読書日記 ~超短編小説の書き方 -3
<「超ショートショート講座」 田丸雅智著>
* 具体的な手順から
△ まずは、20の名詞から
いざ、具体的な名詞と思ったら重い! その思い自体が、現在の感情で
しかないと、気楽に、自然任せに、思い浮かんだまま羅列してみる。
―
<桜の時節> <幸福> <何かチャレンジ> <改元って…>
<先日見た映画> <鶯の初囀り> <学生時代の青雲寮のこと>
<イチロウの引退会見> <私(イチロウ)は監督は絶対に無理>
<春の甲子園野球が開幕> <成るほど70歳を超えると、急激に弱る>
<もやもや> <大相撲も、また白鵬かよ> <再び小噺> <ツアーへ>
<75歳まで、あと2年> <無我の境地> <ドローン> <他宇宙論>
<ゴーグル> =この名詞探しに3分。
成るほど、この程度の語彙の限界が分った。
△ 次に、この中から『ゴーグル』を選択、そのイメージを10ほど書き出す。
〔マッターホルンからの空撮〕〔カメラ付き無線凧揚げ〕〔YouTubeの映像〕
〔街中の闘牛の空撮〕〔鳥の目線〕〔何だ、AI飛行機ですか〕〔日曜日の憂鬱〕
〔空撮現場でゴーグルをつけてみると〕〔現実と、空撮と、ゴーグルの組合せ〕
〔留まることのない可能性〕などを思いのまま書きだしてみた。=所要4分。
合計=7分。
これを読返してみた感想ば<これ自体が文脈として、一つのショートショート>
ということ。『ゴーグル』を装着して、山岳頂上周辺から、ドローンを飛ばし、
自らの姿を頭上から鳥の視線で見る。現に、マッタ―フォルンのドローン映像を
見たことがあるが、それは不思議な感覚の共有をしたような… ネットで生配信
も可能。 それを手を加えて文章化すれば超短編の物語にもなる。
△ で次は、他に残った19の名詞の中から、<無我の境地>を組合わせたショートショートには、ドローンから見える壮大なスイスアルプスを
背景にした、新たなドラマのイメージが湧いてくる。
マッタ―フォルンのスイス側からの全景のビューポイントで、日本人の老夫婦が
西欧風の凧をあげていた。そこで、せめて自分たちが上げている風にと少しの間、
糸を持たせてもらった。それが今では、小型ドローンからの空撮が可能になった。
このエピソードを加えると、丁度良いプロットになる。 私にとっての旅は、日
常からのトリップ。2年前に参加した、<ドロミテと、北イタリア側からみる
マッタ―フォルンの旅>に、参加した話題を加えると、丁度良い味付けになる。
で、次回は<マッタ―フォルンの電子凧揚げ> の『超ショートショート』を!
尤も、この文章自体、ノンフェクション系ショートショート?
行けば出会える絶景!
