フィレンツィに3度行き、その都度、ウフィツィ美術館を訪れている。
フィレンツィの観光コースに必ず含まれているからである。現地ガイドの説明
を聞き、生の名画をみるのも良いもの。見る度ごとに、それぞれの名画が身近に
感じられてくる。この映画では、その名画と、フィレンツィの街並みが撮影
されている。その映画なら見ない手はない。で、予想とおりに、3D・4kの迫力
ある映像に圧倒された。 現地の慌しい人込みで、説明を聞きながら、一作品
に数分しか凝視できない名画を、シネマ館でジックリと観る醍醐味が良い。
現地で観る本物より、デジタル加工された立体的な画像が生々しく迫ってくる。
ある意味、現地の本物を観るの変わらない?というと、大げさか。TV番組で、
その作品と、解説を何度か、見聞きしてきたことも、そう思わせるのだろう。
  〜シネマの映画案内より〜
《 日本×イタリア 国交樹立150周年を迎える記念すべき年に“イタリア・
 ルネサンス絵画の 宝庫”ウフィツィ美術館世界遺産の街フィレンツェ
 世界最高水準3D・4Kテクノロジー で撮影した本美術ドキュメンタリー! 》
《 花の都フィレンツェ。そうつぶやくだけで、うっとりとした気分になる
 美術ファンは多いはずだ。ウフィツィ美術館を始め、市内の教会や美術館、
広場のそこここに珠玉のルネサンス美術が顔を出す。その背景には銀行業で巨万
の富を蓄えたメディチ家の存在があった。当時、いくつかの共和国に分かれて
いたイタリアでフィレンツェ共和国の実質的な支配者となり、後に教皇まで
輩出し、中世ヨーロッパで権勢を誇ったキリスト教世界のトップにたった家柄だ。
 ロレンツォ・メディチを始めとするメディチ家の人々は、自らの為政の場や
住まいを飾るためミケランジェロダ・ヴィンチボッティチェリらに絵画や
彫刻を依頼する。教会にも布教のための壁画を寄進し、壮大なドームを備えた
聖堂を建てる。こうしてわずか2キロ四方程度のエリアに巨匠たちの至宝が
ひしめき合う、それ自体が一つの美術館であるような街が生まれた。
 本作ではウフィツィ美術館が収蔵する傑作の数々のほか、サンタ・マリア・
デル・フィオーレ大聖堂やシニョーリア広場、国立バルジェッロ博物館などに
並ぶ至高の絵画や彫刻、建築を高精細3Dで見ることができる。なかでも2011年
から修復が進められてきたレオナルド・ダ・ヴィンチ「東方三博士の礼拝」が
映像では初公開となるのに注目だ。またフィレンツェルネサンスの代表作と
いえるボッティチェッリ「春(プリマヴェーラ)」「ヴィーナスの誕生」、
ミケランジェロ「聖家族」、ラファエロ「ひわの聖母」などの作品群も
じっくりと堪能できる。世界遺産の街、フィレンツェの花が文字通り咲き
誇る映像は最初から最後まで見逃せない。》
▼ 現地の作品の前では、まず作品に集中し凝視する。そして、作者と、
 その作品の背景を知る。それは、TVや、写真集で、再び見た時のため。
現物からの波動は、作家の魂の波動である。それに反応する心が感激と感動。
そのために、短時間でも、心を集中し凝視するしかない。 人生とは、
感動と感激と畏敬の念、で織成す連続体である。それを作品で表現するのが
芸術家である。 世界は広くて、深い! そして、面白い!

