<チンパンジーと人間との違いは想像するちから
                |松沢哲郎 ・動物心理学者、霊長類学者>
   * 想像力は感激、感動から
 今さらだが、人間たる由縁は「想像するちから』である。霊長類学者が
語る論は説得力がある。想像の力は、異質との出会いと邂逅から生まれ出る。
それが発達、発展して人間は万物の霊長と言われるようになった。 人間は
一万時間を一つに集中すると、専門能力が形成されるという。そこで、毎日、
一テーマを自らに課して17年。二万時間をブログに投入し、蓄積をしてきた。
「馬鹿の考え休むに似たり!」の休息にいなっていた? 何かを得たか?の
問題ではない。休まるのである。 得た一つが、集中の継続から得た想像力。
夜半の半睡眠から起床し、書きかけのテーマの内容を考える。
ふと【検索】で、「チンパンジーと人間」を入力すると、面白いのがあった。

≪ もっと簡単な方法は外国に行くこと。外国に行き、外から日本を見れば、
どういう国かすぐわかる。これと同じように「人間とはなにか?」という問いを
立てられたとき、人間に近いチンパンジーという「アウトグループ(よそもの)」
を知れば、人間がより深く理解できます。
 地球に住む数千万種類の生命のなかで、いちばん人間に近いのがチンパンジー
であるというのが、21世紀の人類が到達した理解です。ヒトゲノムが2003年に、
チンパンジーゲノムも2005年に解読されました。これによって両者のゲノム
塩基配列が98.8%同じだとわかった。新しい人間観が生まれるなかで、いちばん
重要なアウトグループがチンパンジーなんですね。
 人間とあまり変わらないチンパンジーと、私たちはどこが違うのか。
人間の特徴は「想像する」ということです。チンパンジーは未来を想像しない
から絶望はしませんが、人間は容易に絶望する。でも、絶望するのと同じ能力の
「未来を想像するちから」があるから、人間は希望をもてる。私たちは必ず
死にます。だけど、自暴自棄にはならない。「毎日をよりよく生きよう」と
思うのが人間で、そう思い、希望をもつように進化してきたのです。≫

▼ 過って霊長類学者にして京都大学総長だった山極 壽一(1952年〜)が同じ
 ようなことをいっていた…。 松沢氏は、人間が有している「想像力」に注目。
米国合理主義に、プラス思考を発展しイメージを豊かにすることで、自己育成を
するプログラムがある。 またヨガを最初に持込んだ中村天風も。
その理念『積極一貫』の中から「想像力」を育成する効果を説いている。
『想像する能力』は、感動、感激する心から生まれ出る。大自然でもよい、
世界的芸術作品との邂逅でもよし。感激、感動は、その瞬間、対象と同化する。
その蓄積が、熟成し、更に感動を求め、自己を開放していく。そして、次の
新たな感動を求めて想像が膨らむ。好きなことを見つけ、継続することが
第一歩のようだ。

 で、偶然、以下の内容に脈絡として続いていく。
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4547, 閑話小題 ー海外ツアー48回のフラッシュ
2013年08月28日(水)
   * 秘異境ツアーからのフラッシュ
 突然、思いもよらない過去の記憶が飛び出すことを「フラッシュ」という。
アメリカのTVドラマ『LOST』で、陸の孤島に墜落した登場人物の素性を表現
するのに各人の「フラッシュ」を利用していたが、巧い技法と感心した。
秘異郷ツアーの中では、次次と思いもよらない経験をする。しかし、その都度、
それを解釈をしている余裕がない。それが長い年月を経て、フラッシュとして
記憶の奥底から飛び出てくる。それはツアーだけではないが。還暦を過ぎた頃
から、バイアス(固定観念)が溶けてきたこともある。家内とは40回近くともに
