<「自分」から自由になる沈黙入門〜小池龍之介(著) >
   * スローパンク
 フローパンクという聞きなれない言葉があった。〜ネット検索をすると〜
《スローパンク:ゆっくりと空気が抜けていくパンクのこと。
「走っていて、気がついたら空気圧が減っていた」という現象がこれに当たる。
いったん空気圧が低くなっても、空気を入れるとある程度走れるときもある。
原因は、タイヤに異物が刺り、中のチューブに微細な穴が開いていることが多い。
この場合、異物を取り除くと一気に空気が抜けることがある。そのほか、バルブ
不良、バルブ根元部分の亀裂、チューブの劣化などが原因のことも。》
▼ 人生、老いる頃からスローパンクをして、最期は、走行不能になり、
 消えていくのが定め。ここで、「話し言葉も、行動もスローパンクに従い、
生きなさい。天皇のお言葉も、行為もスロー。意味も中身もありはしない。
天皇それ自体が象徴。それで良い」と勧める。それをパンクの状態と類推する
ところが面白い。この随想日記自体が、面白い知識・情報を探し、ダイジェスト
にして書いているスローバンクと真逆の習慣。面白いのは、「お嬢さん言葉」を
有効に使って間をおいて「沈黙」を保つことを勧めている。露骨な嫌な視線と
言葉に、ただ沈黙をするしかないが、その場決済の、あるイメージを持つ。
内面エネルギーは人一倍強いので… 結果、内面から抹消したことになる。
まさか、こんな内面処理の技術を身につけるとは。処理後は、目の前にいても、
いないと同じ。まさか、自分が??… 想像もできないだろう。
 スローパンクは、その逆。天皇のように、お嬢様のように、ユッタリと空気が
抜けるように、日々過ごせば良い。 空気の抜けたタイヤと車輪の痛みは激しい。
ちゃっかり、ポイントだけは抑えているため、周りは大変! ったく。 
私のタイヤの空気は? 時々、パンク防止剤を入れ替えているが、どうも悪路で
振動がきつい。 あの男、空気の抜けた自転車で、ガタガタ音をたてて走っている。 
自分も同じ姿だろうに。

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5427,人生で最も大切な技術 ー? 快楽は見せかけの友人
2016年01月24日(日)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 幸福と快楽  …重大な混同 
 「安楽こそ幸福」といえば、欧米の長期のバカンスがある。合理的日常から
離れて、ひたすらボ〜っとする。遊び慣れ快楽など今さらの人が求めるのは、
生活の雑事から開放され、ひたすら大自然と一体になること。それが安楽。 
文化人の行きついたところが、「安楽」なら、未開人と何処が違うのか。
 で、構造主義に到達する。〜その辺を抜粋〜
≪ 外的な要因と精神的態度、すなわち心構えのうち、どれが本当の幸福を
 もたらすもので、どれがそれを阻害するものかを見分せようとする場合、
「幸福とそれに似て非なる特定の状況」とをはっきり区別することが必要。
最も起こしやすい間違いは、「快楽を幸福」と取り違えること。
 ヒンズー教には、「快楽とは幸福の影に過ぎない」という教えがある。
 快楽は、肉体的、美的、知的な刺激を受けた直接の結果である。
場所とか瞬間などの条件が揃った特定の状況において、束の間の快楽を
経験することができる。快楽は本来、一定で、快楽に誘引される感動は
直ぐにかすんで無色になり、ついには不快感さえ味わうようになる。
 ・・(略)快楽はまた個人的な経験でもある。その大部分が自己中心的で
あるがゆえに、自分本位に陥り、時には他者の幸せと矛盾することもある。
