『金沢・富山バスツアー』への参加した際の手記をここで書いた。また先日、
<『トランジション』ウィリアム・ブリッジズ(著)>をテーマに書いた。
金沢「いとはん」時代と、その前年の産能大時代が、私には「ニュートラル」
状態の時節。気持ちは空虚で隅に追いやられた窮鳥状態だったが、その一つ
ずつの決断は、私には人生を大きく左右することばかり。時代は大きく揺れ
ながらも、右上りの潮流が流れていた。しかし、「ニュートラル」状態は、
目先が真っ暗闇で、何も見えない真っ黒なサングラスをかけたよう。一部の
秀才?を除いた司法試験の受験生のようなもの。合格までは、タダの引籠り。

ジャスコを辞めて入った産能時代に、千葉郊外の千葉県第三セクターが造成
した5万人の新興住宅地のど真中の商業地の売出し広告を見て応募して、当選。
土地を確保し、購入条件に二年半後までに着工条件が入っていた。まだ実務
経験不足を補充するため、金沢に期限限定の見習いとして入ったが、そこは
厳しさで有名な会社。今でも、夢に出てくるほどの厳しい現実と、逆に甘い
誘惑が行き交う動乱の修羅場。西武流通グループと資本提携。先が全く見え
ない事態なればこそ仏も存在する。居場所がない状態が自ずと仏心が滲み出る
が故に、様々な邂逅も多くある。2年と割切っても割切れない空虚感が漂う。
「枝葉を切って根を養え」の時節。創業の志は実に逞しく響くが、派手な?
学生時代を生きてきたものにとって、その段差は非常に大きい。 

もう二度と、金沢に行くこともなかろうと『金沢・富山バスツアー』に
参加した。そして、当時を思いだすにつれ、この辛さこそが、当時に、
経験しておくべきことだった。 縮んだ状態と、オデン屋で独り酒?の
味が何ともほろ苦かった… そう思うのは、物語の再構築のためか。
人生、恵まれていたとして、面白かったとしても、違った生き方もあった… 
はず。でも、気にいった人生のデザインと色彩でもある。 人生、二度無し! 
人生を振返り物語ると、自らを癒すことになって色彩が明るくなってくる。
 
後記:以下を読返し、物語、行蔵として書き残す秘儀とはとはかくあらんと… 
 書いておかないと、忘却の彼方に… それもまたよいが。私が消え去っても、
刻印として、残る感覚は、実存の根が残っているようである。

