ー知の逆転ー
   * 帝国主義の終わり ーA
             対談相手 〜ノーム。チョムスキー
  名前は聞いたことがあるが、成るほど面白く、鋭い。
 〜まず、チョムスキーの人なりと、学説から
≪・ノーム・チョムスキーは、プラトンフロイト、聖書と並んで、最も引用
 回数の多い著者であり、「生きている人の中でおそらく最重要な知識人」
ニューヨーク・タイムズ)と形容される、MITエ科大学の言語学教授にして、
哲学者、政治活動家。 著作は200冊を越え、50ヶ国語に翻訳。
・全ての言語にはその深層に共通する文法が存在し、そこからさまざまな表層
構造が生成されるのであり、人間は言語の基本文法を生得的器官として持って
生まれ、不十分なインプットで十分な言語能力が発揮されるような脳の仕組み
になっているとする。この「普遍文法」の提唱(1955年、57年)は、言語学分野に
革命をもたらした。
・1960年代のベトナム反戦演説を皮切りに、反戦、反暴力の姿勢を貫いて、
アメリカが「デモクラシーを広める」という名目のもとに行っている、自分の
言うことを聞く抑圧的な政府(チリのピノシエやニカラグアコントラなど)を
支援して民主主義を阻止するというような他国への軍事ならびに経済介入は
テロリズムそのものだ。そのお先棒を担いでプロパガンダを煽っているのが
アメリカのマスメディアであり、特にエリートは常に提灯体制の提灯持ちに
なりやすいと、アメリカの覇権主義を厳しく批判する活動を続けている。
・また、広島と長崎への原爆投下は人類史上最もひどい犯罪の一つであると
明言すると同時に、第二次世界大戦における日本帝国主義の犯罪も厳しく糾弾。
・さらに、世界経済は多様化したほうがショックに強くなる一種の存続と同じ、
多様性を保つことが社会全体の体力を強くする。・・
・細々とした講演活動を地道に続けて少しずつ人々の目を事実に向けていき、
いまでは時代がチョムスキーに追いついてきて、講演は常に人があふれて、
世界中からのインタビュー依頼がひきもきらない。≫
▼ 「資本主義の将来は、市場原理主義だけでは必ず破綻するとし、民間
 ビジネスは、強い政府によって守られることを望んでいる。」という。
中国のような大国で、流砂の民といわれ、個人主義の強い人民の国では、
特に、中央の統制が強くなければ体制が維持できない。それは、アメリカの
市場経済主義も同じ。
・・・・・・
4770,ぼんやりの時間 ー3
2014年04月06日(日)
           「ぼんやりの時間」辰濃 和男(著) 
  * ぼんやりと過ごすために ―その時間と空間
次の問いかけー「むだな時間」はむだか?ーの問いが考えさせられる。 
  まずはーアマゾンのレビューよりー
《 ミヒャエル・エンデの傑作「モモ」の主人公は「ぼんやりしている時間」
 を大切にする少女だ。・・ エンデの作品は、時間泥棒の「灰色の紳士たち」
が、人々から「時間」を奪っていく物語だ。むだだと思われる時間を奪われた
人々の暮らしはどうなるか。それが「モモ」の主題だ。ぼやーっとしている
時間はそれこそ、むだそのものだ。効率至上主義者はそう言うだろう。
むだな時間を幾ら重ねても何の稼ぎにもならない。灰色の紳士たち、つまり
時間泥棒たちは、人々の心に忍び込んでは「むだな時間」を節約し、その分を
『時間貯蓄銀行』に預けなさい」と誘う。銀行に預けられた時間は、すべて
灰色の紳士たちが生存するために使われてしまう。いわば詐欺そのものなの
だが、人々は詐欺とは気がつかず、せっせとむだな時間を削っては、その分、
自分たちの生活を貧しくしてゆく。モモは何処からかふらりとその地にやって
きた少女だった。土地の人たちの好意で、古い円形劇場跡の一角に住まわせて
もらう。少女は、夜空を眺め、夜空の発する「荘厳なしずけさ」をひたすら
聴くのが好きだった。モモにとっては、このぼんやりの時間はけしてむだな
時間ではない。宇宙の静寂の中で時を過ごすと言うのは、モモがモモらしく
生きるための、大切な時間だった。夜空を眺める時間を持つことで、モモは
「荘厳なしずけさ」を感ずることが出来たし、何よりもそういう時間を持つ
ことで、曇りのない目を持つことが出来、灰色の紳士たちのインチキを見破る
ことが出来るのだった。かなしいことに、私たち現代人は、夜空をしみじみと
仰ぐ習性からしだいに遠ざかっている。利潤、効率、管理、豪華さ、スピード
とか、そういうものを生活の拠所とする人々が増え、夜空を眺めるなんて
