<老いの風景 ー物語で経験する「生老病死」〜石光勝(著) >
  * 経験の4つの形と、物語化
 経験の意味を、ここで理解しやすく紹介している。 〜P/18
≪ 本屋大賞吉川英治文学新人賞などを受賞した冲方丁が『天地明察』で、
 「人間は経験したことがないものを、理解できない」としてうえで、経験には
4つの形があると言います。
 【人間は、視覚、嗅覚、味覚、聴覚、触覚の5感で直接的経験をする。
 生きていくうえで、それだけに足りず、他者の経験による間接的経験に
依存する。しかし、誰にも実証は不可能な神話的、宇宙的な経験をする。
こういた3つの経験をもとに万人に伝える形にするのが第四の経験、いわゆる
物語です。物語は架空にあるにかかわらず、時には社会を動かすような力を
発揮します。】
 つまり、物語を読むことが‘経験’になるというのです。
言われてみれば、私たちは『三国志』で、中国の後漢時代を、『戦争と平和』で
帝政ロシア時代を、『竜馬がゆく』で日本の幕末期を経験した。それは世界史や
日本史の資料や知識では決して得られなかったはずです。
 批評の神様の小林秀雄の同じようか言葉に出逢いました。
「経験という言葉は西洋の言葉だが、誰も合理的な経験なんてしません。
ナマの経験の意味というのは、各自みんな自覚しえないものです。みんな、
自分の経験に対しては支離滅裂なことしかわからない。そこで創作という形式が
必要になる」というのです。これを逆に捉えると、創作という形式の物語によって
初めて、合理的な‘経験’が得られるということでしょう。≫
――
▼ 16年続けてきた、このテーマ日記は、毎日の読書や体験をテーマを元に、
 物語化の創作をしていることになる。事業人生45年をテーマに、50回以上に
わたって書いたのも支離滅裂で行き当たりばったりの転職、転業を、尤もらしく
文章化をすることで、合理的経験として修練したに過ぎない。人生など、所詮、
その程度のことでしかない。それぞれの人にとっての物語化の方法がある。
散歩の最中、頭に浮かぶ雑念を、物語化するとか、旅行に出て、日常に溺れて
いる自分を見つめ直すのも一人語りの物語化になる。そのためには独りの場が
必要になる。毎日、TVで楽しんでいる映画とドラマも、その物語を経験をして
いることになる。だから、やみ雲にみないことだが… 著者は、現在進行形の
生老病死」の「老」を‘経験’するために、小説などにある「老い」を訪ねる
という奇妙な構図の物語なら、面白、可笑しく、哀しく共感する内容である。
山の麓から見ていた「老い」の雲に、一歩踏み込んだ霧の中で、一日一日、
「老」と「死」の何たることかを問うている道先案内人の言葉は、重く響き
わたってくる。還暦、古希を過ぎ、霧は晴れたり、濃霧になったりである。
前をみれば、日々、人数が減り、横をみれば、バタリバタリと… 
 生きている限りは、他人はお先! である。 

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5485,閑話小題 〜51回の海外ツアーで ー?
2016年03月22日(火)
    * 世界の絵画
 ベルギーのフランドル地方の古都ゲントの大聖堂にある
『フランドルの祭壇画』を、以前にみてきたが、立花隆が、死ぬ前にみて
おきたいと、わざわざみにいった絵画。この絵画はスペイン圏では、非常に
有名で、スペインから毎日、特急が出ているという。教会の定位置には、模写
の絵画飾られていて、特別のコーナーに本物が防弾ガラスの中に、監視の元で
飾られていた。模写のコーナーでは写真撮影はオッケーだが、本物のコーナー
では不可。少女が賛美歌を歌っている表情に、それぞれの内面が出ていてよい。
 ルーベンスの『夜景』と、エル・グレコの『オルガス伯爵の埋葬』、
ダビンチの『モナリザ』、ベラスケスの『ラス・メニーナス』、
ボッチィチェリの『春』、ゴッホの『ひまわり』、ピカソの『ゲルニカ』と、
このファン・エイクの『フランドルの祭壇画』を見れたのだから、これで良し
としなければ。 絵画といえば、スペイン、英国、オランダ、ベルギー、
イタリアである。 一枚の絵画の中に、さまざまな思惑、情報が詰込まれている。
ひとつ『夜景』を取上げると、ここに出てくる人たちは、自分の姿を後世に
残すため、この絵画を特注したという。 〜『夜景』をネット検索すると
《 レンブラントに発注した18人の名は中央右後方の盾に描かれている。
 その他、鼓手、少女、少年などが絵の中には描かれたほか、左側には絵が
切り詰められる前はあと2人ほどの傍観者が描かれていた。この時の支払いや
受注の記録は全く残っていないが、発注者たちの記録によれば各人が
