読書日記 ~具体と抽象 -2

 

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           <『具体と抽象』 ―細谷功・著>
   * 抽象化能力は、世界が変わってくる
 学校教育は、具体と抽象の行き来をベースに出来ている。また私たちの
言語活動も然り。しかし、これを正面だって取り扱うことはほぼ無い。
これを書き続けていると、その濃度が高くなりがちで、第三者との違和感が
否めなくなってしまう。特に、初対面の人との会話が嚙みあわなくなる。
抽象の世界は具体の世界と違って見えている人しか、理解できない。
「相互理解は、ほぼ不可能である。」 抽象能力が、ある程度ないと、理解が
不愉快になるだけでなく、反発して、リピーターになる前に、暗い、哲学的と
決めつけ、二度と戻ることはないのだろう。具体的=善。抽象化=悪という
とんでもない誤解が固定観念として我々に沁みついている。
大学の「大」は、抽象能力を「大」にするため、社会というフィールドに
飛び出す前の「執行猶予期間」をいう。抽象化能力は、人間が思考するための
基本であり、役立つち、万物霊長の言われる由縁であるのに、あまりに軽く、
扱われている。 ことある度に、避難してきた「世間」には、具体的レベルの
言語能力しか必要としない世界に安住し、理解不可能な抽象的言語を受入れない
下の衆の人たちをいう。 
  ――
  ~ネットで、この要約を検索すると…
≪  ◉ どっちの道を歩いていくか   2018年12月7日
「抽象」という言葉が、悪いイメージで捉えられがちな風潮がある
「一般」に「分かりやすい」のが正義で「分かりにくい」のが悪とされる
「具体」は分かりやすく、「抽象」は分かりにくい。

本書では、民主主義の中で嫌われ者の「抽象」に「市民権」を与える
ことをテーマとしている
人と、議論がかみ合わなかったり、他人の行動を見て、苛立ちを覚えたり、
忙しくて、やる暇がないが口癖だったり、する人にお勧めしたい  ≫
 ―
▼ これを読んで、コンプレックスで怒りを覚える人が多いのだろうが、
 この抽象化能力は時間を掛けないと身につかない代物。自らが抽象化できる
のと、抽象化された言語を、解凍できる能力がある。 
デカンショデカンショで半年暮らす>は、大学の教養課程を表現した
替え歌だが、これは抽象能力の必要性を説いたもの。この能力は、一段でも
高さが違う上から目線が理解できない… この抽象化に捻りを入れたのが、
例え話。  …「具体と抽象」の隙間を微妙に付いてくる。
 
  ~他にも秀逸な要約があった。 それは次回に。  ーつづき

・・・・・・
6445,閑話小題 ~11月3日の連休は、
2018年11月05日(月)
   * この連日は各種格闘技の全日本選手権の日
・11月3日は、格闘技などスポーツTV観戦が大好きな私にとって、年末年始を
 除くと、年で1番、楽しめる連日。 
・午前は、何時ものとおりの日課を熟し、
・午後からは寝室で… 「全日本学生相撲選手権」「全日本柔道体重別選手権」
「全日本剣道選手権」「全日本極真空手」と…一部録画に録り、イギリスの
 刑事ドラマを同時に見ながら、合間に、この文章を書き込を… 
・17時過ぎに寝室から居間に移動し、晩酌になる。1時間半もしないうちに、
 TV前のベッドに戻り、録画していた番組を見ながら一時間で寝入ってしまう。
何れの格闘技、一発勝負の晴れ舞台の気迫が直に伝わため、観戦でも疲れる
わけである。でも、どれもこれも魅入ってしまう。
 この中で、来年のプロ入りが係る「全日本相撲選手権」が特に面白い。
二年生にレスリング上がりの、モンゴル人に有望なのがいるが、途中で敗退。
去年、相撲を始めて半年で準決勝まで残った、将来は横綱になれる逸材だが
卒業まで、2年あるため、来春入門の逸材は皆無? 後は、高校生、実業団を
含めた「全日本相撲選手権があるが… 


・思いの外面白いのが剣道。毎年、楽しみにしているが、張りつめた中での
一瞬の隙をつく、竹刀と身体さばきが良い。 この数年は、内村、西村選手を
中心に競っていて、今年の決勝も2人が勝ち残こり、西村が優勝。内村から
西村の時代を印象付けた内容。

