『坐禅は心の安楽死 〜ぼくの坐禅修行記』横尾忠則 (著)
   * あっちに行った者たち
< 悟りの境地とは、雪担さんは、悟った者のことを、あっちに行った者、
 という呼び方をするが、雪坦さんはまさに、このあっちに行った人である。… 
あっちの世界には観念が存在しないのだろう。あっちの世界は、こっちの世界と
何ひとつ変わっているわけではなく、このままであるという。雪坦さんのいう
現象界とあたり前の世界よりクリアーに知覚することが俗にいう悟りの世界と
呼んでいるものかもしれない。当たり前の世界は地球ができた時からずーっと
当り前で存在していているのだろう。われわれが生まれた時にはこのあたり前の
世界がちゃんと把握していたはずだ。それがいつの間にか、この感覚を忘れて
しまったようだ。>
< 現在から数えると17年ほど前に、ニューヨークで初めてドラッグを体験した。
 目の前のグラスを掴もうとして手を伸ばした。この時、不思議な感覚を僕を
捉えた。本来ならぼくの手がグラスに近づくにしたがってその距離が縮まって
いくはずが、この時は全くそんな風には考えられなかった。僕の手が、たとえ
グラスと1センチのところにあっても、グラスに手が触れない限り手とグラス
の間の距離は月と地球の距離に等しいということを感じた。つまり、1センチも
何十万キロも距離に関しては変わりないということだった。距離の長短を決めた
のは人間で、神の世界では距離など無いはずだ。それと同じように、時間も
もともとないのかも知れない。この経験を雪坦さんに話したところ、あっちの
世界に似ているという。ドラッグの世界と根本的に違うところは、一度その
世界を経験してしまうと、泳ぎのコツを覚えると同じように、常にその状態
にあるという。その状態はきっと、カスタネダのいう分離したリアリティであり、
われわれが存在と呼ぶところのものというのだろう。いってしまった世界が実は
すでにあり――いやもしかしたらわれわれさえ‘いって’しまっているのかも
しれない―― しかし、誰もそんな風に思わないから、どこかきっと素晴らしい
世界があると思って、観念の世界を駆け巡っているのである。観念の世界は
あくまで観念で、観念の中なんぞに真理などあるはずはない。

▼「悟ったことがあるか?」と問われれば、「ある筈がないだろう!」だが、
 それでは、「何かしら近い状態を思い浮かばないか?」と問われれば、
(「あとはオボロ―」の話は別として…) 至高体験なら数多くある。
主に大自然の景観に圧倒され魂を揺さぶられる瞬間の歓喜。 こっちから、
あっちの世界に同化した瞬間である。
 前の会社で、取引先の営業やトップを含めた宴会で、一、ニの三で、盛上り、
集団による至高体験宴会を100数十回は開いていた。 その面白かったこと、
この上ない思い出だ。 他を加えると、どうだろう? 数知れず。
それらが、沈殿した砂金のように数メートルもあるだろうか? 時々、
『私の人生に良いことは殆ど無かった』とか、
『自分の人生を生きてこなかった』などの愚痴を聞き耳を疑うことがある。
 過去に幾つかの創業と、それに伴うビルを立ち上げる度に、心の底で、
至高体験を経験してきた。事業を失っても、この悟りに近い行蔵は、魂の
作品として心底に残っている。上野界隈の美術館や、世界の主要都市の美術館
で、世界の御宝に魂を吸取られた瞬間も然り。
 何度か経験を重ねると、それらが磁石の働きをし、自ずと、対象の魂に吸い
寄せられていく。至高体験の度に磁気が増し、様ざまな出会いを生むことに。 
 秘境ツアーは、大自然の景観に手順を踏んで、当たるも八卦、当たらぬも
八卦と踏み込んで、「あっちら側の世界」を味わう感動的遊び。副作用はなし。
 坊様は座禅を、修行者は、ヨガを通して、「あっちに行く者」たち。
プロセスは違えど、大自然の景観から受ける感動を通した至高体験で、
「あっちにトリップ」する。 今では、4k・TVでも、その一部の経験可能?