 性的行為は、快感を相手と交換しあうことで相互に快楽を得る。しかし、
この種の快楽も、相互関係と利他の心が中心にある場合にのみ純粋な幸福を
感じられるものである。他者を犠牲にし、快楽を経験することもできるが、
そこから幸福を得ることはまずない。 快楽は、残酷、暴力、傲慢、欲、
その他の心情と結びつくこともあり、本当の幸福とは両立しない。
 フランスの作家で批評家のドールヴィイは、「快楽とは狂人の幸福であり、
幸福は聖人の喜びである」と書いている。中には復讐や拷問を楽しむ人間
もいる。同様に、競争相手の破滅に有頂天になるビジネスマンもいれば、
盗品を肴に祝杯を傾ける盗賊もいるし、闘牛の観客は牛の死を見て狂喜する。
そのどれもが束の間の快楽に過ぎず、時にはそれが病的な高揚状態をもたらす。
 これらも幸福とはまったく無縁である。・・・(略)
快楽とは異なり、心が純粋に生気に溢れた状態は、たとえ状況に影響
されることがあっても、支配されることはなく、意気消沈することはない。
持続性があり、経験を積むうちに鍛えられる。時間の経過でそれは第二の
天性と呼ばれ習慣として体得され、達成感という副産物をもたらしてくれる。
 本物の幸福は、活動とは無縁である。それは人間の在り様、すなわち、
心がどのように機能するかについて正しい理解に到達することで、感情の
バランスが見事にとれている状態を指す。 普通の快楽は、快適な対象と
接したときに生じるが、その接触がなくなると快楽は消滅する。
 反対に、永続的な安楽は、内なる本質と完全に調和している期間中ずっと
持続する。 安楽は、自己への執着を超えて、内側から発散してくる平安な
無我の状態を一つの側面とする。自分とうまく調和できている人は、
家族、隣人、場合によっては社会全体とも良好な関係を維持するために
自発的に貢献しようとする。 要するに、快楽と幸福は直接的な関係がない。
だからといって快適な感覚を求めてはならないということはない。
 壮大な景色、海水浴、バラの香りの楽しみをすべて止めなければならない
理由はない。ただ、心の平静さが損なわれ、満足感を得ることに執着し、
快楽の妨げとなる何事をも毛嫌いするようになると、快楽は障害となる。
 快楽は、幸福どは本質的に異なるとはいえ敵ではない。ただ問題になるのは、
快楽がどのように経験されるかである。所有に取りつかれるとき、あるいは、
心の自由が妨げられるとき、食欲と依存症の兆候が頭をもたげ、幸福が妨害
される。一方、心地よい瞬間とか、心が平静で自由な状態で経験される快楽は、
幸福に影を投げかけることはなく、かえって幸福を引き立てることになる。≫
▼ 40歳半ば、母親の軽い痴呆症や、病など家庭内問題が山積し、兎に角、
目先のストレスを解消する必要性があった。 そこで見つけ出したのが、
秘・異郷ツアー。未知への旅の不安は並大抵ではないが、大自然との邂逅が、
ストレスへの即効薬に気づいた。それまで、年一回のツアーが、2〜3回に
なっていた。極限の日々が、想像を絶する大自然や、異文化、異文明の出会い
に導いてくれた。あと講釈としても、「この大自然と出会うため、この日々
のストレスがある」と、思わせるほど強烈なインパクトがあった。
 それらの邂逅での一瞬の至高体験から湧き出て蓄積された『安楽の池』が、
心の奥に静かに佇んいるから、何ごとにも平然としていられる。 
『快楽の池』は、あるか? 〜以下が偶然だが、脈絡として続いていく。
『快楽の池』『安楽の池』『地獄の池』の管理のため、人は神をつくった?
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5063,河合隼雄 ー私が語り伝えたかったこと 〜?