100ギルダー、計1,600ギルダーレンブラントに払われた。これは当時の
肖像画の報酬としては大きな額である。
 絵画は次の三つの要素のために有名である。
・まずその巨大さ(縦3メートル63センチ、横4メートル37センチ)、
・次に光と影の効果的な使用、
・そして当時は不動の姿勢で描かれた軍隊や自警団の集団肖像画
 動きの要素を取り入れたことである。
『夜警』はオランダ黄金時代の絶頂期であった1642年に完成した。
この絵は題名となった(火縄銃手組合による)市民自警団)が出動する瞬間
を描いている。・・一斉に人々が動き始めたため、その下では犬が吠えたて、
左には少年が走り回っている。各隊員はそれぞれ異なった方向に体を向け、
多様な表情を見せて、隊員の動きが交錯して画面に興奮を生み出している。
いずれも体の一部分しか画面に映されておらず、全身が描かれているのは
3人のみ。》とある。 絵画を描かれる背景の意味などを知るか知らないかで、
捉え方が全く違ってくる。芸術とは、そういうことである。

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5120,「魂」の思想史 ー?
2015年03月22日(日)    
       〜「魂」の思想史: 近代の異端者とともにー酒井 健(著)
   * 「魂」とは何か
「魂」の思想史などと、難しい問題を勇敢に取上げたものと恐れ入る。
それもゴッホニーチェボードレールの魂についてなら、面白いはず。
 その‘まえがき’の魂の解釈が、明快で、解りやすい。  
≪  〜魂、その捉えがたさ、その恐ろしき魅力〜
 もやもやとした何か、そのたましいとは何なのでしょうか。
「人の生命のもとになる、もやもやとしていて決まった形のないもの。
 人が死ぬと、肉体から離れて天にのぼると考えられていた」 が、
 辞書にある説明です(『新漢和大辞典』)。
漢字で「魂」と書きますが、同じ辞書によれば、左側の偏「云」が
「雲、もやもや」を表し、右側の「鬼」は「おぼろげな形をして、
 この世にあらわれる亡霊」となります。似たような言葉に霊があります。
漢字の成り立ちから意味をさぐると、上部の「雨」と「一」の文字が
「連なった清らかな水たま」、下部がそれに接する清らかな(巫)を表し、
合わせて転じてできた意味が「水たまのように冷たく清らかな神の力や
たましい」となります。魂の雲、霊の雨水は、単なる比喩ではありません。
これら漢字の文化を成り立たせ支えてきた人々は、雲や雨水に霊魂を感じて
いたのです。人間の内部だけではなく、外部の自然界にも魂や霊を感じて
いたのです。 この感じ方は、西洋の宗教用語でアニミズムにあたります。
生物だけでなく、石や水などの無生物にも生命、霊魂を認め、その特別な
表出に神聖なものを感じとっていく立場です。洋の東西を問わず、宗教の
基層になりました。 注目したいのは、このアニミズムという言葉の語源、
ラテン語のアニマです。このアニマのもともとの意味は、そよ吹く風の息吹
であり、そこから大気、人間の吐く息、生命、そして魂という意味が生まれた。
魂という言葉はここでも自然界とつながりを持っていたわけです。仏語
で、魂を意味する言葉、アームの語源はこのアニマです。英語で魂はソウル
ですが、この語源はどうやら、ドイツ語の魂ゼーレと同じく、古ゲルマン語
の湖あるいは海を意味するサイウィズにあるらしいのです。人間の魂は湖
あるいは海から生まれ、肉体の死後そこへ帰っていくという古いゲルマン人
の伝承に端を発しているようです。もやもやとした雲、数限りない雨滴が
どこからともなく吹き寄せる風の流れ、大きな水の広がり。・・ ≫
▼ 42年前に、父親が亡くなって数日、父親の魂が、私の魂に入ったような
 体験をした。以前書いた内容は次回で再び取上げるが、不思議な経験である。
これだけは、実際に体験しないと分からないこと。 人の心は複雑怪奇で
奥行は深い。池田昌子の著書に、『魂とは』を図書館から借りてきて読み
始めたが、これが面白い。5年ほど前に『魂』をキーワードに、本人の
著書を元に、再編集したもの。  ー宿命は魂にありー 池田昌子

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4755,そんなに長生きしたいですか ー7
2014年03月22日(土)
    『日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか』久坂部 羊著
  * 早いーうまいー安いー
 現状の終末医療の現状を知れば知るほど、恐ろしくなる。以下の内容が現実。
