読書日記 ~すべての悩みは対人関係 ~2

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        『アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』小倉広・著
   
 アドラーは読めば読むほど、その奥行きの深さに驚かされる。
前向きで明るい健康的であるのが特徴。『日々是好日』こそ人生と…
その業績が多大で無料の採石場のように盗用されている割に、誰もが、それを
隠す。シンプルで当り前のことばかり。 そのあたりま」こそが真実であり、
答えである。それは現代の個人主義の背骨のようであり、何時の間にか我々の
根幹に沈殿している。
≪  ☆ すべてはアナタが決めたこと
・重要なことは人が何を持っているかではなく、与えられたものをどう使い
 こなすかである。」
・人生が困難なのではない。あなたが人生を困難にしているのだ。
 人生は、きわめてシンプルである。
・たとえ不治の病の床にあっても、天を恨み泣き暮らすか、周囲に感謝し、
 余生を充実させるか、それは自分で決めることができる。
・遺伝や育った環境は単なる『材料』でしかない。その材料を使って、
 住みやすい家を建てるかは、あなた自身が決めればいい。
・人は過去に縛られているのでない。あなたの描く未来があなたを規定して
 いるのだ。過去の原因は「解説」にはなっても「解決」にはならない。
・敗北を避けるために、時に人は病気になる。
 そう言い訳をして安全地帯に逃げ込み、ラクをするのだ。
・「やる気がなくなった」のではない。
 「やる気をなくす」という決断を自分でしただけ。
 「変われない」のではない。
 「変わらない」という決断を自分でしているだけだ。
・遺伝もトラウマもあなたを支配していない。どんな過去であれ、
 未来は「今ここにいるあなた」が作るのだ。 ≫
 ―
▼ バナナ(内側が白で、皮が黄色)を標榜しているため、個人主義
 傾向が強いこともあり、どれも当り前のことばかり。立上げ屋(創業)を
目指した人生なるが故に、既存システム、常識の破壊から入る。そのため、
ことの本質をシンプル、スペシャル、スタンダードにして、集中して対象に
取組むしかない。行動の『行』は、仏教用語。判断、決断の意味がある。
決断したら、手持ちの自己能力を設定をして足りない材料を集めなくては
ならない。要するに「夢ツリー」の作成である。5w1Hで、ツリーを装飾で
満たしていく。カレーを作ろうとしたら、冷蔵庫の材料を調べて足りない
材料を買い出しにいくのと同じ。「カレーライスを食べたい、つくろうか!」
は「その人が決めたこと」。 外は、大嵐なら、翌日にすればよい。
 
 * 偶然、以下の3年前の内容が、この内容に丁度よく対応している。

・・・・・・
5454,閑話小題 ~逃げるから怖ろしいのだ
2016年02月20日(土)
『 悲しいから泣くのではない、泣くから悲しくなる。
  怖いから逃げるのではない。逃げるから怖くなるのだ。』
と、100年ほど前に、アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズと、
オランダの心理学者カール・ランゲが提唱した、ジェームズ=ランゲ説で、
「身体反応は情動経験に先立つものだと」言う見解で、骨格筋や内臓の
変化が情動を引き起こすと考えた。
 <悲しいは「感情」で、泣くは「情動の表出(身体反応)」>
情動反応(身体反応)が先立って→感情(情動:感情の感知)をうむ。
 事業清算の直後、身の置き所がなくて、弁護士に、『気分を切り換える
ため、東京でも一週間位、行きたいが・・』と切出したところ、即座に、
『絶対に後ろを向いたら駄目です。ジッとして問題を見据える今が一番肝心
な時です!』と。何度か起業を経験し、難問を乗越えてきた経験から、その
意味が直ぐに理解できた。 その時々の難問に、『正 中心 一点 無』を、
唱え、ただ無心に一つずつ正論(正道)を考えてこなしてきた。だから、
『 悲しいから泣くのではない、泣くから悲しくなる。怖いから 逃げる
 のではない。逃げるから怖くなるのだ。』は、実感として理解できた。
『うまくいったから、幸せになるのでなく、幸せだからこそ、良いことが