旅行をしてきて、旅先の記憶が共有している。BS/TVなどで毎日のように
行先の何処かが放映されていて、それを録画で夕食時に見ているが、そこで多く
の記憶が蘇ってくるため、番組が行き先の追体験になる。出来る時に、出来た
ことに感謝している。『秘境旅行ーフラッシュバック』をテーマに書くつもり。
  * 消費税の増税の是非
 消費税を上げれば、その分、国民にとって実質所得ダウンになる。
それに2%のインフレターゲットとすれば、年金生活者など低所得者に大きな
負担が被ってくる。それも生活消費財から上がるから深刻な問題である。
しかし財政事情からみたら、消費税は上げざるを得ない事態。上げるも地獄、
上げないも地獄なら上げるしかない。現在の年金の収入では、月に10万円持ち
出しだが、今月から家内の年金が数万円アップで持ち出しは少しは減るが。
当初の予定は、敷地内の貸家の家賃収入で収支ゼロの予定だったが、古屋は敬遠
されて、2年間も空家状態。で、この二年半で、大きな買物はiPadを買っただけ。
自転車も、パソコンも、自動車も限界に近づいているが、それでも充分に使える。
家の中は要らないゴミの山。実際のところ、欲しいものは殆どないから不思議。
で、消費税増税の是非の話に戻すと、株式と国債の暴落を待って、一度、根本
から精算するしかないのは、誰の目にも明らか。今の日本では改革の断行は
無理の中、外国へのポーズとしても、増税は99%は、やってくる!
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4172, 木を見る西洋人 森を見る東洋人
2012年08月28日(火)
 * 認知科学者は間違っていた? 
       「木を見る西洋人 森を見る東洋人」ニスベッド著
 最近になり「自分が理解していることは、言葉で説明すれば相手は理解して
くれているはず!」が、私の思い込みに気づいた。人間は知りうる範囲で理解
しているだけだが、自分が理解している範囲とは違うのである。 
「自分が真実と思っていることと、真実は違う」のである。真実と思っても、
思い込みのことがあまりに多い。今まで国や文化や肌の色や宗教によって世界観
が変わっても、人間がものを考えるために用いる道具は同じと誰も疑わなかった。
「ものごとを知覚したり、推論するために用いている道具は同じである。
論理的に正しい文章は、日本語も英語も中国語であれ、正しいことに
変わりはない。だが、もし、それら全てが間違っていたとしたら、認知科学
大前提を覆ることになる。」と、いう。
緑の原野で、何を見て、何を信じてきたのだろう。 
 ー以下の部分は、その部分ー
≪ ヨーロッパ人の思考は「対象の動きは(それが物体であれ、動物であれ、
 人間であれ)単純な規則によって理解可能である」との前提で成り立っている。
西洋人は物事をカテゴリーに分類することに強い関心をもっている。なぜなら、
分類することによって、今問題となっている対象にどの規則を適用すればよいか
がわかるからである。また、問題解決に当たっては形式的な論理規則を適用する
ことが有効だと信じている。これに対して、東アジア人は対象を広い文脈のなか
で捉える。アジア人にとって、世界は西洋人が思うよりも複雑であり、出来事を
理解するためには常に複雑に絡み合った多くの要因に思いを馳せる必要がある。
形式論理学はほとんど問題解決の役には立たない。実際、論理にこだわりすぎる
人間は未熟だとみなされることもある。私は心理学者として、これらの主張が
革命的な意味をもっていると感じた。もし彼らが正しければ認知科学者は
間違っていたことになる。つまり「人間の認知はどこでもみな同じ、ではない」。
人文・社会科学諸分野の研究者たちは、明確にそれと言わなかったが、実は
思考の本質について非常に重要な主張を行っていた。
