閑話小題 ~予測が外れたラグビー

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   * まさか、南アフリカが優勝するとは
 少し古い話になるが、ラグビー・ワールドカップ勝戦までの両者の戦いを
見る限り、圧倒的にイングランドが優勝と思ったが、結果は南アフリカの優勝で
終わった。ベスト8の顔ぶれが、日本を除くと英国連邦の国々。体格からして、
日本は絶対不利の中で、よくぞ、ベスト8に勝ち上がったと、敬服する。
それにしても、世界的な力量のスポーツは、業種に関わらず面白い! これで、
プロ野球の日本シリーズや、大相撲の個人競技のブツカリあいが、萎んで見える。
大方のルールを理解していたが、細かいのを、ここで、知ることになった。
 ―
   * つれづれに人生…
 来し方と、現在と、そう遠くない未来の死を含めた人生を想念すると、
奇跡のように、何かから守られていた人生だったようだ。これが正しく『自分』
ということか、いや限界かと…。時代に、両親に、生活環境に恵まれ、守られて
いた奇跡のように輝いていた実感がする、この奇妙な感覚は… 事業結末いかん
に関わらず、こんなものと割切れるのは、それぞれの時節を十分に生きたため。
集団(世間教徒)から、距離を置いてきたスタンスも、老いてこそプラスに働い
ている。また哲学書を読書の中に取入れてきたことも。特にストア哲学の影響が。
これは、一種の心理療法、人生をより穏やかに過ごす、心理テクニック。
やっかいな世間人から逃れるための「閑」の確保。その代償が、冷淡で、薄情で、
人間性を失う。「自分を保つに、これしかなかった」とは、日々、口実の一つ。
 ―
   * トカゲも花束でプロポーズ?
        ネットサーフィンで見つけた面白い写真
《 イギリス「デーリー・メール」16日の報道によると、花で愛を伝えるのは
 人類だけではなく、動物界でも同じようだ。最近、ウクライナ人カメラマンが
2匹のトカゲのロマンチックな愛情ストーリを撮影した。1匹のオストカゲが
花の先頭までかけ登り、その花でメスのトカゲの注意を引きつけた。
メスのトカゲも花を登り相手の贈り物を受けとり、互いに見つめあって完璧な
ハート型を形作った。 愛情というものはいつも順調にいかない、メスのトカゲ
が突然植物から落ちように見えたとき、下にいたオストカゲが彼女の「手」を
握り、「美女を救う英雄」となった。》

 「2匹のトカゲのロマンチックな愛情ストーリ」と検索すると写真が…
         
 ―
▼ 写真を見ると、嘘だろうと… 如何だろう?
 
 ストア哲学の真逆が、去年の以下の哲学。 …これまた魅力的である。
同じ人生、隠遁的に生きるか、積極一貫に生きるか? 結果は同じだが!
時節で替えていけば、よいか! で、現在は、ストア的しかないので。

