ー新潮45 6月号・特集:私の寿命と人生
               『実際の長生きは苦しい』 久坂部羊
   * 老衰は、そんな生やさしいものじゃない
身につまされるテーマである。確かに、この年齢まで生きることが出来て心底
有難いと思っている。特に、20年来の本格的情報化社会への激変は、刺激的、
かつ劇的であった。 ネット社会が現実社会の上を覆って別世界をつくった
のを、目の当たりに出来たのは人類の一員として無上の喜びである。。
 逆に、医療効果で寿命も延びて、その影も浮び上がっている。
姉、兄、その連れあい、いとこなど、身内が70、80歳半ばに到達した。痴呆症
を含めた老々介護などの問題が直面している。長寿がめでたいのは過去の話。
他人事と思っていたが、古希を過ぎた現在、自分の問題にもなってきた。
― 
≪ 医師で作家の久坂部羊氏による「実際の長生きは苦しい」は高齢者医療に
 携わる氏の本音であり腑に落ちる内容である。元気のままで長生きできると
思っている人が多いがそれは夢想であり、実際は体が弱り機能が衰え、生き物
としてダメになっていくのを実感するのが長生きだという。
がんにせよ心臓・脳血管障害にせよ老化によるものなので自然の寿命なのである。
それをなまじ病院などに行けば無理やり死を遠ざけられ想定外の苦しみを味わう
ことになる。病院に1,2か月通っても良くならなければ医療は無力とあきらめた
ほうがいいという。≫
≪ メディアでは盛んに健康、アンチエイジングを謳っているけれど、高齢者
 医療の現場は大変なことになっている。「老衰」で死にたいと、多くの人は
思っているのではないだろうか。実際、私もそう思ってた。でも、久坂部さん
いわく、「老衰はそんな生やさしいものではない」と。確かに眠るように、と
言っても、よく最後は肺炎でとか聞くけれど、実際は息苦しいだろうし…。
どんなに死を恐れ、拒絶し、悲しんでいる人も死に顔は無表情だったという。
死はそんなに悪くないということ。≫
≪ … 死をどう考えていますか?
・久坂部: 私は死を全面否定しない。死は悲しいし、つらいし、苦しい。
 しかしそんな死にも良いところはある。そう考えることでバランスが取れる。
  … 高齢者の大半が病院にかかっていますが
・久坂部: 老人の病院通いは害が大きい。時間と労力、お金をかけて検査を
 重ねた結果、分かったのが治らないということだけだったりする。それなら
 何もしない方が有意義だ。老化が原因の病気に対し、医療は限界がある。
 病院に行けば治るというのは幻想です。≫

▼ いざ、自分に「余命半年」と告げられると、動転するようだ。長生きの
 リアルを知らない人が、長寿に憧れ、メルヘンの世界をイメージするが、
それは綺麗ごとに終始するメディアと、健康関連業者だけ。死ぬに死ねないで、
「健康法で、長年、散歩をしてきたが、あれが悪かった!」とさえ… 
「で、どうすればよいか?」というと、「自然な寿命を受入れること」。
現実問題としては、「病院に行かないこと」。
 医師として多くの看取りをしてきた著者が、<「死を受け入れることは
難しくない。いつも、死のことを考えていれば慣れるし「あきらめ」もつく。
ヤケクソではなく、「明らかに観る」という意味の「あきらめ」が必要>と。

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2016年08月31日(水)
5647,「家、ついて行っていいですか」
   * ぬいぐるみに話かける男
 ときどき見る番組、「家、ついて行ってイイですか?」だが、必ずという
より偶然、見るほうが多い。そこでは人生の多様性を見ることが出来る。
先日見た中で印象に残ったのが、「ぬいぐるみ」に話しかける青年。
ネット検索で、「家、ついて行ってイイですか?」「ぬいぐるみ」と検索した
ところ、本人?が直接ネット上で、「自分は変か?」の問いかけがあった。
「なりすまし」? それともTVに出た人とは関係ないかどうかは不明。
都会には、地方出の孤独な群集がいる。誰もが過去を引きずり、面白い
人生劇場を生きている。哀しく、ほろ苦く、温かく、複雑な人生が・・
≪ 20代後半の男。
 家に3歳くらいのときに買ってもらった手の平サイズの子猫のぬいぐるみが
あります。名前もあります。小さい頃は肌身離さず持っていて、さすがに年齢を
重ねるにつれて肌身離さず持つことはなくなりましたが、捨てることは出来ずに
今も大事においてあります。さすがに20数年持ってるとボロボロになって背中
とか綿が丸見え状態で全身の毛も半分くらい抜けています。汚くなってるので
洗濯したいけど洗濯したら多分頭と体ちぎれる可能性あるので、もう出来ない。
そんな子猫のぬいぐるみですが、学生時代はあまり置いてある場所から出したり
することもなかったんですが、社会人になってからたまに出してきて撫でたり、
話しかけたりしています。ただ、毎日じゃなくて3日に1回のこともあれば、
1週間に1回、1カ月に数回の時もあるし、忙しいときは1ヶ月全く触らない
