『人は死ぬとき何を後悔するのか 』小野寺 時夫(著)
   * 治療を後悔する人が多すぎ
  読むにつれ憂鬱になるのが、病院経営の利潤が優先され患者はグチャグチャにされる実態?である。
 父が亡くなる直前にポツリといった一言、「あんなに苦しむなら、手術をしなければよかった!」
 死を覚悟した時、「どのみち助からないのに、あの激痛を長時間も耐えなければならなかったか?」
 の疑問が生じるのは当然。 ー治療に対する後悔する原因を要約するとー
・ここで外科医だった当事者の著者が、末期ガン者の手術のやり過ぎの実態に強い疑問を投げかける。
 転移している場合、根こそぎの切除は不可能にかかわらず、大掛かりな手術をするケースがあまりに
 多い、と。 食道ガンの名医が、転移している膵臓ガンも切るため、その方が好い加減な手術になる。 
・日本では、「手術して直る可能性が高いのか」「再発する可能性が高いのか」「再発するならどれ位
 生きれるのか」などを、医者が説明せず、患者の方も医師に質問しないのが普通だが、欧米人には
 考えられないことという。
抗がん剤が効くのは、ある種の白血病悪性リンパ腫、睾丸ガン、小児ガンで、7割位の人に有効で、
 5年生存率も6割を超えている。 問題は、それ以外のガン。 延命効果があるのは10人に1人。
 著者が外科医だった頃、試みた中で殆ど効果はなかった。 新薬治験という誘惑があるが、これも
 薬品会社のモルモットかわりか、法外の費用になる。新薬治験効果があった話はほぼ聞かないという。
・また民間療法も、あまりの法外の費用面で、「一千万単位の借金を背負った」という話が多いとか。
 家族が苦し紛れで、自宅を抵当に入れケースである。これなど、少し冷静に考えれば、効果など
 ある訳がないが、溺れるもの藁をもすがるで、家族全体が破滅に向かう。代替治療という
 ‘無法地帯’が、世の中にはある。岩盤浴低周波装置、ガン免疫療法などなど、幾らでもある。
 しかし、著者の知る限り、その全てに効果は無かったという。
▼ 高齢の転移したガンの手術は考えた方がよいことになる。治療の後悔も、情報と知識不足が原因。
 それで目先は助かっても、長期間の苦しみが待っている。人生の晩年は、厳しい『生老病死』が待つ。
やはり「手遅れで余命半年」が、一番良い? その瞬間から地獄のような日々になるが、これも人生。
同年代の4人に1人は、そうして逝った! どうしたら良い? 今を充実させ、楽しむしかない。
「死んで花実が咲くものか」で、死にかける前に、元気なうちでなければ、再びよい目に会えない。 
 さて今日は何を楽しもうか? 面白そうなことは幾らでもある・・ 
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2013年11月30日(土)
4641, 閑話小題 ー「考えないこと」こそ罪
 朝日新聞の‘論壇時評’で、作家の高橋源太郎が ー暗い未来「考えないこと」こそ罪ー 
をテーマに書いていた。「馬鹿な考え休むに似たり!」としても、社会の常識を疑い、逆照射をしたり、
哲学書を生半可とても、融かすように学び続けるしかない。だから、考えようとしない人は直ぐに分る。
まともな順にA,B,Cと分け割り切っている。その全ては、過去の自分の行蔵に含まれており、険しい
山道の道標の自分の姿でもある。死刑囚の『無知の涙永山則夫著という書があるが、「考えないこと」
からくる罪は、無知から生まれ出る。 過去の記憶のフラッシュは、B,Cの自分の行蔵が殆ど。
他人の評価は別として、私自身としてAに到着したのは、還暦辺りか、それとも、65歳の辺りか。
いや、Cのまま? ABCが混在しているのが人間だから人生は面白い。 経済震災と自然震災もあって? 