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2911,人生は作品である
2009年03月25日(水)
「人間にとって、その人生は作品である」これは司馬遼太郎の言葉である。
「人間には志がある。その志の味が、人間の味である」という言葉もある。
身近で亡くなった両親の生き様を見てきてつくづくと、人生は作品という
ことが理解できる。そして生きている限りは未完であるところが、ミソ。
死んだ時に完成するが、その時は自分にとって関係ないことになるから絶妙。
哲学では人生を「劇場」に喩え、その役割配置から、その真理を突き詰めていく。
それぞれが人生劇場では主役。 それは第三者が口挟むことでない。
本人の意志に従う物語。従って還暦を迎える頃になると、その物語の辻褄
合わせが始る。シナリオ、主演が自分であり、観客の一人も自分。
だから面白いのであり、悲しくもある。 自分で悲劇の場面と思っても第三者
の目からみれば喜劇に思える。(逆も言える)
年齢を重ねて分別がついてきて、人生を振り返ると顔から火が出ること度々。
主役は次から次へと襲ってくる難問を乗り越えるのが役割。 難問そのものの
内容が物語を決めることになる。だから、問題に対して嘆いてはならない。
(自分の火種もあるが)問題と本人の意志が自分の人生の作品を決定する。
キュープラー・ロスは<人生劇場は「レッスン=学び」であると看破>
(以下、字数制限のためカット 2015年3月25日)
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5853,物語で経験する「生老病死」 -3
2017年03月25日(土)
<老いの風景 ー物語で経験する「生老病死」~石光勝・著>
* 寂聴と今東光
若き日の官能作家「瀬戸内晴美」を見知っていたが、今では尼僧の身。
一言一言が、常人では理解できないような人生を味わい尽くしたが故の
圧倒的なエネルギーが満ち溢れている。着の身着のまま家出をしたくだりと、
本人と思われる「そういう一日」の、この圧倒的場面が強く印象に残っている。
~その部分から
≪ タイトルの『風景』とは?自身のことを書いた3作「デスマスク」「絆」
「そういう一日」を景色として眺めたことによるのか? 全7篇。
なかでも、「そういう一日」に描かれている出家に到る様は、ある種の
凄まじさがある。 その凄まじさは・・・
【 <出家させて頂きたいのです>
「御家族はどう言われている」
<家族はございません。両親はとうに死亡しています。姉が一人、父の残した
家業を守っていますが、電話で出家すると告げましたら、あら、いい年貢の
納め時ねと申しました>
「そのお姉さんが、得度式で一番泣かれるよ。
肉親というのは泣くものだ。 髪は?」
<剃ります>
「無理に剃らなくてもいいんだよ」
<私はだらしない駄目人間ですから、型からも、
きちんと入らないとつづかないと思います>
「下半身は?」
<断ちます>
「ふむ。仕事は?」
<続けたいと思っています。でも出家したら書かせて
くれない場合も予想しています>
「その時は?」
<ひとりで書きおきます>
「わかった。あなたは尼僧になる前に、れっきとした小説家だったことを
忘れてはならない。死んでもペンを放さないように。坊主とつきあうことも
ない。寺をもつこともない。書くために出家をするのだから」 】
この会話の二人、真偽は別にして今東光と寂聴である。≫
―
▼ 奔放すき放題に生きれば、娑婆には思い残すこともないはず。
宇野千代と対談で、この日のことを具体的に話している。女傑同士の話は…
世には魔性の女がいるそうな? リアルな、純粋一途で、床上手な、しかし
恐ろしいのが巷を徘徊しているそうな。水商売より、普通風の人に多いという。
人生という森林には、様ざま広くて深い闇と、ドブと蓮の花が紛れ込んでいる。
「やはり野に置け、蓮華草」 摘んで持ち帰るより、眺めるが良し? ったく!
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6220,閑話小題 ~米朝開戦 -8 「見捨てられ症候群」とは言え…
2018年03月25日(日)
<「トランプ症候群」
~法哲学者・井上達夫と精神科医・香山リカの対談>
* 精神疾患ですと…
一時風靡した船村徹の『矢切の渡し』の歌詞
< つれて逃げてよ……」「ついておいでよ… 夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し
親のこころに そむいてまでも 恋に生きたい 二人です … >が
何とも物悲しいが、弱者・日本の「見捨てられ症候群」に重なって聞こえる。
冷戦時の日米同盟においては、「巻き込まれ」の懸念が圧倒的だった。当時は、
「米国の戦争」に関与せざるを得なくなることが恐れられたのである。他方で、
