閑話小題 ~母親の命日、忘れるところだった!

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   * 母の23回忌ですか
 今日の随想日記を書上げて、過去文を振返ってみて、母親の命日と、初めて
気づくことになった。迂闊だったが、朝方気づいただけでも良かった。命日に、
話題にするのが故人への一番の供養。明治、大正、昭和、平成の時代に生きた
ことになる。母への想いは、ここで何度か書いてきた。
 「分類コーナー」の<検索>を入れると、即座に過去文が幾つか出てくるのが
有難い。 毎年、その都度、真正面から向き合えるのがよい。 末息子のため、
両親に溺愛され、育ったのが私の特性。時代の変遷と、何れの世界でも辛うじて
生抜けたのは、その温みが自分を包んでいる御蔭。両親との仲が良いか悪いかで
人生が大きく変化する。
 
 父親が酒のみで、博打好きで、家に殆ど金を入れず、長男故に中卒で地元企業
に就職、夜間高校を卒業後、地方公務員試験を合格し、消防士になって人生を
全うしてぃた中学の同期生がいた。 普通の人生をおくることの難しさ、逞しさを
彼の中に垣間見た。それに対し、己の置かれた立ち位置が如何に恵まれていたか! 
私の父親の実家は恵まれ、母親系は、?ランク落ちで、小姑に虐められた話を幼児の
頃から聞かされ育ってきた。貧しさは、その子供たちを卑しくする力が働くため、
人生計画を着実に実施すべきと、誰も助けてはくれない、自分自身の知恵を使い
生きるべしと…母親から教わってきた。両親と、時代には当たったが、問題は、
己の能力。省みて、読み返すと、言いたいことが、そのまま書いてある。

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2016/09/24
閑話小題 ~母親の命日に

  * 今日は、母親の20回忌。
 昨年の母親の命日には、それまで書いてきた母親について纏めてあった。
10数年、毎日、書き続けてきた過去からの贈り物である。自画自賛になるが、
もし子供に、亡くなって20年近く後に、このように想い出してもらえたら、
幸せだろうに。 末っ子で特別視された恩返しと考えれば当然だが。
 親子の関係は、特に父親との関係は、シックリいかない永遠のテーマ。
順調にエリートコース?を歩いてきた知人が、ある時、深刻そうに、
『何か私は、父親に愛されなかったような気がする。』と、話してくれた。
最近、特に思うのは、『人格の背骨は、両親の愛情で作られている』である。
末っ子は末っ子で、兄・姉から軽く扱われ虐められ、大変だったが、両親からは、
「特別扱いされ、何があっても守られ、許される」という妙な甘い意識があった。
 父親が亡くなってから、複雑な家族環境のため、「独り立ち」が、否応なく
求められた。そこから、両親から受けた愛情と精神の背骨を感じるようになった。
 次々に立ち塞がる難問に、「父なら如何しただろう?」の自問自答で湧き上る
知恵に大いに援けられた。その上、同居の老いた母親の温みが直に伝わっていた。
 追)去年、母親について書いた文章を纏めたが、もし、それをしてなかったら、
  昨日、一昨日、時間をかけて同じことをしていたはず。私は去年も、今年も
 同じ私である。母は父と伴に、戦前、戦中、戦後を生き抜いてきた。
常に何かを目指し努力をしていた後ろ姿を垣間見えていた。会社清算の痛みも、
「痛、痒い!」と思えるのも、万一の備えの上に、両親の修羅場を見ていたため。
70年の人生を振返ると、両親の懐で、面白、可笑しく、生きてきたと実感する。 
父の口癖、「死んでしまえば、それまでよ!」では、決してない。死んだ後にも、
背骨として子供たちの中に生き続けている。ところで私は 子供に対し、両親の
ように膨大な愛情を与えてきたのだろうか? それにしても、甘さ丸出しで、
ネホリハホリ書いたもの。

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2015/09/24
閑話小題 ~今日は母親の命日

  * 今日は母親の命日
 今日は母親の命日、19回忌になる。早いものである。
ほぼ毎年、父の命日には思い出などを取り上げるが、振返って調べると、
母の命日には、時どきしかなかった。しかし、その前後に夢に必ずといって
いいほど出てくる。昨日の朝方も、夢に出てきた。寝室の二つの
ベッドが、廊下をおいた差向かえにある仏間に移動してあって、寝室には
一つだけ母のベッドが置いてある。その枕元には文庫本が一冊あり、何かの
読書指導書。さすがと思ったところで目が覚めた。
 また今朝方も極楽にいるような夢をみた。
《自宅の1Fの勝手口の前に、花園に色々の種類の花が咲乱れている。
そこに様々な小鳥や鳩の大きさの鳥が次々やってくる。そこで、デジカメで、
写真を撮るが、いつの間にか、その花園の赤い花が、周囲に広がっている。
鳥と花の兼合いが、何とも美しくて写真を撮ることを忘れて見入っている。》
 これを書いていて、この夢が実は母親の贈りものでは?と、思いついた。
この随想日記から、母について書いていた文章を内部検索で調べると、
以下の内容が出てきた。書くこと、書き残こして外部化しておくことは、
心の、想いの刻印になる。 燃焼しきった人生は、奥行きが深い。
 極楽の景色を、母に鮮明に見せて貰ったことになる。毎日、世界の絶景を
ブログに乗せているが、極楽的光景を連日、目にしている背景があるようだ。
 さて、ポタリングをして、母の墓参りだ。