 第一に異なる文化の人々は、世界の本質についてそれぞれの根本的
  メタフィジックスな信念、彼らなりの「形而上学」を有している。
 第二に、それぞれの人々に特徴的思考のプロセスには大きな違いがあること。
 第三に、そうした思考プロセスは、世界の本質についての信念に合致したもの
  であること。言い換えれば、人は自らの世界観に合致した方法で世界を
  認知するということである。 
注目すべきことに、社会の構造や人間観というものは、それぞれの社会に生きる
人々がもつ信念体系や認知プロセスと非常によく合致しているように思われる。
アジア社会は、集団や周囲の他者との協調を重んじる傾向があると言われる。
こうした特質は、アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向を
もっていることや「出来事は極めて複雑なもので、その生起には多くの要因が
関係している」と信じていることと合致。これに対して西洋社会は、個人主義
でお互いの独立性を重んじる傾向があるとされる。こうした西洋人が特定の事物
を周囲の文脈から切擁して観察する傾向をもっている。≫
▼「アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向をもっている
 ことに対して、西洋社会は、個人主義的でお互いの独立性を重んじる傾向が
あるとされ、西洋人が特定の事物を周囲の文脈から切り離して観察する傾向を
もっている。」ことより、「気を見る西洋人、森を見る東洋人」という本の題名
になっている。同じ森林を見ても、これだけ思考の仕方が違ってくる。
また一神教の欧米と多神教の東洋人とは、同じ現象でも受け止め方が違って当然。
それと、好き嫌いという感情で違ってくる。「世界についての考え方は根本的に
ひとつである」 大前提が違うとすると、文明の相克はあって当然。
争いは永遠に続くことになる。

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5279,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー?
2015年08月28日(金)
         <その時、言葉は私の「神」となるー中村うさぎ著>
       〜心肺停止になって考えたこと!(新潮45/6月号)
   * ナルシシズムと自己愛と、自尊心
 下の文章の初めの10行は、この数年の私の状況と気持ちそのもの。
状況からみて、人間の弱さを知っているためもあって、うつ病に陥らないため、
毎日の生活習慣を良好に保たなければ、自己愛も、自尊心も地に落ち、粉々に
なってしまう。全身全霊で日々を過ごさないと、あのゾンビのような魂の抜け
殻になってしまう事態は、むしろ、ベストである。 なるほど、
女無頼漢作家の言葉だからこそ、説得力がある。〜その辺りから〜
≪ 読者諸氏は私の文章を読んで「最近の中村は躍起になって自己肯定しようと
しているな」と思っていることだろう。そのとおりである。私は今、崩壊した
ブライドを必死になって立て直し、なんとか生き続けている。
何しろ「おまえなんかいらない。おまえになんか価値はない」と言い渡されて
しまったのだから、私の自己評価は地に堕ち、生きる意味も理由も見失ったのだ。
 それでも今後行き続けるためには、なんとか自分の人生の価値を再確認し、
生きる理由を見つけ出さなくてはならない。「私は生きてていいのだ」と自分
を納得させなくてはならない、そうでなければ私は死の誘惑に負けてしまう。
人はナルシシズムゆえに己を見失うものであるが、自己愛や自尊心といったもの
を失っては生きていけない。この「ナルシシズム」「自己愛」「自尊心」の違い
については私なりの定義がある。