・・・・・・
5295,閑話小題 〜慎太郎と佐々の死生観の対話
2015年09月13日(日)
       文芸春秋2,015年7月号特集「老いと健康の危機管理術」より
   * 信長の死生観には共感するね
 図書館で立読みをしていたら、石原慎太郎佐々淳行の対談の、「老いと死」
についての以下の部分にひかれて借りてきた。80歳を過ぎた、お二人の諦観が
滲み出ている内容である。      
佐々: 私は、自分の家で死ぬつもりでいた。だから少し無理をして、
 鉄筋で三階地下室付きという家を建てたんです。自分の部屋で死んで、
葬式も自分の家から出そうという、前近代的なお葬式観だった。
そのための部屋も作ったし、お客さんの誘導路まで考えた。
家族と別れて暮らすなんていうことがあり得るとは思っていなかった。
ところが周りを見ていると、‘お葬式は身内で密葬をやって、あとで
ホテルとかどこかの会館で偲ぷ会って'いうのをやる。これが定着した。
石原:俺は遺言に「葬式不要、戒名不要。我骨は必ず海に散らせ」と書いた。
 去年出した『私の海』な(幻冬舎)には辞世
(「灯台よ汝が告げる言葉は何ぞ我が情熱は誤りていしや」)も載せた。
佐々:僕もかなり考えが変わったよ。でも、葬式無用っていうのは、ちょっと。
石原:僕は信長が好きなんだけど坂口安吾の『織田信長』っていう短編の
 エピグラフに、信長の愛唱した小唄があるのよ。信長といえば『敦盛』の
「人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり一度生を受け滅せぬ者の
有るべきか」でしょう。僕は知らなかったんだけど、安吾が引用しているのは、
「死のふは一定、しのび草には何をしよそ、一定かたりをこすよの」と」いう
小唄なの。「かたりおこすよの」がわからなくて、ある国文学者に聞いたんです。
そうしたら「おこす」は、おこがましいの「おこ」で、「人が死んだあとに
皆な勝手、なことを言いやがるけど、死んだ人間にとってはバカみたいな話だ」
という意味なんだな。痛烈なニヒリズムですよ。信長は徹底したニヒリスト
だったんだね。偲ぶ会をやったり追悼記を出すなんていうのは、その信長の
小唄と同じことで、いまさら何を言ってるんだということですな。
佐々:でも、お別れ会さえやらないで、さよならも言わずに去っていくのもね。
石原:僕は敬愛した政治家はめったにいないんだけど、賀屋興宣という人には
 私淑したんです。無類の財政家で、日本で初めて統制経済をやった人です。
戦前に大蔵官僚から政治家になって、A級戦犯で服役したあと、政界に復帰。
晩年に賀屋邸へ行ったら、髪も真っ白になって、サンルームで瞑想されていた。
「先生、何をお考えですか?」と訊いたら「人間が死ぬというのはどんなことか。
興味があるので一生懸命考えている」。「それで、死ぬってどんなことですか?」
「いや〜死ぬというのはつまらないね。私はだんわかってきた。死んだら、
一人で暗い道を黙って歩いていくんですよ。そのうち、葬式で泣いて送って
くれた家族も私のことを忘れてしまって、世間も忘れる。第一、彼らも忘れなきゃ
やっていけませんからね。それだけじゃなしに、自分が自分を忘れちゃうんです。
来世なんかありませんよ、石原さん。だから死ぬのはつくづくつまらないですね」
と言って、小さく笑うんだよね。すごいニヒリズムだと思ったね。
この段になってくると、そんなことを思い出しますな。 ≫
▼ 佐々が入った、介護つき有料老人ホームに、石原が訪ねて行われた対談。
 自宅に近く、三食昼寝付きで、何でもやってくれるそうだ。中産階級?向けで、
商社の支店長とか、サラリーマン社長だった人や、旦那がいるが、面倒を見切れ
ない奥さんだけが入っているとか。リハビリは別だが、食費や光熱費を入れて
30万位という。「奥さんも一緒かと思ったが、少し費用が足りないのでやめた」
とか。最近、同年代のタレントが夫婦して入居したとかという話は聞いたが!
古希を過ぎると、どうも娑婆の景色が変わって見えてくる。
4930,パワレルな知性 ー8
2014年09月13日(土)
   * たけしの品格      『パワレルな知性』鷲田清一
たけしの品格について、が面白い!たけしは、「この男はダメ!」がキャラ。
人間はすべからくダメな人間だが、それを良い人間、有能な人間のコスプレを
しているだけ。コスプレが、コスプレを笑っているのが娑婆の実態。 
これが分かってないから、世の中、他人が、歪んでみえる。
「歪んだのが歪んだのを歪んでいる」と今さら言うのが間違いの元。 
「たけしは、それを剥いだ有りのままを笑いで剥き出すことで、
己の品格を表現している」は、褒めすぎ?  ーその辺りからー
≪ 最後は言語学者らしくこう締める。 「『品格のある日本語』というのは、
 借り物ではなく、じぶんが一番よく知っている言葉で語られるものですよね。
方言なんかはとても品格がある」。つまり「品格」について語るその地声に
言い及ぶところに、金田一の衿持が現われでているとおもう。じぶんについて
語る言葉が信用できるかどうかは、語られるじぶんに対してどれほどの距離が
とれているかにかかっている。「離見の見」と高尚なことを言わなくてもよい。
何かについて語るとき、そのように語っているじぶんがどこから語りだして
いるのか、それについての明確な意識をもっているかどうかに、その言葉の
真はかかっている。何かについて語るとき、いつもどこか断片的であって、
語りつくさない。語りだすのは否応もなくつねに地上のどこかからであって、
語りつくすというのは、じぶんがこの地上のどこでもないある特権的な
場所にいると錯覚することである。 それこそ品格に欠けることである。
 これに対して北野武は、品格から外れることに自己の品格を賭けるという、
それこそ綱渡りをしてきた。いきなり北野はいう。「どうしようもない人」、
これがじぷんにとっての最高の誉め言葉だと。「人から、『あこがられている』
と言われると、失望させないように自らを律したりするじゃない? 