集まってくる』の道理もある。他者の実情は知らないが、私には三桁の
至高体験がある。事業の立上げの直後や、秘境ツアー先で出会った
大自然との邂逅や、名画を観て感動したとか、上げればきりがない。
それらは、みずからが、足を運んで求めたからこそ味わえた感動である。
 昔から、信じられないほど多くの、おっとり型の長女系美人と出会った。
末っ子のためか、何故か気があう? ただ、それだけだが、いつも、情動なく
終わってしまうが、後悔が全くないのも、変といえば変。私には感情反応と
情動反応の線上が一番面白いところ。女性はその境に敏感、その辺りは
気ままな4人の姉の観察から学び過ぎるほど? で、最後は(。_ _)シュン 
学生時代、「人に好かれたいと思ったら、先に好きになること。」と
教わった。好かれるのは難しいが、好きになるのは御手のものと・・
 で、 ~また丁度よく以下につづく(一昨年も)  ゥゎ━。゚(゚´Д`*゚)
字をとったGNP営業の典型。
 バブル崩壊後に、その営業職員の膨大の経費を維持するため、収益の高い
死亡保険を大型にした保険会社に有利な、複雑化した、顧客無視の営業をする
ようになった。 その頃、保険会社は、それまでの顧客にとって有利の商品を
解約させ、セールスを使い利回りの悪い商品に切り替えさせていった。
その辺(01~05年)から保険会社は悪質な営業説明で本来加入できない
病歴のある顧客に加入させ、その後、契約不備を理由に保険金拒否をして社会的
大問題になった。 何と37社で130万件に至ったという。
 早くいえば、セールスレディーというオバサンを集めて、GNPで、
その人脈を食い尽くす。それは巧妙なテクニック、何も知らない素人を、
ほぼ騙しで契約をさせる悪質集団という側面を持つ。フレンドリーに長年
かけ知人・親戚に入り込む。合理的の欧米人の二倍の加入率は、組織的意図
がないと無理。 生保で、まともなのは学資保険ぐらいのもの。
22歳まで死んだときに子供の学資を保証するのは、一応、理に合っている。 
それ以外の商品の多くは、客単価を上げるための巧妙な商品。読みも理解も
できない契約書に巧妙に生保にとって有利な条文が入れてある。 
見方によれば合法的組織犯罪に近い集団。それなら預金の方が良いが、
相手はフレンドリーのプロ。その辺の理屈が理解できない人たちの不安に
付け込むのが営業センス。


・・・・・・
6187,閑話小題 ~恋と愛の違い -3
2018年02月20日(火)
   * 『男はつらいよ』~寅の恋愛談義
男はつらいよ』のシリーズ48作全てをみてきた。それに加えTVの放映で、
それぞれ2~3回はみている。マニアックほどでもないが、同年代からしたら
多いはず。アウトサイダーの生き方に同調するが、何か許されてしまう甘えも
自分をみているようである。
  ~ネット検索で調べると、
《 テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子
 に故郷の葛飾柴又に戻ってきては、何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。
 毎回、旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも、失恋するか身を引くかして
 成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。
 主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることがある。》
《 松竹によって1969年(昭和44年)から1995年(平成7年)までに全48作が、
 1997年(平成9年)に特別編1本が製作された。渥美の死去により、1995年に
 公開された第48作『寅次郎紅の花』をもって幕を閉じた。 》
《 参道の中ほどに一軒のだんご屋がある。「とらや」を名乗っている。
 当初は「柴又屋」といった。のれん、売り台、立看板などを持ち込んで店の
 中から表の参道向きのカットを撮った。年に二回も撮影があるんだからと
 気安く、大きく重い売り台を小道具係が置いてきた。店でも便利なので
 そのまま使っていた。売り台の正面に「とらや」と出ているので、通りすがり