こともあります。 でも、ここ最近触ったり撫でたりしていると癒されるし、
昔と違った感じでまたものすごくかわいいと思うようになっています。
他の「ぬいぐるみ」は別に欲しくもなんともないんですが、この「ぬいぐるみ」
だけは特別というか愛着がすごくあるんです。小さいころに持ってたぬいぐるみ
もこれだけです。他人から見たらただの汚いボロボロのぬいぐるみですが、僕に
とっては小さいころから一緒に暮らしてきたので家族みたいな感じです。
捨てろと言われても絶対に捨てることは出来ません。
 将来的に一人暮らしもしたいと思っていてその時には連れていくと思います。
ただ、客観的に見るといくら家の中でプライベートな空間とはいえ、かわいいと
思いつつ20後半にもなってぬいぐるみ撫でたりしているのはちょっとまずいん
じゃ・・て考えたりもしてしまいます。いい年した男がぬいぐるみを可愛がって
いるて、精神的に子供というか・・ でも、止められません。 いい年して
ぬいぐるみを持っている、可愛がっている男性をどう思いますか?
キモイというかドン引きて感じですか?男女問わずよろしくお願い致します。≫
▼ よく読むと違う青年のようだが。 青年がぬいぐるみに語りかけるのを見て、
「大の男が気持ちが悪い!」とも思わず、自然に受入れることが出来たのは、
この随想日記が、ヌイグルミに近い存在と思えたため? 親元を離れ、都会の
中で暮らす孤独は、慣れるまで本当に辛く侘しい。が、青年期には親元から
自立する必要条件になる。だから、地元から上京した時は、同郷の友人より、
都会の新たな友人を見つけるチャンス。 ブログ内検索をすると、以下のように
書いていた。 「いま、ここ、わたし」は、垂直に立ち、現在と、過去と、未来に
ループして、多くの時空を飛びまわることが出来る。だから止められない。 
何度も経験することが、過去の文章に、「あんた誰?」と見知らぬ誰かを実感する。
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2016/04/12
閑話小題 〜最近のTVは、面白いのが多い
   * 最近のTVは、実に面白いのが多い。
 その時どきのウェーブがあるが、最近のTVは、面白いのが多い。
『Youは何しに日本へ?』『家、ついて行ってイイですか?』『世界街歩き』
火野正平 こころ旅』など、軽い目線で、街や村の道路で声をかけたり、
街歩きをする番組などである。チョッとした旅行をしたいが、面倒だったり、
通りすがりの人の私生活や人生を生(なま)で覗いてみたい気持ちを代行
して、ズカズカと入っていく面白さは格別。
 『家、ついて行ってイイですか? 』を検索すると、以下の内容説明があった。
< 終電を逃した人に「タクシー代を出すので家について行ってイイですか?」
と声をかけ、家を見せてもらいインタビューをおこなう。 深夜、急に訪れる
片づけられていない素のお宅は、その人の人生ドラマが 散りばめられた宝箱。
そして誰しもが、一見フツーでも 、ぜんぜんフツーじゃない 人生ドラマを
持っている! そんな素敵な市井の方々の人生譚を覗いていきます。>
 昨日見たキャバクラ嬢や、美容師の変態ギャルのキャラクターと実態に、
お笑い5人のスタッフが、呆然と声を失う。最近、見始めたばかりなので、
過去分を動画のYoutubeで見ると、あるある面白い人生が。
 『YOUは何しに日本へ?』の検索には、
< 空港に居合わせた外国人(永住・帰化した人物なども含む)に
「YOUは何しに日本へ?(Why did you come to Japan?)」と問いかけその返答
の様子や、気になる返答をした人に密着取材を依頼し来日した目的を果たす様子
を放送する。番組内では性別・年齢問わず名前ではなく外国人はすべて"YOU"
(複数ではYOUたち)と呼称するが、密着時には混同を避ける意味もあり個人名
も使われる。基本的には半日から数日間の密着であり放送も一度限りだが、
長期の旅行や研修に密着する場合、放送回をまたいだり、しばらくしてから
後日談が放送されたりするケースがある。基本的に密着時はYOUの日程に合わ
せて行動するため、出先の店舗や施設ではその場で撮影交渉を行うことが
ほとんど。> 
 それぞれの分霊に、これまで生きてきた触媒が取囲んで自分を形成している
姿が浮き上がる。死ねば、その分霊ともども消滅する。その分霊は、これまで
も、今後に、人類が存続する限り浮かび上がってくる。人生は、その触媒の
質量で形成されるが、そこには両親の格差で、大きく左右されるが、可能な
限り、そこからアップスケールし続けるかどうかもある。その触媒で、一番、
手軽なのが、書籍と、TV、友人、ネットなどがあるが、自然との触合いも
欠かすことが出来ない。情報化の時代、「閑」と少々のお金こそ財産になる。

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2015年08月31日(月)
5282,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー?