・まず「ナルシシズム」の語源は、ご存じのように、ギリシャ神話の美少年
ナルキッソスで、彼は水に映った自分の美しさに恋い焦がれて死んでしまう。
そう、これは「愛」ではなく「恋」なのだ。我と我が身に陶然と惚れ込んで、
正しく自分を見られなくなってしまう。我々が恋人に自分の幻想を投影し、
相手の本当の姿を正しく見られなくなるのとまったく同じ構造である。
 ゆえに「ナルシシズム」とは「自分に恋すること」だ、と私は定義ずる。
・では、「自己愛」とは何か。「ナルシシズム」が「自分に恋する」ことなら、
「自己愛」とは文字どおり「自分を愛する」ことであろう。となると「恋」と
「愛」、の違いが、そのまま「ナルシシズム」と「自己愛」の違いになる。
「恋」が己の幻想に目を眩まされて盲目となる状態であるのに対して、「愛」
はより客観的な視点を持つ。相手の欠点も、きちんと見えていて、そこも含めて
愛するのだ。それは寛大さや公正さを含んでいる。したがって、「愛」は「恋」
よりも利己的ではなく独占支配的でもない。この「恋」と「愛」は非常に混同
されやすい感情である。たとえば「母性愛」の言葉で表現されている感情は、
私に言わせれば必ずしも「愛」ではない。盲目的で排他的な母性愛はもはや
「愛」ではなく「恋」に限りなく近いものであり、「ナルシシズム」の延長
線上に位置するものだと感じる。このように紛らわしく似て非なる存在である
ナルシシズム」と「自己愛」をきっちりと分けて考えると、おのずと我々に
とって必要なものは何であるかが明確になってこよう。
 我々はナルシシズムから極力脱却しようと試みる一方で、正当な自己愛を
失わないよう気をつけなくてはならない。自分をしっかりと見つめ、その弱さも
醜さも受け容れて愛すること…それが自己愛のあるべき形であろうと私は思う。
己の弱さや醜さを受け容れられずに目を背けたり美化したり、逆に激しく憎悪
したりするのは、すぺて「自己愛」ではなく「ナルシシズム」の仕業だ。
 自分嫌いは自分好きの裏返し、と、私は以前、子ども向けの自著で書いたが、
自分を憎んだり嫌悪したりする気持ちはじつはナルシシズム過多の証なのだ。
理想の自分、幻想の自分に恋するあまり、現実の自分を受け容れられない。
このようなナルシスティックな自分嫌いは、己の価埴を貶める行為であり、
いつまでたっても正当な自己評価には至らな仏のである。
・次は自尊心について考えてみたい。自尊心とほ、これまた文字どおり、
目分を尊重する気持ち」である。誰かに不当に賠められたりした時に傷つく
のは、この「自尊心」だ。「不当に」と言った、のは、それが正当な批判で
あれば、自尊心は傷つかないからである。自尊心はナルシシズムではなく、
公正なる自己愛によって裏付けられる。他人「批判されてカーッとなるのは
ナルシシズムだ。自己愛は、それが正当な批判でなければ謙虚に受け容れ、
的外れだと感じれば冷静に反論する。ただ、批判ですら根も葉もない誹謗中傷
に関して、それがたいてい陰口という形をとるために反論する機会すら与え
られず、自尊心が深く傷つく羽目になる。私はずっとナルシシズムによって
盲目⊂なることを恐れ、その一方で正当な愛を培おうと努力してきた。
それが成切したとはいわないが、少くともその切口の区別は常に意識していた
し、拙いながらも己の弱さや醜さと対時し、受け容れようと心がけてきた。≫
▼ 「ナルシシズム」が、異常に強い女性を身近で見かけるが、それが、
その人を。そして傍の人を、傷をつけていることに気づかない。
ナルシシズム」は、「自己愛」「自尊心」と似ているため、混合してしまう。
その危険性に、無頓着過ぎることが、大きな悲劇を呼びよせることになる。
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6009,閑話小題 〜駐車場事故は3割!