副作用が少ないが、バーチャルはバーチャル、体感が無いのが玉に傷だが。
蓄積された至高体験の感覚が、画面の触媒からボコボコと湧き上がってくる
から不思議。 
ーー
 熊: 何だ最後は、また自慢かよ、ったく。それと、悟ったこともないのに、
    よく言うよ。バカじゃないか。
 寅: 愚痴るなよ。独りの世界に浸っているだけだよ。それも小さなね。
 八: 「至高体験」と「悟り」、直感的に酷似していると言いたかっただけ。
大家: 他人からみれば、熊の言う通りだよ。経験だけは本人の体感だから、
    本人じゃない人は理解は出来ないさ、誰も至高体験とやらを経験を
    しているから、言いたいことの少しは通っているよ。
 熊: 俺もあるよ。酒を飲んで、可愛い女房とイチャイチャしている時の
    「ああ、いいな〜!」と思う心持だろう。その膨らんだのだろう。
 寅: 週に一度、早朝にさ、独りで近くの川辺を散歩するが、草の匂いや、
    鳥の鳴き声や、河のセセラギを聞いて歩くと、嫌なことを忘れるよ。
    それと同じだろう。何か、こっちから、あっちに行っている感覚が
    好きなんだ。この習慣で大いに助かっているよ。
大家: 私は少し高尚で、読書を兼ねた魚釣りの時間さ。だから、憂さの
    溜まりようがない。自然に一体となった感覚が好きだよ。
 八: 私は、4月〜11月まで、自転車で、一時間のチャリダ―になってるの。
    もう8年になるけど。信濃川の大河と、近くの栖吉川の土手が、これ 
    また最高の環境よ。 クラシックやポップをiPodで音楽を聴いたり、
    無心になってね。
 熊: そうそう、最近、シリーズモノの夢をみるんだ。それが面白いの。
 寅: 俺たちの話は、この辺にして… 限がないもんね。

・・・・・・
5804,閑話小題 〜4k8kテレビの世界 −2
2017年02月04日(土)
   * 鮮烈荘厳で神秘に満ちた粟粒の光景
 たまたま、7年前の写真家・白川義員の文章があった。
4k8kTVで、YouTubeサイト、『世界の秘境 高画質』などで検索すると、
次々と息をのむ光景が出てくる。それも現場で見るのと遜色ない神々しい
シーンなら… 何おか言わんである。4k8kのビデオカメラから映し
出された世界中の秘異境の高画質のものなら、感動しないわけがない。
間違いなく旅先で神秘的な光景を見ることが出来るとは言えない。絶妙な
天候などで、外れる可能性を含んだ上で、その神々しい光景との一期一会の
出会いが感動を高めてくれる。 『長岡花火 フェニックス』と、音声入力
をすると、現場の裸眼で見るのとは違った高性能カメラが映しだす信じがたい
色彩の花火が息もつかさず現れ出てくる。 以下の文章にある、
<スゴイ景色との出会い>が、現場とは違ったカタチで、TV画面を通して、
気楽に見れる。 毎日、その画面を見て、独り溜息をついている。
秘異境での光景との出会いが沈殿してあることもあるが。 
それもこれも、高質な『キーワード』に順じて写真、映像が出てくる。
経験があればこその『キーワード』であり、映像である。これが、プロだけで
なく、一般人が高性能のデジカメを持てる時代の産物である。 例えば国際線の
機長が、機上で目にした下界の光輝く景観の写真集を、図書館で見つけたことが
あった。機長しか見れない光景だからこそ素晴らしいのである。
 娑婆に執りこまれていては、見ても見えず。そちらから、娑婆を新たに
見れば、内幕情報とか何とかなど、何おかいわんになって然るべきになる。 
 ―――
3237, 白川義員
2010年02月04日(木)
*「われわれが住んでいる世界っていうのは、何億光年という悠久無限の
 宇宙の中にあって、たかが知れた粟粒ですよ。その粟粒が、鮮烈荘厳で
神秘に満ちて、こんなに素晴らしい粟粒ってことを知っている人間が、
この世界に何人いるだろうか、と思い始めたわけです。それならば、
このスゴイ風景を自分が撮影して、それを知らない全世界の人間に知らしめて
やったらどうだろうと。そしてこの粟粒が全人類を乗せた運命共同体
1点の命と知ったら、人間いかに生きるべきか、生きる方向も限られ連帯感も
生まれるだろうと、そう考えた。それが私の写真のメッセージ」
*「要するにフィルムであろうと印刷であろうと、つまらない写真を一発で