この結果に終わり、あたかもオセロの白駒が、黒駒に変わったような経験をしてから、更に考えざるを
得なくなっている? 筆者は「日々の暮らしに目を奪われ、考えないことが、如何に罪を積み上げて
いくことを知るべき」という。  ーその辺りの一部よりー
《「憎悪の差別語をまき散らして憎悪をかき立てる『凡庸な悪』と、社会は如何に向かい合うべきか」
 の座談会の出席者たちは、いわゆる「在特会」の「朝鮮人は死ね」といったヘイトスピーチの主張に、
かってハンナ・アーレントユダヤ人虐殺の中心人物であったアイヒマンについて語った「凡庸な悪」
を見いだす。深みのない「凡庸な悪」であるからこそ、底無しに広がってゆく可能性があると指摘。
彼らは特殊なのではない。私たち社会の中に、彼らの考えに同調する素地があるのだ、と。
 だが、その「凡庸な悪」に染まり、世界を滅ぼそうとしているのは、「在特会」とそれを支持している
人たちだけなのだろうか。アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴し、彼の罪は「考えない」ことにある
と結論づけた。彼は虐殺を知りながら、それが自分の仕事であるからと、それ以上のことを考えようとは
しなかった。そこでは、「考えない」ことこそが罪なのである。私たちは、原子力発電の意味について、
あるいは、高齢化や人口減少について考えていただろうか。そこになにか問題があることに薄々気づき
ながら、日々の暮らしに目を奪われ、それがどんな未来に繋がるのか「考えない」でいたのではないか。
だとするなら、わたしたちもまた「凡庸な悪」の担い手のひとりなのかもしれないのだ。》
▼ 年末年始になると、中学、高校、大学、そして趣味などの忘年会に出席する。学歴が上がるほど、
「凡庸の悪」の人が間引きされ?少なくなる。それが、その場の空気を綺麗にする。「凡庸の悪」の
傾向の強い人は、とにもかくにも考えない。その代わりに、他人との比較と噂が主たる世界。
そこから出る毒ガスで脳が侵され、噂を嘘に変えていく「凡庸な悪」の担い手、無知の涙に浮かぶシラミ。
で、どの会にも一定の割合で存在する。逆に「考えるとは何か?」という問いかけは哲学の問題。
「考えないことの罪」は、人類そのものの原罪である。だから、人は学び続けるしかない。
 その結果、我が内なる(過去・現在)B・Cに出会うことになる。その姿を見ている視線が、
Aなる自分、考える自分になる。
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2012年11月30日(金)
4276, 100の思考実験 ー2
       「100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか」ジュリアン バジーニ (著),
   * ギュゲースの指輪
 次に印象的だったのは「ギュゲースの指輪」である。 ウィキペィデアには次のようにあった。
≪ カンダウレス王の治めるリュディア国に住む牧人のギュゲースはあるとき地震にあった。
 地震の後に畜群を放している山の手に洞窟が現れたのを見つけた。入ってみると中には玉座に遺体が
置かれていた。その遺体は金の指輪をしており、ギュゲースはその指輪を盗み出した。戻ってきた
ギュゲースは指輪を身につけてあれこれと探るうちに指輪を内側に回すと透明になって体が見えなくなり、
外側に回すとまた見えるようになることに気づき、悪だくみを思いついた。家畜の様子を告げる伝令
として宮殿に入ると、透明になって后に近づいて姦通、密謀してカンダウレース王を殺し、位を簒奪した。
豪富で知られるクロイソス王はギュゲースの子孫である、という伝説が当時行われていた。プラトン
「国家」の談義では兄グラウコンがこの話を引用して「人は知られなければ悪事を働くのものだ」と
述べて、プラトンのこれに反対する形で「悪事は知られなければ構わないという考えは良心を腐らせ
悪しき結果となる」と述べている。≫
▼ ギュゲースの指輪は、人間の心の奥に潜んでいる不道徳性を試す物語。人にさえ知られなければ、
 誰も誘惑に駆られ多くの悪事をするが、他人になると声高に非難をする。もし、私がギュゲースの
指輪を持っていたとしたら、恐らく何をしでかすか分からない。見せかけの自分と、本性の自分は全く
違うことは、自分の心を考えれば分かること。「指輪物語」は、これをヒントにつくられたという。
ギリシャの哲学者プラトンが、2千数百年も昔に、この人間の性を物語にしていたというから恐れ入る。
性善・性悪説の論争に似ている。 若い時には純粋で理想に燃えて社会に出るが、何年もしないうちに
垢に汚れ、何時の間にか良心を腐らた世俗人になってしまう。それを他人には見えるが、自身には
見えないから、その矛盾が直接、自分に跳ね返ってくる。その結果、精神分裂になり、自分の壁を
つくって篭ることになる。それからして、カントの道徳律は重要である。「仮言命法」としてではなく、
定言命法」である。仮言命法とは,「もし…なら…べきだ」というもの。道徳律においても、
「もし人から信用されたいのならば、嘘をついてはいけない」とか、「早起きは三文の得」などがそれ。
それに対して、条件なしに「…すべきだ」とだけ命ずることを定言命法(無上命法)。
人間、良心に反する行為は、すべきでないということ。しかし、・・  この「しかし」が、
人間を迷わせる内語になる。 悪事は結局、回りまわって自分に帰ってくる。で、・・! ・・?