2015年01月24日(土)
            ー「私が語り伝えたかったこと」河合隼雄著ー
   * 日本人と宗教
以下の内容は、巷の日本人の宗教観をズバリ言い当てている。
これに世間論(世間=神様)を混ぜれば日本人論にもなる。人間は、地勢と、
人種と、貧富などの社会的立場で細かく差別されている。更に最期は死という
避けることが出来ない最大の不幸?が待っている。で、神という共同幻想
つくり上げ、その幻覚で今を生きようとする。しかし、日本では、互い監視の
世間様が神の役割を果たしている。 ーその辺りを抜粋ー
≪ 人間が生きてゆく上で、何らかの宗教が必要であり、それは経典や儀礼など
 を通じて教えこまれると世界の多くの人が信じているなかで、日本人はよほど
特異なのである。このことを知らずに、終戦後に渡米した日本のインテリたちが、
「宗教」という欄に「無し」と書いて、コミュニストと断定されるようなことが
よくあった。 「無宗教」などと公言するのは、欧米では大変なことである。
 そこで、日本人の宗教について欧米人に尋ねられたとき、筆者は次のように
答えることにしていた。日本人は宗教が日常生活と著しく混っていて、本人も
意識していないのに、宗教的な言動をしているのだ。たとえば、最初にあげた
「もったいない」にしても、これを「宗教教育」と思っていた親は少ないが、
結果的にはそれは大切な宗教教育になっているのだ。食事のとき「いただきます」
と言うのもそうであろう。一神教のように明確な超越者の存在を意識しないが、
あいまいな形で、自分を超えたものに対する感謝の念を表現する。
 日本人の場合、自分確かな存在としての神、というよりは、自分を包む存在
としての自然ということが、宗教の中核にあるように思う。自然のうつろいに
対してきわめて敏感である。それに美的感覚が結びついて、日常生活のなかでも
それに呼応するかずかずの行事をもっている。そのような体験のなかで、仏教の
言う「無常」は感じとられるし、人生を支える「循環」のイメージが体感される。
 これはおそらく輪廻という思想に結びつくことだろう。日本では、茶道、華道
などという考え方がある。さらに、お茶を飲むとか花をアレンジするとか、欧米
であれば日常生活に属することが、「道」という超越的な考えと結びつく。
このようなことを習慣にしているので、家庭内における諸生活が、知らず知らず
のうちに広い意味の宗教につながっていくのである。≫
▼ 7割が森林に覆われ、海に囲まれた島国では、自然が人間と一体化をして、
 直接間接的に自然の摂理が人を支配する。それが日常生活では「道」として
 我々を支配する。
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4698, シニアの人生設計は三年の中期計画を
2014年01月24日(金)
  * シニアは「何事も予防に勝る良薬なし」でいく 
            ー人生は65歳からがおもしろいー河村 幹夫 (著)
シニアは3年の中期計画で、年ごとに、一年をプラスする方式は納得できる。 
ーその辺りを抜粋
《 現在、自分が65歳と仮にすると、乎均寿命へ男79・5歳ー65歳=14・5歳、
 女86.3歳ー65歳=21.3歳)が人生の残り時間の目安となります(この男女間の
6年間余の時間差は夫婦の人生設計図を描くうえで重要な意味を持ちます)。
さらに健康寿命で考えると、男70・4歳ー65歳=5.4歳、女73.6歳ー65歳=8.6歳
となります。平均寿命-健康寿命"不健康期間と考えると、男性は9.1年、女性は
12・7年という長い時間になります。これらの基礎的な数字を踏まえたうえで
人生設計図を描くとしても、10年以上にわたる長期プランは、不確定要素の
大きさからみて現実的とは思えません。そこで3年間の中期計画でローリングで
(1年目が終わったら4年目を入れて)常にこれからの3年間を計画対象とするのは
如何か。10先を見通すのは困難でも、これから3年間だけを視野に入れて計画を
毎年修正していくのならある程度・具体的な数字を書き込むことができるはず。》
▼ 二年前のOECD加盟各国の平均寿命は、日本が82.6歳で34ヵ国中トップ
 だったが、死ぬまでの不健康期間が、その分、増えたことになる。
で、私は平均健康寿命年齢まで2年半しかない? とすると元気な現在、
何をすべきかを、より真摯に考えなければならない。しかし50代までに
個人として、やりたい事を終え、65歳で会社関係が・・ さほど焦りはない。
男70・4歳の平均不健康年齢からみて、寝たきりや入院などの介護を受けている
人が、身辺の3分1は存在している筈だが、知人にさほど見当たらない。 
元気な人しか会などに出てこないため? シニアは、病気に関して予防が第一。
お金に関しては、まず手堅く、専守防衛が基本。3年の中期計画として、身辺
の物理的整理(処分)ぐらいだが、こうなると、私個人の資産が何も無いのが
プラスに感じる。言い残したいことは、この随想日記に、13年近くかけて、
ほぼ書き出してある。 で、振り返ってみて、この詩を思い出した!