無駄なことだ、と思う人が増えてきた。しかし、そのむだは本当にむだなこと
なのか。そういうむだがあるからこそ、生活はむしろ、ゆたかなものになって
いるのではないかとエンデは問いかける。》
▼「モモ」の時間が、何か日本人の預金のように感じられる。それを狙った
 偽札が、米国と日本の国債の紙切れ。国内に不安を押し付け、さほど多く
ない収入から、年金をかけさせ、預金をさせ、それと国債を交換するシステム。
その国債の価値の上げ下げの決定権も当然、彼らが持っている。金融工学など
の言葉は詐欺工学と言い換えてよい。おちおちしていると全てを失ってしまう。
豊かさには、お金など資産と、知識と、品性と、時間などがある。
その中で、一番に大事なことが、それぞれ平等に与えられた時間である。
だから、ぼんやりすべきか?、ぼんやりしてないで、有効に使うか? 
その人により違ってくる。ぼんやりの時間は、自然瞑想に近い心の状態では
ないか。『よく働き、よく学び、よく遊べ、しかし時どき、ボ〜ッとした
時間を持って、それを味わいなさい!』ということ。
・・・・・・
4403, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −3
2013年04月06日(土)
        『 隠居大学ーよく遊びよく遊べ 』天野祐吉、お相手
* 第二時限 「ゆっくり急げ」 外山滋比古講師
   ー人生二毛作の進めー
 二期作二毛作の違い、「二毛作は、ひとつの耕地で、一年で種類のちがう
作物を二度栽培すること。二期作は同じ作物を二度栽培をすること。
人生においては、二毛作をすべし!」と、「ゆっくり急げ」が御隠居の要。
 そのために、これまた長年かけた準備が必要になる。土壌は今さら変える
ことは無理。ならば移住するか、その土壌に合った新しい作物を長年かけて
用意しておかなければならない。  ーその辺りを抜粋するー
≪ 外山:わたしもそうですが、長いこと組織の従業員をやってきた
 サラリーマンの場合はですね、それまでの価値観を、いっぺんひっくり
返さないといけません。前半の人生ではだれかに仕えていた人も、後半の人生
は自分が自分の大将になり、自力で道を歩むための新しい志をかかげなければ。
そういう意味で、この隠居大学というのは、たいへん面白い試みですね。
天野:あまり実践的でない大学ですが、気楽におしゃべりで、いろいろな
隠居の楽しみ方を紹介する遊び場になればいいと思っているんですよ。
ところで、外山さんの『「人生二毛作」のすすめ』、すごく面白く読ませて
もらいました。二毛作っていうのは、ひとつの耕地で、種類のちがう作物を
二度栽培することですよね。たとえば、春から夏にかけて稲をつくったら、
二回目は大豆や麦なんかをつくる心つまり隠居の楽しみというのは二毛作目の
ようなものであって、前半の人生と同じものをつくったんじゃ面白みがないと。
外山:そうそう。人生も折り返し地点に来ると、価値観というものがおおむね
 逆になります。そもそも、前半で立てた志というのは、学校出て就職したら
ある程度の方向が決まってしまうようないいかげんな志です。わたし自身も
そうでしたが、いちどエスカレしターに乗ったら、自分の力で歩かなくても
成長しているような気になって、それでは本当に生きてきたといえるかどうか。
天野:もし二毛作にチャレンジしなかったら、どうなるんでしょう。二期作
 いうのかな。前半の人生と同じものをつくる。たとえば、定年を迎えたけれど、
嘱託社員として会社に残って、空いた時間で好きなことをするというような・・
世の中には、そういう隠居スタイルの人もいると思うんですけど。 
外山:いや、それはエセ隠居です。高級官僚の天下りがいい例です。二毛作
 をやるのは面倒くさいし、自信がないから、とにかく一毛作の延長で行こう
としがみつく。そんな甘い考えではいい年寄りになれません。といってもわたし
もね、少々まわり道をしたんですよ。大学で教師をしていたんですが、最初の
勤め先を定年退職後、もう一度別の学校に勤めに出たが、がよくなかった。≫
▼ 私の長年の友人は、ほぼ二毛作の人生を過ごし三毛作の人もいる。
 転進すべき節目時に決断している。情報を持っていたのである。逆に一毛作
でハッピーエンドだったら、小さな畑で隣の田畑と比べるだけの水平の人生も、
それもご愛嬌。 価値観の転換など関係のないのも、これも人生。
死んで三日も経てば、みな同じ。あるのは?永遠の虚空だけ!