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6447,つれづれに哲学 ~アドラーから学ぶ
2018年11月07日(水)             
                「生きづらさからの脱却」岸見一郎著
    * 今でもバカやってんだ!
  人生を10年スパンで振返りってみて、
・10歳までは明るい性格だったが、
・小5の頃からの十代は母親が重度の欝病と、直ぐ上の兄や同級生からの虐めや、
 受験勉強もあって、アドラーのいう‘嘆きの谷’暗い10年間に迷い込んでいた。
・20代の‘嘆きの谷’から外に向け一歩踏み出せたキッカケは、20歳の夏休みの
キリスト教倫理」の教授の夏休みの課題、【人生設計のレポートの提出】。
 まだ学生時代に馴染めず茫洋としていた私に、『将来設計、どうで生きる?』
 と、ナイフの切っ先を喉に突きつけられたようであった。 
その夏、学生寮のOBが夫婦でペアレント(管理人)をしている軽井沢の山荘で、
若い宿泊者や、ヘルパー仲間と夕食後に談笑し、様々な立ち位置や、生活環境を
話したり、聞きながら、ひと夏、自分の人生の方向を考えてみた。 いまから
考えると、最善の環境に引き付けられていた。様々な生き様が、学生仲間だけで
なく、一般社会の人たちの生の具体例の全てがヒントになっていた。
そこで得たのは、「自由に生きる!」「アイデンティティ(何もの?)」の問い。
 自由の第一歩が、「親からの自由」「血筋があればこそ、その人が存在する」。
都会生活に疲れ、癒しを求めてくる人の最初の質問は、『学生?社会人?』
『で、何処の学校、会社?』『どこの生まれで、実家は何している?』『趣味って
何?、クラブは何処に入ってるの?』が柱で、8割のレントゲン写真が出来上がる。
そこで、合せ鏡で自分の将来設計を考えた。あまりに丁度良いオープンハウスの
ような寮生活の上に、今度は、その垣根を超えた山荘で、様々な人種、それも
自由闊達な明るい未来を信じて笑っている人達。20歳は、孵化しようとする時節。
高度成長期の真只中、明るい未来が広がっていた。せっかく頂いた恵まれた立場
を活かすには、皮肉なことに両親の創業を間近で体験した修羅場の追体験の設計。
「創業を目指す」の柱が思い浮んだ。 その時、暗い神経質な性格の‘嘆きの谷’
から次の谷に踏み出した一歩であった。それぞれ人生の修羅場の時節でもある。
 その頃、母親に訪ねた、『どうして、こんなにしてまで働くの?』に、
『10人の家族が生きるに、人の何倍か稼ぐ必要があっただけ。それと、仕事の
拡大と同時に、人は成長するのよ!』 成るほどと実感した。
 家の事情で、急遽、Uターンで帰ってきた時に心に決めたのは、「嘆きの谷」
の人のこと。(当時は、この簡明な言葉を知らなかった) せっかく落とした、
重荷を、そのまま背負った、不吉な神に憑りつかれた悲観的過ぎる人たち。
他者の噂話、失敗に異常に反応し、その攻撃で無為の人生の鬱憤を晴らす。
 温暖化の影響もあり、以前ほどの積雪はないが、それでも一年の4分の1は
雪に閉ざされる。そのハンデを理由に何もしない不運を嘆く。その鬱憤たるや… 
問題は、鬱憤を他者に振り向け互いにヘドロに陥ってしまう悪循環に嵌りこむ人。 
 峠道には、‘嘆きの谷’だけでなく、‘喜びの池’もある。そこは森に覆い
隠された奥にあるため、一見、目立たない。それも、森に立ち入らない人には、
その存在に気づかない。隠れた池の近くに、「嘆きの谷」の道とは全く違う
ルートが存在する。その翌年、その道に初めて立入ってみた。 そこは
光り輝く別世界。それを哲学的に説いたのが、アドラー
‘嘆きの谷’の患者治療から、心理学を発展させたのが、フロイド、ユング。 
聞くところによると、そこにも抜け道があるそうな。ただし煉獄か地獄への小道。 
時に天国? それも、これも娑婆世界。 踊るか、踊らないか? 決めるのは、
おのれ独り。