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4200, 閑話小題 -スマート家電
2012年09月25日(火)
  * 母の命日
 昨日は母親の17回目の命日。亡くなって、16年経つ。
やはり、その年月は長い。今でも2~3ヶ月に一度は、母の夢をみる。
先日、倉庫で母親のアルバムを見つけた。四人姉妹の末娘の姉と、旅行先で
当時の映画俳優と記念写真を撮っていた。戦後、戦中、戦後という激動の中に
生きてきた逞しさがあった。当時の男も女も皆そうだったが、平時の数倍の
人生を生きてきた。私の知恵は、こと何かあると両親に語りかけることから
生まれることが多い。夜半に問題を語りかけると、思いもよらない答えが出る。
読書は著者との対話でもある。愛読書を読み返すとは、最も信頼する著者の魂
と対話していることになる。両親は、自分の限界であり、かつ土台である。
両親は、私にとって限りなく純粋で愛情の塊のような人だった。
独り何かを求め続ける、これが両親から学んだこと。
  * スマート家電
 ( ・・略 )

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2007/04/24
2212, 宇宙的自己?が語りかけてきた?
              (。・8・。)ノ おはよう!
   *一昨日の朝方の夢
10年近く前に亡くなった母の夢を時々みるが、一昨日の夢が不思議な夢だった。
晩年の母は5年半ほど痴呆症だったが、夢の中の母は平常の状態。
不思議に思い、「如何したら呆けないでいられるのか?」と聞いたら、
「何を経験しても、その都度ごとに文脈としてまとめることよ、
また、一つ一つの要素をキッチリと言葉にしておくことよ。」
と諭すように答えた。そして、家の宝として、小さな仏像を5~6個持ってきた。
さらに家にある大きな封書を持ってきた。神聖な昔から家にある「書置き」の
ようだ。そこで目が覚めた。普段の自分の世界から一歩抜け出た不思議が感覚。
‘遥か遠い向こうの世界からの魂の呼びかけ’のような、‘宇宙的自己としての
母の自己が、地上の私に直に語りかけてきている’ようであった。
現に毎晩、私が寝ているところが、母が30年以上寝ていた処である。

「魂とは何なのだろうか?」不思議で不思議で仕方がない。
誰もが持っている、不死の何かなのだろうか?
あの夢に出てきた母とは誰なのだろうか?
自己の創り出した(記憶の底から出てきた)母のイメージだろう。
夢も考えてみたら不思議である。
犬も夢をみるというが、自分の無意識がつくり上げた物語である。
 以前は不思議な夢を多くみたが、最近はめっきり少なくなった。
モーニング・ページに起きざまにみたばかりの夢の内容を書いている。
そのまま、大学ノートに書きなぐるが、生々しい夢を書くのも面白い
ものである。モーニング・ページの大きなコーナーになっている。
内容は他愛もないが、それでも時どきハッとするような深い内容がある。
夢と魂とは何か結びついているんじゃないのか?と時どき思う。
それも身近な母や父などの夢は、特に!

ところで母が持ってきた、あの封書の中味は何だったのだろう?
母の残した、「詩」だろうか?それとも家を守りなさいというサイン?
あのイメージは、家筋としての記録である。
家系としての筋道?   胡散臭いが!        
               ホンジャ  (~▽~*)/ 
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2006/09/24
2000, 継父
        (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ~
今日は母の命日で、亡くなってまる十年経った。
この随想日記2000回と重なるところが不思議である。
早かったのか遅かったのかというと、大昔のような気がする。
5年半の間、痴呆症になっていたが死に際の入院までオシメをする
ことがなかった。痴呆症を切れ掛かった蛍光灯に例えると分かりやすい。
始めは時々切れてはつくが、その回数が増えてくる。
マダラボケがジワジワと悪化すると被害妄想や、抑えていた
悪口・陰口が始まる。心が腐っていくのが手に取るように解る。

マダラボケは一緒に生活をいていると疲れるものである。
亡くなって一月後に、
「人様はなんて楽な日常を過ごしているのだろう!」と、驚いた。

両親の一生をみると、人生の深さを思い知る。戦争は全ての
国民に深い傷と重石を担がせる。第二次大戦直後に生まれたが、
あと十数年早く生まれていたら戦争にとられて・・

ところで母の命日なので供養として、
母の幼少時の、絵に描いたような地獄絵の世界を話してみよう。
そして、それが長男・次男の死の間接的な死の原因になってしまう。
この話を故人になったが教育学者の森信三さんが間接的に聞いて、
「自分の主催している会で話して欲しい」と依頼があったが、
断ってしまった。20年前で母が生存中なことと、それを多くの
セレブの前で話すには自分が出来てなかった。
その時、是非話しておけばと悔いが残っている。