  凄い写真にするウルトラCなどないということ。小手先の技術だけで
  凄い写真が出来るわけがない。」
*「世界は『使われなかった人生』であふれている」
*「ネパールの人にとっての山が信仰の対象になるのは当たり前。
  神々しいご来光が有るかと思えば地獄のような天候に日々出会うから
  祈るしかないのだ…… 」
*「神々しい山を見ると自分が清められ透明になって行きます。」
〜 白川義員はヒマラヤや南極など世界の大自然を撮りつけている写真家。
「世界の100名山」のDVDを持っているが、素晴らしい映像が次から
次へと映し出される。20数年前、ある雑誌で彼がプロとしての写真家になる
切っ掛けになったスイスの幻影的な光景の出会いの文章を読んだ。
天国とは、このことをいうのかと写真を撮るのを忘れ見とれていたという。
その場面が、言葉の中から浮かび出てくるようであった。 私が世界中の
秘境・異郷ツアーに行くのも、スゴイ景色との出会いをするからだ。
「こんな世界が地球にあったんだ、知らなかった!」という瞬間に百回以上は
出会っている。それは、別に海外の秘境まで行かなくても、日本の名山など
でも経験可能だろう。大自然は、我われを通して自分の姿を見る。 
その経験をしてきたから、何ごとがあっても、自分の中の不安が
最小に押しとどめてくれている。
・・・・・・
5074,ツィッター、その雑念のゴミばこ 〜2
2015年02月04日(水)
         『ツイッター、その雑念のゴミばこ』横尾忠則(著)
   * 単純ですから・・
 単純にも、様々ある。シンプルに物事の要点を考えるのも、『20対80の法則』
の20への集中と、同じこと。問題は、その組み合わせになる。服装一つとっても、
欧州では、黒が基調。そこに白か赤の小物をポイントに置く。
以前『すべては「単純に!」でうまくいく』ザイヴァート(著)を読んだが、
概要といえば【人は単純なことを複雑に考えてしまう? モノ、金、自身を
シンプルにすれば、ストレスが消えてゆき、仕事も人生もラクになる。】である。
 〜まずは、その辺りから〜
―「私は単純ですから」と卑下とも謙虚ともとれる言い方をする人が結構多いが、
この人は単純の意味が解ってない場合が多い。「あんまり頭を使わない」という
意味だと思うが、単純こそ人間の究極の理想の姿じゃないかね。ぼくも一度は、
「ぼくは単純なんですよね」と言ってみたいものだ。   ーMay 10/2010 13:41
― 人はなかなか単純にはなれないものだ。問題をあれこれいじくり回し、大抵
は複雑にしてしまうので、なかなか問題から開放されない。ーMay 10/2010 13:44
― 単純って、いわゆるアホになること。黒住宗忠という江戸時代の神道の教祖、
ある時、手相を占ってもらった。すると「あなたの相はアホです」といった。
怒られるかと思ったら、忠神は「そうか、わしは長年アホになる修行をしてきた。
それが顔に表れたのか、実に嬉しいことだ」とおっしゃった。ーMay10,201013:49
― 子供の頃、田舎で、「アホ・ボケ・マヌケ」と相手を罵って喧嘩をしたもの
だが、このアホと黒住神のおっしゃるアホとは格が違う。
アホな政治家というアホは馬鹿というアホだ。     ーMay10,201013:59
― ぼくの中にも複数のアホが住んでいるが、なかなか立派なアホになれないまま。
ツイッターをやっている人間はアホだと週刊誌に書いてあったわよ」と瀬戸内
寂聴さんから電話があった。「私もやろうと思っているのよ」。折角悟った
瀬戸内さんが、ツイッターでこれ以上悟ることになるのかな。ーMaylO,201014:10
▼ 単純といえば、カントの二番目の二律背反、『◎テーゼ:世界は単純な部分
から構成され、世界は単純なものか、またはその単純なものの合成されたものしか
存在しない。◎アンチテーゼ:世界はいかなる単純な部分で合成されたものでない。
また、世界に存在するものは単純なものを含まない。』がある。コンピューター
が、飛躍的進化をしたのは、0と1の組み合わせの二進法をベースにしたから。
 レーガンアメリカ大統領が、問題に対し、重要度を3つ羅列させ、その3つを、
3つに分け、さらに3つに分けて報告させ、対応をしていたという。
・・・・・・
5438,人生で最も大切な技術 ー? 