 * 生きてゐる事は滑稽な事だぞ 馬鹿者共
   生きてゐる事は滑稽な事だぞ 馬鹿者共
   生きてゐる事は滑稽な事だぞ 馬鹿者共
   生きてゐる事は滑稽な事だ          「滑稽」 高橋新吉
 *「何もないのだ/わかったか/わかるということもないのだ」 高橋新吉
・・・・・
4331, 自己とつきあうということ ー1
2013年01月24日(木)               
 * 自己への思考の旅    
         「自己の探究―自己とつきあうということ」和田 渡 (著)
 哲学者のソクラテスモンテーニュパスカルなどを取り上げながら
「自己とつきあうということ」を考える書である。アマゾンの紹介には、
【 悩む人も、悩まない人にも。モンテーニュら偉大な思想家たちの思索を
 たどりながら、他者や世界と繋がる自己発見への旅。そして、誰もがそこから
逃れられない厄介な「自己」とのよりよい関係の構築を模索する。】とある。
6年前に買って目を通したが、熟読はしてなかった。しかし、節目時に改めて
読んでみると、思わない発見がある。バイアスが薄れ、ゆとりを持って過去を
振り返ると、前だけを見ていた時には気づかなかった自分が見えてくる。
一昨年の節目時には「自己を見つめる 」渡邊二郎 (著) を読んでいた。
そこでは、「自己」「仕事」「孤独」「世間」「運命」「不幸」など15章の
テーマの人生の真髄を、傷ついた心に語りかけてくれた。そして現在、
今度は古今東西の哲学者の引用で、自己の行蔵に対し語りかけてくれる。 
 ー プロローグの「自己の旅」の、次の言葉が良い!ー
《 終わりなき旅 = そこから自己への旅が始まる。その旅は、いまだ
 知られていない自己をめざす思考の冒険である。はっきりしたルートも
道しるべもなければ、方向指示器もない。目的地がどこにあるか分からないし、
目的地がどこか定かでない。その旅の途上では、われわれひとりひとりが、
手さぐりで一歩一歩進まなければならない。 しかしその歩みを通じて、
自己がどのような存在であり、自己として生きることがいかなることか
少しずつ見えてくるであろう。自己の旅は、われわれが自己の多様な側面を
説き明かしていく思考の経験であり、自分との対話や反省や試みを介して
自己を掘り下げていく経験である。しかし、その経験は自己に収束して閉じて
しまうものではない。それとは逆に、自己への旅は、自己の生を可能にしている
他者や、世界へとつながるものである。自己への旅には、あらかじめ定められた
出発の時があるわけでも、終わりの時があるわけでもない。それはどこに行き
つくか分からない。その旅の途中で、自分が、他者が、世界が、どのように
違って見えてくるのかも分からない。それを身をもって知ること、それこそが
自己への旅の醍醐味であろう。》
▼ 自分の立居位置で、確かに物事は違って見えてくる。特に人の滅多にない
 経験?後なので私の自己の旅路は複雑である。事業を目指すと決心してからの
45年間の自分の行蔵を省みるだけで、自分を身を持って知ることになる。
非力な、無知な、しかし理想だけは高い自分がいる。その時々に全力を出して
いたので、その時々の自分に後悔は一切無い。出来ない人ほど、辛辣に、
実践するものを非難する。同じ後悔なら、実践者の方が良いことを一番
知っているためだ。この経験で実感したことは、「人生はハッピーエンドより、
後悔の無いアンハッピーエンドの方が良いのでは?」ということ。 
後悔の無いアンハッピーなどあるのかどうかの疑問もあるが、実際に私の
経験が、そうである。実際にアンハッピーではない、といえば、その通り。
  要は、これも自分との付き合い方。どっちにしても大方はアンハッピー
の悶絶の死が待っている。 この内なる旅、面白くなる。
・・・・・・
3956, 他人を責める「新型うつ」について ー2
2012年01月24日(火)
 数ヶ月前に、閑話小題で「(他人の)せい病」について書いたが、その時は、
それが現代型「新型うつ」とは知らなかった。たまたま周辺の何人かの異様な