《 ある医療講演会で、こんな話を聞きました。「早い!うまい!安い!」
 という看板のスライドを見せて、これはある牛丼屋の宣伝文句ですが、
うしろに「治療」という言葉をつけると、そのまま病院のキャッチフレーズに
なるというのです。たしかに、早い治療、うまい(上手い)治療、安い治療は
患者にとって最良のもの。講演者はさらに続けて言いました。
「『治療』の代わりに、「死」という言葉をつければ、今度は理想の末期医療
になります」早い死、うまい死、安い死というわけです。なるほど、うまいこと
を言うなと、私は感心しました。・・ その発想だけでは現実は立ち行かない。
患者はほとんど見込みがなくても治療を求める、医師は治療すればするだけ
儲かる、この状況では、医療費が膨大になって当然。そろそろ冷静になって、
現実をしっかり受け止め、無駄な延命治療から死を支える医療に転換すべき
ではないでしょうか。 死を支える医療は、よけいな治療をしません。
医療費が安くなれば、患者側も自己負担が少なくてすむし、国民の医療費も
削減されます。これで困るのは、無駄な治療で収入を得ている医師だけでしょう。
早い死というのは、患者を見捨てることでありません。苦しむ時間を短くする
という意味です。病気や老いと闘いながら、精いっぱい生きてきた人も、死が
近づくとどうしても衰弱します。食事や排泄などが自力でできなくなり、これ
以上生きることの意味が見出せなくなってしまいます。それを理想主義的な
励ましで無理にがんばらせたり、延命治療で長引かせるのは残酷なことです。
死は自然の成行きですから、どこまでも抵抗するのは不毛です。極論かも
しれませんが、死が避けられない状態になってから、少しでも長くとあがくのは、
手遅れだと私は思います。そうなる前に時間は十分あったはずです。・・・ 》
▼「終末期医療費が全老人医療費の2割を占める!とか、国民一人が一生に
 使う医療費の半分が、死の直前の二ヶ月に使われる!」という報告がある。
だから、医療側からすると、可能な限り生かしておいて方が良いことになる。
生かしておいて拷問の苦しみを与え、その治療費を膨大に絞るとる末恐ろしい
現実が、そこにある。末期ガンは、どのみち助からない。だったら死をサポート
する医療があるべきである。これでは入院前に、青酸カリか、致死量の睡眠薬
準備をしておくべきと、考えてしまう。そう簡単には、死ねないのである。 
良くも悪しくも死ぬまでは生きている。死ぬのは挫折でも、何でもない。
目出度いことなに、何で延命をするか、それが利益のためなら、
犯罪的システムではないか。
・・・・・・
4388, 「うつ」かもしれない ー3
2013年03月22日(金)           
* ウツの治療 ー「うつ」かもしれないー死に至る病とどう闘うか〜磯部潮著
 ウツ症とウツ病の境は、日常生活に支障をきたすかどうか、軽症か重症かは、
「死にたくなる度合い」がが目安という。逆にいえば、それだけ苦しいのである。 
身近にも自死した人が何人かいる。共通しているのは、真面目で、几帳面、感情
は表に出さず、周りの人を思いやる心優しさがある。また、考えに弾力性がなく、
自分一人に固まっている。 こういう人が暴発すると秋葉原の無差別殺人のよう
になる。私がウツ病に何で興味があるかというと、人間の原点が、見え隠れする
かである。人生は生易しくはない。要は難題への対処である。息をつくところが
ないと、ストレスが蓄積していく。ウツの治療には、「薬事療法」と「認知療法
がある。薬事療法は、医者と相談して症状にあった薬をみつけ最小を前提に治療
すること。それに対し認知療法は、ウツの人の持つマイナス思考、悲観的考え方
を修正するスキルをいう。私は昔から、その類の本を身近において常に手に
取ってきた。その一つに中村天風の一連の「積極一貫」の哲学の本がある。
これは本当によい。 ウツによる歪みが固定化されると、「視野狭窄」に陥り、
自殺の危険性が出てくる。だから普段より予防剤として、少し気持ちが落ち
込んだとき手にする習慣をつけておくとよい。この本にある、
「「5つのコラム」も心のコントロールによい。
1枚の紙に5つのコラム(欄)を作って、何か問題が起きたときの状況や
自分の考えを書き留めていく方法で、頭であれこれ考えるよりも、冷静に
客観的に検討することができる。5つのコラムのうち、(状況、感情、自動思考)
の3つは、自分の「認知のゆがみ」をはっきりとさせるのに役立つ。
あと2つのコラム(別の見方・考え方と最終的な心の変化)を合わせて
書いていくことで、「認知のゆがみ」を直すに役立つ。