2016年02月04日(木)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 厄介な感情と、その治療法、        
 ネガティブな感情に対してのアプローチに、「解毒剤」「解放」「活用」
の三原則をあげる。問題を直視し、根本問題レベルに下がって解決しようと
するもの。私が取入れてきた問題に対する「正中心一点無」である。
何事もネガティブのまま放っておけば、ポジティブの感情まで歪む。
  〜以下の瞑想の解釈が分かりやすい。
≪ 瞑想は、退屈な日課を小休止して、木陰に静かに座ってリラックスする
 こととは違う。物事の新しい見方に慣れ親しみ、心に生じる思考を正しく
管理し、人々に対する見方と世の中での経験の仕方を体得する新たな道である。
 仏教は、以上を「習熟」するために、様々なアプローチを提供している。
とりわけ、「解毒剤」と「解放」と「活用」を三原則とする方法が最も主要と
なっている。「解毒剤」の方法とは、各種のネガティブな感情に対して
処方された特別の解毒剤で対応するというものである。
・一番目の「解毒剤」とは、生じてくる感情を即座に直視し、
それが自然に溶け去るままにする方法である。毒を中和させるやり方。
二番目の「活用」法とは、感情に自然に備わった力を、心の変革の触媒として
利用すること。どの手段を選ぶかは、使おうとする瞬間、状況、能力によって
決まる。これらの方法には、対立する厄介な感情の犠牲になるのを防止する
のに役立たせる、という共通の側面と目的がある。
・二番目の「解放、解脱」。この方法は、苦痛をもたらす感情に適した、
個々の解毒剤を処方することで、感情を抑えようとするのではなく、根本的
レベルに下がって、すべての心の苦しみを一つの解毒剤で退治するという方法。
心の自然の活動を抑え込むことは、不可能であると同時に望ましいことはない。
また、思考を遮断するのは無駄であると同時に不健康である。感情をつぶさに
調べれば、それがダイナミックに流れていて、それ自体には本来備わった
固有の実体がない、ということに気がつくだろう。こうした現象の非実在
を仏教では「空性」という言葉で表現している。厄介な感情を正反対の感情
(例えば、怒りに対する忍耐)で相殺しないで、単純に感情そのものの性質を
熟考するだけにとどまった場合、何か起こる感情を解き放つ術。
・苦痛を伴う感情を無効化する三番目の「活用」の方法は、最も繊細で
神秘的、その上、罠に嵌りやすい。感情を熱心に調べると、楽譜のように、
無数の要素とハーモニーで成り立っているのがわかるだろう。例えば怒りは、
時に人を奮起させ、行動に導くし、障害を克服させる力ともなる。その上、
それ自体が有害とならずに、明快で焦点が合って、効率がよい側面もある。≫
▼ この4年間、前半は週二回、後半の二年間は週三回、ヨガに参加。
 そこはポジティブの空気が満ちており、ヨガマット内の独りの世界が良い。
ヨガは静かな運動と、深く長い呼吸が主の瞑想世界だが、浮世からの
トリップは、慣れるほど深くなる。やはり、般若心経は暗記した方がよい。
・・・・・・
3967, 民主主義への疑問
2012年02月04日(土)           
* 近代日本の出発点に立ち返れ! 「民主主義とは何なのか」長谷川三千子
 最近の世界各国の紛争や、国内の政治を見ていて、信じて疑ってもみなかった
民主主義そのものに疑問を持つようになった。中国も、ロシアも体裁は独裁国家
ではないが、実情は独裁国家。 欧米は、隠れた独裁者はいたとしても、国家の
トップは選挙で選ばれた首長が政治を司っている。民主主義は時代が安定の時には
有効だが、大きな時代の変わり目には厄介な代物になり、その使いこなす技は
非常に難しくなる。その民主主義について、分かりやすく書いてある書籍がある。
 長谷川三千子著「民主主義とは何なのか」である。印象的部分を要約してすると、
・ 民主主義とは「国民による国民のための政治」が、その基本形である。