母が幼児の頃、父親が母の兄と姉を残して亡くなってしまった。
(奇しくも昨日 WOWOWで「世界で不幸な物語」という映画を観た。
3人の資産家の孤児が、里親に命を狙われ転々とする筋書きであった)
家が商売をしていたので残った祖母は男後家をもらうしかなった。
そして祖母と男後家との間に4人の子供が生まれた。
そこで何が起こるだろうか?この設定は、言わずもがなの結果になる。
義父による実子との差別と、徹底的な虐めである。
3人の末であった母に、特に虐めがいったという。
それが母のトラウマになってしまった。     ーつづく
 さて墓参りだ!
ーー
書いた後に気がついたことだが、
ほぼ同じ文章を、2年前に書いていた。(後にコピー)
次回は更に深く母の一生を掘り下げて書いてみよう。
               (。・ω・)ノ☆゜+.バイ! 
・・・・・・
2004/09/25
1271, 母が亡くなって、まる八年!ー2
 十数年前のこと、新潟に有名な教育者が講演に来た。その夜、勉強会の
「新潟木鶏クラブ」で、彼を囲んだ座談会を開いて話を聞いた。
そしてそのままホテルに泊まってもらった。
翌朝お礼を兼ねて、弥彦の良寛で有名な「五合庵」などを車で案内をした。
二人きりの車の中、4時間位話をする機会になった。
そして直に旧知の友のようになった。知らないうちに、昨日書いた
母の生い立ちと、それゆえの不幸の出来事の話と、不条理の話に及んだ。
本人も、思いもよらない「五合庵」の散策と、新潟の田舎の風情を楽しんで
いたようであった。 それから2ヵ月後、本人から連絡が入った。
「先日のお母さんの話」を、森信三さんに話したところ
「すごい内容だ。是非うちで開いている勉強会で話してくれないか」
と依頼されたという。
いま考えたら、そこにいって話をすべきであった。

「自分の話ならするが、母の話なので、勘弁して欲しい」と断ってしまった。
こういう機会でなければ、森信三という戦後日本最大の教育者とは、会う機会
がなかったのに、本当に惜しいことをした。また、そこに聞きに来ている人は
ふだん会えない、凄い人ばかりのはずである。 後悔あとに立たずである。
森信三氏も似たようなことがあったというが。それから数年後の1992年に、
森信三氏は亡くなったのだ。本当にバカのことをしたものだ。

話は元に戻るが、母の7人の兄弟・姉妹のうち、母の実父の上・三人は
幸せな人生をおくり、下4人は??
ー 幸せ不幸は、本人が決めることであるが。
「事実は小説より奇なり」というが、母方の姉妹をみていると軽く一冊の
小説になる。一人一人の一生は深く重いものである。

・・・・・
2004/09/24
1270, 母が亡くなって、まる八年!ー命日に,母の魂に捧げる

今日の9月24日が母の命日。まる八年経った。遠い昔のような気がする。
今でも夢に出てくるが、その頻度は少なってきている。母の優しさは、誰に
とっても共通である。父の真の厳しさと、母の優しさの深さを知るのは、
自分がその年齢になって初めて解るものだ。

世界広しといえども、母は一人である。そして、ただ無条件で愛して
くれたのは両親だけである。親の愛こそ、神の愛に勝るものである。
真実の愛は、親の愛がその原点にある。

愛は力である。内面の強さは突詰めてみると、親の愛が基盤になっている。
キリストの愛も、最後まで見守っていてくれた母マリアの愛の反映である。

人間形成は、10歳までの家庭構造とそれを取り巻く環境ー条件で
ほぼ決まってしまうが、その中で母の役割は非常に大きい。

 ー命日ということで、母のことを少し話してみる。
母は特異な家庭環境の下で育った。兄一人、姉一人の三番目に生まれた
二年後に、実父が亡くなってしまった。そこで祖母は、(後妻でなく)
後夫をもらった。(要するに男後家)

その後、後夫の子供が4人生まれた。
後夫は当然のことながら、前夫の子供を徹底的に苛めた。
特に一番幼い母が、その対象になった。
祖母は後夫の手前、守ることも、直接的な愛情を注ぐことができなかった。

そのトラウマが母の一生を通してついてまわった。
子供に対する扱い方(直接的愛情のかけ方)を全く知らなかった。
ただ厳しく当たることしか自分の体験がなかった。

それが長兄、次兄が不幸を向かえるキッカケとなってしまった。
その結果、重度のノイローゼになった。私が7~10歳の時である。
立ち上がるのに5年もかかった。その時、心臓が四分の一壊死してしまった。
(亡くなった直後の解剖で判明) そういえば、私も子供を抱きしめる
ということは一切しなかった。その苦悩・苦痛の中から、神様のような
優しさを持つようになった。そして強さも。

その環境の中で育った兄姉は、それぞれが何らかの神経症が残った。
私が癒し系の話題が多いのも、その神経症系を乗りこえるプロセスで
多くの本を読んだからだ。いやそれより、面白いこともあったが。
どの家庭も、色いろな事情はあるものだが。
特に、戦争下を通り抜けてきた世代には。
      さあ墓参りだ!      23日6時半ー記