 の参詣客が「あら、ここが映画の『とらや』よ」。そこで、店では、だんごの
 売り台を中央に据え、屋根看板も「柴又屋」から「とらや」に変えてしまった。
 宣伝部が抗議を申し入れたが、店側は柳に風。とうとう我々が我慢できず、
 次の作品から「とらや」から「くるまや」に屋号を変えた。》

――
大家: 八つぁんが、<寅のマドンナ役への想いが「恋」の典型だ>という
  言説が単純明快で解りやすいんで、改めて話を聞かせて貰うよ。 、
八つぁん: 前回、ふと思いついたが、言われてみりゃあ、いい着眼点だね。
  思春期そのままの寅さんのマドンナへの憧れが「恋」。「トラ屋」の親族
  の面々の互いの思いやりが「愛」で、その織りなす絵柄が物語とね。
大家: よくよく見ていると、物語の奥には仏教思想が流れている。
  『空即是色』だよ。俗世の欲やシガラミから解き放されて自由気ままに
  旅する姿に、男のロマンの物語。 私の好きな寅さんの口上に、
 【"ああ生まれてきて良かった、そう思うことが何べんかあるだろう。
   そのために生きてんじゃねえか。" 】がある。
八つぁん: 高度成長時代で地方から都会に移り住み、日常に忙殺され、ふと
  田舎の家族を懐かしむ人たちへの温もりを提供した映画。 私が大学を
  卒業をして6~7年、地方都市(四日市、神戸、千葉、金沢)を転々として
  いた時に、上映すると、必ず見に行っていた映画。 思い出深いのが、
  卒業の翌年、四日市で、みた第3作 (昭和45年1月) …
 <オジちゃん、おばさん夫婦が、三重県湯の山温泉へ旅行に行くと、なんと
  旅館で寅さんが番頭をしていた。旅館の美人女将・志津(新珠三千代)に
  一目惚れして、居着いてしまったという物語。>
  湯の山温泉は、寄宿していた四日市近郊もあり、生々しい感覚があった。
大家: 御前さんも、色いろあったんだ。
八つぁん: キツカッタ時節だった。よく潰れなかったのが不思議なくらい。
  でもさ、20,30歳代は、誰も多かれ少なかれ一杯いっぱいだろう。その頃、
  寅さんと自分の不安定な日々が重ねってね。涙して見ていましたよ。
  一番辛い時こそ、一番、良いことが足下に埋まっていたね。とにかく、
  自分で事業のネタを探し、独りで、コツコツ固めていくのは、それは大変。
  事業構想の絵図を何も手掛かりも曖昧の中で模索するのは、簡単ではない。
  「マドンナ」への思いを横にスライドして、「事業構想」を求めるのはね。
  朧げな絵柄をイメージし、構想するし、単独で実践する行為は、孤独業
  そのもの。五円玉の真中に穴が開いている。その、ど真中の穴を凝視して、
  その先に何やしらのヒントを探す日々。そこに得体のしれないエネルギが
  沸き起こる。
寅: 面白そうだね。初めて聞く話だよ。
八つぁん: 自然と出てきた例えだよ。「正・中心・一点・無」を5円玉に
  見たのだろう。真中の穴は、円玉があればこそ存在する空間である。
  その空白こそ、エネルギーの元になるんだ? 
寅: 何か分かるんだ、それ。棒だけ望んで、ハリだけ叶うだね。
大家: 話が、逸れたね。
八つぁん: 恋と愛の違いだろう。「恋は妄想に始まり、実行で実を結び、愛と
  なる」で、逸れてもいないよ。で、フーテンの寅が何か言わせろという…
                         ~つづく
・・・・・・
4725,近代化が進むほど、幸福感が少なくなるのは何故? ー1
2014年02月20日(木)
  * 王様の代わりに貨幣が君臨するのが近代資本主義?   
         ー「経済予測脳で人生が変わる!」中原圭介著
事業の結果が、この有様だったが、何かさばさばして心身とも空を浮いた
ようで、「ほどほどで、後継者に引継ぐより、これがベスト?の感覚は、
何だろう?」と考えていたが、そのヒントが、この本にあった。 
森林でこそ事業経営も面白いが、そこを出てしまえば、充実していたか
の満足感の違いだけ。問題は、その後の準備をしていたかどうか。 
ライフワークがあったかどうか。 脱コード化の次への準備こそが、必要
だったことになる。王様の支配から資本支配にかわった体制が近代資本主義
であり、金の力が、国も、個人の価値基準になっている。しかし、この近代