――――
――――
閑話小題 〜金沢・富山バスツアー

 昨日は、数年ぶりに、観光バスツアーに参加してきた。
地元の越後交通(ゴールデンツアー)の日帰りコース。出発が長岡駅東口で、
早朝の7時20分発。地元到着が19時20分。値段が9500円(税込)。家内が長岡駅
への道すがらにある越後観光ビル内の案内所で見つけてきたツアー。 
富山県北アルプスを背景にした『あさひ舟川・春の四重奏』の花見と、
金沢市内の『金沢ひがし茶屋街・散策』
・『ホテル日航金沢のランチ食べ放題』のメニュー。
家内が、このコースに甚く気にいって誘ってきた。この数年、ライフワークの
秘異郷旅行に行ってないため、即座に合意し、参加した。 一つだけ誤算が、
桜の開花が一週間早くて満開の時期を逸し、半分ほど散っていたこと。それでも
、満足できる散策。その後、金沢駅前にある「ホテル日航」のランチが思いの外、
美味しかった。「ひがし茶屋街」散策を1時間ほどして、帰路についた。
金沢には、20歳半ばに一年半ほど、修行も兼ねて勤務をしたことがあった。
立場が立場だけに、気持ちがどん底だったが、ところは、「いとはん」という、
マナーに厳しいと定評のあったファッション衣料チェーン。人手不足の中、
女性専用のマンションが大うけで、若い女性が殺到していた急激な右上がりの
会社で知られていた。しかし、努めて半年もしないうちに、ドルショックが
起きて時代は一変し、売上は激減し、西武流通グループの傘下に入る激動の
最中。社長と、ナンバー3の人物の対立もあって社内は荒んでいた。
 しかし、3人に1人は、いわゆる金沢美人。仕事の半分は、様々な悩みの
相談相手と、イチャツキ。肩書が無い立場からこそ、気を許してくる。
最悪が故に、面白いことが多かった。寮内に、誰か茶道に通っている人が
居ないかと聞いたところ、寄宿していた寮の近くに、一般の家庭の主婦が
教える茶道の家を紹介してもらい、1年程、通っていた。当然、そこに数人、
金沢美人が通っていて、週の二回、火曜日と、木曜日と、交互に通いながら、
様々な地元美人と茶道の練習を楽しんでもいた。金沢は外モノには優しく、
仲間内にはキメ細かい暗黙の気遣う歴然とした階級社会。
男尊女卑が歴然と残っている男社会で、一歩も二歩も、女性が表立っても、
男をたてる世界。富山、福井、能登、飛騨高山が近くにあり、何はともあれ、
金沢に… 。当然、遊び場も、茶屋街に。芸者衆の集まる、茶屋街が、
「ひがい茶屋街」「にし茶屋街」「主計茶屋街」の三つが金沢藩の肝いりで
集められ、現在に至っている。その「にし茶屋街」に、何も知らずに店の
パンフレット配りをして、その奥深い世界を一端を見た時の驚きを忘れられ
ない。当時の茶屋街で出あうのは今まで見たことのない御公家顔の美人ばかり。
あれは芸子のスッピン顔だった、今回の散策で気づいたことだが、綺麗なはず。
 雑種の地方の寄り集まりの首都圏を除き、四日市、神戸、金沢、新潟市
長岡市と仕事で、渡り歩いたが、こと美人とセンスに関しては、金沢が一番
粒揃いであった。一番、影響を受けているのが、京都の文化。
 北陸新幹線開通まで、あまり知られてなかったのが、料理文化の深さ。
現在は如何なったか知らないが、おでん屋、小料理屋、喫茶店に味わいの
深い店が多い。当時の金沢の話は尽きないほどあるが、どの場面も青春の
真只中のような思い出は尽きない。経済が激動していても、今となっては
夢のような時代背景があった。
ドップリ、地元城下町の一角に沈んでいる自分に気づかされた一日だった。

追: これを書きあげて、20分後にポタリングに出発し花見をする予定。
 長時間バスの座席の固定で腰痛を心配をしたが、殆ど問題は無かった。
習慣の力だが、定時の3時50分に起床し、これを書上げ… 日常の世界へ。
一日とはいえ、この非日常の反動は、数日後に出てくることになるが…