 だが、政治という道が、本当に最良だろうか、という疑問。この原理に従えば
 従うほど、実は「国民のための政治」は遠ざかって行くという、逆説がひそむ。
・ それは、人間という動物がイワシのようにリーダーなしに群れとしての
 行動をとりえない生物で、町内の自治会ですらリーダーを要する。
 指導者なしには政治は成り立たないが、「国民の、国民による」政治という
 原理は、首相であり大統領であれ、全ての指導者は不順な夾雑物であり必要悪。
 そのため常に、そこには指導者に対する不満がくすぶっている。国家が平穏の
 時は、それでも、ちょうど水平飛行を自動操縦で飛行して何とか乗り越えるが、
 ひとたび荒天が国家を襲うと、指導者がその能力を最大に発揮しなければ
 ならない時、深刻な危機にさらされる。飛行機が揺れているとうだけで、
 操縦室になだれ込んで、操縦を妨げれば、どんな飛行機も墜落する。
・ 民主主義はバイキンに似ている。それは強い伝染力を持ち、またたく
 間に国境をこえて広まり、あちこちで出血性の発熱をともなう。
 しかし、このバイキンを駆除すると、完全無欠状態で育てられて子供がひ弱に
 なってしまい、国の健康を害してしまう。独裁国家がそれ。
▼ 日本の政治の混迷が、正に上記の弱点を曝け出している。
 一年で首相交代が生じるのは、トップは民主主義では夾雑物になるため。
その期限が、日本の政治システムでは一年。それに情報化で、トップの威厳も
あったものでない。しかし、世界的動乱に入ってしまった現在、何とか切り抜け
なければ国家破綻が待っている。著者は、ここで明治元年五箇条の御誓文に、
民主主義のバイキンの毒素を取り除き、それを最上の活性化酵素として活かす
ヒントがあるとしている。  ーつづく
・・・・・・
4709, 閑話小題  ー三毒
2014年02月04日(火)
   * 三毒
「妬む」「怒る」「愚痴る」を三毒。特に女性の職場で、その毒が猛威をふるう。
女の職場は一見、花園だが、一歩立ち入ると、この毒素が満ち溢れている。
だから、そういうものと割り切るしかない。その毒の塊のような元ファースト
レディ(デビ?)が、時どきマスコミを賑わすが、自分をコミックの悪女?
と割り切り、演じているところが良い。 三毒の逆、「敬意」「喜び」「賛美」
をすればよいが、それには訓練がいる。そのため、心身とも豊かさが前提になる。  
   * 母ちゃんこわい!
 最近、どうも図書館で借りてくる本が、<「余命三ヶ月」のウソ>とか、
<末期がん、その不安と怖れがなくなる日>とか、<妻と夫の定年>とか、
マイナーの本が多い。ポジティブも良いが、こういう類が心休まるのは年齢?。 
 先日借りてきた <妻と夫の定年塾ー西田小夜子著>は、どこを開けても、
全てが定年夫婦の『諍い』ばかり。それまでの生活が一変して、妻の支配下
夫は置かれる。それまで上司の顔色を伺っていたのが、今度は、妻である。
 夫は、「なにかする人」と「何もしないで家でゴロゴロしている蓑虫」
に分かれ、その八割が蓑虫夫という。ところが妻は、数十年かけ進化していて、
その格差が膨大。妻からしたら、そんなバカが鬱陶しいのである。
 著者は「定年よろずもめ事仲裁」を生業にしているが、その実態の事例を
文章にしている。 構図は、「進化妻」と、その配下の「蓑虫夫」の揉め事の
具体例と、解決方法などのコメント。どの事例も、身につまされるものばかり。
   * 我が内なる獣性
 ふと見ると、去年の今日、<トラと漂流した227日 ーシネマ評>があった。
最後の最後の落ちには驚かされた!創業は、この獣性をオブラートにつつみ、
新しい業態をつくること。トラに食べられたハイエナ、キリン、コックが、
旧業態と喩えると、納得する。としても、あの荒れ狂う海で助かればこそ。
その獣性も、もって10年。いつの間に、現象に因われ歯抜けになっていた。
最期に、少し獣性が目覚めたが、それでも、子猫? 
・・・・・・・
3602, 閑話小題
2011年02月04日(金)
  * 日本の政府は巨大か、それとも普通か?