 第1コラム 状況(気持ちが落ち込んだり、不安になったときの出来事)
 第2コラム 感情(不安、怒り、悲しみなど))
 第3コラム 自動思考(不快な感情を経験するときに心に浮かんだ考え)
 第4コラム 自動思考とは別の見方・考え方
 第5コラム 最終的な感情と考え(心の変化)
ここで詳細を省くが、ネット検索で「5つのコラム」で調べると、事例が
数多く出てくる。 著者は、日常生活での日々の習慣づけは大変なので、
第三と、第四だけを頭に思い浮かべるシュミレーションを薦めている。
書いるうちに自分の思考の癖が見えてくるだけでも効果がある。
心は荒馬のようなもの、時間と愛情をかけて乗りこなしていくしかない。
 ・・・・・・
4014, 事業生活39年の、独り語り ー3
2012年03月22日(木)
  * 武澤ゼミ (20歳の頃 ーある教授との出会いー3)
 高度成長の真っ只中、創業人生が面白そうと20歳の時に思い立ち、色いろ
の教授に触発された。その最大の恩師が、人事管理の武澤教授である。
その後も、ゼミOB会に2〜3年に一度は参加していた。10年前に亡くなられた。
【 1024, 22歳の日記−2   ー武澤ゼミについて
 何度か書いた事があるが、ゼミについて考えてみる。この時期は、武澤ゼミと
寮とクラスメイトなどの過去4年間の友人が、ほとんどを占めていた。その中で
武澤教授の影響が大きいことが、当時の日記からうかがい知ることができる。
ゼミでは、一週間前に社内トラブルの事例(ケース・スタディー)の用紙を
渡される。その間に対処を考えて、全員で徹底的に議論をする。 
その後、その事例研究のベストの答えの用紙を見せられる。そこで私たちの
出した結論と、その差異について更に議論をする。また二班に分かれて、
それぞれが議論した結果を持ち寄り、互いに議論する。その結果、知っている
限界の知識と体験をもとにした、それぞれの地言葉(赤裸々)の議論になる。 
教授は要所要所以外はほとんど話さないで議論の推移を聞いている。
考えるヒントを与え、議論を通して「考えること」を促す。そして
「考えることは如何いうことか」と、一歩踏み込んでいく。そこに各自の
知識不足を自ら気づく仕組みになっている。当時の日記を写して気づいたが、
ソクラテスの「対話法」の真理追究を、そこで体験させていたようだ。 
素朴に深い疑問を常にもって、社会や世界を見る目を持たせるのが目的。
対話の訓練が友人に受けたのだろう、卒業まじかに多くの友人が私に集中
してきた。誰もが卒業という節目で迷っていたからである。武澤ゼミで学んだ
ことは、社会に出て、事業の組立てなどに非常に役に立った。冷静な事実の
把握と、仮説の積み上げと崩しの、繰り返しの中で計画の練り上げをして
いくのと酷似していた。要は地頭で考える訓練であった。 】
▼ 振り返ってみて、事業人生で学生時代の3人の教授と、コンサルタント
 渥美俊一に大きな影響を受けていた。渥美コンサルタントは、カリスマ的
流通革命の指導的立場にいた。 学生時代に、鈴木教授に「意志」の自覚。
野田教授に「統合(経営)」。武澤教授に「分析(冷静)」を学んだ。
独り総括をしていると、「私の人生は結局は何だったのだろう?」という、
基本的な問いが、立ち上がっては消える。人生など何の意味(価値)もない
こと位は分かっていても・・哲学を学生時代に、より深く追求しておくべき
だった。それもこれも還暦過ぎれば、それがどうした!でしかないとしても。
・・・・・・
3648, 地震 ―つれづれに  ー9
2011年03月22日(火)
  * 日本経済はガタガタ
 TVで、新宿・歌舞伎町、新橋駅界隈、秋葉原、渋谷などの先週末の繁華街や
箱根などのリゾート地の客の激減の様子を放映していた。魚河岸では7割も普段
よりお客が激減しているという。 街は節電で、真っ暗で、放射能が漂っている
かもしれない中、外食も買い物もする気にもなれない。先週の長岡駅新潟駅
専門店の店内には、お客の姿は皆無なほど見られない。朝から晩までTVで、
100年、1000年来の大震災の惨状や、原発放射能漏れが報じられていれば、
買い物や外食をすること自体、後ろめたい気持ちになる。これが短期的現象で
すめばよいが、そうはいかないだろう。3月11日から日本は全く違う時代に入った。
比較的東北から離れている関西以南は、関東に比べて落ち着いているが、これも
時間の問題。損害は12兆円というが、原発事故への不安心理が景気にもたらす
影響はあまりに大きい。 昨夜、自宅近くのイタ飯屋のサエゼリアには避難民
のグループで満席であった。 着の身着のままの服装が痛々しい。
  * 想定外の歴史的惨事に、あまり責任を追及しないがよい!