――――
閑話小題 〜金沢・富山バスツアー 〜2

   * こんにちは、わが青春の金沢へ
 日帰りの『金沢、富山コース』。 国内のバスツアーは、十数年前に、、
夜行バスで行った『京都の桜・観光以』以来、二回目。40歳辺りまでは家族と
とものドライブ旅行か、友人とか、仕事仲間内の企画に参加するとかが主だった…
 その後、趣味を一品豪華主義とした秘異郷旅行など海外ツアーに絞ったため、
国内旅行は皆無だった。しかし、海外ツアーで腰痛の負担が増えてきて…
 今回は、日帰りツアーとしても、腰痛が心配だったが、何事もなく帰ってきた。
バスツアーは中高年が多いので、海外ツアーのような、強硬日程は基本的に組み
こんでないようだ。
今回は、金沢の『ひがし茶屋街・散策』と、富山の『あさひ山連邦を背景とした、
「あさひ舟川」の花見』が主である。
『金沢ひがし花街』が風情があって味わいがあった。
写真は、ネットでひろったものだが、着物姿の若い女性や、男女は、貸衣装で
着付けをしたと思われる。当地で数組の芸子らしき連れが歩いていたが、直に、
観光客の「芸子コスプレ」?と気づいた。しかし馬子にも衣裳、派手な和服の
若い女性が妙に色っぽく場に馴染んでいた。
 ネットでひろった写真の芸子は、金沢美人の典型だが、勤め先の女店員の
3分の1は、この程度の美人が揃っていた。当時の写真が一枚も存在いないのが
悔やまれる。私の年代は、戦中、戦後の境目。同じ年代でも、男は数年後の
団塊世代の女性が有り余っているが、女性は終戦直前のため、対象の男が極端
に少ない。特に当時の城下町は、隠れた男尊女卑の文化が浸透していたようだ。
 無役が故の気楽さと、加賀百万石の大らかさが相まって、ドップリと粋ある
美人に囲まれ、鈍よりした女社会の生温かさに浸った日常を過ごしていた。
それと、様々な小料理屋や、おでん屋の酒の味を思いだしていた。世間を渡り
歩いてきたと思っていたが、底辺の一部しか、みてなかったことも、あい知る
ことになった。 花街とは、裕福の男の3%の遊び場の名残りということ。
何時も、極限の先に、大きく世界が広がっていた。 金沢、娑婆娑婆の一節!
  〜【金沢・茶屋街】で検索すると〜
<江戸時代、城下町近郊を流れる犀川浅野川両界隈に多くの茶屋が立ち並んだ。
 文政3年(1820年)、加賀藩の許可を得、犀川西側に「にし」の茶屋町浅野川
東側に「ひがし」の茶屋町が共に開かれ、大いに賑わった。この際、旧来の不整形
な町割は改められ、整形な街区が形成された。浅野川をはさんで北西には、茶屋街
の1つである主計町がある。
茶屋町創設時の敷地割をよく残し、全国でも希少な茶屋様式の町屋を多く残して
いるとし、2001年11月14日、種別「茶屋町」で国の重要伝統的建造物群保存地区
して選定された。二番丁にある茶屋「志摩」は、歴史的価値が高いことから2003年
12月25日に国の重要文化財に指定され、一般公開されている。>
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2001/12/21
[178] 忘れられない店ー4(金沢)
   ー平家ー鉄板焼
 金沢にいた時期によく行った店である。もう30年も前の話である。
4〜5年前に行った時まだっその店があったが、しかし個性的な親父は死んで
しまっていた。その店のかみさんがそのままいた。高級化して二店になっていた。
落人焼きといって、何でも鉄板で焼く鉄板焼きやで‘平家’というだ名前の店だ。
今でもちょっとないかわった店だ。食塩の箱入りとともに、キャベツが山盛りで
ツマミにでる。大きい鉄板の上で魚や肉や野菜や豆腐を焼くのだ。その為店が
油でギトギトで真っ黒で、またそれがいい。親父が遊び人風の個性の塊のような
親父で、その話を聞いているだけでよかった。
 当然お母ちゃんがいて、人間味あふれた夫婦であった。2時間ぐらいいるうち、
必ず大喧嘩をするのが名物で、皆それが始まるのを待っている節があった。
「マダ喧嘩始まらないの?」と聞く人が出る始末。そしてすざましい喧嘩である。
たまに奥さんが休みの日、一人ショボンとしているところがまた可愛い。
何回も家に電話しているのだ。たまたま初めて行ったのは、会社の先輩が競馬で
大あてをして連れていってもらったのだが、「お前の人生は今日で終わりだ、大穴
を当てた味を知ってしまったのだからだ!」と先輩に説教が始まった。
それがいやに説得があって面白かった事を思い出す。
――――
5140,閑話小題 〜北陸新幹線開通1ヶ月
2015年04月11日(土)
  * 北陸新幹線開通1ヶ月
 北陸新幹線が開通して1月。ゴールデンウィーク辺りから、福井、石川、
富山の北陸三県の観光地が脚光を浴びる。金沢は加賀百万石の文化が営々と
引継がれている。20歳代半ばの頃、1年半、金沢の地で勤務したが、現在
でも鮮明な記憶として残っている。休日、日帰りバスツアー能登半島
一周したり、半日市内観光をしたり、金沢港でキス釣りをしたり、茶道に
習いにいったりした。 加賀百万石の文化は何とも風情のある。
特に、老舗の居酒屋が良い。北陸三県と隣接した地区の観光資源は豊富。
その背景に三大都市圏の観光需要があるのが大きい。そこに新幹線で二時間半
で行けるのだから、女性にとってうってつけ!『日帰り能登一周コース』を
つくれば良い。 逆にストロー効果で、地元民が東京に取られる可能性も大。 
 ところで金沢滞在の一年半で、姉や友人が三人、訪ねてきた。更に、実家の
会社の慰安会で近くの温泉にバスで来て、私もそこに招かれ、泊まって騒いだ
こともあった。勤務先の会社上げての慰安会が、泊まり込みで片山津温泉
高度成長経済の真只中時代だった。今では隔世の感がある! 
金沢・能登は一人旅に、うってつけ、お勧めである。
――――
2014/06/05
「事業人生を決心して45年」の語り直しー8
   