 民主党になって政府の肥大化が止まることがなくなってきた。
社会主義者が政権をとっているから仕方がないとも言っていられない。
あの東京都知事だった美濃部の国政版が現在進行中。 4月か6月に自滅
するだろうが、これを立て直すに時間がかかるだろう。で、果たして
日本は世界の中で政府として普通なのか、巨大なのか?の議論がある。 
実は世界で一番の水脹れの国家になっている。それも国家財政破綻直前で
悪いことに社会主義者が政権の中枢になってしまったから、何をかいわん。
一般会計では決して大きくないが、特別会計という母屋の隣の離れの大きさが
母屋の5倍以上はゆうにある。国民の目は母屋しか見えないように官僚と自民党
が組んで、使いほうだいをしてきた。そして、この財政破綻状態に陥っても
何も手がつけられない事態である。10年前でも国内総生産に対する一般政府
総支出は世界一だが、現在では更に大幅に悪化している。
日本も、この極左政権が最後のダメ押しをしてくれた。
その結果は、来年から大きな圧力として我われに襲い掛かってくる。
  * パン屋の恵方巻
 昨日、新潟駅のパン屋でパンの恵方巻きを買ってみた。恵方巻などと
いうのを、今年のスーパーのチラシで初めて意識をした。一週間前から、
そのパン屋で恵方巻のポップがあった。そして昨朝、昼飯のサンドイッチを
買おうと思い入ったが、サンドイッチのコーナーに恵方巻があった。
面白そうなのでサンドイッチ替わりに買ってみた。で、中味といえば、
カツとレタスにパンを巻いた上に海苔がかかっている。要は御飯替わりに
パンが巻いたもの。何と海苔とパンが意外と合う。節分の日には、豆まきを
しないかわりに、これを食べるのも良いのかもしれない。よく思い立ったもの!
  ーところでウィキペディアで「恵方巻き」を検索をしてみた
《 最近では、恵方巻(えほうまき)といって、節分に食べる太巻き
 ブームになっています。節分の夜にその年の恵方歳徳神の住む方角で、
 その年に吉となる方角)に向かって、目を閉じて願い事を思い浮かべながら、
 無言で太巻きをまるかじりするそうです。》
・・・・・・
4342, トラと漂流した227日 ーシネマ評
2013年02月04日(月)                   
 * すごい落ち!ーファンタジーに隠された人肉嗜食?  
  「ライフ・オブ・パイ/ トラと漂流した227日」−シネマ評
 ー まずは、ネットで見つけた「ライフ・オブ・パイ」の評論である。
≪ 獰猛なベンガル虎と16歳の少年が小さな救命ボートで太平洋を漂流する…。
 え?どういうこと?…。「ライフ・オブ・パイ」の奇想天外な設定を聞けば、
こんな絶体絶命の状況から一体どんな物語が展開するのかと、好奇心を
そそられずにはいられない。そして、喰うか喰われるかの緊張関係の中でパイが
見つけた究極のサバイバル方法に、この物語が示唆する命の不思議なパワーを
感じて感動するはずだ。 最初、虎から逃げることばかり考えていたパイは、
やがて、虎を生かすことが自分を生かすことに繋がると気づく。
そして、一緒にサバイバルするという不思議な共闘感を感じるようになる。
敵の存在に、自分を生かしてくれる力をみつけたのだ。この物語には、
こんな東洋的な調和の精神が随所に出てきて、単なる冒険物語を超えて、
生きることの素晴らしさを教えてくれる。敵がいるからこそ、最後まで
生き抜こうと願う。そんなパイの想いに、自分と考えの違う人たちを肯定する
意志が込められている。宗教の違い、民族の違いが多くの紛争の火種になって
いる今の世界で、すべての命を肯定しようとする意志は希望の光だ。
この映画には、その光をあなたの胸に送り届けてくれる力がみなぎっている。≫
▼ 終わりに近づき、ああ面白かったと思っていたところに、最後に「落ち」
 があった。 助けられた後に、遭難した船舶の所有会社の二人が事情を聞きに、
救助され入院しているメキシコまで来る。一通り少年の、この物語を聞いた
二人は、「こんな物語は、誰も信じてくれない。もっと信じられるような
物語が聞きたい!」という。そこで少年が話した物語は、当初、救命艇に
乗っていて、トラに食べられたハイエナやキリンなどは、船のコックなどの
船員の置き換えたもの。トラは少年の中の野獣?で、殺しあい相手を食べ?
生き延びたという筋書き。どちらが本当かは、ハッキリさせてなかった。 
それまでのファンタジーのストーリーが、そこで一変。この落ちが無かったら、
奇抜なファンタジーもので終わったが・・
 映画の導入部分で少年が幾つかの宗教に興味を持って入信していたことや、
動物園で育ち、調教や猛獣の恐ろしさを父親から教えられていた背景を組み
込んであった。ファンタジーとしても、それなりの筋たてがある。
特撮とはいえ、満天の星空の中、鯨が近くで飛び跳ねる場面は圧巻。ベンガル
ドラとの行き詰るような生死をかけた攻防も見ごたえがあった。 95点評。