地理的には冷戦の最前線国家の日本で、中国・ソ連への脅威は、さほど高くは
なかった。
しかし、その時代は去り、北朝鮮の核弾道ミサイル開発や、中国の海洋進出
が進む中、日本の領土防衛がより深刻の課題となっている。そこで果たして、
有事の際に米国は本当に日本を守ってくれるかが問われている。「見捨てられ」
の懸念である。 昨日の内容を、眉唾と思った読者が多くいたと思われたと
推測するので、この一節を紹介する…
≪ ・井上: 日米安保から巨大な利益を受けているのは、むしろアメリカ。
日本はただ乗りどころか巨大な負担を背負わされている。アメリカは、海外に
おける世界最大のしかも代替え不能な戦略拠点を日本に持っているわけですから。
ベトナム戦争も、朝鮮戦争の時もそうだった。日本は技術水準の極めて高い兵站
拠点になるわけ。石油基地にしても、海軍の最大ものは、本土にあるが、第二、
第三位は日本にあり、二つを合わせるとアメリカ本土より大きい。その放棄は、
世界に対する軍事的な優位を放棄することになる。アメリカが、この大事な拠点
を保持する経費は殆どタダです。日本が75%の駐留費を持っている。もっと負担
をしろと言ったのはトランプだけ。知らないだけです。
…日本人が「見捨てれれ不安」を持っているのは、日米安保の軍事的・戦略的
実態に対し知識が無さすぎるからです。軍事問題がタブー化していたためです。
・香山: 50年前に、精神疾患と思しきゴールドウォーターがジョンソンと
大統領選で闘った時、敗戦後の裁判で、彼が勝訴した。その時以来、『診断を
してない著名人の精神鑑定を、精神科医が診断するのを控えるべし』という
規定をつくった背景がある。トランプが大統領になって以来の、問題の続出で、
「黙っていられない」とばかりに何人かの精神科医が口を開き出した。
「自己愛性パーソナリティー障害」が一番多く、他に
「反社会性パーソナリティ障害」「妄想性障害」…
…その都度、精神学会が警告を出しているが、精神科医たちは、「私たちには
危険を社会に警告する義務があるのだ」と引かず、シンポジウムや、本を出したり
デモをしたりしています。私自身、トランプ氏の多くを知りませんが、何らかの
パーソナリティ障害、それも‘かなり病態水準が悪い’と思います。病態水準とは、
現実検討能力、自我同一性、心的防衛メカニズムが上手く機能しているかどうかで
判断するのですが、いずれもかなり低めで、人格のまとまりが悪いということ。≫
―
▼ アメリカの民主党だけでなく、共和党さえも、この怒れた老人を苦々しく
思っているようだ。歴史に残る漫画的日々を全世界が唖然と見ているのが実態。
安倍首相の政治生命も、危険状態の極みにあるようだが、トランプ退陣以降も
考えておくべきである。
熊: 副大統領のクーデターかい?
寅: そりゃないよ! いくら何でも!
颯太: とすると… 発病? 心不全、脳梗塞?
熊: やば!
颯太: ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の末尾で、
「語りえないものについては沈黙しなければならない」といったけど
我々庶民は、黙って静観するしかないのかな~。
大家: …「 」… 性質の悪い「劇場型コミックショー」ですか。
・・・・・・
4391、大衆は何も考えない
2013年03月25日(月)
* 劇場版「相棒の映画感想
一年前から、平日の16時から刑事モノ「相棒」の再放送をみているが、
物語に捻りと味わいがあって面白い。一昨日、その劇場版をシネマで見てきた。
ーまずは、専用サイトの内容よりー
【‘謎のデータ’がネット上にバラ撒かれ、削除された・・。
直後、燃え残った数十枚の一万円札と死体が発見された現場で、捜査一課刑事
・伊丹とサイバー犯罪対策課専門捜査官・岩月は出会った。死体は東京明和銀行
本店システム部の中山雄吾。ネットに不正アクセスし、機密情報を流していた
疑いでサイバー犯罪対策課にマークされていた。殺人事件として真実を追う
伊丹、不正アクセス容疑を追う岩月。いがみ合いながらも、共に捜査を進めて
いく二人だったが、目に見えない圧力に曝され、捜査は行き詰っていく・・。】
ー私の主観で要約するとー
≪ 官僚が銀行閉鎖の「Xデー」を策定・計画していた。が、その内容が
ネット上に流され、それを知った暴力団関係のトレーダーが、そのXデーを
知ろうとして偶発的に告発者を殺してしまう。しかし官僚たちと政治家と警察
トップが、銀行閉鎖の計画を知られるのを阻止するため捜査妨害する。公然と
マスコミに出てしまえば、その日がXデーになってしまうからだ。
キプロスで偶然、銀行閉鎖騒ぎがあったこともあり、銀行の取付け騒ぎや
銀行閉鎖計画に現実味が感じられる内容。金融庁などの各省官僚と政治家の
打ち合わせの中の言葉が、辛らつ、かつ真実を含んでいる。
・国民は、厳しい現実を示されるより、甘い将来の絵図を求めている。
・難しい真実より、簡単な嘘を好む。
・現在が、そのまま将来も続くと信じて疑わない。