* 「語り直し」を始めて驚いたことは
 3年前の結末で、オセロゲームの駒が、白から黒に変わったと思い込んでいた。
ところが、変わったのは細部の記憶が次々と最近のことのように思い出すこと。
嫌な出来事と思っていた中に、自分自身の姿が垣間みることが出来ることだ。
むしろ、不遇の渦中の中にこそ、人生の醍醐味があるということ。ただ、気づく
か気づかないか。 不遇であればあるほど、周囲の人に親切になる。だから、
多くの邂逅が生まれ、味のある日々になっている。成るほど、人生は面白いもの
である。生きてきた課程で、日々、世界が変化している。そして、自分自身も、
大きく変化している。特に、20歳代の変化は激しく、留まることはない。金沢に
いた頃の会社は、最後は吸収合併をされて、今は、何一つ残ってない。あるのは、
抽象画のような記憶だけ。しかし、これが自分の基礎に大きく根を張っている。
 金沢に来たのだからと、能登一周の観光バスで一日一人旅をしたり、同僚との
東尋坊へのドライブに行ったり、早朝の金沢港でのキス釣とか、金沢駅前の居酒屋
で騒いだりとか、入社前の研修での永平寺の座禅とか・・・ 
 ところで、東尋坊は北陸随一の景勝であり、自殺の名所としても知られている。
同僚から聞いたのが、自殺者の霊が管理事務所に尋ねて来たとか、断崖から下
を見たところ、多くの手が伸びてきたとかは日常茶飯事という。 
 せっかくの金沢なら、茶道でもと思いたち、同僚の女性の紹介で、寮の近くの
家に習いにいっていた。異様な緊張感が漂う中、来ている女性は、なかなかの
若い美人ばかり。週の火・木曜日の週二回のどちらかに行くが、これが心落ち着く。
それぞれの日で、来ている人が違うが、そこでの美人を見るのが楽しみになっていた。
ただ、それだけだが、金沢を急遽、去るにあたって、その事情を師匠に話すと、
「ところで結婚相手が決まっているの?」と聞いてきた。
「職場の女性以外に、チャンスもないし、同僚は付合わない主義で・・」と答えると、
「どっちの娘がいいの?」と結婚相手など微塵だに考えてなかったので、「別に!」
と答えたが、悪くはないが今さら時間が無い。考えてみたら金沢での伴侶の選定も
考えられた。 浅く広い、いちゃつきレベルでは、多くの思い出はある。
一番、惨めで、嫌なことばかりの日々の中にこそ、多くの心の痕跡がある。それが
青春ということか。人生は多くの出来事と、その記憶の重なりで出来ていて、
「自分」は、その蓄積そのもの。そうこう振返ると、創業準備期間の15年の方が、
創業以降の30年より、遥かにエネルギーが入っていたことになる。 
結果が、どうであれ、野心を持って、ひたすら日々を過ごしていた20歳代が、
人生の醍醐味があったようだ。結果としてみて、20歳代は、非常に合理的配転を
自らしていたことになる。今だから言えるが、面白い日々だった。
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2014/06/03
「事業人生を決心して45年」の語り直しー6
  金沢の16ヶ月でも多くを学んだ。特に印象的だったのが、新入社員教育
ST訓練(センシビリティ・トレイニング)。社員教育の厳しさは、まずここから
始まった。 まる3日間、同期の男子17〜8名が、トレーナーの人事部長の元、
円座に座り、担当の人事部長に指名された二人が、聞き手と、答え手になり何か
質問をする。逆質問は、一切禁止で、質問の中心に向かい掘り下げていく。
曖昧になると、トレーナーが叱咤する。その逆に質問者と聞手の立場を変える。
ランダムに二人を取替え対話をさせる。他の人たちは、二人の対話から、
グループ全体が共通の無意識の内に入ってしまう。 
 ーそれについて以前書いた内容が以下である。  
ー359, ST訓練 <2002年03月28日(木) >よりー
【 毎年この時期、新入社員に私が直接する訓練である。もう2〜3回の入社ゼロ
 の年を除いて、前にいた会社も含めて26年間行っている年中行事である。初め
の頃は二泊三日で行っていたのがいたが、一泊二日になり、今では一日だけ。
研修所や旅館を使って密室状態であったのも、現在は事務所で行っている。
センシビリテー・トレーニングを、途中から独自に変えた内容である。当初は
感性訓練を目的としていたが。密室に新入社員を閉じ込め、それぞれ二人に問い
かけと、答える立場を決める。そして彼らにテーマを出させ、そのテーマに
ついてどことん聞き出させる。脇道にそれたり、いいかげんな事を言った時大声
で叱咤する。あるところまで来たら、立場を逆にする。それを密室の中で、繰り
返しそれぞれの相手を変えてやっていく。その中で自分のいい加減さ曖昧さを
互い気づかせ、表面的会話から、本音の会話へ、更に対話に深めていく。
その中で感性を磨く。あるいはお互いの気心を理解させ、仲間意識や帰属意識
つくる。組織は人間どうしの意思や情報伝達が基本にある。聞いたことを、
はっきりと他の人に正確に伝える事が前提になる。時間をかけて、叩かれていく
過程で身に付けるものだが。それを初めに、きっちり訓練を入れることを目的と
する。それとリクルートの能力適正試験の内容と、実際の本人の内容の誤差を見る。
ほとんどないが、それでもそれだけで見えない部分がある。ある意味で一生もう
決まっている、その人のソフトのベースもある。
 この訓練を通して、自分で把握した事がある。日記を書くこと、本を読む事、
人の話を聞くこと、自分で考える事、理想も持つ事、良い習慣を多く身に付ける
こと、変化する事、初心を持ちそれを大事にする事である。 】
 金沢でも有効な自己鍛錬をしていた。特に会社は強くあらねば!ということを。
人生に無駄なことなど何もない。
   * ST訓練とは? ーネットで検索ー
《 ・・この訓練は、通常10人〜15人の小グループに、1人〜2人のトレーナー
 がついて、一週間前後の合宿で行われる。メンバーは、時間を決めて繰り返し
行われる「Tグループ」に参加することを義務づけられますが、グループ内では
「自由」に振る舞うことが出来ます。討議課題や話合いのルールは示されません。
すべてそれぞれのメンバーの関わりの中で決定していくことになる。つまり
「グループの中で起こるすべてのこと」が学習の教材となるのです。
従って、対人関係の感受性、社会的感受性を高め、同時に、状況に適合した行動を
柔軟にとれるような能力を開発するのがこのトレーニングの狙いとなります。
一般的な効果としては次のような点があげられます。
(1) いままで気づかなかった自分に気がつきます。    
(2) 自分と集団の相互作用を体験的に理解します。
(3) 対人コミュニケーションのあり方を原理的に体得します。
(4) リーダーシップを体験的に学びます。
(5) 新しい建設的な動きや創造性が発揮できます。 》   
実はトレナー本人が、一番、学ぶことがあった。