 この地震は想定外の歴史的大震災。原発がたまたま巻き込まれ本州全体が
壊滅する可能性もある。政府対応が悪いとか流布されているが、それより被害を
最小に収めることが最優先にされるべき。その中で民主党が野党に協力を求めた
にも関わらず拒否をした。彼らは今だ、この惨事に対する認識が薄い証拠である。
現在の日本の稚拙な実態が、そのまま現れ出てしまったと言えよう。 
ここは災害大連合内閣で望むべきで、これで自民党は最期の命綱を自ら切り
落としてしまった。数日内に自民党バッシングの嵐になる可能性がある。
民主も酷いのは分かるが・・・ 
 ーー
3283, 人みな骨になるならば −3
2010年03月22日(月)
 人生、60歳を過ぎて、そろそろと考えていた矢先に、この百年か五百年に
一度の大恐慌である。「最後のレッスンを神が与え給ってくれたのか」と気を
取り直し取り組んでいるが、それでも弱気になると、
「自分の人生とは果たして何だったのだろうか」という原点的な問いかけが出る。
 一応、人生の課題は無難に? 解いてきたつもりだったが・・。
丁度、良いタイミングにー「人生の課題」という幻想ーという言葉が飛んできた。  
  著者は私と同じ年齢で、9年前にガンで亡くなっている。 私の中・高校の
同級生が、この10年間で何人も亡くなっている。その彼等の天国からの代弁
とイメージをして読むと、なかなか味わい深い内容として聞こえる。
 死者の視線で見れば、人生の課題も何もかもが幻想でしかないのである。
それが虚無ということ。
  * 「人生の課題」という幻想 ーの項目の一部を抜粋
「時々、宇宙における自分たちの位置を思い出してみることで、我われを
幻惑する我われ自身の分泌物たる通念を相対化してみるのは、どうであろうか。 
『人生の課題』というのは一つの幻想である。事業といっても世間に流通して
いる貨幣や評判を集めているだけである。国事に奔走するといっても、特定の
サル集団と利害を共にしているだけのこと。マイホームの夢は巣作りでしかない。
 有名になることは多くの人に個体識別されるという意味である。もちろん、
そうした目標は馬の眼の前にぶら下げる人参ほどの効果はあるだろう。
馬が走るには、何らかの動機が必要で、少なくとも何かから逃げるといった
走り方より、何かを目指した走り方が元気が出る。人参を追っている馬は、
虎から逃げている馬より、幸せだろう。何よりも重宝するのは、このような
鳥瞰的な視点を得ることは、われわれが『人生の課題』達成に敗れたり疲れた
時にそれを天空から鳥瞰して、それほど大したことがないと達観することを
容易とする。どれもこれも宇宙の一大事にはほど遠い。われわれが失恋したり、
事業に失敗して大騒ぎをすることも、宇宙から俯瞰すれば似たようなレベル
でしかない」(p116) ー幻想としても、目先の課題をキーワードに
解決すること、それが「骨になる間」のお勉めでは?と、思うのだが。
 それも、これも、「衣食たって礼節を知る」が、あってこそ
云えるのではないか。これも、幻想か?