『人工超知能が人類を超える』台場時生・著
  * 生物的進化のゴールは「手、口、頭の獲得!」
 ここで、<生物的進化のゴールは「手、口、頭の獲得!」>という。
現時点の具体的ゴールの一つが、スマートフォンと、ネットを如何に
使いこなすかにある。情報機器と、ネットシステムのとどまることのない
進化に日々に驚いているが、これが最近、加速を始めているようである。
  〜その辺りを要約すると〜
特異点問題を考える際に重要なことは、人工知能開発だけに的を絞って議論
するのではなく、人類や生物の進化といったより大きな観点から議論を行うこと。
例えば「人類700万年の進化史から見たときに、技術的特異点にはどのような
意味があるのか?」、「人類の生きる意味は何なのか?」、さらに
「私たちは人類の最終的な未来に何を求めるか?」といったような哲学的
かつ根源的な議論にまで立ち返る必要があります。
 そこで、宇宙の始まりから現在に至るまでの進化の過程を振り返り、
その中で「生物進化におけるゴールとは何か?」について考える。
本書で、「手、口、頭」を獲得が生物進化における一つのゴールとみなす。
・外界を操作できる「手」を獲得することで道具を操り、
・多彩な音を出せる「口」を獲得することで言葉を話し、
・高い「知能」を獲得することで文明社会を築けるようになった段階で、
 生物学的な意味での進化はその役割を終えると考えます。
このゴールを迎えたといって生物的進化が止まってしまうわけではなく、
「生物的進化から次の進化へと移行するための切符を手にする」という意味で、
ここでゴールという。人類の祖先は、サルから新人(ホモ・サピエンス)へと
進化する過程で、これらの形質を獲得した。特に脳の容量が、猿人、原人、
旧人、新人となるにつれて徐々に肥大化していった。そして、最終的に、
その3つを揃えた人類が地球上で最初に文明のドアを叩くことが出来た。
ちなみに、3万年前まで生きていたネアンデルタール人が、新人のように高度
の言語を話せなかったという理由そのもので、絶滅してしまった。》
――
▼ この3つ能力が拡大した、止まることなく飛躍した人工超知能が、29年後の
特異点を過ぎると、その超能力は人知の知ることが出来なくなる。それゆえに、
「どのようにコントロールするか」、という哲学的問題になる。
この程度のレポートでも、私の能力からして、PCとネット環境がなければ、
15年間も書き続けることは不可能。公開で質の劣化を防ぎ、習慣化をすることで
何とか維持してきた。私にとって、外部脳化でもある。ところが、サーフィンを
していると、最新機器を使った、頭とセンスの遥かに良いブログを見つける度に、
深く溜息をついている。まだ、それに気づいているだけマシと自らを慰めている。
 私の現時点の生物的進化のゴールは、このブログの、「手、口、頭の獲得!」

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5360,閑話小題 〜何か不思議なウエーブが
2015年11月17日(火)
  * 何か不思議な現象が
 50歳の坂を過ぎた直後の5年間に、中学の同級生5人がたて続きに亡くなった。
そして前期高齢者になる65歳の前後数年間に、高校の同級生が(私を含め)、
ガン、自殺、倒産などの問題が集中した。 そのウエーブが、今度は大学の
同級会になっている。20人前後の会で、この一年間で、4〜5人が、ガン、脳梗塞
になって、手術とか、寝たきりとか、逝去とか。 去年の会でも、数人が深刻な
病で倒れたと知らされていたが、今度は、昨日のニュース、
<「服部学園」元総務部長を逮捕 服部幸応さん長男で、背任の疑い
2015/11/16 12:43>とあった。
≪ 服部栄養専門学校を運営する学校法人「服部学園」(東京・渋谷)に
 架空請求で約1100万円の損害を与えたとして、警視庁捜査2課は16日、
同学園の元総務部長、染谷吉彦容疑者(43)=新宿区西新宿=を背任で逮捕。
同課によると、容疑を認めているという。染谷容疑者はテレビなどにも出演
している服部幸応・同学園理事長の長男。 逮捕容疑は、総務部長として
同学園の広告宣伝業務を担当していた2012年4月〜15年3月、都内の広告
代理店など2社に、架空の広告業務名目で計約1100万円を請求させ、同学園
に損害を与えた疑い。同課によると、染谷容疑者は架空請求の代金を知人の
銀行口座に送金させ、宝くじの購入などに充てていた。同課は架空請求
数千万円に上るとみている。≫  
 これを読んでいて、直ぐに、『長男なら何ゆえに揉みげしをしないのか?』 
学園のイメージのマイナス効果は数千万ではきかないはず。これは有名なるが
故に、何度か週刊誌でバッシングを受けていた。家族問題でもあり、晴天の
霹靂、内なる深刻なブラックスワンの到来である。 70歳の峠は、誰隔てなく、
やってくるようだ。私は会社清算というカタチで、まずは5年前にきたが、
つぎの峠は?「人は先、我は後!」の楽観が、ある日、突然、
「我が先、人(他人)は後」になる。不幸の人生を過ごしてきた人は、
不幸な死が、幸福な人生を過ごしてきた人は、幸福な死が待っている。
 それは、本人も、周囲も、そういう受け止め方をするからである。
 
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4995,河合隼雄 ー私が語り伝えたかったこと 〜?