――――
2014/06/01
「事業人生を決心して45年」の語り直しー5
   * 金沢百万石での経験
? 千葉の新興住宅地のド真ん中の交差点で何か事業を立ち上げるに、実社会の
経験不足はまだまだ不足。それと建設期限まで二年間半の期間があた。そこで、
何処かで厳しい修行の場に探し出したのが、当時、厳しい社員教育で知られていた
「いとはん」という衣料チェーン店で、北陸三県に10数軒を出店していた。
入社して知ったのが、西友資本提携。そのため会社は大きく動揺している最中。
資本提携は、強者が弱者を生きたまま飲み込む残酷な実情であることを、当時の
社長を含めた役員はあまり理解してなかったようだった。
その上に、入社半年後にドルショックが起き、既存店の売上高が、大きく右下がり
に落ちていき、会社内は暗い空気に満ちていた。ジャスコ在職の時は、合併先への
新兵で乗り込む立場から、今度は逆の立場の占領される側の一兵卒である。
2〜3年後は辞めると分かっていても、プライドがボロボロ。その惨めさを、世の
サラリーマンが、多く経験しているはず。貧すれば鈍するとは、よく言ったもの。
何がどうであれ、弱者の立場には立たないこと。三年前の決断は、こういう経験が
あればこそ出来たこと。前向きで自ら崖っ淵に立つのは構わないが、後ろ向きの
踏んばりは、避けるべき!という体験を、早そうに知ることになった。社内は役員の
対立などあり、疑心暗鬼のルツボ。 
 当時の「いとはん」にとってのブラックスワン(思いもよらいない震災クラス
の事件)が、入社半年後に起きた、ドルショックと、大手スーパーの進出。
私が去った一年後に西友との提携解除、その一年後に、ジャスコと提携し、
北陸ジャスコに会社名が変わり、その後、本体に吸収合併をされていった。

