* カフェという集い −②    『パワレルな知性』鷲田清一
 カフェといえば、30年も経つが、『致知』という月刊雑誌を知って購読するうちに、全国に愛読者の
同好会があるのを知り、新潟支部を立ち上げた。今では年に一回参加しているが、30年も続くとは驚き。
全く知らない新潟で、肩書きを横にした同年代の人たちとの出会いの場、一種のカフェのような集いの
場を求めたため。とはいえ、当初は半分が営業ネタを探して参加する人が過半数はいたが、それも良しだった。
 ところで、学生時代の寮がまさにカフェのようなものであった。今でいうシェアハウス。
大きな屋敷の一角に、平屋で、4畳半と6畳の和室が25室、「く」の字に並んでいて、角が炊事場と
洗濯場で、両端がトイレ。廊下は土間で、あたかも馬小屋のようだった。各部屋には鍵が付いているが、
私生活があってないような。それが寮というものだが。 炊事場やトイレの行き帰りなどに、どこかの部屋の
前にサンダルが幾つか並んでいると、つい顔を出し、お茶などを飲んでいる輪に入る。そこでは、読んだ本や、
政治経済、現在進行形の恋愛の話題が中心になる。寮生は全国各地の出身者で、早大の学生が半数を占める。
 雰囲気は、まるで「住込みカフェ」のようで、なにもかも参考になることばかり! その上に、それぞれの
大学の親友が遊びにくるため、その輪は更に大きくなる。そこで、軽井沢の山荘でのアルバイトとか、留学や、
海外旅行の情報が、ごく当り前に交されていた。それに加えて、大学では、クラブ、ゼミ、欧州旅行の仲間と、
クラスの友人の網目が出来ていて、広いコモンルームや、中庭、学食で誰かと話をしているかであった。
学生だからこそ、自由に様々の人と邂逅しえたのである。
 現実社会に入ると、組織や、地域の社会の、それぞれの立場があって、自ずと人間関係に制約があるが、
学生時代は、それぞれの思惑は最小で済む。それと、高度成長期真っ只中の恵まれた環境があった。
『カフェの集い』の視点で、人生を振返ると、やはり最終の学生時代が最も、良かったことになる。
プライベートの時間が持てなかった『青雲寮』に、当時、不満もあったが、この環境が最良だったことに、
これを書いていて気づくことになった。 この寮生活で、それぞれの私生活で垣間見た姿から、
 <社会には、教養とは別に、想像を超えた、善良と邪悪が混在した人が存在する>ということを、
知ることになる。そして、実社会に出てから、その多くを己の中で見ることになる。
 秘境ツアーなども、これに似たところがある。全国から集まった見も知らない人たちと1〜2週間、
親密な時空を共有する。その多くは、ツアー慣れをしているので、直ぐ胸襟を開くが、それぞれが
様々な情報の宝庫のため、そこはツアー・カフェそのもの。 かって長屋の御隠居は、横丁カフェの主。
 私の友人に、喫茶店に入浸って?半世紀以上、その人自身が、カフェみたいな人がいる。いや、居酒屋? 
問題は、そこが教養ある知的会話?であるかどうか! ある共通した価値観と、それぞれの全く違った
価値観を備えた人との出会いこそ、カフェの集いの面白さになる。 
とすると、このブログ、『居間の一人カフェ』になる。 時々、塩昆布茶もあるが。
・・・・・・
4558, 東京が、2020年の開催地に決定!
2013年09月08日(日)
 5時20分に、次次回のオリンピック開催地が発表された。その2時間前の3時に何時ものように目が醒めた
ため、布団の中で瞑想モードに意識を持っていき、「私が神としたら、3都市の何処を選ぶだろうか?」と考えた。 
その結果はイスタンブール。5時からのTVの特別番組の選定会場で、まずマドリッドの落選。あとの残った
イスタンブールと東京の二者択一の中で、東京が決定された。 「そんなことをしている場合じゃないだろう!」
が、気持ちにあったが、いざ発表となると「東京」と願うのが人情。以前から、「2020年の75歳が死に時」
と思っていた。その年が、これで東京オリンピック開催の年になったのである。一回目は昭和39年、18歳の年。
二日目は生きていれば75歳。現実は、世界も日本も2020年までは、大きな試練が山のように待ち構えている。
福島第一原発の汚染処理、世界恐慌の対応、国家財政の破綻、国境問題等々がある。
 トルコか日本?の二者択一というと、選ぶ方は、原発汚染への不安より、中東の政治的不安定と、欧州危機を
考えると、安全、安定面から、今回は極東の安定した都市の「東京」を選んだ。 これで、「2020」と
東京オリンピック」が、キーワードとして浮上、国家としての明るい目標が出来た。
オバマがシリア攻撃を示唆したのもトルコにとってマイナスになった。タイミングをみていた?