― 
2日間、快晴のため、早朝のミニ・チャリ(ポタリング)が出来たのが幸い。
TVで、スポーツ、映画、ドラマの観戦も、息を抜かないと、ストレスになる。
その点、10年近く続けてきた信濃川土手への自転車散歩は、毒抜きに効果的。
「ストレス蓄積ほど悪いものはない」という持論で、この数十年、生活をして
きた。それでも、単調な生活パターンの中で、73年分の記憶のフラッシュが
湧き出てくる。良いことも悪いことも。だいたい、悪いことが多いが、可能
な限り後味が悪くなる選択をしないよう心掛けてきた。それで、これ。
なるほど、良いこと3に、悪いこと1の割合が心が平安の幸せ状態。無理する
こともないが、心がければ、何とか維持可能。
・・・・・・
4983,暴走する世間 -1
2014年11月05日(水)
    ~暴走する「世間」―世間のオキテを解析する~佐藤直樹 (著)
  ーまずは、アマゾンの解説から
< 日本社会の見えないオキテ、それが「世間」である。事件が起きマスコミ
 で報道されるたびに「犯人」にたいして極端なバッシングが起きるのも、
「空気を読め!」という無言のプレッシャーが生じるのも、携帯を使ったいじめ
が起きるのも、「世間」という同調圧力のなせるわざ。「お世話さまです」
「おかげさまで」といった物言いにさりげなく顔をのぞかせ、いじめ・うつ病
・自殺の引き金にもなる「世間」。バブル崩壊以降とみに暴走しはじめた
「世間」の危ない構造にメスを入れる長編評論> ~~
~~森林(現役)の生活からサバンナ(御隠居)へ、住居を移動したことで、
見えていた世界が様変わりをした。社会から、世間への移動?それとも、逆? 
いずれにしても、ますます、独善になっていく自分がいる。 世間的強制力に
アタフタするのは、やはり個人が確立してないため。
 実は社会も、世間も共同幻想でしかない。そう思えば楽だが、それが比較的
楽に出来るのが御隠居の身分。 ーその辺りからー
≪ 社会も個人もいない「世間」のなかで、「世間」的強制力をともなって、
 個人に責任を押しつける「自己責任」や「心理主義」が強調された場合、
「世間」はますます住みにくくなる。しかし「世間」は、日本人であれば、
生まれたときから取り囲まれ、あるものと親から教えられ、そのなかで生きて
きたから、それを意識的に取りだすのがとてつもなくむずかしい。 
これに加えて、「世間」は具体的なものではなく、ある種の共同幻想、つまり
人々のアタマに宿る観念である。人によって「世間」は広かったり、狭かったり
するが、それは「世間」とは関係そのもののことであって、本質的には人間の
アタマに宿る共同幻想だだから。共同幻想とは、複数の人間に宿す観念である。
厳密にいえば二人の間だけでは、共同幻想とはいえない。たとえば恋愛関係
などのように、二人の対になる関係においては、世間は存在しない。
この二人の関係を、思想家の吉本隆明さんにならって「対幻想」とよんで
おくことにする。
 「世間」は三人称的な関係で、三人以上の人間が共同して生みだす幻想。
なぜかといえば、「世間のオキテ」といったようなルールや規範が存在する
ためには三人以上の人間を必要とするからだ。「世間」は幻想であるから、
ないと思えば、ない。「世間のオキテ」も、ないと思えば、ない。げんに外国
で生まれ、日本に住んでまだ間がない外国人には、「世間」も「世間のオキテ」
も間違いなく、ない。だから原則として外国人は、「世間」には入っていない。
かなり長く日本に住んでいる外国人でも、日本の「世間」のなかに入ることが
できるのは、まれである。外国人が「日本人はとっても親切だ」というのは、
かれらがはじめから「世間」に入っておらず、そもそも「世間」の外にいる
「お客さん」であるから、親切にされるにすぎないのだ。 問題なのは、
「世間」が具体的なものではなく、共同幻想であるがゆえに、それを否定
するのが相当にむずかしいということである。具体的なものなら、捨てるか、
近づかないようにすればいいが、共同幻想は観念そのもののことだから、
そうはゆかない。簡単に捨てることができないし、そのなかで生活している
以上、近づかないでいるわけにもゆかない。だからこそ、「世間」の存在は
なかなか意識化できないのだ。しかし、これを意識化する方法がある。
それが、「世間学的エポケー」である。・・・≫
▼「あの老人、一度も恋をしたことが無いんだって!現実に溺れすぎて」
 という強烈な言葉がある。共同幻想の前の「対幻想」の幻想である。
その共同幻想も、何も考えもせず、ただ、成り行きで染められた幻想で
しかない。Uターンで地元に帰った時に感じたのが、城下町という特殊の世界。
専門が社会学だったことと、10年間の外界経験から、これが特殊ということ
が分かっていた。で、アウトサイダーに徹し、そして、事業場を新潟にした。
これが「世間学的エポケー」これも事業設計、人生設計の一つ。
予め世間を特殊世界と割切って捨てれば、これほど楽なことはない。一般的
には御隠居になって気づくが、気づかないままが殆ど!あのゾンビの群れ。