?金沢は加賀百万石の城下町。その歴史の深い文化は、何ともいえないミニ
京都風の味わいがある。特に目を見張るような加賀美人が多く、表向きは男社会。
いっけん厳しそうな男女間は、非常に大らか。私の出身地の長岡藩では、幕末の
「お妾禁止令」があって、二号を持つのは、長岡では後ろ指を指される。
しかし、金沢では、勲章を意味していた。 また居酒屋やスナックも、何とも
いえない味わいのある店が多く、料理の味付けは京都風。鬱屈した会社内の空気
から開放されるに丁度良い環境でもあり、青春?真っ只中。
しかし、一日、二時間の読書習慣は何とか維持をしていた。

? 入社後4ヶ月間の配送センターを経験後、、武蔵ヶ辻店の靴下売場のあと、
子供服売場へと配置された。ジャスコも含め、多くの売場配転から学んだことは、
業種は、メーカー、問屋の販売経路別の店先でしかないこと。それを業態別の
再編成するのが、時の「流通革命」。靴も、洋服も、卵の販売も、商品の一つ
でしかなく、とらわれる必要がないこと。ここで、親しくさせて貰った取締役
部長の何気ない一言「自己能力の限界の設定」が、その後の事業立ち上げの教訓
になっていた。しかし、丁度なれてきた金沢の生活も、入社の一年4ヶ月後に、
突然、家からの一本の電話が入った。      ーつづく
――――
2005/06/29
1548, わたしの酒中日記−11
金沢−7
1972年7月20日

明日で、金沢を去る。
一番上の姉・正子さんから電話があり、京都に行く途中に金沢に寄るという。
そのため今夜、金沢で酒を飲むことになった。
片町から少し歩いた犀川大橋の先にある、ごり料理の有名店に行く。

「ごり」とは金沢を流れる浅野川などに生息するハゼのような川魚だが、
昔から金沢料理に使われる名物である。
川のほとりに建ち、「ごり」を中心にした加賀料理の店である。
二階の一室に通されるが、なかなか趣がある。

ワラビのヌタや、ごりの佃煮と揚げ物が出た。
夕景の中での料亭も風情があってよいものだ。
ごりは、小さな川魚でゴツゴツした形である。
金沢で初めて食したが、良い思いでになった。

その後、金沢の郊外にある「ホワイト・ハウス」
という有名レストランに案内をする。
金沢市内を一望できる有名店だ。
同僚と一度いったことことを思い出して案内した。
その後、都ホテルに姉を送る。