言動の「うつ病」現象が耳に入ってきた。共通点は、自分の内側に向かうのでなく、
周辺に怒りをぶつけることである。 秋葉原の大量殺人犯のは、この拡大版。 
自分に自信を持てない反面、その防波堤としてプライドが異常に高いのが特徴。 
現在の日本の国そのものが「新型総うつ」であるが、怒りを国政のトップに叩き
つけ潰していく異常性は、国の末期現象といえる。自分より他人を責めるのは、
情報化社会の特徴である。自分より社会に、他人に、怒りの原因を探しやすい
ためである。そういう私も、この一連の出来事の八割は、二つの経済震災と
自然災害と現在でも信じている。借入総額の七割を返済しても、残り三割の
総額が十億もあり、売上が三分の一、四分の一に激減すれば無理というのも
言い訳にならない。出来ることは、瀬戸際の一歩手前で見切ることぐらい。 
 以前書いた、文章をコピーしてみる。
≪ 2011/06/28 閑話小題   ◎ エイズ並みの、恐ろしい性病
 人間、ギリギリに立つと、本性が出てくるもの。その中で最もリアルに出る
のが「他人(ひと)のせい」にする悲しいサガ(性)。人間には「あなた群」
というのがあって、色いろな気持ちや体験を通して培った感覚や、体の細胞たち
からの記憶が、人の中に蠢いている。過去の色いろな感情や感覚が、塊になって、
その時々の感情や感覚を仲間として同居していて出番を待っている。 
その一つが「他人(あのひと)のせい」病である。さしずめ、今回の倒産劇の
「三つの震災」を倒産理由にしている我が内なる、それである。
そう書きながら、これらの八割が原因と脳の奥からの声が聞こえてくるが・・
原因や責任転嫁は動揺から生じることが多い。「他人のせい」は、メビウスの輪で、
「原因は自分にもある」ことに気づかなくしてしまう。東北大震災も、あれは
数百年に一度の天災が原因である。そこまで、想定できないのは自明である。
それを政治は言明できないという恐ろしい事態である。≫
▼ 医者に行くとハッピードラッグをくれるが、これが攻撃対象に怒りを
 ブツケル劇薬になる代物。秋葉原の集団殺人犯、どうだったか?
 ・・・・・・
3591,10分ルールと、30、60、90秒ルール ー2
2011年01月24日(月)
 * 「3分、90秒、30秒ルール」とは、
  ー3分ルールー
ボクシングの1ラウンド、即席ラーメンの待ち時間、公衆電話は以前3分10円。
これは目先、集中していられる時間で心の小さなリズムでもある。読みかけの本
を読むときに、いま一度、前書き、後書き、これから読もうとするページに目を
通すと、読まなかった時に比べて二倍は効率がよくなる。これもポイントに集中
して一度、本を鳥瞰してから読めば、理解度も高めることになる。
  ー90秒ルールー
 これは感情的な反応は90秒でいったん収束することを基にしている。
驚きや、不安感、恐怖といった感情的な反応が脳に起きると、その興奮が収束
するまでに90秒かかる。その90秒間、慌てふためいたり、パニックを深めるような
行動をせず、じっと脳の興奮が収まるのを待てば、理性的な対応が出切る。 
非理性的な対応を90秒以上に引き延ばすことを抑制する利点もある。
私の場合、それより10秒ルールが必要だ。まず、10秒、そして30秒である。
 他に60秒ルールというのがあり、学習成果を維持したり、特定の行動を良い
習慣として身につけたい時に、学習や行動の後、60秒以内にそれに良い評価を
与えてやればよい。褒めたりする時は、60秒以内に実施したほうが良い。
  ー30秒ルールー
 コマーシャルが、これである。対象に強力なメッセージを与えたい時の適正
の時間である。これ以上になると、間延びをしてしまうし、それ以下では情報量
が少なすぎる。首相や大臣のブラサガリの一言コメントも大よそ、これ位。
 〜以上、取り上げてきたルールの組み合わせで世の中の動きが決まっていて、
知らないうちに慣らされている面もあるが。そういえば、人と人間と、時と時間
の関係は非常に似ている。「間は、ルールの構築から成り立つ」ということか。