2014年11月17日(月)
              ー私が語り伝えたかったこと〜河合隼雄著ー 
  * 「三年寝姫」ばなな が過ごした‘さなぎ’の時期
  次の一節に考えさせられた。人生に無駄なし!である。
≪ 先日、テレビの番組で、作家のよしもとばななさんと対談をしました。
ずいぶんと面白い話を聞かせてもらったのですが、その中で、「三年寝太郎
ならぬ、「三年寝姫」という話がありました。「高校時代の三年間、私は寝て
通しました。教室の中でも、両手の上に頭をのせて寝てばかりでした」と、
よしもとさんが言われるのです。以前から私は、「思春期さなぎ説」を唱えて
います。毛虫が蝶になる前にさなぎの時期が必要なように、人間も、子ども
から大人になる前には、さなぎのように閉じこもり、内面的な変化を乗り
切っていくというもの。
この変化がさなぎの殻によって守られず外に向かって出ていくと、思春期の
破壊性を持った行動になるが、よしもとさんは、三年間、さなぎの時期を寝て
過ごしたわけです。そのことが、後の作家としての大きな成長に役だったことは
言うまでもないでしょう。それにしても、この間、よしもとさんが‘寝ること
を許していた’高校の先生方も、大したものです。もしそうでなかったら、
よしもとさんはきっと不登校生になっていたでしょう。ちなみに、よしもとさん
のお父さんは哲学者の吉本隆明さんですが、奥様ともども、ばななさんの意思
を尊重して、その三年間を黙って見守っていたそうです。間違ってもらっては
困るのですが、思春期の子どもは放っておけばよいと言いたいのではありません。
それは一番困ることです。その子の成長に関心は持っているけど、ある時期は
見守るだけにしておく、こういうことも大切だと言いたいのです。よしもとさん
の御両親にしても、高校の先生方にしても、その点が大したものだ思ったのです。
そもそも、見守るということは、その子に対して何かをするよりもはるかに
エネルギーがいることです。≫
▼ ここには多くの示唆がある。私にとって受験のための高校生活は思い出した
くもない時代。悪いことに鼻炎に悩まされ、机に向かうと頭が重くなるが、
山ほど記憶しなければならない教科がある。何とか卒業は出来たが、更に一年の
浪人生活を加えた『空白の4年間』。それもあって記憶から切り捨てていた。
 もし希望校に入っていれば別だったのだろう・・ しかし実は、この期間を
「さなぎの時期」として見直すと、多の側面が思い当たる。 私にとって一番
面白く恵まれていた時節は、学生時代を加えた20,30歳代。
その中で特に20代。その背景には、この4年間があったという見方もできる。
読書習慣で培われたベースがあるわけでなし、何か夢中になったこともなし、
ただ、お受験の重圧の中、ただボ〜ッとしていた暗い日々! 
これが実は「思春期さなぎ説」の切り口で捉えると・・ 成るほど! 