・・・・・・
4029, 「人生の知恵」ノート ー2
2012年04月06日(金)
     ー 品格と、自分を高める言葉のノートより ー
  * 情報や知識が少ない場面では
「何をするにしても、勝手が分からないこをやる時は安全な方を選ぼう。
手堅いことは独創であることよりも大切である。」これも人生を振り返ると、
骨身に感じること。情報不足の時は、奇をてらえば、必ず失敗をする。
  * あえて敵をほめること
 敵を褒め、親切にすること。特に復讐のチャンスの時ほど、逆に寛容に
すべき。その品格が求心力を生む。ボクシングの勝者は観客を意識し敗者に
対し、「良い選手だ」と必ず褒め称える。ファン対策のためだ。
 人生は、闘争である。まともに生きていれば、罵られ、足を引っ張られる。
しかし、決して愚弄してはならない。憎い相手ほど、冷静に褒める。
それが品格を高めることになり、敵を少なくし、求心力を生む。
  * 放っておく術を知る
 人間関係の諸問題は、さまざまな感情の暴風雨を引き起こす。そんな時、
港に退避し、碇(怒り)を下ろして乗り切ること。殆んど時間が解決する。
複雑な問題を解決できるのは「時間」か、強い権力だけと知るべき。
「低俗の人たちが起こす問題の嵐を静めるには、何も手を出さず、自然に
収まるのを待つこと。一度、退くことがベスト。
  * 見かけも重視すべし
 信用は金を出しても買えないが、外見は僅かな投資で整えられる。 
正義でさえ、正義に見えなければ、それにふさわしい敬意を受けられない。
きちっと見抜ける人は、見かけで騙される人よりずっと少ない。清潔な服装
を着るだけでなく、時計も靴にも高級感のあるものを選んで、いつも磨きを
かけることが必要。話す言葉も、少し保守的に、謙虚さを装うべきである。
第一印象は僅かな投資で良くすることができる。それが信用の土台になる。
  * 感情の波を乗り越える
 感情は、常に理性を踏み越える。常に冷静な態度を保てる賢明な仲介者を
間に入れれば良い。激情にかられたらその場を離れる。
  * 失うもののない人と争わない
 人物を選ぶこと。危ない人は、いつの間にか悪い情報のタネにする。 
  * 言葉はやわらかく、態度はやさしく
「言葉を使えばたいていのものは買うことができ、不可能を可能にできる」
言葉の力と恐ろしさを知って、用心深く、やさしく使うことが、品格を作る。
▼ このブログの公開が恐くなってきた。「本当のことは休み休みに言え」
 が、社会。この箴言は現在の私への諌めの内容ばかり・・
・・・・・・・
3663, 9・11、9・15、それをしのぐ3・15 −2
2011年04月06日(水)
 この大震災と原発事故の3・11が、9・11と9・15を超える歴史的事件の仮説
の上で、この今後の行末を考えてみる。それだけ大きな事象なら、これから
生じる問題は想像するだけで恐ろしい。
 * 9・11の結果、アメリカのアフガンへの攻撃、イラクフセインへの
 攻撃で数十万人を殺害し、新しい政権を確立をした。このテロは、白
(白人系宗教)対、赤(アラブ系イスラム教)の対立が表面化した事件で、
 文明の衝突である。
* 9・15は米英の金融支配の崩壊であり、世界経済を根底から破壊を始めた