資本主義も、一部に力が集中する弊害があって矛盾が出始めてきた。 
  ーその辺りを抜粋ー
《 ドォルーズとガタリは、人間の欲動が制御され、文化が形成されていく
  過程を次のように発展段階的に説明する。
 �コード化(原始共同体)=個個人の平面的ぶつかり合いで秩序形成が出来る
 �超コード化(古代専制国家)  =王様が秩序形成
 �脱コード化(近代資本制)   =王様に代わり貨幣が君臨する
・「コード化」とは、拡散する人間の欲動を一定方向に導くこと、つまり
 「秩序形成」と考えればいいでしょう。『構造と力』では、「コード化」
 から「超コード化」までの過程が描き出されています。
・「個人対個人」を原点とする平面的なぶつかり合いによって「秩序形成」
  (コード化)が進行し、やがて王を頂点とする「垂直的な秩序形成」
  (超コード化)に発展するという流れです。
・「超コード化」に続く流れとして、いままさにわれわれが生きている
 「近代資本制」(脱コード化)社会の構造と、それを乗り越えた先にある、
 新たな世界の姿を描き出そうとしています。そしてこの部分が、
 「現代人が幸福になれない理由」と、その突破口を示しているのです。
・「超コード化」(古代専制国家)された社会では、王を頂点とする秩序に
 よって社会の安定が保たれます。この「安定化の仕組み」こそが、
 ドゥルーズガタリらの構造主義者が説く「構造」にほかなりません。
・ しかし、われわれが生きる「脱コード化」(近代資本制)された社会に
 おいては、すでに王は存在しません。英国やオランダ、スペイン、タイ
 など、いまでも「王国」は存在しますが、そのほとんどは、日本の天皇
 同じように象徴的存在と化しています。ドゥルーズーーガタリによれば、
 「脱コード化」社会において、王の代わりに秩序を生み出す存在とは
 「貨幣」になります。「超コード化」社会における「安定化の構造」
 (秩序の枠組み)は、王を頂点とする円錐形を形成しています。》
▼「脱コード社会では、人はお金への欲動に突き動かされるが、お金を得る
 とさらなるお金を求め資本として再投下、もっと多くの金を得ようとする。
 際限なく人は、これを繰り返す」これが、現代資本主義の正体である。
 だから幸せにはなれない。それも情報化、グローバル化が、一部の強者に
 力が集中させてしまう。しかし貨幣の正体は、情報そのもの。人間の持つ潜在
 の自然の大きな力が、プラスにも働くのでは?という楽観論を信じたいが・・
・・・・・・
5090, タガメ女の正体  ー⑤
2015年02月20日(金)
  * 恋愛結婚に恋愛なし (◎ n`◎)
 ほぼ大部分の人は、結婚して暫くすると、何か奇妙な感覚になる。
そして、相手を間違えたと誤解する。誤解でも何でもない。
元もと、結婚=幸福は思い込み、共同幻想でしかない。だから今では
三分の一が離婚する。家庭内離婚を含めると、9割が破綻しているのが、
実情のようだ。偽装の幸せ家族を、「幸せの実演」とは言いえて妙である。
≪ ここで指摘している「タガメ女」と「カエル男」の定義は我々が潜在的
 抱えていながら口に出すことができない「恐怖」をズバリ言い当てている。
そもそも「結婚」や「家庭」を、無前提で「幸福なものとするのは、幻想や
思い込みにすぎず、捕食者が獲物の「生」を奪うことで維持されている現実を
直視する恐怖がある。幸せであるはずの結婚と家庭が、何故か息苦しい、張合
がない、なぜか心底幸福感が得られないのか?その答えは、この婚姻関係が
愛しあった結果でなく、捕食者と獲物の関係だからです。それに気づいても
口に出せない、出したら自分が不幸と認めなければならない。今、口に出す
「幸せ」は実は偽装されたもので、「幸せ実演」「周囲への誇示」のため、
結びついただけの関係を認めなければならない。タガメに箍をはめられ、
血肉を吸い取られたカエル男。その大群が満員電車に揺られ・・ ≫
▼ 結婚以来、何かモヤモヤした感情と原因を、ズバリ指摘している。
 認めたくない人は、問題の根源の「タガメ女」と「カエル男」から
目を背ければよい。「所詮、男はそんなもの」「男のすべては消耗品」
で、直視しないできたツケが、第二の人生にまわってくる。・(ノД`)ヽ(゚ω゚=
身近な4人の姉をみていると、まさに捕食者のそれ。いや、家内も!