・・・・・・・
4616, 君は1万円札を破れるか? ー4
2013年11月05日(火)
  ー君は1万円札を破れるか? 
     ~お金の洗脳を解くと収入が倍増するー 苫米地英人 (著)ー
   * 年収は人の価値判断の基準になるのか?
 森の生活(経済社会)から退いて、サバンナ(隠居生活)に出て
気づいたことは、これまで、「人の判断基準に、手持ちの資産と、年収を
価値基準にしていたこと」である。資本主義社会の洗脳である。
格差社会」「勝ち組・負け組」の言葉の背景に資本主義社会の価値観がある。
それも一線を退けば、その比重は低くなる。お金を気にしないで済む収入と、
蓄財が幾らかあれば、それ以上は皆、同じ。森の生活では、稼ぎが、その人の
価値と錯覚をしてしまいがちになる。他人との比較で、その額の差が人間の価値
と錯覚をしてしまう。「お金には絶対的価値がある」「お金はすべてのモノの
価値を規定する物差し」という洗脳が長年かけされ、それを疑おうともしない。
お金で、自分の労働や価値を規定され、振り回されている状態は、宗教に洗脳
された信者と同じ。 著者は、ここで、現代社会における「価値」を
「物理空間における価値」と「情報空間における価値」と分ける。
物理空間とは、体で触れることができるモノの世界。情報空間とは、脳や心の中
に存在する様々な概念が作る空間。米を例にとると、タイ米と魚沼コシヒカリ
その価格差は10倍近いが、物理的な味と栄養は、せいぜい二倍?
あるかなしか。「美味しい」という感じ方はそれぞれ違い、何倍美味しいとの
数字化は不可能。タイ米と魚沼コシヒカリと表示されなければ、値段の差だけ
の価値を感じることはできない。ブランドものはバーチャルバリュー
が、その価値を高めている。年収も財産も同じで、ある金額以上になると大して
変わらない? いや2千万と、2百万の年収では生活の快適さは違う?
貧すれば鈍するし、豊かさには幸運の機会を多く集まる。年収が多いに越した
ことはない。貧しさは、人間性を卑屈にする。問題は、年収が「絶対的」では
ない、ということ。タイ米なら、タイ米にあう調理をすればよい。
考え方である。「資本主義社会の洗脳」の自分を一度突き放し、冷笑し、
卑屈にも、のぼせ上がらないこと。所詮は、娑婆のこと。それを自覚し、
超越するために、ライフワークを持つこと、それが教養につながる。 
多趣味か、一つの趣味を深く追求するかと、年収が多少の差とを類推すれば、
理解しやすい。= 偶然、7年前に、同じようなテーマの読書日記があった。
~~~
2073, 金は人を幸せにするか?
2006年12月06日(水)
           才八∋ウ_〆(∀`●)
 お金に関しては、何度か書いてきたが・・
先日の書評「金は人を幸せにするか?」は題材として面白い。
 毎日新聞の『「豊かさ」の誕生…』=W・バーンスタイン著の書評で、
その内容が紹介されていたが、なかなかよい。建前でいえば、
「お金で幸せが買えるかって?冗談じゃない。幸せは心の問題だろう。
それが金で買えれば、世の中の金持ち全部幸せのはず。
 質問そのものがナンセンス」が正論である。
しかし本音のところ、 「金は何でも買うこともできる自由の塊、何で
そんな建前をいうのか? そんなことを言えるのは充分ある人のこと。」
と、陰の声がささやく。
「貧乏の極みで家庭は崩壊、借金で高利貸しに追われ、最後は不幸のどん底
投身自殺を図ったが死に切れず・・・」
 これなど不幸のカタチで何処にもあるパターンである。
倒産や失業では金欠が当面の切実の問題になる。
人間の品性は「金欠と女性問題」で露わになる事例を山ほどみてきたので、
間違いなく「金のないのは、人を不幸にする」ということだけは断言できる。
幸せになるのもいるが、それは珍しいから小説の種になる。
 私の持論は、「金で8割の幸せは買えるが、あとの2割は金で買えない。
その2割こそ一番大切なことである。しかし8割は買える。
幸せとは、したいことがあり、それをやり遂げた心のさまである。
それは金では確かに買えない部分もあるが、しかし金=自由であるから、
やり遂げる手段としては、最有効になる。」である。 理屈として、
「買えるものは買えるし、買えないものは買えない。買えるものは金があれば
こそ買える。金が無ければ‘買えない’範囲が広くなる。そのぶん自由度が
狭くなる。自由は人間にとって非常に大きい幸福の要素である。
自由度を大きくするには、より多く金が有ればよい。生存レベルで必死の人
にとって、{生活手段としての資金の確保から解放されることが幸せである}
のは当然のことであり、お金は資金確保からの解放を意味する。