現在何が起こっているか知ろうとしない。 等々、
アベノミクスに両手を上げて喜んでいる愚衆を、そのまま言い当てている。
貨幣も国債も信用があってこそ通用する。誰も信用しなくなったら只の紙切れ。
映画とはいえ、現在進行形のアベノミクスを批判している。アベノミクスで
Xデーを早める必要性も確かにある。何れにせよ、一度、焼け野原にしてから
立て直さなければならないならば。それにしても、あまりに国民は無知と
(私を含め)思い知る。少し逸れるが、このオバマの中東訪問で、
「シリアへの攻撃と、イスラエルのイラン核施設攻撃のXデーの相互確認が
あった」という仮説を立て二人の会見をみると、近々に始まると思えたが。
・・・・・・
5488、閑話小題 ~人間の尊厳とは
2016年03月25日(金)
*「人生の意味」の、コペルニクス的転回
~主語を入れ替えるか、逆照射をするか
カントは、認識について、「対象が意識を規定するのではなく、
意識が対象を規定する」と、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に
従う」と、コペルニクス的転換を示した。 かってテーマとして取上げたが、
フランクルは、アウシュビッツで、『私が人生の意味を問う』のではなくて、
『私自身が人生から問われたものとして体験される』と、転換してみせた。
この逆照射の視点から、人間の尊厳の問題が提示される。
『生きるとは、人間としての尊厳を大事にすること』と。
・『幸福とは、上手くいったからなるのではなく、幸福だから上手くいく』
という、幸福論がある。学生時代に、ある2つのグループに属したことが
あったが、上記の通りである。彼らは、明るく、物事に動じず、教養があり、
気楽で、積極果敢の要素を多く持っていた。
~フランクの哲学をネット検索~
≪ 「 私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」
そう言って生きることをやめようとした囚人に、フランクルは説く。
「他人によって取り替えることができないこと、かけがえのないあなたを
待っている仕事、待っている愛する人がいる。人生はあなたからあるものを
期待している」と。 フランクルたち囚人は、そのすざましい生活において、
生きるための「なぜ」を常に問わなければならなかった。そして、生活目的
を意識する。 目的が無くなったととたん存在の意味も消えてしまいます。
拠り所が無くなった人は死んでしまうのです。
そして、生きのびるために、人生の意味をひっくり返した。
『人生から何をわれわれは期待できるか』が、問題ではなくて、
『人生が何をわれわれから期待しているか』が、問題なのだと。
『私が人生の意味を問う』のではなくて、『私自身が人生から問われたもの』
として体験される。人生は、私に毎日毎時問いを提出し、私はその問いに、
詮索や口先だけでなくて、正しい行為によって応答しなければならない。
「われわれ」「私」と「人生」を入れ替えることで、まったく違う世界を
出現させたのです。≫ ー別の検索結果はー
≪「生きる意味」は強制収容所の中でのみ必要だったのではなく、強制収容所
は単なる野蛮な装置ではなく、凝縮された異形の近現代でもあった。
人生の無意味さに悩み、人生の意味に憔悴する「時代の精神病理」は、
これから近現代が極まろうとしている21世紀において、ますます世界を覆って
いるのではないか。これは、飽食と並ぶ先進国病理ではなく、近現代の成り
ゆく果ての病理としてとらえるべきではないかと。「ぜいたく病」ではなく
必然の摩擦ではないのかと。
「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味が
あるはず。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも
生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という
存在ははじめて完全なものになるのだ。」 池田香代子訳『夜と霧』より≫
▼ フランクルの強制収容所の経験の後で書くこと自体が、そぐわないが、
私自身にも、かって心の変化があった。どん底の時節に、沸いて出た言葉が、
『この最悪の状況は、私にとっての最高の状況ではないか。最悪と思っている
現在こそが、事業に耐える力を培っている。何を勘違いしているのだろう』
という心の大転換だった。5年前の会社整理の時に思ったことは、
『この結果に意味(価値)がある。事業の準備から、創業、会社清算の一連
を含めた45年間の一括りを、「学び、遊び、働き」のきり口で物語化して捉え、
自分で納得できれば、それで充分。他者の視線、批判に惑わされることはない』
である。で、直後に、シリーズのテーマとして、ここで書いていた。
残ったのは充実感だけだが、それで十分。 ・・として思うしかない!