そういうのが大嫌いで、頼むからあきらめてくれって。『この人はだめだ』って
言わせるためにわざわざ変なことをやる。『どうしてそういうことをするの』
って言われるのが一番好き」。北野もまた、この世の価値序列から外れる
ところに「品格」を見る。「みんな社会的立場上、言えない部分があるけれど、
俺の場合、お笑いというジャンルが隠れみのになっていて、意外に好きなことを
言っちゃっている」。たしかに、「トツプには立ちたい」けれど、そしてそれは
「すごく下品」なことだけれど、同時に、「何をやっても勝てない相手がいる」
ことは身に沁みている。だからちゃらんぽらんと見えるほど、いろんなものに
手を染めてきた…。 首尾一貫していないこと、立派な「先輩」と見られたら
すぐにそれを裏切ること、つまりじぶんを模倣しないこと、そういう囚われの
なさに肩肘張らない自由を見る。ここにもなるほど、みずからへのクールな
距たりがある。その距たりを構えずにほのめかし、北野は最後にこうつぶやく。
「いつも何か考えているけれど努力して考えているわけじゃない。魚に
『アンタ、いつも泳いで偉いね』とは言わないじゃない?」じぶんが壊れる…。 
そういうあぶない場所にじぶんをもってゆきながら、かろうじて身を持す、
ぎりぎりのところでみずからを揺さぶることのない人に、「品」はぜったいに
訪れない。… ≫
▼「まあ、お笑いの、たけし、だから!」という免罪符を取ってしまって
いるから、今さら誰も非難できない。こうなれば、好き放題、言い放題。
週刊誌も、『たけしに愛人!』など、今さら誰も興味を示さない。
昔の芸人は、こういう人が多かったというが・・ いつも、あぶないところに、
自分を置いてきたので、いやに、同感する。じぶんが壊れる直前に、常に身を
呈してきたが、実際のところ、既に壊れていたのでは? 
 〜ところで、三年前の一連のイベントからこの方、ギリギリ生きて
こなかった人格に、あまりに多く出会った! 輩をヘドロという。              
・・・・・・
4563, 2050年の世界 ー5
2013年09月13日(金)
   「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」
                 英『エコノミスト』編集部 (著)
  * 予言はなぜ当たらないのか (第二十章)
  ー まずは要約部分よりー
・今から四〇年前になされた予言をみると、悲観的なものばかりで、
 その殆どが外れている、
・なぜ、そうした予言が外れるかと言えば、理由はふたつある。
 良いニュースは目立たず、人々の記憶に残りにくいからだ。 
 悪いニュースだけが残り相互に連関する認知のバイアスが人間に
 あるので、そういう予言をすることが受け入れられる。
・もう一つは人間が対策を講じることを無視するからだ。
・資源が枯渇する、食料が枯渇するというのは終末予言の典型的だが、
 「技術革新」よる「低価格化」を無視している。
・グローパル化による国際分業により、人々は、かってより遥かに
 安い値段で必要なものが手に入るようになった。
・1950年代には、平均賃金の人がハンパーガー1個の代金を稼ぐのに
 三〇分かかったが、今では三分だ。
・技術が人間の生活水準に作用するのは、技術が発明されたときではなく、
 何十年ものちに手ごろな価格の技術になったとき。
・バイオテクノロジーの発展によりその応用物が低価格化する。
 たとえば幹細胞をさまざまな臓器に発展させる技術は、移植医寮
 そのものを、低価恪化させる。また、癌治療もバイオテクノロジー技術
 の発見によって、癌ワクチンや遺伝子組み換えウイルスを体の必要な
 場所に送るという治療を大衆化させる。
・第二次大戦以来、全世界のGDP成長率がゼロを下回ったのはたった一年。
 それは2009年で、マイナス0・6%の成長率だった。
・先進国ではさまざまな形で実際に、森林面積が増えるなど環境は
 良化している。いまの新興国が先進国なみの経済水準になる二〇五〇年
 までに、これまで損なわれた環境が腹興するようになるだろ。
▼ 予言はなぜ当たらないのか? その状況で対応する「技術革新」
 が出てくるからだ。その中で情報機器と、バイオテクノの革新は、
 予測不能である。現に過去40年をみると肯けること。
 人間には、長期楽観、短期悲観が経験を通して認知バイアスとしてある。
 それが目先、悲観的な見方が受け入れられる。40年前の予測が悲観的
 過ぎたというのも大いに疑問である。ソ連は崩壊、米国も、衰退の坂を
 転げ落ちている。そして日本は、20数年前のバブル崩壊から現在にわたって
 惨憺たる事態。40年後を考えると、さらに酷くなるのは現在の状況をみれば
分かること。「現時点で予言不能の未来が待っている」ことだけは確か・・ 
 バーチャルと現実が混合した世界だろう! 今もそうか?
