* 強烈なミヤコ蝶々の母役   <山田洋次名越康文 対談>より
 なぜか、シリーズの中で印象に強く残っているのが、寅の母親。
ミヤコ蝶々が演じていたが、これがハマリ役。寅の『基低欠損』の原因である
関西のオバアチャン。 私事になるが、終戦直前に焼出された商家再建の中で、
産まれ育った。両親は商売に熱中、私を含めた8人の兄姉たちは、親の直の愛情
を受ける機会が少なかった。その中、末っ子もあって、兄、姉たちだけでなく、
多くの従業員の愛情を一身に受けたのが大きい。両親は、気が向いた時だけ
愛情を注いでくれていた。その代わり、美人の女店員に付いてまわっていた。
 ふと思いついた言葉が、私に関しては「基底肥大」。兄、姉は、終戦
最中の混乱で、『基低欠損』が大きくあったような。 
〜これは、何れの家庭にいえることだが。条件と原因は、ほぼ同じ働きをする。
≪山田:自覚はしていないけれど心の中に空洞を持っている人間、寂しさを抱えて
 いる人間は、そこを埋めたい埋めたいと意識の下で思っている。だから、時々、
 ヒステリカルに怒ったりしてみんなに嫌われたりするということでしょうか。
名越:寅さんは第二作で実の母親に会います。しかし京都でラブホテルを経営して
 いる母親役のミヤコ蝶々さんがこれまた強烈で、せっかく念願の親子再会を果た
 したのに、「今頃、何の用やねん。あっ、銭か、銭はあかんで」と、サラッと
 言われてしまう(笑)。
山田:撮影した後、そういう残酷な母親を演じさせた僕に、蝶々さんは
 「気にしなくてもいいんですよ」と言うんですよ。「わてはこういう汚い役は
 好きなんや。その奥に、人間のキラッとしたものが見えればそれでええんや」
 と言っていました。
名越:さすが蝶々さんですね。この第二作の中で、蝶々さんは「どの世界に、
 喜んで子供を捨てる親がいるんじゃ!」とズバッと言いす。-このセリフが心に
 残るんです。ぞしてラストシーンでは、橋の下で、寅さんが母を追いかけている。
 あの場面は本当に象徴的で、カウンセリングを山のようにやってきた人間から
 すると、「そうそう、これしかないんだよな」と思います。つまり、子供の方が
 一生懸命、親の「理想像」を作り、それをいつも追いかけているんです。≫
▼ 母親が亡くなった時、医師の依頼で、解剖をすることになった。
 兄二人が、たて続きに不幸な死に至った苦悩で極度のノイローゼに陥って、
数年間、心筋梗塞などで死線を彷徨った中で、心臓の4分1が壊死をしていた
ことがわかった。医師は、よく生き延びていたと、驚いていた。その中で、
生き残った6人に、深い『基底欠損』が、当然あった。青年期に至るまで、何度
も亡くなった兄二人が夢に出てきていた。その傷を抱え、膨大なエネルギーを
要する創業を、我ながら目指したもの。その経験があるため、第三者の批判の
軽さに心底から蔑視ができる。批判は自分の影に対する反映でしかないのが
自覚できない。影口の呟きで、自分の壁をつくっているのが、俗にいう世間人。
 〜で、また偶然だが、以下につづく!