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2016/12/04
つれづれに哲学 ~嘆きの谷
               「生きづらさからの脱却」岸見一郎著
   * アドラーの「嘆きの谷」
 私がみるに、悲観的傾向が強い人が、女性で3人に1人、男性が4人に1人
の割にいる。その中で更に強い人は1割ぐらいか。知人にも数人、非常に悲観的
思考の強い人がいる。連れ合いとの不適性があるが、何もかもを悲観的に捉える。
ある婦人、目を見張るほど美人だが、いや、だった?が、常時、ウツ状態。
誰も躁鬱の波を乗越えて生きているが、問題はマイナスの程度。アドラーはカント
同様、クル病だが、そのハンデを乗越え、フロイトユングにつづく三大心理学者
の一人になっている。根には、「その程度のことで、何で落ち込んでいるのか!」
があるため、説得力が強い。 
  ~その一節から~
≪ 世界を「嘆きの谷」と見ようとし、いつも苦しんでいる人がいる。
 アドラーはそのような人は「途方もない重荷を担って人生を歩もうと不断に
努力をする」と言っている。些細な困難をも誇張し、将来についても悲観的に
しか見ない。身のまわりで喜ばしいことが起ると不安になり、どんな対人関係
にも「影の面」を持ち込む。
 「嘆きの谷」という言葉は元もと旧約聖書の『詩編』に出てくる。
エルサレムに巡礼する人は、乾燥のため枯れ果てた谷底の道を歩まなければ
ならなかった。このような人が、世界を「嘆きの谷」と見ようとするのはどう
いうことか。アドラーの解釈と違って、『詩編』では、神によって勇気を出し、
広い道を見ている人は「嘆きの谷を通る時でも、そこを泉とするだろう」と
言われている。生きている限り、「嘆きの谷」を避けては通れないが、勇気
ある人はそれを「泉」と見るのである。ところが、この世界の嘆きの谷とみて、
どんな喜べる機会にも、「カッサドラの叫び」しかあげない人がいるとアドラー
はいう。ギリシャ神話に出てくるカッサドラはアポロンに愛された。アポロン
カッサドラに愛を得るために彼女に予言能力を与えた。しかし彼女は、アポロン
の求愛を断った。そのため、アポロンは誰も彼女の予言を信じないようにした。
カッサンドラはトロイアの滅亡を予言されたが、無視された。
アドラーは、<この世界を嘆きの谷とみて、「カッサンドラの叫びしかあげない」
というのは、不吉なことしか言わないという意味だが、決して、トロイアの滅亡
を望んでいた訳でない。
 ~ネット検索に、「嘆きの谷」で調べると、
≪・アドラーは仕事の課題、交友の課題、愛の課題という人生には避けては通る
 ことができない課題がある、という。これらの課題を解決する能力がないと
 考える人は、なんとか理由を考えて、人生の課題から逃れようとする。
アドラーが「劣等コンプレックス」という言葉を使う時、次のような意味と
 して使っている。すなわち、「Aであるから(あるいは、Aでないから)、
 Bできない」という論理を日常のコミュニケーションの中で多用するという
 意味である。このAとして他の人がしかたがないと納得しないわけにはいか
 ない理由を持ち出すのである。
神経症はこの劣等コンプレックスに他ならない。人生の課題を前に直面しよう
 としなかったり、「ためらいの態度」を取って立ち止まる。「はい~します、
 でも、(yes...but)といって、結局課題に取り組まない。神経症に限らず、
 人は意識しなければ、すぐに「でも」といってしまう。
 <何かをしようと思う、しなければならない、「でも」と…>
・カウンセリングの時、あまりに頻繁に「でも」という人があって僕はその人が
 「でも」というたびにカウントすることにした。本人はそのことを意識して
 いなかったからである。やがてこんなふうにいわれるようになり、次第に
 この言葉が用いられる回数が減っていった。「まだ今日は一度も『でも』と
 いってませんから、一度だけ『でも』といわせてください」
・人生の課題に挑戦する時、失敗すること、敗北することを恐れる人は、課題
 から退却しようとする。何をする時にも必ず成功しなければならない、と考え、
 成功するという保証があれば挑戦する。しかし失敗が少しでも予想され、
 成功することが確信できなければ最初から挑戦しようとしないか、失敗しても
 そのことによって致命的な打撃を受けることがないように、いわば綱渡りをする
 人が転落することを予想して下にあらかじめ網を張っておくようなことをする。
 症状はこのような目的のために創り出される。
・人生の課題を前にして敗北を恐れる人は、課題に挑戦することを回避する
 ために時に神経症になって、「足踏みしたい(時間を止めたい)」と思う、
 とアドラーはいう(『人はなぜ神経症になるのか』)。
――
▼ 上記の「カッサドラの叫び」しか上げない人に、マイナーな視点の話題を
 ふると、大きく首を振り、どんどん話が進む。何処にも、『内幕情報屋』が
存在して、ネタを探し出して人の懐に飛び込む。それが、万引き、置き引きと、
同じくらい、いや、それ以上の犯罪行為でしかないことを知らない。で、その
毒は、喜んで聞いてしまう方にも、同様に罪になる。誰もが持っている要素
だから始末が悪い。

・・・・・・
2016/11/12
嫌われる勇気
       『嫌われる勇気 ~自己啓発の源流「アドラー」の教え』
 都会では目立たない「個人主義」を地方で貫けば、「大変な人」として
忌み嫌われる。「郷に入っては郷に従え」だが、どうしても露見するのが
地方の生きづらさ。これは、そのまま欧米社会と日本社会に、スライドする。
 それでも、31年間、職住分離だったためかファジーだった。
二人の青年の対話が、そのまま、青年と哲人とも、現在の日々の自己対話
に近い。更にいえば、これを20歳の立志から続けてきたことになる。
普通の生き方では、世間に押しつぶされたIT(こいつ)になる。  
   
  ~まずは、Amazonの「紹介内容」より
≪・フロイトユングと並び「心理学の三大心理学」と称されるアドラー
 再評価されている。それは、トラウマに象徴される“原因論”の心理学とは
一線を画す“目的論”を唱えたものだ。過去も世界も変えることはできないが、
「自分は変わることができる」とするコペルニクス的転回の心理学を知ることで、
対人関係の悩みも解消されるかも。