で、これも丁度良く、以下に続いていく。
・・・・・・
5123,「魂」の思想史 ー③
2015年03月25日(水)
~「魂」の思想史: 近代の異端者とともに ー酒井健 (著)
* ソクラテスを魅惑する魂
ソクラテスといえば、「魂の鍛錬」「対話術」「無知の知」がキーワード。
魂とは「神的でダイモン的な何か」として、その鍛錬を説く。~その辺りから~
≪(p17) ソクラテス自身に最も人知の限界を意識させたのは、ほかならぬ
彼の内部から立ち上がってくる声。いくら知ろうと思っても認識できない。
声といっても、明確に言葉を発するわけでなく、いつ心のなかに発生するかも
分からない正体不明の存在です。自分のなかに棲む謎の他者。分からないまま
現れて自分を翻弄する何ものか。この声は自分を毒したと正義のソクラテスは
強弁していますが、はたしてそうだったのでしょうか。
この声が国事への公的参加をソクラテスに拒ませたのはたしかに正しかった
と思われます。しかし彼が公的な場にいようと、私的な活動の場にいようと、
あの「神的でダイモン的な何か」は曖昧な動きを呈します。しっかり動かない
既存の制度、慣習、信仰とは反りのあわない暖昧な動きです。そして彼の意識
の底で果ての知れない広がりを呈しています。大きな魂と呼んでもいいでしょう。
彼の「無知の知」の教説、彼の正義、心、そして自分自身のものと彼が考えて
いた魂は、この大きな魂と表裏一体になっていて、しかもその底から、大きな
魂を定かには見えないかたちで溢れ出るにまかせていたと思えてくるのです。
そのことは、はたしてソクラテスにとってよいことだったのでしょうか。
無知を人に悟らせるのは間違ったことではありません。立派な正義です。
しかしソクラテスの言動は正論であると同時に正論を超える何かを放っていた。
彼を死なせるほどにです。公開裁判で、彼は、五百一人の民衆裁判官に対し、
まるで自分を有罪へ、そして死刑へ、煽り立てるように挑発的正論をぶった。≫
▼ ネット検索に(ソクラテス ダイモン)と入力すると、
<ソクラテスは、自然に際して合理的思考を、対話・議論には論理性を重視
するが、その一方で内面にダイモンという神霊の声を聞いて茫然自失の態に陥る
ことが多かったと言われます。ダイモンは『善なる神霊あるいは悪なる神霊』
とされますが、その実態は詳らかではなく、ソクラテスの意識に突如飛来する
神秘的現象であり、ソクラテス自身には『内なる道徳律を示す声』のような
認識が為されていたようで、自らが道徳律に反する悪しき行為を為そうとする
時に『それを為すべからず』といった形でダイモンの合図がやってきた。
現代の脳神経科学的な見地からは、てんかん発作に近い意識消失を起こしたと
されます。しかし、ソクラテスの脳内現象とダイモンの出現を結びつけて、
神霊としてのダイモンは幻影に過ぎないと科学的判断で切り捨ては出来ますが、
心的リアリティとして『内面的な良心や倫理観の象徴としての神霊』は実在した
こともまた事実です。> とある。彼は、一切の著書を残さず、その言説は、
弟子のプラトンによるもの。欧州の発生の地で、2千5百年前のギリシャで、
こういう議論が戦われていたとは、驚きである!それにつけても私の脳は・・
ー思いまどうことはない、人生は無意味なのだ ーサマーセット・モーム