生存レベルの資金確保の束縛から解放された人は逆に、 幸福感が
「生活資金確保の段階」からアップスケールしているのだから、身近な世界の
人との比較や、違うレベルの欲望の達成の幸福感でなくては、幸せなれなくなる。
 金が無くなって「お金だけが人生ではないお金は決して人を幸せにはしない」
と、言うに丁度よい言葉の羅列にはなるが。

・・・・・・
6080,閑話小題 ~恐ろしい身近な現実 ~6
2017年11月05日(日)
   * トランプ大統領の来日
 「ロシアゲート」疑惑とは、トランプ米政権とロシアとの間で不透明な関係
 があったのでは ないかという疑惑の総称。 日ごと、その疑惑は大きくなる。
文芸春秋・7月号』で、神谷秀樹が<トランプとロシア 深すぎる絆>
 のレポート、トランプとロシアの疑惑を取上げている。
 特にトランプの富の形成の背後にロシアマフィアの資金があり、ロシアと
マフィア資金の分別が難しいと… この疑惑、ニクソンの「ウォーター・ゲート
事件」より遥かに質が悪く深刻というから。 有り体にいえば、「ロシアが、
マフィアを使い、ソ連解体時に流失した資金の一部を、元KGBや、マフィアが
組んで、アメリカのラスベガスやニューヨークのビル群を買い漁ったが、その
一つのルートがトランプ。これを読んでいて、何か末恐ろしい感がしてきた。
トランプがロシアマフィアのポチ? 彼なら、このまま失脚するなら、朝鮮戦争
を決断するのでは? 
 更なる問題は、就任後のロシアゲート疑惑捜査に対する「司法妨害」。
後者も十分、大統領の資格を問う材料になる。手足になったイヴァンカと、夫
クシュナーに追及の矛先が近づいているような。問題なのが、クシュナー家が、
ポーランドユダヤ人の不動産投資家で、父親がニュージャージーの現州知事
クリス・クリスティーが検事だった時に、違法な選挙資金を提供、税法違反、
そして義兄に美人局を仕掛けて逮捕されていた経歴の持ち主。息子のジャレッド
も、怪しげな人物で、ハーバード出というが、「父親が、250万ドル寄付でして
入ったもの」だし、彼と取引をした人は、「話が信用出来ない要注意人物」
という。 この不安定な政権のトップが、吾が身のために何をしでかすのか? 
その煽りを受けるのが、日本と韓国。 危ない時節には、こういう手合いの役者
が集合する。実に危ない恐ろしい現実が目の当たりに。「冬季オリンピック」が
何故か盛り上がらない。戦争まじかの危険があるため。実質的非占領国家・日本
の悲哀が悲劇に変わらないことを祈るばかり。 大統領歓待の日々が始まった。
 これも仕方がないことだが… 

・・・・・・
5713,つれづれに哲学 ~レヴィナスの、「他者の顔」
2016年11月05日(土)
  * レヴィナスの「他者の顔」
 仏壇の横に、30年前の実家の法事の集合写真を置いてあり、度々みている。
40数人の参列の7割方が故人である。30年来の時々に、写真を見る習慣が、
私の生き方に大きな影響を与えていた。そこから、生き残っている親戚縁者も、
「散る桜」でしかないと、故人達が呼びかけてくるような。 
生きている不思議と意義の実感。亡き縁者の顔の背後に無限の存在を直観が、
死の不安を解消してくれる。遠くない日に私も阿弥陀の世界?に入っていく。
生れてきたからには死ななければならないのが世のならい。自分の内に取込め
ない「他者」の「顔」が、自分の周りを囲んだ壁の外に、自らを誘う。
 レヴィナスは、こう宣う~
≪ 自分の解釈の中にすべてを取り込んで、自分中心の世界を創っても
イリヤ」の恐怖から逃れることが出来ない。彼にとってイリヤから抜け出す
カギは「他者」の「顔」。もし、他者の顔が、「汝、殺すなかれ』と訴えたら、
人間は理性からでなく、無条件で他者に倫理的な責任を負わざるをえなくなる。
人は自律などできないのである。他者とは自分の世界に取り込めない、その外側
にいる無限の存在です。その「顔」に責任を持つことで、わたしはイリヤの恐怖
が渦巻く私の世界から抜け出し、永遠に向かう。≫
▼ ここでいう「顔」とは、
<実体的な顔のことでなく、他者の他者性を 意味する概念>として捉えられる。
 お互いの顔は、他者を通した「無限」の広がりの入り口になる。キリスト、仏、
を通した教えを例えると理解しやすい。自分の世界に固執すると、私はイリヤ
から抜け出すことができない。その行き詰まった結果、自己崩壊に至る。
その挫折が、己の殻を打破る。留まると、そこに「世間様の壁」が、強硬に立ち
塞がってくる。で、ゾンビに! 他者の顔を見ることで、その背後にある永遠の
直観こそ、「イリヤ」の恐怖を和らげてくれる。生まれ生れ、死に死にていく!