金沢の夜も今日で最終になった。
一年半近くいたが、五年もいたような気分であった。
会社が揺れていたこともあるが、中味の凝縮された日々である。
気分的には屈辱の日々であった。
金沢は見方によれば、露骨な差別社会で、
そと者の社員は人間扱いはされない。

金沢で特に感じたことは、加賀百万石の文化の深さである。
自分の故郷も元長岡藩だが、その歴史の深さがまるで違う。
金沢は、派手なのだ。
背後には能登半島、福井、富山、高山を控えた観光地である。

対極にある長岡は、それに対して地味の世界である。
比べること自体が問題であるが。

幕末に長岡藩家老の河井継之助が「贅沢禁止令」を出した文化が、
今でも脈々と続いている世界である。
それと江戸末期に官軍に敗れたことが、どこか卑屈になっている。
金沢に住んで、このことがよくわかった。

長岡は、金持ちが「めかけー愛人」を持つことは悪口の対象になる。
金沢では、それは羨望であり、ほめ言葉である。
男女の??も非常に大らかで、自由な雰囲気が満ちていた。
日本の中のスウェーデンと内々で自認している世界である。

また、男は今でも自分のことを「わし」という。
相手を呼ぶ時は「お前」か、「貴様」という。
店では、男は絶対に掃除はさせないのだ。
箒を持ったら誰か女性がきて、取り上げられてしまう。

とにかく、加賀百万石の異様な?世界であった。
外者にとって、長くは住みたいとも思わない世界である。
でも三年住むと、それも無くなるという。

さらば!金沢。

――――
閑話小題 〜金沢・富山バスツアー 〜3

   * 芸子コスプレ? 花街街
 「ひがし花街」に入って、数組の芸子らしき連れが歩いていたが、若くて
艶やかだが、何か不自然。 直に、観光客の「芸子コスプレ」?と気づいた。
一年程前にTVで京都・祇園の舞子姿の着物のレンタルサービスを報じていたのを
見たからである。早速、「金沢、花街 着物レンタル」で、検索したところ
以下の通り出てきた。 『着物レンタルができるスポット7選】の店の一つの
プラン説明である。7店のレンタルプライスは、セットで4000〜5000円。
 手頃の値段である。ある店の説明文が、分かりやすい。

――
【 金沢街歩きプラン4,500円(税抜)
 モノトーンモダン風、レトロ椿姫風、パステルメロウ風、大正ロマン風など
テーマを決めて、300種類以上の着物からお気に入りの1点を見つけて金沢街歩き。
これが私のキモノ道!今日は私が姫なのです。自分が主役になる晴レの日。
そんな時には何の遠慮もいらないの。おもいきり飾って、重ねて盛ってたくさん
つけて。お着付けから着物・帯・和装小物・草履まですべて料金に含まれている
ので、手ぶらでご来店頂いても大丈夫です。

01.お電話orメールでご予約
 ご希望の日・ご来店時間をお聞きして、予約の空きを確認致します。
ご予約はホームページの予約フォームより承っております。当店よりメールで
一両日中に予約を承りました旨を返信させて頂きますのでご確認くださいませ。
02.ご来店選ぶ楽しみ、着るシアワセ。
 SHOPにご来店頂き受付をお済ませ頂きましたら、レンタルプランのご案内をさせて
頂きます。お気に入りの着物を見つけて金沢街歩き。帯や帯揚げ・帯締めのコーディ
ネートに迷ったらSTAFFがお客様のスタイルアップのお手伝いさせて頂きます。
  着物選び時間約20分〜30分