     ーその時、言葉は私の「神」となるー(新潮45/6月号)
           〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
  * 言葉は自意識の申し子
 著者の自我そのままの言葉が、直接、私の心に届いているのは、魂から発した
言葉だからである。 会社断念をして、何か後ろめたさを持つようになってから、
私の書く、随想日記の文章が、「自意識の私」より、「自我の私」へ、言葉の
比重が変わったためだろう?  ネット上に公開すること自体が、実は、
「自意識の私」に縛られていることになる。「自我の私」がまる見えだが。
≪ 我々はもはや引き返せない。他者の中で己を形作る「客体としての私」が、
「私」の大半を占めている以上、我々は自意識の地獄から抜出すことができない。
そして我々は、他者の中で生きるために「言葉」を発明した。
「言葉」は「自意識」の申し子である。他者を理解したい、他者に理解されたい、
他者と繋がりたいという必死の想いが「言葉」を生んだ。
「あなたに私の気持ちを届けたい」その祈りにも似た強い想いは言霊、となって
言葉に宿り、相手の心を揺り動かす。言葉とは本釆、そういうものであったのだ
と思う。だからこそ言葉は神であった(ヨハネによる福音・第一章第一節)」のだ。
他者の中で生きていく時、私は言葉以外の武器を持てない。「空気を読む」という
コミュニケーションも苦手だし、心にもないお世辞や社交辞令といった口先コミュ
ニケも得意じゃない。言葉がなければ、私は人の世で生きていけないだろう。
 だが、それは武器であるだけに、凶器にもなり得る。人の心に届けようとして
相手の心を突き刺してしまうことも多々あるのだ。が、そんな体当たり
コミュニケーションも、そこに相手に対する好意や信頼があれば、より深い
人間関係を築くことができる。お互いに血を流しながら、まっしぐらに相手の
心の奥へと突き進んでいく。それが本気の言葉であればあるほど、我々は互いの
魂に触れ合うことができるのである。そこには嘘も悪意も存在しない。
だからこそ安心して胸襟を開くことができるのだ。そして本気の言葉が届き合い、
剥き出しの魂が触れ合った瞬間、我々は互いに対する深い理解と共感に満たされ、
以前よりももっと相手のことを好きになる。この人になら何を言っても大丈夫、
どんな自分を見せても受け容れてくれると、心の底から信じられる。
それが、私のコミュニケーションだった。もちろん、これが通用する相手は
限られる。だから私は友人が少ない。しかし真の友人なんてものは少数精鋭で
いいと思っている。これからも私は本気の言葉を投げ続けるだろう。
 私は、そのために生きると決めたのだ。私は自分が何のため生きているのか
ずっと知りたかった。特に死に損なってからは、自分は何故生きているのかと
繰り返し自問した。答はまったく見つからず、生きているのが苦痛で、
「どうしてあの時に死なせてくれなかったのだ」と医者に当違いの恨みを
抱いたりもした。ところがそんな時に、思いも寄らぬ人の計報が入って、
私は激しく動揺した。自分は生きる理由もなく生きているというのに、
死んで欲しくない人が亡くなりてしまうという、この理不尽。人の生死には
道理も必然性もないのだ、と、つくづく思った。私は何者かに連れ戻された
わけでもなければ、正当な理由のもとに生かされているわけでもない。 
生きる理由なんかないのだ。それが耐えられないというのなら、理由は自分で
見つけるしかないではないか。諸君、こうして私は、自分の言葉のために
生きようと決めたのだった。何故なら私は、成り行きとはいえ、何十年も
言葉を生業としてきたからだ。もはや私には言葉しか残ってないからだ。 
私にしか語れない私だけの言葉を、私はこれからも探し続ける誰かに届きます
ようにと祈りながら言葉を綴る。その時、言葉は私の「神」、となるのだ。 ≫
▼ 著者の「自我の私」の言葉である。成るほど、これなら万人の 心まで
 届くだろう。それと、死線から戻ってきたが故の心の苦しみは、想像を
絶するほど厳しいから、その言葉そのものが、本人にとっても「神」になる。
・・・・・・
2014年08月31日(日)
4917,「個人から分人へ」 ですか!