日本のような島国では、一つ明確な目標があれば元気が出るが、大きな問題が残っている。
南海トラフ地震と、東京直下地震、富士山噴火の可能性である。 福島第一の汚染に目を向けさせたのは
戦術としては良かった。実際問題は、これらを考えると二つの都市の危険さと遜色はない。 国内の政治面では、
予想される混乱の中で、国民の目をオリンピックに向けさせることが出来る。
今日を境に大きく空気が変わるだろう。今日は目出度い日になる!
 ・・・・・・
4183, 呪いの時代 ー3
2012年09月08日(土)
                      「呪いの時代」内田樹
  * 記号の過剰化    ー第2章 「祝福」の言葉についてーより
 呪いは怒りや羨望、嫉妬などの要素が相まって内面に作りあげられた一種の記号と著者が指摘している。
しかし怒りの感情を言葉にし繰り返すうちに、その毒が己の脳を侵してしまう。鬱である。そこで医者から
貰ったハッピードラッグで目先、散らしている内はよいが、いつの間に、呪いの感情を更に強く苛んでいく。
呪文は記号のため、反復するうち、その人そのものになってしまい、自滅の道をひた走ることになる。
 次の箇所は、悲劇と喜劇の境い目としてみると、うなずける。
≪ なぜ、このようなニヒリズムが社会を覆うようになったのか。それについて考えてみようと思います。
 僕はそれを「記号の過剰」あるいは「過記号化」という枠組みで説明できるのではないかと思っています。
「呪い」は、その本質からして、記号的なものです。藁人形に五寸釘を打ち込む「丑の刻参 り」という
古典的な呪いの儀式がありますが、これ自体、きわめて記号的な行為です。生身の人間の心臓にではなく、
代替物の藁人形に五寸釘を打ち込むわけですから。メタファーとして行われる殺人が生身の人間の生き死に
影響を与えるという信憑が共有されていないとこの種の類感呪術は有効性を持ちません。つまり、藁人形が
生身の人聞でないように、殺意や嫉妬、羨望や憎悪も記号化されない限り呪いとして機能しない。
忘れられやすいことですが、呪いが機能するのは、それが記号的に媒介された抽象物だからです。
具体的、個別的、一回的な呪いというようなものは存在しません。あらゆる呪いは、抽象的で、
一般的で、反復的です。それが記号的ということです。
 なまの現実が記号化されて、「情報」になるプロセスを「情報化」と呼びます。情報とは「なまもの」
が加工され、分類され、ラベリングされ、パッケージされたもののことです。「高度情報化社会」とは
情報だけが行き交い、「なまもの」に触る機会が失われた社会のことです。生きた動物が殺され、皮を剥がれ、
血を抜かれれ、骨が切り離されて、細切れになってパッケージされるという工程については誰も考えず、
清潔な商品だけが売り買いされている。医療でも過情報化の問題は深刻なものです。当今の医師たちは、
なまものとしての身体ではなく、「記号としての身体」を診療している。『医療崩壊』の著者である
小松秀樹さんが指摘されていましたが、今の診療室では、机上のパソコンのディスプレィに患者のカルテや
検査数値が表示されます。患者が診察室に入ってくると、医師は患者を診るより先に、まずディスプレイに
表示されたさまざまの数値を見る。うっかりすると診療時間のうち、患者の顔を見ている時間よりも
ディスプレイを見ている時間の方が長いのです。 ≫
▼ TVのワイドショーは情報を提供するところ、情報化は「なまもの」とは違うため、それを扱う解説者は、
記号としての言葉にして発信するするため、呪詛的な言葉になっていく。それを受け止める視聴者は、いつの間に、
呪いとして、なまものを呪ってしまう。これが端的に出のが政治であり、政治家は手軽な呪いの対象になる。
だから、島国日本の首相は、一年しかもたないのは、何ら不思議ではない。そして、その行き先は? 