 ばかり、それだけでない500年の欧米的価値観を根底から変える歴史的
 大転換の大事件である。。
* これに対し3・11は、東北の太平洋岸で100年来の最大規模の地震と大津波
 が発生し、沿岸の原発に直撃。その結果、放射能汚染が日本の国そのものを
 崩壊するかどうかの瀬戸際に陥っている。その上に、世界に汚染を拡大させる
 可能性もある。 さらに世界の原発推進の流れを根底から変えようとしている。
 事実には、真実と虚偽が混ざる。TVで「風評に気をつけて下さい!」と、
 政府筋がコマーシャルを流している。
しかし政府の流してきた情報こそが虚偽?で信用ならないことを国民は熟知
している。 ネットで、政府より国民の方が情報を素早く得ているのである。
政府が「原発は絶対大丈夫!」といい続け、それを信じてきた純朴の住民が
最大の被害者。あの歴代の保守系の政治家と官僚の連中に騙された結果が、
この様である。それを今さら「風評に気をつけてくだい!」といわれても、
誰が信じるかである。 地震発生と原発事故の発生して数日後に「本州全滅!」
と、ある筋から聞いたときは、それでも心の何処かで「まさかだろう」
と思っていた。しかし日々刻々、入ってくるニュースを見ていると、
「もしかしたら?」でなく、その仮説?の上で、原発事故の行き着く先を
考えなければならない。「首都圏の官僚の子弟は、遠くの親戚に疎開を始めて
いる」とかが、決して風評で軽々しい、とは思えない事態。「外国人が、早々、
列をなして国外に逃亡した行為と、大多数の人たちが、風評として見逃している
情報の方が正しい」という仮説を立てて自分の中で立てておくべきである。 
  私たちの年代は、充分生きたが、若い人、子供は気の毒である!
 ・・・・・・・
3298, 一年の重み
 2010年04月06日(火)
図書館で小林正観の「人生を楽しむための30法則」を見つけ借りてきた。
例の「ありがとう」教の本を書いた人。それで一番ありがたかったのは、
彼だろう。それはいいとして、何げなく目を通していると、以下のような
面白い内容があった。(字数制限のためカット 2012年4月6日)
 ・・・・・・・・
2923, 中沢新一の『三位一体モデル』 −2
2009年04月06日(月)  
『三位一体モデル』中沢新一著   −読書日記
  *「霊」は何か?
ここでいう霊とは、英語でスピリッツ、ドイツ語でいうガイスト、
日本語で霊(たま)という。語り得ない「神」とか「霊」をどう表現するか
興味を持って読んだが、神を三位一体モデルとして、「父」「子」「精霊」
と構造的に分解している。一つの見方だが、それを思考法として利用したり、
この世界を理解するには有効になる。その一つの「霊」を、ひとことで
「増えていくもの=増殖するもの」としている。「父」たる普遍的なことを、
現実の姿として「子」キリストなどの現象とし、霊(増殖するものとして)
を使って世界中に布教していく便利な存在?である。この霊を組み込んだ
キリスト教が、<増殖>現象を自分の中に抱えこんで世界に爆発的に布教
していくことになる。それが西欧資本主義の出発点になるのである。
ここが、イスラム教と、もっとも深い対立点になる。
  * イスラム教との「増殖」をめぐる対立とは?