 ・・・・・・
5195,魂が擦り切れるまで哲学に徹したか
2015年06月05日(金)
   * 哲学という気晴らし  〜『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 
 こういう文章を読むと、<この10〜20年、独学で「哲学」を学んできま
した>など、よくも言っていたと自嘲をする。どの道も、命がけでなければ
プロとはいえない。「ひきこもり」と「哲学をする」は、紙一重
 20歳代に、スランプになると、度々、六日町にある「雲屯庵」という禅寺に
本を持ち込み座禅をしたりしていたが、そこの若い雲水が、時々、「野狐禅
などしてもしなくても同じだ」と強烈な批判をしてくれた。若い雲水は命がけで、
禅道を歩んでいるのに、少しの挫折で横たわる代わりの私の野弧禅など、
この馬鹿野郎である。しかし今から考えると、決して無駄ではなかった。
 これと同じことが、哲学の道でもいえる。 〜その辺りから(p91)
≪ 私が哲学にのめり込んだのは大森荘蔵先生に会ったからである。東大
 法学部に進むはずであった二十歳の私は、突如哲学に鞍替えしようと決意した。
その頃、大森先生の書いたものをむさぼるように読んでいた私は、大森先生に
じかに会って、いったいこんな自分でも市民から哲学者という「ならず者」へと
転落する資格があるのか賭けに出た。「駄目だ」というわずかな言葉をも、
視線をも、サインをも見逃さず、その時は哲学を潔く諦めよう。
 こうした悲壮な決意で先生に対したが、思いがけないことに、私は先生から
文句なしの適性を保証されてしまった。「来なさい」と言われ、胸も張り裂けん
ばかりに嬉しかったが、同時に奈落に突き落とされた。ああ、これで俺はもう
まともな市民としては生きていけない。哲学で行き詰ったら、後は死ぬしかない
と思い、泣きたくなるような気分だった。 それがまもなく現実になった。
法学部を捨てて先生の所属する教養学科の科学史。科学哲学分科に進学するや
否や、私は深刻なノイローゼに陥った。現実の哲学に失望したわけではない。
哲学は、そして先生はますますすばらしい存在として私に迫ってきた。だが、
だからこそ、自分に絶望した。そんなにすばらしい世界が与えられたのに、
それを充分活用できない自分の愚かさ、無能さに絶望したのである。
 蛆虫のような老婆を殺した瞬間に、自分もまた蛆虫だと悟った『罪と罰』の
ラスコーリニコフのように。俺は誤解していた、分不相応の高望みをしていた、
俺は真理のために生きることなぞできないのだ、俺はやはり蛆虫として真理を
横目で睨みながら何もわからずに死ぬほかないのだ。そう思った。そう思って、
自分の浅はかさを嘆きながら引きこもり、死ぬことを考えていた。
 ずっと後になって、奥様から「あの頃たびたび、主人は中島君自殺するかも
しれないと言っていました」と聞かされた。そんな苦しい時でも、私を哲学
へと「誘惑した」先生を瞬時も恨んでいなかった。ただ、せっかく見込んで
くれたのに、こんなテイタラクで申し訳ない。そのために死のうかと思った。
それからいかにして「治った」のかは、長い話になるので割愛する。
とにかく、私は門下の仲間たちとはよほど違って不思議なほど転び、蹟き、
滑りながら、哲学を続けている。といって、私は先生に普通の意味で
「感謝している」わけではない。私が駆け込み寺のように先生のもとに身を
寄せてから、本当に辛くきつい人生が待っていた。だが、私はこうしか生き
ようがなかったのだから仕方ない。先生との出会いも運命であり、私が哲学
を志すと「そこに」先生がいたのだ。 先生は私の恩師であろうか? 
いまさら「恩師」などと言えば、「私は中島君の師であったことなどない」
と切り返されるであろう。そうなのだ。私が先生を、一番煩わせた問題児で
あったとは確かであるが、先生は私の恩師なのではない。私は先生に哲学とは
こういうものだということを教えてもらったが、その後いまに至るまでその通り
のことをしていないのだから。だから先生は権威・権力におもねることを蛇蝎
のように嫌った。『哲学の教科書』がベストセラーになり、わずかの褒め言葉を
期待して勇んで病院に見舞いに行った時、「もう少ししたら何か言います」
と言われた。だが、何も言わずに死んでしまった。これもずっと後から聞いた
話であるが、私がウィーンから帰ってきて人より十年も遅れて駒場の助手に
なった頃、「今度帰ってきた中島という男は難しい所もあるが、どうか寛大に