 ・・・・・・
3818, 哲学人 ー�
2011年09月08日(木)                     
  * 精神と肉体ー 二元論       ー「哲学人」ブライアン・マギー著より 
 ー まずは二元論についてのデカルトの誤りを、ライルが指摘している部分からー
【 ライルは二元論について『心の概念』で、私たちの誤用に的を絞って書いている。
ライルの攻撃対象はデカルトである。・・・ 二元論の生みの親をデカルトと特定したが、実際には二元論、
もしくはそれに似たものは、原始時代から人間についての通説となっていた。常にと言っていいほど、
人は自分を、肉体と、肉体に宿る非肉体的な要素から出来ているとみなしてきた。そして常に時代によって霊、
魂、心と様々な呼ばれ方をしてきた、この非肉体的要素を、ある程度独立した存在として、また、そうなる
可能性があると見てきたと言っていい。私がかつて、この事実を挙げて異議を申し立てると、ライルはこう答えた。
「この間違いを最初に犯したのがデカルトだと思っている人はいないでしょう。要はデカルトがこの考え方を
とても明確に打ち出したので、デカルトの時代以降、これが教義もしくは定説なったということです。
シェイクスピアも聖書も言っていませんが、デカルトは実際にこう言いました。『私の心はひとつの実体であり、
私の身体はそれとは別の実体である』と、それが事実であるかのような言い方なら、それまでもされたことは
ありました。が、デカルトは確かに事実であると言ったのです」 実を言うと私はそうは思わないのだが、
それはさておき、精神という実体などないのだから二元論は誤りというのがライルの主旨。
  その著書で述べられている詳細な分析をもとに、ライルはこう書ている。 
≪ われわれ人間が行なっているのは、自分の行動と経験のある部分を精神的なものとして分類し、
その他の部分とは異なる、主体に帰属させること、そしてその主体を精神として物象化することである。 
精神に関連する概念の使用法を入念に調査すれば、そのようなことをする正当な理由はないということがわかり、
さらには人間は単一の存在であり、行動と経験のただひとつの主体で、アイデンティティも歴史もひとつしか
ないことが明かになる。 われわれはふたつの実体が神秘的に結びついたものではない。
これまでわれわれは、「カテゴリー錯誤」(ライルが哲学の世界に広く普及させた用語)を犯してきた。
われわれは精神という概念を一種類のものを意味するとみなしているが、実際は多種多様なものを意味している。 
精神とは、独立して存在する実体であって、なんらかのことをして経験をもつものと考えているが、通常は
さまざまな行動形式のうちのいくつか(行為、気分、経験など)を総括する言葉にすぎず、またこうした行動様式は
どれも、正しくはひとつの主体に帰属させるべきなのだ。このカテゴリー錯誤がもととなって、われわれが
自分自身を想定する上で、そして考えたり語ったりする上で数多くの誤りが生まれている。
これは哲学的誤謬の好例であり、我われの思考の広大な領域はこの誤謬に犯されている。≫
 ライルの本は、いかにして言語分析派がこうした問題を解決するかを示す範例である。 P・106  】
▼「肉体が消滅した後、私(精神)はどうなるのだろう」という疑問そのものが、二元論である。
デカルトが言わなくとも、大昔から天国か地獄に召されると言われている。肉体と精神と、あらためて
デカルトが述べただけ。肉体が無くなれば、当然、精神とやらも消滅するのは、当たり前である。
精神を指している一つに『言葉』がある。「生きているときに発した言葉。それは現在でも生きている」
というが、それは、生前に発した言葉。死んだ後に、言葉は発せられない。
 ・・・・・・・
3453,, ニューカレドニアの休暇 −3
 2010年09月08日(水)
 夕飯でいったフランス料理、ベトナム料理、中華料理が、それぞれ美味しい。フランス領のためだろう。
特に天使の贈りものといわれる「海老」が美味い。 ベトナム料理、中華料理は日本的味付け。
それより新鮮な貝魚がふんだんに入っているからである。値段も、日本の居酒屋に少しプラスした程度である。
 ところで、オプションツアーで行った「天国にもっとも近い島」のニックネームで親しまれている
イル・デ・バン島が良かった。日本では、その称号は森村桂の著『天国にいちばん近い島』から、ロワイヨテ諸島の
ウベア島がそう呼ばれているが、実際はここ。数多くの種類の熱帯魚や珊瑚礁を、透明度の高い海水の中に
見ることができた。この島は南北15キロ、東西13キロの大きさで、島人口は約2,000人である。 
珠玉のような島で、ニューカレドニアで是非とも行ってみたかったところ。
双発のプロペラ機で首都ヌメアから30分ほどのところにある。 行く先々の小さな湾の海岸線と海と空が美しい。