* 永遠の問い、「私とは何か」
  平野啓一郎「私とは何かー個人から分人へ」の久垣啓一評が解りやすい!
≪ この本の主張は、人間の単位を考え直すことだ。個人という意味で使って
いるindividualは、これ以上分けられないという意味であるが、本当にそうか。
そして本当の自分なるものがあるという考え方が間違いのもとではないか、
というのがこの本の問題意識である。平野は、人間は分けることが可能な存在
であり、人間は対人関係ごとに複数の顔を持っており、一人の人間は複数の
分人のネットワークによって成り立っているという。
そして個性とは、その複数の分人の構成比率によって決定されるというのだ。
・誰とどうつきあっているかで、分人の構成比率は変化する。その総体が個性。
・自己の変化とは、分人の構成比率を変えるしかない。それはつきあう人間を
 変えることだ。
・自分という人間は、複数の分人の同時進行のプロジェクトと考えよう。
・自分探しの旅とは、欠落している新しい分人を手に入れて、新たな個性を
 創出しようとする行為だ。
・私たちは、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。
・自分が気に入る分人を少しづつ増やしていくことができれば、自分に肯定的
 になっていける。
・片思いとは、お互いの分人の構成比率が、非対称な状態である。
 それが許せずに自分向けの分人を大きくしようと、異常な行動にでるのが
 ストーカー。
・分人主義は、人間を個々に分断させず、単位を小さくすることで、
 きめ細かなつながりを発見させる思想である。
・帰属するコミュニティが一つであることがアイデンティティであったが、
 今後重要なのは複数の分人を使って複数のコミュニティに参加することだ。
むしろ矛盾する複数のコミュイティに参加することが大事なのだ。個人を複数
の分人のネットワークとしてとらえると新しい視界が開けてくる気もする。
分けるというより複数のレイヤー(層)によって重層的に個人が形成されている
と考えることもできる。ヨコに分けられているのではなく、タテにつながって
いるのではないか。≫
▼「わたし」は、わ(我)の最小単位が、たし(足し)で加わって私になっている。
 だから、人生を振り返ると、その時々の出会いとか、経験で、分人を増やして
いる自分が存在する。創業には、その分人たる主体たる自分が、厳然と、そこに
存在している。秘境旅行で、各地に旅をしている自分も、旅行先に溶け込んで
いる分人である。旅行を続けることは、旅先に溶け込んでいる分人を増やす
行為である。個性とは、過去の経験の総体の構成比率とは、言いえて妙である。
自己の変化とは、付き合う人間を入替えることだ。それも森の生活のうちである。

・・・・・
2013年08月31日(土)
550, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ
長岡市の昭和』という写真集の広告の折り込みが、今月だけで二度も朝刊に
入っていた。それも、一枚目は表面トップに実家の商店ビルの写真で、二度目は、
裏側に、何故か小学校五年時のクラスの集合写真。出版社に誰か同級生でもいる
のかとネットで調べてみたが??7名の小さな長岡市内の出版会社で、県内だけ
でなく全国の各市の昭和の街の写真集を出している会社。団塊の世代以上を
狙ったものだが、旧長岡市内の人たちに限定2000冊としても9990円で売れる
のだろうか?その方が心配になる。しかし他は、HPを見ると完売となっていた。
その小・中・高校時のアルバムが、引越しなどで紛失、同級会などで誰かが
持ち込んだのを見るしかなかった。で、51年の時空を超え、このチラシの集合
写真を何度か見ているうちに、当時のことが、次次と思い出してきた。
11〜12歳は、人間としての最終の熾烈な闘いがあって、そこで、ほぼ性格も能力
も決まるという。クラス内の力関係などで、誰かが常にターゲットにされる、
あまり気持ちの良くない年頃。そのため心の傷は深く残るもの。その最たるのが、