 イスラム教は、キリストが神の「子」という点、そして増殖原理である
「霊」を唯一神の中に組み込むという点については、絶対に認めない。
イスラム教にとって、神と人間のあいだに立つ媒介する存在など、あっては
ならない。イエスなど、ただの預言者でしかない。ただひとつの神に霊を組み
込むなどということは、絶対にありえないこと。なぜなら、霊は「増殖現象」
を起こすなど、唯一の神アッラーは増え得ないからである。
イスラムにとって、アッラー自体は変化しない。しかしキリスト教徒は、
じつに微妙なかたちで、「増える」という原理を組み込んでしまった。
イスラムにとって、「神の本質が増えるとはどういうことなんだ」ことになる。
キリスト教は、増殖という現象を内部に組み込むことによって、
その後の奇跡的な勢力拡大の基礎をつくっていったのである。
▼ 結局は、キリスト教は欧米人の世界からの略奪行為の尖兵として、
 情報機関として建前として使われてきたのは自明だったが、ここで、
その宗教の歪みの部分を解明している。この世界恐慌も、その崩壊の一つ
とみてよい。霊を増殖するものという見方は初めてである。
・・・・・・・・・・
2559, 印度放浪 ー3
2008年04月06日(日)
 ー語録ー2
人間の身体を見ていて神々しいと思ったのは、一ぺん沈んで浮かんできた水葬体。
水葬にしていったん沈むんだけど、沈んだあと底につかないのはそのまま浮かば
ないで流れ浮かばないで底についたのは必ず浮かんでくるんだ。
そうやって浮かんできた時の顔とか身体というのは、不純なものがいっさい
流れたような美しいものなんだね。半眼微笑の仏像そっくりな場合すらある、
それが二、三日経つとだんだん膨らんできて、中の血管の血がバッーと表に出て、
まるで不動明王五大明王みたいに赤黒くなる。それからまた血が引いて漂白
されたようになって行く。水に投げられたひとつの死体をずーっと見ていると、
人間のもっているすべてが見えるよ。日本でも死ぬ時に、これは単なる比喩的な
言いまわしだろうけど、死ぬ時に一回苦しんだか二回苦しんだか、三回苦んだかで、
その人の生前にもっている業みたいなものが出るということを言うじゃない。
それとは違うけど、水葬死体も人間のもっている生前のことを全部見せてくれる
ような気がするね。
 解)日本人は死体を特別に大事に考えている影響が40年前の著者に残って
  いるようだ。こういうのを読むと、さっさと重油をかけて焼いてしまうのも
  良いと思う。その方が余程ドライである。
ーー
犬が水葬体を食っているのを見て、法華経に出てくるクンパーダカをふっと想像
したんだ。クンバーダカ鬼は架空の生きものだから見たことはないが、そういう
感じがしたんだ。広角で撮ろうと死体を食っている中洲の犬に近づいたら、そこに
いた一匹が逃げたんだ。それが遠くから十二、三頭を連れてきた。砂けむりを舞い
上げてね。僕がエサを取ってしまうとおもったのか、全部がうなりながらにじり
寄ってくるんだよ。人間を喰っている犬ににらまれたんだから、かなり危機感
を持ったね。眼を離して逃げたらワーッと襲われてやられるとおもったから、
こっちも動けない。川の中洲だから人間は誰もいない、助けも呼べない。カメラを
持って投げつけるような恰好しながら、それでもこれを投げたら壊れるからやめと
こうとおもったりしながら、投げるものを探したわけね。そのへんは写真にも
写っているように頭蓋骨とか骨がけっこうあるんだ。で、犬の目から目を離さない
ようにしながらゆっくりとしゃがんで、頭蓋骨を四ツくらい集めてこれをかかえて
投げるかっこうをしながら、頭蓋骨もったまま少しずつあとずきりをして川の中に
胸まで入ったんだ。犬は向うでウロチョロしている。奴に向けて力いっぱい投げ
つけたんだ。暫くするとあきらめて、また向うの死体を喰いはじめてくれたんだね。
こちらは川づたいに三脚のあるとまでやっと辿り着いてね、これでやっと安心して、
この三脚を持てぱこれ殴れるから何となく大丈夫だと思ったわけ。後で考えると、
地獄で何かしていたような気がするんだ。
 解)インドでないとこういう経験は出来ない。宗教で、かくも文化が
違うかが理解できる。ベナレスのガンジス川の底には骨が重なっている
というが。その骨についている貴金属をあさっている子供もいる。
 ーー
インドはね、撮りすぎるとダメなんだ。インドってのは撮れちゃうから。
まわリ三六〇度ぐるりと一回転して三十六枚押したら、一本フィトストーリー
ができてしまう。だからインドへ行った人の写真ってのはみんな同じになる。
写りすぎるってことは、全部撮ってもダメということなんだね。インドは
「何を撮らないか」というマイナスの作業でしか自分の視点が出てこないのね。 
加算とかブラス信仰の社会から行うた人からは、撮らないということも表現で
あるという発想がなかなか生まれない。
 解)これって写真だけでなく、全てにいえることじゃないですか。

  (字数制限のためカット 2011年4月6日)