2017年08月28日(月)
   * 大手大橋をヒキチャリをして…
・先日、スポーツジムに、ヨガ予約・チップを取りに行った帰りの駐車場内で、
80歳半ばの老女が自転車に乗ったまま、突然、飛び出してきた。「危ない!」と、
思わず叫びながら急ブレーキを踏み、1m手前で辛うじて停止、事なきを得た。
その横道は一時停車の文字が書いてあるが、痴呆症が入った風で… 今まで、
無かった経験。雨だったら間違いなく事故っていた。
「交通事故の3割は駐車場事故」と聞いていたため、特に注意をしていた。
老女をひけば、ほぼ運転手側の責任になる。しかし、これでは避けようがない。
自動車運転の経験もなく、痴呆症が入った老女の自転車運転は、恐ろしい限り。
・半年ぐらい前に、同じSC内のスーパーで買物をした後、駐車スペースから
バックで出ようとした際に、80歳半ば過ぎの老人が運転席の前を横切った。
「ならば相方がいるはず」とバックを一瞬控えて、後ろを見ると、その連れ
合いらしき老婆が飛び出してきた。その直後、「もう、運転を止めよう。
前期高齢者が、後期高齢者を轢いてしまうケースになるところ!」」と、
真剣に考えてしまった。
――
   * 世の中、喜びや悲しみで満ち溢れている
 雨のため、早朝のポタリングを休んでいたが。昨日は大丈夫だった。
早朝の自転車散歩は、心身にとって、非常に良い。昨日の朝、大手大橋を
ヒキ・チャリをしながら、「この辺りから… 不明だった少年が飛び降りた
のでは?」と思うと…。 人生の深淵を垣間見る思いであった。
 来春は高校に入学、その3年後に大学で上京し、色いろな人と出会い、
酒を飲んで、人生を語り、殴り合い、旅行に出て、恋愛をし、失恋をし、
就職をし、結婚をして家庭をつくり、挫折を重ね、泣いて笑って、数限り
なく感動し… などの全て失ったのである。 もし自分の子供だったら、
両親の気持ちは如何ばかりか。人は、ただ生きているだけでも充分だが、
それは、生抜いてきた人の言葉。
・・・・・・
5644,不幸な国の幸福論 〜?
2016年08月28日(日)
       <不幸な国の幸福論  2009/12/16 加賀乙彦 (著)>
 面白い本である。さして貧しくもなく、隣国からの攻撃の危険もなく、
何が不幸の国かと思うが、何か重苦しい空気が日本を覆っている。この本の
発行は9年前で、今では自殺数は3万を割ってはいるが、大きい変化はない。
 日本は経済悪化が、そのまま不幸に直結する数少ない先進国という。
家内がよく口にするのが、「私の友人の何人かは、美人で、家庭が裕福なのに、
絶対タブーの言葉の<自分は不幸せ>と、平気に口にする。傍で見ていて幸せ
を絵に書いたよう状況なのに。家庭なら幾つかの問題を抱えていて当然なのに、
勝手に、全体の幸・不幸を決めてしまっている!」 である。
 「それは外に出ないから、一人遊びが出来ないから、基礎教養がないから、
世間とかに押しつぶされているため」と、私が答える。
 これは著名な精神科の先生が書いた「幸福論」だが、同調する箇所が多い。 
  ー内容紹介ー
《 ー挫折と逆境こそが「幸福」の要件であるー
 経済は破綻し格差は拡大する一方、将来への希望を持つことが難しい日本に
あって、「幸せ」は遠のくばかりと感じている人は多い。しかし、実は日本人は
自ら不幸の種まきをし、幸福に背を向ける国民性を有しているのではないか―。
精神科医、心理学者である作家が「幸せになれない日本人」の秘密を解き明かし、
幸福になるための発想の転換法を伝授する。追い求めている間は決して手に
いれることのできない「幸福」の真の意味を問う、不幸な時代に必読の書。 》
★ 次回から、各項目ごとに取り上げるが、まずは、一番のエキスの部分〜
≪ かなり痛んでいるとはいえ、GDPで世界第?位の経済大国であり、世界一の
 長寿国(女性。男性は4位)で、他国と比較して街は清潔で、犯罪も少ない。
警察庁発表資料によると、1999年から2008年までの自殺者は、357,854人に上る
(年間3万人超)。しかも、自殺未遂者はその 10倍は存在すると推定されている。
さらには、年間3万人どころか、実際には10万人が自殺しているという説もある。
というのも、病院以外の場所で医師に看取られず不慮の死を迎えると、すべて変死
扱いになるというが、日本では変死者数も90年代後半から急増していて、年間14〜
15万人で推移しているからだ。WHOは、変死者のおよそ半数が自殺と述べており、
日本以外の国では変死者の半数を自殺者統計に加えている組が多い。仮にこの
数字を日本が計上すれば、自殺率世界一のリトアニアを抜き去ってしまう。≫
▼ 北欧も自殺率が非常に多い。これは閉ざされた世界で、暗夜が続くことに
 ある。日本も裏日本の秋田、山形、新潟に自殺率が多い。 気候からくる、
閉鎖社会が大きく影響をしているが、孤独に対する逞しさが無いことも原因。
汁の出そうな閉鎖社会で、如何に孤高を保つかは、長年かけた基礎教養と、
少々の挫折と逆境経験が必要。 閉鎖社会はお笑いゾンビ製造機械そのもの!