・・・・・・
4188, 呪いの時代 ー6
2012年09月13日(木)                 
 *「適職イデオロギー」の刷り込み   「呪いの時代」内田樹
ー第5章「婚活」と他者との共生ー
「適職イデオロギーの洗脳」の切り口は面白い。そのため?まず3年もしない
うちに3分の1が夢やぶれ辞めていく。それだけでない、その後も、その影に
追われることになる。歌の文句ではないが「自分を待っている職があるはず」と。
そんなものは、あるはずはない。現実は、そんな軽い若者を拒否をする職場だけ。
そのため転々と幻影を求めてサマヨウしかない。私たちはコマーシャルで、
知らないうちに無防備に不安と劣等感と無知を煽られ多くの洗脳を受けている。 
  ーその辺りからー
≪ 就職活動を始めるに当たって最初に叩き込まれるのが「適職イデオロギー」。
 就職情報産業の営業マンがきて、大学2年生を購堂に集めて「空気を入れる」
ときに彼らはこう言います。「ひとりひとりには、この広い世界のどこかに、
ただひとつだけ適性に合致した天職がある。この一年余りで、諸君は自分に
適正に合致したこの職業にであわなくてはならない。そのために捧げうる就活に
全エネルギーを当時なければならない」と。学生たちは驚きますけれど、
だいたい根が素直な子たち、たちまち、この「適職イディオロギー」
に染め上げられる。
△ そして「自分が適職に出会えないのは、自分の何であるか知らないからだ」と、
△「世の中にどのような職業があるのかについてまだ十分に知らないからだ」と
いう2種類の「情報」不足によって説明されるということに、うっかり頷く。 
そうして適性試験を受けたり、目を赤くして就職情報誌に見入ることになるわけ
ですが、もちろんこれらの情報は無償ではありません。かの「適職イデオロギー
を宣布してまわった営業マンの会社が課金して販売しているまわるのですから、
この段階で、「なんとなく家業継ぐか」とかいう「ゆるい」就職観はきびしく
排斥されます。 そして、私たちは「ほんとうに『こんな仕事』に就いていい
のだろうか」という不安から逃れられなくなります。就活中ももちろんですが、
実際に内定をもらった後も不安が鎮まらず、さらに就活を続ける学生が多くいる。
最初に内定をくれたところはそれだけ「ご縁」があるということなんだから、
そこでいいじゃないかと僕は学生に相談されると答えるのですが、僕のそういう
場当たり的な就職観に説得される学生はほとんどいません。
 ・・就職情報産業にとって、「適職イデオロギー」を深く内面化した若者は
エンドレスの顧客です。「この職場に骨を埋めよう」と覚悟をしているわけで
ないのだとしたら、「いつか出ていきたいが、今は出ていけないので我慢して
ここにいる」という「腰掛け」的な就労態度をありありと示すことになる。
「はやく出ていって『ほんとうに私の適正に合った仕事』がしたい」という
切ない思いは更につのる・・ 仕掛けになっている。就職情報産業は、
このビジネスの洗脳によって決して自由になれない人々を量産することで
利益をあげることを自覚しておいた方がいいと思います。・・ ≫
▼ 幻影を求めてさ迷う若者に、更に就職産業屋は顧客として利益を貪る
 ことになる。気が付いた時には、立派なフリーター。社会は、彼らを便利な
部品として使いまわす。グローバル化で人件費が抑えられる中で、ひ弱な
若者は火の目を見ることはない。 これと酷似しているのが婚活である。
結婚相手と、就職先も幻影でしかないことが自覚できない若者。それは次回。
 ・・・・・・
3823, 閑話小題 
2011年09月13日(火)
   * 『哲学人』の感想文を連載は、二年前に一度書いていた。
 昨日に気づいたことだが、二年前に、この下巻のー小説の作り方ーについて
取り上げていた。難しかったのだろう、それっきりで終わっていたが、
それ自体を忘れていたのは迂闊だった。無意識のリベンジだったことになる。