植木等の「スーダラ節」が、カエル男のそれ。ヤケッパチになるしかない。
戦略的カニバサミで捕食され、一生、毟り取られる人生! (w_-; ウゥ・・
・・・・・・ 
3618,  忘却の整理学 ー3
2011年02月20日(日)
   「忘却の整理学」外山滋比著
 ここで、著者は早朝に目をつける。どうも、夜の間に忘却が起こることは
たしかであると。忘却が頭を働かせやすく、きれいに整理をしてくれるとすると、
一夜明けた朝がモノゴトを考えるに適しているのは当然である。昔から、それに
気づいていた人は少なくなかった。イギリスの詩人のウィリアム・ブレイク
次のようなを紹介してある。
   朝、考える ひるは はたらき 夕がた 食し 夜は 眠れ
 まず 朝いちばんに思考せよ である。 他の仕事は、そのあとでよい。
昔、中国の役所は、朝、日が昇ると同時に開始されたという。 それで、
「朝」廷で、効率的であることを知っていたのである。日本の諺に、簡単の仕事
を「朝飯前の仕事」というのがある。 本来は朝飯前に手がければ、簡単な仕事
でなくても、頭は整理されていて、仕事の判断、手順がたしかで処理が早くなる
ということから来ている。もう一つ、思考に向いているのは夕食前である。
その時間は早朝と同じで、働いた後で、空腹も加えて脳が活性化している。
更に勧めているのが昼休みの短時間の昼寝。そこに僅かな時間でも睡眠をとる
ことで、忘却の要素を入れることになる。最近、再開をした
「モーニング・ペイジ」がある。 白紙の大学ノートに30分位、思いのままを
書き付ける。早朝だから、自然に出てくる言葉は、外部情報に染まってないサラの
内部?から声を掬い取ることになる。ところで以前に、過去の全てを忘却した男
の映画をみたことがある。その時に過去の記憶こそ、人間形成をしていると思い知る。
ということは記憶と忘却の形が、その人物形成をしていることになる。
忘却の、いま一つの方法は、より刺激の強い経験を挟むことだ。忘れようとしても
忘れられないなら、より刺激の強い何かを探し、そこに気持ちを切り替えることだ。
それは前向きということになる。後ろを向いて記憶を強化ばかりしてないで、
目先を変えることが忘却の一番の方法。 ーつづく
・・・・・・
5820,緩和小題 ~しまった!  ーほら見ろよ!ー  8
2017年02月20日(月)      
      < しまった! 「失敗の心理」を科学する
       ジョゼフ・T・ハリナン (著) >
   * 後知恵バイアス ~ほら見ろよ! 
 『後知恵バイアス』をネット検索をすると… 、
【自他の失敗・成功に、初めから「そうだと思った」と予言者風に感じる
 人間の傾向をいう。プロセスや結果を無視し、何も行動も、決断もしない
 無為の人が、結果論で人を不当に評価する。】
とあった。誰も持っている性癖だが、問題は、その濃度。それぞれの心には
壁がある。その境は、普段、多様している「後知恵バイアス」の積み重ね。
これは意外な落し穴。世間様の常用会話で、このロジックに注意をしないと、
何時の間にか仲間入り。 6年前の節目時に、「ウダツの上がらない人生を
過ごしてきた人」ほど手の平を返してきた。 可愛いものだが。私たちは、
この「後知恵バイアス」の変換用語の「ほら見ろよ」で、思考レベルを下げて
きた。それが自分の失敗には、「覧の通り、そのまま結構」と呟くだけで、
原因追及をしない。しかし、その辺のボウフラが、その辺りを浅い物語として
創作してくれている。それが、『水戸黄門』『相棒』の上から目線の勧善懲悪
のシナリオそのまま。 悪役や三枚目に、『ほら見ろよ』と鬱憤を晴らし、
自己完結させるオチ。 他人事でない。『相棒』は、再放送分を週に数本は
薄笑いをしながら見ている。で、時々、相棒二人の権力者の倫理観に、引き
込まれている己にハッとする。娯楽としても、強者の立場の二人が、弱者を
裁いているに過ぎない。そのシナリオままに、「ほら見ろよ」の自己満足を。
 で、「ほら見ろ」と、言う方と、言われる方の、どちらの人生を選ぶ?
当然、否応なく両方になるのが人生。少なくとも、無為の選択の「しまった!」
だけは避けたいが、それぞれ性格もある。してしまった後悔、しなかった後悔。
そこで充実感の質量が問われることになる。「脱皮できない蛇は‘畜生’と
言い残して死ぬ!」ですか。私には「しまった!」より、「ったく!」が合う。
・・・・・・・・
3253, 置き引き…?
 2010年02月20日(土)
一昨日、新潟の万代シティの近くのマクドナルドで海老バーガーを食べて、
最後にポテトフライをつまんでいた。半分ほど食べたところ腹は一杯。持って
帰るか、食べて帰ろうかと。 で、そこからである。60歳後半の暗い顔をした
男がやってきて、私が一番奥に座っている隣席をみて、そのまま店頭にある
売店の方に戻っていった。自分の席でも確認して注文した商品を取りにいったと、
ポテトフライを摘みながら思っていた。ところが女性の一人客がきてバックを
置いて店頭のほうに戻っていった。その直後に男が戻ってきて、その席をジッと
見ている。自分の座ろうとしていた席を取られて他の席を探しているのだろうと
思っていた。 ところが、もう一人の女性客が目前の席にバックを置いて
店頭に行った。その男、再び戻ってきて、後に来た客のバックを見ている。
その時は、その男、自分で座ろうとしていた席を二度まで取られて、それを
見ていたのだろうと思っていた。しかし私の一つ置いた席の女性が何か不審
そうな感じで、その男を見ている。 
(字数制限のためカット 2012年2月20日