 ただし、ゾンビは、八割、いや九割のカタガタだが。この大断層の中でこそ、
こういう世界も、あって良いのかも? 「取り上げるだけ、見えるだけ、影響
を受けている」ということか。 家内が東京と、新潟に、それぞれ年に10日、
行くのもわかる。しかし、平気で、世間様とやらの波乗りが出来ている。
 それが当り前だとすると、私が偏屈ということか。 まあ、いいか!
以下の「うさぎちゃん」と同じく、私も心肺停止のようなもの? 
 お後が宜しいようで。
・・・・・・
4914,閑話小題 ー代々木ゼミナールの7割の校舎が閉鎖
2014年08月28日(木)
   * 代々木ゼミナの7割の校舎が閉鎖
「代々木ゼミは、三大予備校の1つとして浪人生を中心に多数の生徒を集め、
全国に校舎を展開してきたが、少子化に伴う受験生の減少などで、29の校舎
のうち7割以上に当たる22の校舎を閉鎖する方針を決めた」というニュースが
数日前に一斉に流れたが、 隔世の感がする。 ーネットによるとー
《 ・ピーク時には41万人の予備校生が、今では6万人。近年は大学全入時代
 に入り、浪人生の数も減少している。不況が続いた中で家庭でかけられる
 教育費が非常に少なくなって、浪人をすることにブレーキがかかっている。
・大学入学者の浪人生の割合は1985年の約4割から約1割に減少。その上に、
1990年の85%が予備校依率存が、現在では30%まで下落している。
・1980年代の半ば頃から生徒数が減少,90年代以降,その速度がさらに高まった。
1990年では14万2千人だったのが,2000年には4万9千人に,2011年の2万4千人に
至っている。ピークの1977年を基準とすると,予備校生の数はおよそ10分の1に。 
・大学進学率は1966年に16.1%だったが76年には38.6%、今では50%と大幅に
上昇、受験戦争という言葉も登場するほど大学進学は当り前になり、予備校は
急成長を遂げた。中でも代々木ゼミナール駿台予備校・河合塾は三大予備校。
河合塾は理系の国公立、◎駿台予備校は特に難関国公立大学
代々木ゼミナールは私立文系の大学受験を中心に浪人生向けの大学受験指導
をしてきたが、そこに市場の規模が大幅に縮小したことが大きな要因である。》
▼ 今では私立大学の45%が定員割れ、浪人をする必要が無くなった。
 ネット活用で自宅浪人も可能なことや、東進ゼミのような『衛星放送ゼミ』で、
地方各地でも一流講師の授業が聞けるのも大きなマイナス要因である。
私の事業で、売上が3分1に驚いた現象より劇的である。20年前に、新潟に
代ゼミが進出した直後に、新潟予備校が倒産したが、今度は、その代ゼミ
時代の潮流に直撃したことになる。校舎は転用可能のようだが、不動産業として
生き残れるか、どうかである。次にくるのは専門学校の類。崩壊過程が既に
始まっている?・・ グローバル化、情報化による「隠れた大恐慌」が
引き起こしている「中産階級総崩壊」の、一象徴である!