アドラーの心理学を、青年と哲人の対話という形式でまとめた本書では、
「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに迫る。
「人は変われる」「世界はシンプルである」とする哲人に対し、青年は懐疑的だ。
なぜなら青年は学歴や容姿の劣等感があり、過剰に人の視線が気になってしまう
悩みを抱えているため、哲人の主張が絵空事に聞こえてしまうのだ。
しかし、世界を複雑にしているのは青年自身の主観なのだと哲人は言う。
過去に「トラウマ」という「原因」を見つけて物語的に分析するのがフロイト
心理学だが、アドラー心理学はトラウマ(過去)を明確に否定し、
「いま」の「目的」で考えることを基本としている。

・何年もひきこもっている人が「両親に虐待を受けたから社会に適合できない」と
主張していたとしたら、親は子育てが間違っていたのかと思い悩み、腫れ物に触る
ように子どもを丁重に扱うようになる。これは、自らのトラウマを武器に相手(親)
の注目を集め、支配しようとする働きかけなのだ。ただし、家にひきこもっている
限り自尊心は守られるが、一歩外に出ると誰からも注目されない凡庸な「私」に
なってしまう。ひきこもりの状態に不満もあれば不幸も感じているが、自尊心を
傷つけられることはもっと嫌なこと。これを避けようとする「目的」が、過去の
トラウマに理由付けしているのだ。

・過去の経験が人格形成に及ぼす影響がゼロだというわけではない。
ただし、過去の経験が必ずしも人格を決定するわけでもないのだ。
経験をいかに解釈するかが自らを決定する、というのがアドラー心理学の考え方。
過去を変えることはできない。しかし、経験に対する意味づけや解釈は更新する
ことができる。これが「人は変われる」とするアドラー心理学の前提となっている。

・青年はひねくれた性格であることや自意識過剰という短所ばかりが目につき、
自分のことを好きになれない。これに対し、哲人は「他者との関係のなかで
傷つかないこと」が「目的」となっているため、対人関係に踏み込まない理由
付けとして、自分の短所ばかりに目を向けていると言うのだ。

・孤独や劣等感を感じるのも他者あってこそのものであり、
「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」とアドラーは断言した。
そして、対人関係の軸に「競争」がある限り、人は悩みから逃れることは
できないとする。「競争」で考えると、他者が敵のように映り、世界が危険な
場所のように感じられてくるからだ。「競争」から解放されることができれば、
他者が「仲間」だと感じられるようになり、世界の見え方は安心できる居場所
へと変わってくるのだという。≫

――
▼ これを平易の問いかけに転換すると、こうなる。
『そこで、まだ、何やってるの! 群れてないで、人のことばかり
  気にしないで、もう少し自分のことを考えたら!』
『何で本を読まないの? 一歩、外に出ないの? 今を遊ばないの?
 果てしない世界の深さと広さを知ろうとしないの? それも今!』
『何で、愚痴ばかり言っている内向きな老人のマイナスから学ばないの?』
 