見てくれ」と哲学仲間に訴えていたという。何も知らなかった。涙が出る思い
である。それほど気にかけてくれた先生は、物書き業に堕した私を許してくれ
ないであろう。魂が擦り切れるまで哲学をしていない私を軽蔑するであろう、
それが苦しいので、時折私は必死に叫んでみる。「私は先生とは違うのです、
こういう形でしが哲学ができないのです」そうしながら、「それでいいのだよ」
という先生の優しい言葉を期待する。だが、いくら耳を澄ましても何も聞こえて
こない。≫
▼ 何度も読み返えすたび、その都度、それぞれの青年期の節目の苦悩が蘇る。
 多かれ少なかれ、青年期には、各自が、似たような苦悩を抱えて苦闘するが、
いつの間に現実に同化してしまう。で、娑婆娑婆して、この有様! 色即是空
・・・・・・
4830,「事業人生を決心して45年」の語り直しー8
2014年06月05日(木)
  * 「語り直し」を始めて驚いたことは
 3年前の結末で、オセロゲームの駒が白から黒に変わったと思い込んでいた。
ところが、変わったのは細部の記憶が次々と最近のことのように思い出すこと。
嫌な出来事と思っていた中に、自分自身の姿が垣間みることが出来ることだ。
むしろ、不遇の渦中こそ、人生の醍醐味がある。ただ、気づくか気づかないか。
不遇であればあるほど、周囲の人に親切になる。だから、多くの邂逅が生まれ、
味のある日々になっている。成るほど、人生は面白いものである。生きてきた
課程で、日々、世界が変化している。そして自分自身も、大きく変化している。
特に、20歳代の変化は激しく、留まることはない。金沢にいた頃の会社は、
最後は吸収合併をされて、今は、何一つ残ってない。あるのは抽象画のような
記憶だけ。しかし、これが自分の基礎に大きく根を張っている。
 金沢に来たのだからと、能登一周の観光バスで一日一人旅をしたり、
同僚との東尋坊へのドライブに行ったり、早朝の金沢港でのキス釣とか、
金沢駅前の居酒屋で騒いだりとか、入社前の研修での永平寺の座禅とか・・・ 
 ところで、東尋坊は北陸随一の景勝であり、自殺の名所としても知られている。
同僚から聞いたのが、自殺者の霊が管理事務所に尋ねて来たとか、断崖から
下を見たところ、多くの手が伸びてきたとかは日常茶飯事という。 
 せっかくの金沢なら、茶道でもと思いたち、同僚の女性の紹介で、寮の近くの
家に習いにいっていた。異様な緊張感が漂う中、来ている女性は、なかなかの
若い美人ばかり。週の火・木曜日の週二回のどちらかに行くが、これが心落着く。
それぞれの日で、来ている人が違うが、そこでの美人を見るのが楽しみに
なっていた。ただ、それだけだが、金沢を急遽、去るにあたって、その事情を
師匠に話すと、「ところで結婚相手が決まっているの?」と聞いてきた。
「職場の女性以外に、チャンスもないし、同僚は付合わない主義で・・」
と答えると、「どっちの娘がいいの?」と! 結婚相手など微塵だに考えて
なかったので、「別に!」と答えたが、悪くはないが今さら時間が無い。
考えてみたら金沢での伴侶の選定も考えられた。 浅く広い、いちゃつき
レベルでは、多くの思い出はある。一番、惨めで、嫌なことばかりの日々の中に
こそ、多くの心の痕跡がある。それが青春ということか。人生は多くの
出来事と、その記憶の重なりで出来ていて、「自分」は、その蓄積そのもの。 
そうこう振返ると、創業準備期間の15年の方が、創業以降の30年より、遥かに
エネルギーが入っていたことになる。結果が、どうであれ、野心を持って、
ひたすら日々を過ごしていた20歳代が、人生の醍醐味があったようだ。
 結果としてみて、20歳代は、非常に合理的配転を自らしていたことになる。
今だから言えるが、面白い日々だった。
・・・・・・
4463, 余命半年 −1
2013年06月05日(水)
        「余命半年  満ち足りた人生の終わり方」大津 秀一著
 老いるにも準備が必要であるが、死ぬことにも準備が必要のようだ。
「あと余命半年」と悟った時に何をするか?その時には、苦悩と苦痛が頭を
占めて殆ど何もできない。あと半年と悟った時、「準備をしてきて良かった」
と言えるよう、普段から一歩ずつ足を踏みしめて生きなければならない。
それにしても、それほど遠くない未来に、余命半年+−数ヶ月の余命を宣言
されるか、自分で悟る時がくる。これが脳溢血、心不全、交通事故など瞬間死