この年齢で気づくことが、あまりに多い。振り返ると、「してしまった後悔より、
しなかった後悔」の方が、遥かに悔いが残っている。 しかし、「さなぎ」の
時節を改め肯定すると、新鮮な切口になる。そのまま一生ボ〜と過ごす人も
いるが、どうだろう? それは、蝶か蛾によるのか。フランスでは、蝶と蛾は
同じというが・・ 以前、ここで取上げた『ぼんやりの時間』辰濃 和男(著)に、
「ぼんやり」と響き合う5つの「一文字」がある。  
1、「闇」―蛍と星とダークマター  2、「独」―独りでいること   
3、「閑」―逆茂木に囲まれて   4、「怠」―「1日4時間労働」の夢  
5、「懶」―心の余白  ー彼女は、この世界に浸かっていたのである。
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4628, 閑話小題 ー相棒 〜国民的刑事ものシリーズ
2013年11月17日(日)
   * 相棒 〜国民的刑事ものシリーズ
 一昨年の春以来、見始めたTV番組のが「相棒」で、平日の16時前からの
一時間のスケジュールに込んでいる。10年以上続いた刑事ものドラマの再放送。 
  ー概要をウィキペディアでみるとー
{ 優秀なキャリアでありながら、ある事件の影響で出世コースから外れ、
 警視庁内の窓際部署「特命係」に追いやられた警部・杉下右京(水谷豊)を
中心にした刑事ドラマ。いわゆるバディものであるが、相棒は3度変わっている。
1話ごとの基本的なプロットは、超人的推理力・洞察力を持つ右京が犯罪者を
理詰めで追い詰めていくというミステリ的なものだが、その一方、全体的な
ストーリーとしては『踊る大捜査線』が打ち出した警察組織内部のいざこざを
描く警察ドラマ路線を更に推し進めたものであり、警察組織のみならず、
官僚・政治家の権謀術数を描いている。2000年6月にテレビ朝日系・土曜日で、
単発ドラマとして放送され、2002年10月より連続ドラマとしてシリーズ放送}
▼ 団塊世代以上のリタイアー組を対象としての時間帯の再放送。その対象の
 一端に私も入ってしまった。 一年ほどして、家内に「これって、現代版の
水戸黄門でないか。トップ直通のルートを持った東大卒の歪んだ元エリートが、
最後は国家権力を振りかざし悪と対峙する勧善懲悪ものじゃないか」というと、
「今まで気づかなかったの?そんなのは、当初から言われていたこと」という。
12年も続いているので、過去分は、まだ2割も見てないが。 馬鹿馬鹿しいと
思いつつ、見ているが、内容は凝ったものが多い。刑事コロンボの逆の、
キザの東大卒の刑事が、相棒と様々な事件を解決する。その一つに、研なお子
が、明らかに美川憲一を思わせる役柄のタレントの犯人を演じたのが傑作。
再放送直後、家内が知人に、「あれ見た? 凄く面白かったわよ!」と、いう。
オバサマたちの多くが、見ているという。もう一つ、面白かったのは、岸恵子
がフランス帰りの「岸恵子」そのもののキャラを演じた犯人役のドラマも、
なかなかのもの。  
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4263, しまった!  ー11
2012年11月17日(土)                      
 * 人生の財産  ー総括するとー1
 〜ー しまった! 「失敗の心理」を科学するージョゼフ・T・ハリナン(著)
人の幸せについて研究してきた学者が同僚とともに、結論に達した。
《人生の資産はお金でなく時間である》と。人生の大きな転機に起こる大きな
まちがいに「時間の過ごしかたを変えない」ことがある。やろうと考えていた
新しいことでなく、人は、これまでと同じことをするのに時間を費やしてしまう。
人生を精巧に作り変えるには、決意と自制が求められるが、難しいのである。
人の幸せは、どこに住むかでなく、自由になる金があるなしでなく、時間を
どのように過ごすかにある。それを忘れて、思い切った割り切りをしない
ことが人生の最大の「まちがい」になる。この「失敗の心理」から自分の思い
あがりや、固定観念の殻に気づき、苦笑の連続であった。人間は、間違いを
犯す動物であり、それを前提にして、いかに間違いを減らすかである。 
それぞれに人間はバイアス(体系的偏見)がかかっている。それを知り、
自覚することは可能である。多くの知識の蓄積が教養だが、バイアスの自覚も、
その効用のひとつになる。 それぞれの人間のバイアスは面白いほどケッタイ
である。気がつかないから、本人にとって悲劇、他からみたら喜劇にみえる。
間違いを少なくするには「小さく考えること」。間違えは意外と身近な些細な
ことから生じていることに気づくこと。私たちの重大な決断も、考え抜いた末、
印象で勝手に決めつを避けているつもりだが、しかし結果は、大きく影響
されている。考えることを嫌い、こうなるはず、という直感に従ってしまう。
私たちは見ていて見えてないのである。知っていても理解してない。
そのことを、まずは自覚することから間違いを減らすしかない。それでも、
頑強なバイアスが脳の奥底に強固にこびりついて思考、行動を規制している。
節目に、それが現れ出てきて、大きな壁となる。ところで現在の状態に、
あまり不満はない。毎日の生活が自然のままだから。知りたいこと、楽しみが
絶えないこともある。失敗も成功も人生の内である。それも考えてみれば裏表、
一過性の現象でしかない。死んで三日もすれば、永遠の彼方に過ぎ去る。