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2011年11月30日(水)
3901, 精神力ーその偉大な力  ー2
   ▼ 世界でもっとも重要なもの
 著者が言わんとすることは、「原因の世界に住んで努力を続ければ何事も必ず実現する。
成すべきことを成し遂げれば、何事にも光がさし込む」ということ。精神力とは信念のことをいい、
確たる目標に対する継続した努力をすれば、その努力が信念になっていく。そこには、当然に難題が
立ち塞がるが、それには必ず対策がある。そう信じることが信念。ここで、エマソンの次の言葉を
引用している。「すべての個人には共通の一つの心がある。各人は、同じものの一つ一つの、
また同じものの全部の入口である。この普遍の精神に触れた人は、実存するもの、あるいは、
行われうることすべてへの仲間入りをした人である。これこそ唯一の、そして最高の力だからである」 
この辺は、中村天風の積極一貫の精神と同じ。精神ー信念は、自然界が全ての人に贈った要具である。
それを使いさえすれば人生は美しく、光栄に満ちたものになる。
   ▼ 人が知識を得る三つの方法
 ◎ 知識を得るには、科学的方法があり、経験と実験によるわけ。 
 ◎ 二つ目は哲学的方法であり、それは理知による。
 ◎ 三つ目は宗教が用いる神秘的方法もあり、内心的に感知する。 
 この三つを組み合わせたときこそ、満足する結果が得られることを著者は見出した。
   ▼ 人生は胸おどる冒険 、苦難は間違った考え方の結果
 「大生命力は実在します!それを生きなさい。 人は大生命力のなかの、自覚を持つポイントです。
精神は大生命力の法則、生命が作用する方法、創造のための大生命力の要具です。それを使いなさい!」
そのためのドアは、本人が開けなければならない。不快、失敗、不満などの苦痛は、当然なすべきことを
していない結果に過ぎない。その苦痛は心の使い方を不健全に使っていることを忠告しているに過ぎない。
その反対に、幸福や裕福や健康や心の平和を、正しく考え、正しく行なっていることに報いる
自然界一流の方法です。 ホランドの詩に次のようなものがある。
「 天国は、ひと跳びに行けるところではない  登るはしごを建造するのだ
  低い地上から、まる天井の空まで――    はしごの横木を一つ一つ登っていくのだ 」
  いかに思うべきかを学ぶことは、いかに生きるかを知ることだ」と、皆知っている。 
 しかし信念の在り方を変えなさいと力説する人たちも、どうすれば、それができるかを
 教える人は、非常に少ない。
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2010年11月30日(火)
3536、沈黙せよ!
「語りえぬものからの問いかけ」という東大駒場〔哲学・宗教・芸術〕連続講座ー
《 「言い表せないもの」の詩学 −チュッチェフ『沈黙』の逆説ー沼野充義 》の「沈黙」
 という詩に、思わず息を飲んでしまった。 何か、毎日、自分が書き続けていることを根底から
否定されたようである。否定されるほどのものも無いことを私が一番知っているから書いているだけ。
  ーまずは、以下の文と詩からー
【 チュッチェフには「沈黙」と題された詩がある。この詩人は、ドイツ・ロマン主義の影響の
 色濃い哲学的・思弁的な作風で知られ、バラティンスキーと並んでロシアにおける思想詩の系譜の一人
とみなされている。「沈黙」も、そういった傾向を代表する彼の初期の代表するチュッチェフ初期の代表作の
一つで、ロシア人なら誰もが知っているほど有名なものです。文豪のトルストイはこの詩に感激し、
「なんという驚くべき作品だろう! これ以上の優れた詩を私は知らない」とまで言ったと伝えられていす。
それほど有名で優れた詩であれば、これまで多くの専門家によって数多くの研究や解釈がなされてきたのも、
また当然のこと。・・ 翻訳で読み、解釈するという作業にはどうしても限界がありますが、そのことを
肝に銘じたうえで、しかしそれでも何かを読み取ることができるかどうか、読解を試みてみましょう。
  ー 沈黙! ー
沈黙せよ、隠れよ、そして隠せ           自分の気持ちも夢も―
魂の深みでそれらは                 夜の星のように黙々と
昇っては沈むことを繰り返しているがよい     それに見惚れ、沈黙せよ!