の数倍の確率というのが現実である。その瞬間から悟りすまして生きるなど、
無理。それまで積み重ねた知識と経験と覚悟を持って、平静に保つしかない。
  ーまずは、「はじめに」より抜粋---- (要約でもある)
≪「あなたの余命は半年です」突然そう宣告されたら、あなたはどうする
 だろうか? とりあえず遺産をどうするか、そこから手をつけるだろうか。
あるいは、かねてより行きたいと思っていた海外に旅行に出かけるだろうか。
いずれにせよ、ぼやぼやしていたらあっという間に半年など過ぎてしまう。
半年・・・たった六ヶ月である。「命はそれまでですよ」と告げられたあなたは、
その半年の間にやるべきことをすべてやり、心にも折り合いをつけて最後を
向かえることが出来る自信はあるだろうか? ・・まさに人の数だけ物語があり、
バッドエンドもハッピーエンドもある。ある時から、私は何がこの二つを
分けるか、あるいは、ある人の終末期に光が包まれるのに、ある人の終末期に
色濃い闇に閉ざされるのか疑問に思った。 結論から言うと、老いる前から
老いることを、病気になる前から病気になることを、死ぬ前から死ぬことを
考え、そこで悲観的になるのではなく、だからこそ一足一足を踏みしめて
生きようと、そう思った人間にはそれ相応の最期が約束されるということが
わかった。老いること、病気になること、死ぬこと、それを事前に考えるのは、
ものすごく精神力を使い、大変な作業である。ともすれば抑うつ的になって
しまうこともあるだろう。しかし、その差は必ずいつか出る。ひょっとすると、
最期ばかりか、明日からも大きな差となって現れるかもしれない。・・ ≫
▼ このところ、老い、病気、死についての本を読むことが多い。 
 読んでいると安らぐのである。どっちにしろ、そう遠くない先に直面する。
その時になって、急ごしらえの準備は、それでしかない。しかし、この本も、
  健康時からの心得、病初期・病中の心得、病末期の心得、死の心得と、
段階をおってるから、シビアで引き込まれる。緩和医療のお医者さんもあり、
著者は、その実態を紹介することで不安を少なくしたいのが、この本の主旨。
 「精一杯生きました。悔いはありません」そういって誇らしげに言える
ための準備、それは「今を幸せに生きる」こと。
・・・・・・
4089, 老いの見本帳ーダークサイト −9
2012年6月5日(火)
       「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著)
  * 役割としての「年寄り」   
 ここで、「老人と年寄の意味合いの差は、喧嘩の仲裁ができるかどうか」。
村の長老は、争い事の仲介者としての役割が最も似合っている。若づくりを
した粋な老人も良いが、何もかもしりつくした重みのある長老も良いもの。
≪【老人と年寄り】 老人という言葉には、老化現象の起きた人間とか老衰
間近の人間といった印象を覚えてしまって、好きになれない。老人ホームとか、
老人病院といった具合に。それよりは「年寄り」といった呼称のほうが、経験
や年輪を重んじている気配が感じられる。相撲界でも年寄株は必ずしも高齢者が
持つわけではないし、江戸時代の武家では役員待遇的な意味合いではなかったか。
長老、なんて尊称も最高齢者というよりは「年寄り」に近いニュアンスであろう。
 わたし個人の勝手なイメージでは、年寄りとは喧嘩の仲裁ができる人である。
「ここはひとつ、年寄りの顔に免じて堪えてくれんかのう」と言えば、
それで喧嘩している同士はしぶしぶ矛先を納める。立腹しつつも、どこか安堵
した表情を浮かべながら。そんなふうに心の機微を読み取り、また最後の
最後に腰を上げる状況判断の確かさと、人生経験を重ねてきていることへの
万人の敬意とかが、その場を収めるのである。
 ・・ 六十歳を超えると急に「余りにも下世話な」妄想が突出するケースが
散見されることは、既に第5章で触れた。その背景には、若さから遠ざかった
ことへの無念さとともに、年寄りであることを受け入れるに足る価値感が高齢者
に与えられていないことがあるだろう。暴走老人などというものが出現したのも、
老人であるという無力感や孤独感のみならず、年を重ねたという事実を劣化と
いった文脈でしか認識しない世間への恨みが大きかったからだろう。
年長だからとそのことだけで威張るのも、あるいは落胆するのも問題だけれど、
年長者の顔を立てるといった世の中の「知恵」が通用しなくなっている。