まあ、書くのは止めておく・・ 自分も似たようなものだったろう。
手取り早く学歴からみると、慶応一人に、立教三人、あとは大学名は不明だが、
数名、卒業しているから、街中の小学校として並みというところ。
学校の先生の子弟は新大付属小学校がある。ここで目立つのは長岡青果市場の
社長の息子で慶応と明治の教授をしたが既に故人になっている人とか、土田塗装
とか、何処かの中学校の先生とか、多種多彩。女性の方は皆目分からないが、
少し目立っていた三人が三人とも離婚?死亡数は男20人中に4人。女は分からない。 
 主任は非常に厳しいので有名な西沢先生。その後、多くの小学校校長を歴任し、
最後は何処か教育長をされた人で、定年時に400人が祝いに集まったという。
20年近く前に、私が経営していた新潟駅前ホテルに泊まって、古町を数軒、
飲み歩いたことがあった。せっかくなので、この数日、当時の記憶をたどって
いるが、51年の時空を超えて嫌な記憶を中心だが幾らでも出てくる。
太平洋戦争と長岡空襲の影響も色濃く残っていて、口に出さなかったが、
戦争孤児とか様々な問題を各家庭が抱えていたようだ。 そうこう振り返って
みると、子供の頃の記憶から、繁華街で、父親の大きな影響下で、負けん気が
強い遊び好きの生意気な子供だった。今だ続いているが・・ 当時、家庭内で
多くの問題があり、母親が倒れてしまい、住居が商業ビル3Fから、歩いて7分
ほどの駅裏に移転していた。その辺りから、やっと学業に目覚め始めてきた。
生活環境は本当に大事である。
・・・・・・
2012年08月31日(金 
4175, 閑話小題 ー恐ろしい近未来がまっている
   * 恐ろしい近未来
 南海トラフ地震の最悪の死者予測が32万人と政府が発表、マスコミが騒ぎ
出したが、もう一年以上も前から週刊誌で騒がれた記事と同じ内容。政府発表
となれば違ってくる。大手ゼネコンの含み笑いが聞こえてきそうだ。
これは太平洋沿岸沿いには住めないということになる。その地区の住宅地や
商業地が暴落というより、ほぼゼロになってしまったことになる。 
当事者は、まだピンとこないはず。 千年前の大地震の後に二回、17年内周期
で大地震と大津波が起こっている痕跡があるという。活断層が不自然に捩れて、
何らか次の大地震が起きる可能性が大きい。決して非現実的予測ではない。
これに関東直下型地震の可能性がある。更に世界恐慌も遅かれ早かれ起こる。
いや、すでに起きている? これでは、夢も希望も持てやしない。この数年来、
大卒の正規社員就職率が63パーセントで、三分の二も就職ができてない。
これが恐慌が吹き荒れる前で、この有様。数年先は、こんなものでないはず。 
40数年前の私の卒業の時とはえらく違う。金の卵で、会社は選び放題。
私の同期の男たちは、殆どが一部上場の有名企業で、ハッピーリタイアをした。
時代は大きく変わった。
  * 田中真紀子民主党党首に立候補 ?
 久々に面白い話に驚いた。途中で立ち消えになるかどうか?だが、真紀子様
民主党党首の候補の可能性が出たという。思わず失笑したが、それほど民主党
困っているということになる。あの外相時の相応しくない姿を忘れたのか。
あの人物から誠意の何も感じられない。一国を束ねる力量があるとは思えない。
何が今さらだが立場が野党なら、最適の逸材か。
あの辛辣な口撃は溜まったガス抜きになる。国が衰えると、こうなる。 
政治は、何でもありである。床屋レベルの政治談義からみると、この世界的危機
の中での、日本、米国、韓国、中国のトップ交代による政治変動は非常に興味を
そそられる。なるほど2012年問題は危ない要素に満ちている。
安倍自民党総裁、田中真紀子民主党党首、それに安倍に担がれた橋元首相。
面白いがどうだろう? それと何時起こるかしれない南海トラフ地震と、関東
直下型地震。それと世界恐慌の可能性がある。20世紀前半に世界恐慌を挟んで
二つの世界大戦があった。このドサクサで一億以上の人たちが犠牲になった。
それより大きな変動が、始まってしまった。 
これから壮大なシネマのような世界が展開される。