心はどうしたら自分を言い表すことができるのか   他人にお前のことがどうして理解できようか
お前の生きがいが他人にわかるだろうか       心に思うことも口に出せば嘘になる
泉を掘り返しても、水をかき乱すだけだろう      ただ泉の水を飲み、沈黙せよ!

自分自身の中で生きることだけができればよい    お前の魂の中にはまるまる一つの
神秘的で魔法のような思念の世界がある       その思念を外の騒音がかき消し
昼の光が追い散らしてしまう             それら思念の歌に耳を傾け、沈黙せよ! …
 〜〜
「 ・・・・・ 」この詩について、何かを語れといっても・・ 
「HP読みながら、いつも思っていた!」って言わない。 思念公開も面白いもの。 
土いじりや、趣味の世界、神への思念に没頭すると、沈黙せざるを得なくなる。 ーつづく
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2009年11月30日(月)
3161,つれづれに ー閑話小題
 * 円高 85円
為替が円高・ドル安に動き出してきた。 それにつれて金の価格もジワリと上がってきている。
年末に向かって周辺も冷え冷えとし、殺伐としてきている。 年末年始は大荒れになるのか、
それとも何とか中小企業特別救済で乗り切れるのか? 公共事業の大幅カット、そしてボーナスの
減額、デフレスパイラルによる不況の深化などで、一日一日と厳しさを感じる。
 この上に円高というから、救いようがない。社会はますます内向きに成りざるを得ない。
 * 「坂の上の雲」がNHKドラマの初回が放送されたが
「坂之上の雲」が日曜日夜のNHKで数回シリーズのドラマとして放送が始った。
私たちの年代の多くが、この小説に大きく感化された。 筋立ては、秋山兄弟と正岡子規
生きかたを通して、明治時代の人間像と時代背景を書いている。 
(字数制限のためカット、11年11月30日)
 * 同じ映画を二度みたのは始めて! 
土曜日にシネマ「2012」を再び観てくる。映画を二回つづけて観るのは初めてである。 
(字数制限のためカット、11年11月30日)
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2008年11月30日(日)
 2796.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・5
ー 金を追うな、金に追われるような人間になれ ー
【第4の法則】 金を追うな、金に追われるような人間になれ
 「空気人間になれ」
(ゲットーに住むユダヤ人は隙間で生きていかなればならなかった。自分に対する誇り、
自尊心が確立されているから、仕事の体裁などにこだわることはない。チャンスとみれば偏見に
囚われずに何でもやる。元手が少なくても、わずかなチャンスを確実にっかみ、成功に近づいていく。
空気のように軽く、どこにでも入っていく。それでいて、空気のように誰もが必要とする資質を
兼ね備えた人間。苦難を空気化した人間、それがルフトメンシュである。)ユダヤの知人の言葉
*「この仕事で 豊かな気分になることはない。ただあるのは、どれだけ稼いでも、新しいレベルの 
相対的貧困感に 苛まれること」 ユダヤ人の知人のコトバ
*「神がお金について どう考えているのかを 知りたいのでしたら、
 どんな人に神が お金を与えたのか を観察してみるといいでしょう」ドロシー・パーカー
*お金は手段にすぎません。自分が行きたいところには 連れていってくれますが、
*11ポ・ドの金塊よりも、 1オンスのツキのほうが 価値がある」  東欧ユダヤ社会の諺
*「人生は、賢者にとっては 夢であり、 愚か者にとっては ゲームである。
 金持ちにとっては 喜劇であり、 貧乏人にとっては 悲劇である」ショーレム・アレイヘム
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2007年11月30日(金)
2431, ネット君臨      ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。
ネット君臨」−毎日新聞取材班ー(出版・毎日新聞社)        −読書日記
この本を図書館で見つけ、読んで驚いてしまった。この春先に毎日新聞が連載したものを本に
したものだが、この連載は大きな社会問題を提起、幾つかの規制の法案ができるキッカケになった。
私も政治や、ゼネコンなどの談合に批判を書いているが?言い方には気をつけなければと自戒させられた。