せっかく与えられた地球上で、何もしないで、何も知らないで、卑近な
物事に拘り、気付いた時には先がないのが人生。あくまで比較の問題だが。

・・・・・・
2018/10/30
閑話小題 ~群れとは、そもそも何? -2
   * 群れたがる本能とは
・今まで通り考えないで済むから、同類が群れるのである。
どの方向に行くべきかを常に考えるべき時に、「群れ犬」は考えないで、
大勢の方向についていく。これがフラフラ、フワフワしている群れ犬の実態。
駄犬の群れの中では、地頭で考えることが異質になる。 …こうもいえる。
<我うちに、何匹かの一匹オオカミを持ちなさい。彼らの内なる野生の隠れた
直感を聞き、従うのです。その声は、駄犬の群れの真逆の習性にある。>
次男が外資コンサルタント会社勤務。非常に厳しい話の中で、「年々、
入社してくる人たちが、優秀なのが多く、そのプレッシャーは大きい。」
と聞いた家内が、そんな優秀な人って、どんな人か具体的に教えて?」と、
聞いたところ、少し考えて曰く… 「お母さんと正反対の人!」  家内、
その一言で妙に納得したとか。 そこで考えたのは、「判断、決断は
後回しか、人任せ。 失敗したら、必ず誰かのせいにし、そのため、知恵が
浮かばない。変化を嫌い…」になる。群れ犬は、これらを承知して、カバー
するため群れる。
 ―
・逆もある。ホモ・サピエンスが、生延びたのはクロマニョンが20人、30人
の家族単位の集団しか形成できなかったが、サピエンスは、100,200人の集団
生活をしていた。その方が、激変していく地球環境から吾が身を助ける情報と、
知恵の産物を共有できたため。その拡大が都市化である。 孤立、孤独は、
人間たる特性を否定することに繋がるのではないか?と。報伝達の言葉と、
絵画・言語と、その記録能力と、道具の開発能力、そして大きく群れる習性が
拡大したのが村、町、そして都市へ拡大してきた。 問題は、そこで本来
持っていた生物の利己主義本能が希薄化すること。そのことを実は誰も教えて
はくれない。それを自覚するには、孤独、孤立の状況でしか知りえない。 
特に死に直面した時に知る場合が多い。逆に利他に目覚める場合もあるが…
付和雷同の第一歩は、両親など家族の教えを頑なに守ることから始まる。
これに学校、会社の価値観が加わり、損得の計算が加わり立派な世間様の
完成と相成る。これに法律が加わって社会人とかいう構造が取り囲む。
これが、その時々の権力者達が吾が身のために長年かけて作ってきた
枠組みでしかない。突然、余命宣言を受け、驚愕し、絶望し、孤独地獄の底で、
初めて「自分とは何か、死ぬとは、幸福とは何か、自分とは、そもそも何か?」
の問題をつき尽きられ慌てふためく。群れて考えなかった群れ犬に、こういう
傾向が強い犬コロが多い。群れ犬は、仲間の弱者に極端に冷たい! 弱者は
外敵から身を守るために身を寄せ合っているだけで、瀕死の弱者には、強者に
変身する。群れていれば、より弱者がいるため当面は身を守れる。
『 …でも割切ると群れって良いこともあるんだよ。群れに加わればこそ、
出来ないことも出来ることがあるんだよ世界には。いくら部屋で4kTVで、
その世界を見ても、所詮は映像の世界。汗かき、よれよれになって、大自然
の真っ只中で、驚愕してみると、世界観が変わる。群れた仲間から、一人、
離れた別口の自我が内側から新鮮に、鋭く、喜びが湧き上がる体験をする。
写真家は、それを画像を通して伝えてくる。 一言で、群れ云々は語り尽く
せない。目的を持って集まるのは群れとはいわない? いや群れは群れか。

  ~これまた偶然、4年前の内容が、脈絡として最適な内容~
・・・・・・
4977,閑話小題 ーツアーゲームの醍醐味 ~②
2014年10月30日(木)
  * 人生も旅行もゲームも、難問の解決過程を味わうこと!
 ゲームとは、仮に障害を幾つかつくり、条件と、約束事を決め、
目標達成をすること。ツアーの行先を地区ごとに埋めることをゲーム感覚にし
30年近く、様々な出来事があった。トラベル(旅)の語源がトラブルの難問を
乗り越えるプロセス自体が楽しみになっていく。 創業で、幾つかの難題を障害
と見立て、乗越えてきたことが、旅行にも生かされていた。
ツアーの49回の内わけとして、欧州15回。中東、アフリカ10回。
インド・パキスタンを含めたアジア7回。ハワイなど南太平洋6回。
南北アメリカ11回になるが、それぞれの地域の空白を埋めるのもゲーム感覚。
 一回のツアーには、普段のトラブルの殆どが全て出てきて、楽ではないが、
ゲームで、それを楽しまないと二度と行きたくなってしまう。最近は、家内の
意向で欧州が多い。南米、南アフリカパキスタンシルクロードなどの最果て
の地から日本を見ると、日本は最果ての地。すべからく行先に辿りつくのが
目的でなく、途中に起こる様々の経験全てを味わうことが目的になる。
特に飛行機の行き帰りと、目的先の移動中のバスの車中を楽しめるかがポイント。
アランの幸福論に、「憂鬱の人に言いたいことはただ一つ。
『遠くをごらんなさい』」がある。憂鬱な人が殆どみんな、読みすぎ!人の目
(心)はこんな近距離を長く見ていられるようには出来ていない。広々とした
空間に目(心)を向けてこそ、人間は安らぐのである。夜空の星や水平線を
眺めている時、目(心)は、まったく、くつろいを得ている」がある。
この言葉が遠く旅する目的を言い表している。 贅沢なライフワークだが、
それ一つに絞り、何とか続けられたことが、人生の様々な難問を乗越える支えに
なってきた。人生ゲームというキッズがあるが、難問が高いほど面白いのは、
深淵の意味が含まれている。死んでしまえば、それまでよ!死んで花実が咲く
ものか!である。 大部分を占める世間様という人たちと一線を画すこと、
それには、良い芸術作品、大自然の神秘、良書を浴びなくてはならない。
その前に立ちはだかる難問を乗り越えるゲーム化が、人生のゲーム化である。