つぁん: それでもやってくる可能性があるね。貴乃花の母親に手紙でも
   出して、バラエティで10回、このキーワードを繰返せば、ポチとはいえ、
   立合いの張り手を禁止条項にせざるを得なくなるね。
熊さん: 「横綱アドバンティジ」の実情を聞いて、白鵬と遠藤の立合いを
   見てから、白鵬への見方が全く変わったよ。 大陸と島国の考え方、
   体質の問題になるよ。開放したのだから…云々か、日本の国技だから、
   島国用に合わせなければならないとか…。確かに難しいのは解るけど。
大家さん: 白鵬への大横綱とかいう特別視が無くなったのは大きいね。
   新弟子からして誰も偉大な力士と思わなくなってしまったのは、本人に
   とって衝撃さ。でも、その孤独こそ、最も大事なことだが、その自覚は、
   逆上せガエルになった当人には、土台、無理だろうね。
八つぁん: 今場所は、色いろな面で面白いだろうね。大鵬の孫もデビュー
   するしね。ところで、先日、元・琴欧州が開いた小部屋のブルガリア
   の新弟子のドキュメントを見たけど、一人の新弟子の稽古の激しさが
   直接、伝わってきたね。土俵の中でのド突きあい、殴りあいだね。
   あれじゃあ、強くなるわけだ。
大家さん: 私も見ていたが… 他の部屋の幕下力士が「御前は気が弱い!」と
   注意していたのが、本人には堪えたようだね。「自分は東欧から遠来して
   いるだけでも気が強いはず。何で気が弱いと言わなければならないのか!」
   と…。 幕下力士は、「気が弱い」と、「気が優しい」の言い違いを 
   していただけ。気が優しいのは、気が弱いとは、違うのさ。
熊さん: こういう問題があるからこそ、面白いんだよ。白人、赤、茶色の
   人種が肌の色を超えて戦うからさ。俺も、哲学的になってきたね。

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4687, エッセイ力は人生力 ー2
2014年01月13日(月)
              「60代からのエッセイ教室」木村治美
  * エッセイを書く目的と、日記との違い
    ーまずは、その辺りの抜粋より
《 あるエッセイ教室の作品集を読んでいたら、はからずも、エッセイを書く
 目的を端的にいい当てた文章に巡りあった。その文章は創刊号であるためか、
おのおの、自分の作品のあとに、小さなコラムで、なぜこの教室に入って
エッセイを書くようになったかの動機を綴っている。ひざ思わず膝を打ちたく
なったのは、つぎの一文であった。「エッセイを書こうと思うようになったのは
十年前のこと。それまでは、日記に思いを記していた。心の重荷をおろすように
書いていたが、後日、読み返すと、もっと心が重くなった。物事の見方、人の心
の動きを観察することで、誰が読んでも傷つかない文章を書きたくなった。
きれいごとのとらえ方ではない。考えることで、自分を成長させたい」
 ここにはエッセイが日記と異なる点が、自分自身の体験から、明確に意識
されている。感動的ともいいたい鋭い「気づき」である。エッセイには自分自身
がどこかに登場していなくてはならない。しかし難しいのは、書いている自分と、
書かれている自分との間に、距離をおくことである。自分を他人のように
客観視すること、といい直してもよいだろう。日記ではこの客観化がなされ
にくい。恨みも痛みもドロドロのまま流しこむ。恥も外聞もなく。どうせ自分
以外に読むひとなんていないのだから……。しかし、「後日、読み返すと、
もっと心が重くな」るのはなぜだろうか。日時がたったことで、やや他人に
なった自分が読むからである。おそらく、書いたのが自分であるだけに、
ヘドが出そうになったであろう。自己嫌悪である。そこで、「だれが読んでも
(つまりあとから自分が読んでも)傷つかない文章を書きたくなった」のである。
それには、教室という読者のいる環境で、「物事の見方、人の心の勤きを観察」
しようと思い立った。それが自分を成長させる。そう、日記は記録とはなり
えても、以上に述べたような効能は期待できない。・・・ 》
▼ この随想日記の「閑話小題」は、エッセイそのもの。だから読書日記の
 メモ的のものより面白い。これを書くときは、ネタ切れのケースが比較的多い
ため、苦し紛れで日常の身近なことを書くしかない。それが面白みを出すようだ。
だから、何気ない日常の現象と気持ちを書いている「バードウォッチ」の内容
こそエッセイになっている。そのため、時どき、切り取って、「閑話小題」
に転用する。何気なく思っていることを書き出すと、ハッとすることがある。
人はそれぞれの心の中で様ざまな思いを数限りなく繰り返しているが、
そこにこそ砂金が混ざっている。それを取り出し、書き出すのがエッセイの目的
であり、日記との違いになる。日記は他の砂も含まれるし、それも必要とする。
・・・・・・
5052,生と死をめぐる断想  ー5
2015年01月13日(火)
            『生と死をめぐる断想 』岸本葉子(著)
  *「いのち」に「わたし」がいっとき宿る ~玄侑宗久
而今」とは、今のつらなり。あるのは「今」「今」「今」だけである。
 禅とは、この「而今」を繰返づことで、「わたし」の輪郭を薄くする行。
成るほどである。今、この瞬間が永遠のときの一端がある。
瞑想は「わたし」という「閉じた系」から「いのち」を開放するものだと。
  ーその辺りから抜粋ー  ~P90
≪ 暗唱をしているとき意識は「而今」にあると、玄侑氏は言う。
而今」とは目的論も因果律も届かないような、三昧にある時だそうだ。
たしかに、すでに口から出て過ぎ去った音を意識が追いかけたり、