03.着付け綺麗に見える着付け=着心地の良い着付け
 落ち着いた金澤町家の和室で本格的な着付け体験。年間2万人を超えるお客様
の着付けを行うプロの着付け師が親切、丁寧にスタイリング。「綺麗に見える
着付け=着心地の良い着付け」をお楽しみください。かわいい帯結びや小物使い
などのスタイルアップはプロにお任せください。
  着付けのお時間約15分
04.ヘアセット一期一髪
 ヘアスタイルはお客様にとって着物の次に大切なところ。お選びの着物と
お客様のイメージをスタイリストと創り上げる一期一髪のスタイリング。
FORMALからCASUALまでブライダルやパーティーシーンで活躍中の
プロスタイリストが繰り出す旬のヘアアレンジをお楽しみください。
 ※当店ではお客様がご自由にお使い頂けるヘアーセットスペースも
  御用意してます。
 ヘアセットのお時間約20分
05.ご出発
 お支度が済んだらご出発。
兼六園入口だからとっても便利!金沢随一の観光スポットです。徒歩圏内で
21世紀美術館東茶屋街、長町武家屋敷・近江町市場など金沢探訪には最適
なエリアです。アクセス便利なロケーションなので、ご出発からご返却まで
楽々ご利用頂けます。

06.ご返却
・楽しくお出かけの後は、18時までに当店にお戻りください。
お預かりの荷物のお渡して、お着替えが終わりましたら返却完了です。
お帰り支度のお時間約5分
・翌日返却
翌日の12時までに当店にご返却下さい。
・ホテル返却
レンタルされた着物は、ご宿泊先のフロントで返却頂けるサービスです。
お預かりしたお洋服やお荷物は当日の18時までにご宿泊先のフロントに弊社
STAFFがお届けしておきます。お届けした袋にレンタルされた着物や小物を
入れていただき、翌日のチェックアウトの際にフロントにお預け頂けると
返却完了となります。                   】


▼ 少し着付けを身に付ければ誰でも可能な仕事だ。相手は1限、中古を
 集めればサホド初期投資はかからない。遊びとして合理的である。特に外人は
喜ぶだろう。これらの情報もネットで簡単に得ることが出来るし、予約制も取
入れれば、互いのロス時間も最小に済む。現地で、和服の結婚衣装姿の撮影も
していた。結婚式のプランの一つのようだ。
 ところで、石川県の人口が、新潟県の人口の丁度、半分の115万人とは驚き。
北陸3県の人口は300万で、新潟県の2割程しか多くない。
しかし、存在感が数倍も感じられるのは、背景に、能登半島と、飛騨高山、
富山などの山々の自然の幸が豊富のため。それと、加賀百万石の秘められた
豊かさがある。それが、香林坊、片町、「ひがい茶屋街」「にし茶屋街」
「主計茶屋街」や、兼六園を代表とする文化を営々と作り上げている。
<それにつけても… カッパエビセン>  知らないことも時に必要です!
でも、知る悲しみを通過しないと人は成長しません。 何を言ってるの?
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H0407城下街小唄
 私の出身地の長岡はかつて“長岡藩”の城下街であった。その大手通り
のほとんど真中に生まれ育った事もあり、その長所・短所がよくわかる。
その特質は閉鎖性・固定的、商人的であり、“城下街曼陀羅”がきっちり
できており漫画的ですらある。
 彼等の社会は“ウワサ社会”で構成されている。
特に長岡財界とかいう社会が存在(?)しており、彼等の出す“ウワサ”
がその社会を大きく左右する。それが事実であろうがなかろうが“マンダラ”
の中心点に近い人間が言った事こそ絶対のようだ。
(“ウワサ”として)彼等の社会をみていて、維持型の人間こそ“一級”
と評価される。固定社会が故に何もしない(何もできない)事こそがベスト。
“非能動的二代目+婿取り娘サロン社会”と言える。先日もいやな“ウワサ”
を聞いた、今は下火になったのだが、新興の各業界の�・1の社長が十人あまり
�・1が、ゆえに聞くに耐えない“ウワサ”を流された。“一種の集団いじめ”
なのだが、そのストーリーが陰湿でリアリテーにとんでいる。
冷静に考えればほとんどが尾鰭のついたウソである。 それがおもしろ
おかしくて集団ヒステリック的につくりあげられており、自らの名が出るか
どうか怯えている。“参加型変態うわさゲーム”を全員で楽しんでいる
“ちほう社会”そのもの。