分類の検索で調べたが見落としたようだ。それにしても、思いもよらなかった。 
成るほど、さすが哲学者が実践した小説作法は実に分かりやすい。(下にコピー)
それにしても、ブライアン・マギーの教養のレベルに驚かされる。  
   * 初めての書くテーマのネタ切れ
 この10年間、ここで一応、起承転結を成した?文章を書き続けてきた。
最低でも2つの仕込み文はあったが、今回、初めてゼロになってしまい、
それ自体をネタに書いている。現在の読書感想文の『哲学人』が、私にとって
難しい。しかし、何とかギリギリで理解出来るから、なお疲れる。さらに、
iPadにエネルギーを大部分取られていることも重なっている。ひとつテーマを
書いても、ウェブ上では、それより遥かに素晴らしい情報が満ち溢れている。
そこをネットサーフィンしていた方がより広く深く世界をみることが可能。
それでも自分が10年間エネルギーを入れたサイトをiPadで何時でも見れるのは
悪くはないと、何とか気持ちを保っている。有料、無料を含めて、iPhoneipad
のアプリは10万以上あるというが、その一端を次々にダウンロードして使って
みるが、その都度驚きの連続になる。別に、声高に、これは凄い!
という必要もないし、これに近いモバイル携帯電話で既に普及している。
何を今さらといえば、それまでのこと。話を戻すが、書くネタが無くなるほど
本音で書くので、読む方は面白いというが・・ 何も書けない焦りは何とも
言い難い。この辺が限界の際が見えてくる。書き続けるのは大変だが、
その分、張り合いにもなる。
 ・・・・・・
3458, 9・11から9年
2010年09月13日(月)
 あれから9年になる。こと自社からみたら、この日をもって右下がりになり、
現在も続いている。2004年から少し持ち直してきた矢先に今度は2008年9月15日
リーマンショックを契機にした100年、250年に一度の世界恐慌
 あの日から世界も日本も変わってしまった。まことしやかなアメリカ陰謀説
がある。時間の経過と同時に信じるようになってきている。為替と株式で大儲け
をした輩がいた現実がある。更に、この事件をキッカケに兵器業界は大儲けを。
アメリカでは戦争は公共事業といわれ、不況にとって手っ取り早い毒薬と同時に、
回復剤になる。第二次世界大戦は1929年から世界恐慌から立ち直る大きな契機
になった。 アメリカの誘導によって日本がハワイ急襲をしてしまった。
そうこう考えると、アメリカは恐ろしい国。イラクの攻撃のキッカケとなった
大量破壊武器所持疑惑も、実際には存在してなかった。戦争を仕掛けるために
CIAが捏造したことが後になって判明した。日本のバブルもアメリカによる
日本国内の内需拡大の強制による。その結果の日本のバブルのピークを
待って株式の暴落を誘導を図った。そして下がりきった株と不動産を買い
捲ったファンドが、大儲けをした。好き放題に日本の資産をいじくりまわし、
収奪を繰り返しているアメリカに日本は成す術がない。歴史的にみて、
その後の2008年9月15日のリーマンショックと同じレベルで、2001年9月11日
の事件は語られるはず。アメリカ崩壊への二つの大事件として。 
これを必然的事件とみると、何か底知れない深いウネリを垣間見れる。
20世紀的なものの崩壊の必然の事件としてである。そして、この火の手が10年
20年かけて世界を焼き尽くす。日本のバブル崩壊後、山一證券が倒産したのが、
7年後。大手銀行が3つになったのが10年後である。この世界恐慌も、10年
20年の時間で世界を大きく変えていく。現在はデフレ、ハイパーインフレ
襲ってくる。グローバル化は、世界をフラット化する。日米欧は、その他の国
と変わらないレベルになりざるを得なくなる。9年でネットも、携帯電話も、
テレビも、劇的進化をしてきた。それが、世界をフラット化を進めている。
これから10年、世界は、その動きを更に大きくするだろう。 
面白いと同時に、恐ろしい10年になる。