次に出す音を頭の中で先取りしたりすると、とたんにつかえる。あるのは
常に「今」「今」「今」。音の連なりは、すなわち「今」の連なりである。
暗唱をするとき、その間だけでも「而今」を体験している。(略)・・ 
 玄侑氏も認めている。人間である限り「わたし」を完全に「なくす」こと
などあり得ない。であるからこそ禅は「而今」を繰り返すことで「わたし」
の輪郭を少しでも薄くしたいと願うのだという。
 玄侑氏が再三書いているのが、「わたし」と「いのち」の関係だ。
「いのち」は「わたし」の生れる前からある。
「いのち」に「わたし」がいっとき宿るのだと。
「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション。
 はじめにそう読んだとき、逆ではないかと私は思った。
「いのち」が「わたし」に宿っている、「いのち」が「わたし」の一部だろうと。
なぜって私の体の諸器官が停止すれば命は終わる。たしかに、私の体が土に還り、
その土から芽が出て、その草を虫が食べて、虫を鳥が食べてといった意味での命
の連続はあるだろう。が、それは灰を収めた骨壼も壊れて形をなくした後という、
相当に長い年月のことだ。頭では理解できても、実感からはかけ離れている。
植物も動物もひとつの生態系をなし人間もそれに属するもの、といった類の知識、
それこそ知性によってとらえられるものだろうと。
 自分の命があと数年単位なのか数十年の単位なのかと気を張っている、
そんな長いスパンの命のことを考えられない、という反発もあった。
が、往復書簡をするうちいつの間にか、「わたし」が「いのち」にいっとき宿る、
「わたし」<「いのち」という発想が自然なものになってきた。・・ 
それとは別に、「わたし」を超えた何かもっと全体的な何かがあるらしい
ことを感じるようになってきた。・・ ≫
▼ {「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション
 でしかない}という玄侑宗久の言葉に近い{大自然が元もと存在していて、
自分の姿を見いため人間をつくった}を、何かの宗教書で読んだことがある。
地球上に生まれた生命が延々と時間をかけて、この「わたし」が存在する。
その全てを経たものを「いのち」というなら、その「いのち」にいっとき
宿るのが「わたし」というのは当然である。死ぬのは、それから離れるだけ。
・・・・・・
5417,人生で最も大切な技術 ー①
2016年01月13日(水)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 幸福の探求
 図書館でみつけた非常に面白い本。当分、細部の知識化のため、
24の各章をテーマとして取上げる予定だが、それだけの響きがある。
 フランスの知的環境の整った家庭で育ったエリートが、チベット仏教
ひかれ、それまでの業績をすべて捨て、ネパールの僧院で30年以上の修行を
行なった後、現在はダライラマ法王のフランス語通訳やインタビュアーの役を
任せられ法王の協力で行なわれている「心と生命会議」なども参加している。
 この経歴で、「世俗的な精神性」の幸福について書いているため、いずれの
言葉も心に響く。 新年早々、現在の私には得難い指導書になる予感がする。
  ~まずは、アマゾンの内容紹介~
≪ リカール,マチウ: 1946年フランス生まれ。チベット仏教僧。
 パストゥール研究所のノーベル医学賞受賞者フランソワ・ジャコブ教授の
指導の下、分子生物学の国家博士号を取得後、チベット語を学び、仏教修行の
道に入る。チベット仏教の文献を欧米に翻訳・紹介、ダライ・ラマ14世
フランス語通訳も務める。フランスにおいて細胞遺伝子の分野で将来を嘱望
された研究者の経歴を放棄し、ヒマラヤ山間で仏教僧として35年間修行に専心。
現在は著述家、翻訳家、写真家としても活躍するほか、瞑想の脳に及ぼす効果
に関して展開中の科学研究にも参加。チベットとネパールを生活の拠点として
人道的プロジェクトに従事する。 ≫  
  ~リチャード ギアの内容紹介より~
≪ マチウ・リカールは、深い思いやりとシャープな論理性と、思わず笑い
 出してしまうユーモアも交えて、人間の可能性に関する偽りを暴き出し、
これまでの仮定に反駁してくれた。‘本物かつ永続的な幸福が可能であるのみ
ならず、幸福は人間の生得権である’ことを明確に示した。我々の中で最も
叡智に富み、最も信頼に値する友人による類い稀なる書である。≫   
▼「はじめに」で、《 本書がフランスで出版されるやいなや、喧々轟々の
 議論が全国で沸き起こった。インテリ層は幸福には関心がない、という意見
を明らかにして、技術として習得することが可能である、という私の議論に
一切耳を傾けようとしなかった。ある作家は、「幸福を逆手に取って人心を
惑わせるのもいい加減にしてほしい」と詰問するような記事を書いている。
挙句の果てに、「幸福の妖術師」と題する雑誌の特集記事まで出る騒ぎに。
パリでの議論やマスコミとの応酬で散々な目にあい、ばらばらに崩された
ジグソーパズルのひとかけらのような自分を見る思いがした。ネパールの山に
戻り、元の生活を始めたことが無常の喜びとなった。以前よりは確かに多忙に
なったとはいえ、ネパールのシェチェン僧院を本拠地として、ヒマラヤを
見上げる隠遁生活を年2ヵ月程度することにしている。》と、あった。
 一冊の世俗的な『幸福本』に、フランスのインテリ層が、ごうごうたる
議論を起きたのは、35年のチベット仏教修行の裏づけのある内容なら、
インテリ総掛りでも論破できないはず。「幸福の妖術師」良いじゃないか!
 素晴らしい魂との出会った思いである。 ~で、以下につながっていく。