マイナーの人?いや色いろな考えの人が見ているのである。それにしても、ネットによる虐めの陰湿さには
驚いてしまう。特に「2ちゃんねる」上における、匿名による誹謗・中傷の内容は、人を死に至らしめる
ほどの内容に満ちている。毎日新聞の連載をまとめた本だが、ネットのマイナス面に絞っているのも、
ネット社会の規制を考える面で、良いこと。
 *まずはアマゾンの、この本の紹介文から
  ー内容紹介ー
 匿名社会の恐怖、拡大するネット犯罪…。ネット社会の急速な進展は、我々の生活 に便利さや
効率をもたらす一方、さまざまな負の部分を生み出している。ネットは我々をどう変えるのだろうか。
また我々はネット社会をどう築けばいいのか。ネット社会に警鐘を鳴らした毎日新聞取材班の大反響連載
ネット君臨」の書籍化。本書では、国内最大のネット掲示板2ちゃんねる」に代表される匿名による
誹謗・中傷が人々の暮らしに深刻な影響を与えている実態を現場から報告。「2ちゃんねる」の管理人
ひろゆき(西村博之)氏にインタビューしている。さらに国の政策がインフラ整備に偏り、
企業や個人のマネーゲームを生んでいる実態や米国、韓国、中国のネット犯罪の現場をルポ。
 ー概要ー
マスコミがこれまで殆ど触れてこなかったネットの問題点に真正面から切り込んでいる。
難病(拘束型心筋症)の上田さくらちゃん(四歳)がアメリカでの心臓移植をうける費用
(約一億三六〇〇万円)を賄うために「さくらちゃんを救う会」が結成され、ボランティアによる
募金活動が開始された。(字数制限のためカット、09年11月30日)
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2006年11月30日(木)
2067, あたりまえなことばかり −18        (+>∀<+)ノ おぁはは〜ようさん!
 人生には、それぞれに相応しい時期がある。その年齢ごとに新しい経験を織り込んでいくのが
人生である。私の中学校のクラスは卒業後も非常に仲がよくて、節目ごとにクラス会を開いていた。
地元にボス的な女性がいて、その都度声を掛け合って20人は集まっていた。卒業後15年ほど
してからは1〜2年ごとにクラス会を開いていた。担任の先生の停年の年には(18年ほど前)、
湯沢に一泊した翌日、長岡に帰ってきて、延々と夜半まで三〇数時間も一緒に飲み続けた。
最近までは毎年のように理由をつけては会を開いていた。そこで見えてくるのは「歳をとるから老いる」
ということではないことである。経験を自分の人生の中で織り込んでしまえば、生きるということ、
老いることも、むしろ面白く、味わいが深くなる。人生など大したことがないものである。
深刻に考えるだけ馬鹿馬鹿しい。気楽に考えて、その時々を真正面から生きていさえすれば、
それでいいんじゃないか! ということである。       
 ーーーーーーーーーー
 老いは個人の生を超え  −? 
 ーーーーーーーーーー
 老いるほど人生は面白くなるという言い方は、確かに可能である。その歳まで、いったい何をして
きたのかと訝りたくなるような老人が多い。おそらく、何もしてこなかった。摂食、生殖、快楽の追及以外
何もしてこなかった。刺激に反応して、反応したら忘れるといった動物的生存の日々、そういう人々は、
したがって老いることを拒む。動物的生存に価値がある限り、肉体の衰えは価値の喪失以外ではないからだ。
老いた自分に価値が認められない。「老醜」とは正確には自虐的に使われる。逆に、内省を知っている人は
美しい。鏡を内側に持っているからだ。外に映る鏡の姿が崩れているにしても、ともに崩れる必要がない。
若年からの内省の習慣、老いるほどにその姿は違って見える。内省すること、心の姿を整えること、
それが魂の世話をする意味である。歳を重ねると、内省と回顧が判然としなくなるが、面白いのは、
このとき回顧されているのが自分の人生ではなくなっているということだ。自分の人生を振り返って
その視野に、自分の人生としての人類の人生、すなわち「歴史」が、当たり前に入ってくるようになる。
内に鏡を所有して生きることの面白さは、その現在の鏡に過去が映っているからだ。
過去とは現在以外ではなく、歴史とは自分以外のものでなかった、と気づかされるのだ。
それが鏡が鏡であることの秘密である。「歴史は鑑である」とは、本来その意味であった。
ーー  
母親が80歳の時に、「私の生きた5〜6倍前に家康や秀吉が生きていたと思うと、
大して昔じゃなかったのね!」いった言葉は、歴史が鑑であるという意味ではないが、ハッとする言葉。 
(字数制限のためカット、13年11月30日)