その辺りの軋みを是正するには、もはや老人が年寄りであることを意識的に
「演じる」ことから再スタートするしかないのではないか。世の中が認めて
くれるかどうかはさて置き、年寄りというキャラクターを、役割を、もっと意識
してみてはどうなのか。そのキャラクターが現今においては「カッコ悪い」と
いった了解があるから、年寄りであることを皆が演じたがらない。若く見える
意外性ばかりを狙いたがる。 団塊の世代がこれから老人へと突入していく。
どのような老人像を頭の隅に思い描きつつ年寄りになっていくのか。ジーンズや
Tシャツが少なくとも外見的に旧来の老人とは違ったイメージをもたらすだろうし、
家族のあり方も変化してきているのだから、過去の年寄りの姿がそのまま手本には
なるまい。還暦に赤烏帽子と赤いちゃんちゃんこを贈られていた頃とは時代が違う。≫
▼「あえて自分らしい年寄りを演じてみることで、配役として全うしてみる
 ことを楽しんでみればベスト、人生など所詮は座興に過ぎないのだから」という
著者の言葉が説得力がある。清濁併せ飲む老人を演じるのも面白いが・・
どうも、クソ真面目は? 年寄りは、目立たないことだ。団塊の世代の年寄が、
目立ち始めてきた。だから海外旅行者の数が不景気にかかわらず減らない。
  彼らは「皆んなで渡れば怖くない世代」である。兄弟、友人も皆んな
年寄りになっていくため、無力感や孤独感は少なくて済む。
 ・・・・・・・
3723, ジャズについて −15
2011年06月05日(日)
  * 日本のジャズはどうなっている? ー「音楽の本」三枝成彰著より 
【 二十世紀初頭にアメリカに生まれたジャズが日本に入ってきたのは、
 明治から大正に入り、第一次世界大戦が勃発した頃だ。当時は社交ダンスが
華やかなりし時期で、ダンス音楽として輸入されたのである。一九三〇年代にも
なると、東京を中心にダンス・ホールがお目見えし、日本人によるバンド演奏も
行なわれるなど、第一次ジャズ・ブームが起こる。わが国最初の本格的なジャズ
メンとの評価を得るトランペッター南里文雄が活躍を始めたのも、そんな時代。
しかし、ジャズが本当に日本にもたらされたのは、第二次世界大戦後の進駐軍
占領時代といっていいだろう。それというのも、戦争が激しくなる一九四〇年
前後には、ジャズメンの主な活躍の場であったダンス・ホールは閉鎖され、
やがては「敵性音楽」との理由から演奏そのものが禁止されるなど、ジャズの
空白期間に入るからである。戦後のジャズ。それは、進駐軍として駐留する兵隊
の娯楽として、NHKがジャズなどアメリカのポピュラー音楽を放送したことを
直接のきっかけとする。やがては慰安のため進駐軍のキャンプを巡ってジャズを
演奏する日本人も出現。同時に、日本人の心もとらえ、五〇年代に入って
ルイ・アームストロングベニー・グッドマンデューク・エリントンなど
本場の巨匠たちが来日するにいたって、第二次ブームとも呼ぶべき様相を呈した
のである。もちろん・進駐軍とともにもたらされたジャズは、アメリカと同じ
ようなスタイルの変遷を経ながらも日本にすっかり定着していき、一方、日本の
流行歌にも大きな影響力を及ぼすのである。そんな日本のジャズで活躍した
多くのプレイヤーの代表をあげるとすれば、サックスの松本英彦渡辺貞夫
トランペットの日野皓正、ピアノの秋吉敏子、菊池雅章、山下洋輔らになる。
なかでも日野晧正や菊池雅章、秋吉敏子といった面々は、ジャズの本場アメリ
を拠点に活躍。日本におけるジャズも、本場がそうであるように、八○年代以降
やや沈滞気味だが、そもそもは輸入された 音楽であるジャズの世界でも、
世界に通用するアーティストを輩出していることだけは忘れてはならない。】
▼ 私が学生時代に、TV番組でジャズが多く流れていた。それだけでない、
 カントリーにウエスタン、ブルースにロックと、当時はアメリカに如何に同化
するかが、大きなバロメーターのところがあった。現在も、その傾向が残っては
いるが。地方出身の学生であった私も、何の抵抗もなく、アメリカナイズされて
いった。それから考えれば今さら何がジャズか、になる。 とはいえ、当時の
刷り込みのあるジャズに、興味を持つのは当然といえば当然で、むしろ抵抗なく、
その世界を楽しめばよい。
 ・・・・・・・
3358.すでに世界は恐慌に突入した ー1
 2010年06月05日(土)
 (字数の関係でカット15年06月05日)