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3888, 第二の人生は、「自由の刑罰?」
2011年11月17日(木)
 サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と述べた。
自由は人間の求めるところだが、突然の倒産や、会社に不満を持って辞め、
いざ自由の身になると何も出来ない自分に直面して戸惑うのが人間の常。
私も初めて会社勤めで、その過酷の仕事に疲れはて、再び大学に入り直したが、
もう社会的には傷物。その後、事業を始めるには、まだ能力不足で、再度、
金沢にある会社に入り直し鍛え直した時の苦しさは筆舌に出来ないほど。 
 何とか踏みとどまっていたが、逆に、その立場の視線で社会を見ると、
多くが見えてくるもの。結果からみて、それは予定挫折であった。
自由は厳しいものである。「なるほどサルトルのいう、自由は不自由!とは、
このことか」と骨の髄まで思い知った。結局は自分の思いは、思いでしかない。
その経験を人生の前半に何度か味わってきたので、今回の事態では、こんな
ものかと冷静にいることが出来ている。それよりも65歳の現在、人生を
振り返ると、40年近く自分で事業を起こし、独立独歩であったことが、
如何に恵まれていたか。自由を自分のものにして、判断をし、その結果を
プラスもマイナスも直接感受出来たことは、最大の人生の収穫。自由の不自由
を克服し、不自由の苦悶の褒美として、自由の使いこなしが出来たことほど、
幸せなことはない。サルトル実存主義者だが、人間の本質は「投企=取捨選択
しながら未来に向けて自己を投げ入れ人生を切り開く」存在であるとし、
実存が存在に先立つとしている。しかし老年になると、その未来が少なく感じ、
人生を切り開く前に絶望が先立つから困ったもの。自由と平等と博愛の社会は
理想だが、こと個々人になると非常に難しい課題。「自由の刑罰」の獄死か、
獄内で、うち拉がれている人の山? それが世間という世界である。
・・・・・・
3523, 都市型狩猟採集生活
2010年11月17日(水)
   「ゼロから始める都市型狩猟採集生活 」 坂口 恭平 (著)
 先日、「新潮45・9月号」を図書館から借りてきたが、そこに養老孟と設計士
兼作家の坂口恭平の対談があった。「都市型狩猟採集生活ー対談」がテーマで、
上記の著書の内容についての対談。彼は巨大建築物を設計することに違和感を
持ち、これ以上、新しい建物を作っても仕方ない、それより現在あるものを転用
したり、人が見捨てた場所を転用したりすればいいと考え、路上生活者の家に
興味を持った。都市から溢れ出た「ゴミ」によって作られた工費0円の家。
その写真集「0円ハウス」まで出版。たまたま図書館で、その写真をみたこと
があるが合理的だ。 路上生活者は都市に落ちている余剰物を「自然素材」と
捉え、それらから家を建てている。彼らにとって、都市は鬱屈したコンクリート
ジャングルでなく、資源ゆたかな世界に見える。 坂口は、廃棄されるゴミを
山や海の幸のように〈都市の幸〉と名づけた。彼らは“都市の幸”で暮らせば、
政治、経済、労働、あらゆるものから解放され、自分自身にしかできない
生活を獲得している。
ー以下の文章はアマゾンの書評だが、なかなか考えさせられるー
*「アルミ缶拾いは他人よりも先に拾わないといけない生業なのに、達人たち
の話を聞くと、みんなあまりガツガツしていないことに驚かされる。ようするに
焦ってはダメなのだ。採集したあとは周囲を掃除する位の心の余裕が必要だ。
そんな姿を見ている人がいる。それが次の顧客の出会いにつながる。」(p.68)
*「高い解像度で都市を見ることができるようになったきみは、社会のルール
を何一つ変えることなく文句一つ言うことなく、独自の生活をつくり出すことに
成功する。・・ 社会システムは、いくら変化させてもまた同じ循環を繰り返し、
人間を苦しめつづけるだろう。それよりも まず、きみの精神、視点、創造性を
変革させるのだ。 ・・<都市の幸>で暮らすことは、きみが起こすことの
できる唯一の革命なのだ」 (本書P148)
*「路上生活者支援に積極的なのはキリスト教会であり、それに比べて
仏教寺院の多くが冷淡なのはどうしてか?」
   ーこの対談の最後に坂口と養老の言葉がよい。
 坂口:意外だったのは、「都市型狩猟採集生活の民」たちが、激増する
自殺に危惧の念をもっていたこと。彼らは、「自殺する前に、なぜうちの
バラックのドアを叩きに来てくれないのか?」という。うちの手伝いに来て、 
アルミ缶を一緒に拾ってくれれば、金なんかなくても生きていけるのが
分かるのに、なぜ相談してくれないのか、と。 人生を失敗し、すべてを
失ったと思っても、絶望して死を選ぶ必要がない。「どん底に落ちたら、
とりあえず周辺を歩け。歩けば何でも見つかる」と、住民の酋長といわれる
男が言っていた。養老:身体を使うことは大事。私が好きなイタリアの
箴言に「どん底に落ちたと思ったらそこを掘れ」って。
▼ 日本にトレーラー・ハウスの住人が少ないのは、公営住宅などが揃って
 いたり、生活保護などの支給があるからか。それにしても、ホームレスの
仮設住宅?に合理性を見出すとは、感心させられる。カラスも雪国でチャンと
冬を越せる。何か無駄なものを人間は持たされてしまったのではないか!
立って半畳、寝て一畳というが、老後の心配で節約など・・