いまだ観光づれしてないハワイと考えればよい。ここに宿泊するツアーもあるが、値段は非常に高くなる。
 ニューカレドニアは日本人に特に好まれているようで、親しみやすい。 中国、韓国人の姿は、ここで一人も
見かけなかった。まずはハワイ、東京、欧州、オーストラリアなのだろう。この島を通して、日本の現状を現地の
ポリネシア人を通してみてしまう。小さな島国で、フランスの占領に甘んじているが、日本も同じ被占領国。
ドルとアメリカ国債という紙切れと小麦・大豆と、汗水たらして作った商品と交換。 その紙切れは、
20年〜30年単位で価値を数分の一に一方的に下げさせられている。アメリカ、オーストラリアも、欧州人が
現地人を虐殺して建国したところ。 現在も、その構図は同じである。マスコミを背後で操り、教育システムで
骨抜きにし、官僚を洗脳、コントロールすることで、間接占領をしている。
フランス領の観光地で、気楽に避暑。それだけで、深く考えることもないが・・・・
・・・・・
3078,富豪と金の使い道
 2009年09月08日(火)
 一昨日の日経新聞の最後の紙面(「私の履歴書」の隣コーナー)に「富豪と世捨て」というテーマで、
作家で法大教授の島田雅彦が書いていた。昔の富豪の身の処し方と使い方で、西行千利休などを取上げていた。
井原西鶴の作品の中の‘世之介’は、現在では500億円位の資産で、生涯をかけて色事に追求し、
花魁を次々に身請けをしたが、それでも使い切ることが出来なかった。
 また日本人の昔の粋な生き方として、世捨てを紹介している。死を前にして身軽になることが含意されているが、
不祥事で失脚した時のリセットで、政治家などが清貧を気取る場合がある。その辺が人間の面白さである。
富豪は、その富のために悩みが多いが、人のためにそれを使うのが、一番の悩みを消す効果があるとする。
資本主義の覇者は資本主義によって滅びた物を復活させて、その罪を償う義務がある。失われた神仏を買い戻し、
廃れた神社仏閣を復活させたことなどである。 それが「歴史からの使命」と結論づける。何代か続いてきた
金持ちは、その使い道さえ無頓着で淡々としている人が多い。金を使っての快楽など知れたもの? 金を気に
しないで済む生活こそ豊かさ。 で、金を気にしないで済む生活は、幾らか。 そう考えると、人様々である。 
平均すると、家一軒があって、蓄えが一人あたり1000万で、夫婦で年間収入400万ぐらい?  ところで、直接、
両親の生き方をみてきて、合理的散在?を学んだ。定額を見定めて、平均して使うことである。 
持って彼岸にはいけないことを世間を見て得た知恵である。 所詮は、蓄財は不安の裏返しの行為でしかない。 
私の親戚に「清貧を自認した生きかた」をした人がいた。90歳後半で亡くなった時には3千万近くの蓄財があった。
その人の収入からみたら奇跡的ですらある。もし、年間300万を65〜75歳の10年間を使っていたら、面白かった
だろうに思うのだが。私は、それを40〜50歳代後半の二十年間で使ったから、わかる。 といって、年間、
150万なら散在ではない? 貯めるのも難しいが、それを後悔しないで散在するのは、もっと難しい。
貯めるは努力、使うは芸術というが。 
 ところで、100億を10年で浪費で必ず使うことを約束して神様から貰ったと仮定して考えると面白い。
浪費というところがポイントだが、50億の船を買って世界中をまわったとして、年間5億×10年=50億の
コストとみると大したことではない。 それなら世界の豪華クルージングの最高級クラスの部屋でサービスを
受けた方が良いか? まあ、それも2〜3年。でも、面白そうだ。しかし「それが如何した」という内なる声も湧く。 
そうこう考えると、一日を真剣に遊ぶ能力こそ重要ということか。問題が山積みの中、ストレス解消のために
遊びに使う散在こそ、価値があるということ?しかし、富豪はそれを超えた世界があるのだろう。 
経験しないものには分からないだけ?
 ・・・・・・・・
2008年09月08日(月)
 2713, コピペ
 先週のNHKの「クローズアップ日本」で、コピペを取り上げていた。「コピペ」とは
パソコンのコピーと、ペースト(貼り付け)の略語である。 なかなか考えさせられる内容であった。
  ーまずはNHKの番組紹介を、コピペしてみよう。
 * コピペ 〜 「ネットの知」とどう向き合うか〜
インターネットで見つけた文章をコピー&ペーストして、自分の文章にしてしまう"コピペ"。
ある大学では提出されたレポートの半数近くがコピペで作成されていたという事実が明らかになった。
夏休みには小中学生向けに開設された「コピペで書ける読書感想文」のサイトがアクセス数を伸ばし、
大人の世界でも、役所が募集したパブリックコメントに大量のコピペの「組織票」が提出されるなど、
コピペは今、社会全体に広がりつつある。 「コピペは人間の考える力を弱める」と批判の声が上がる一方、
「新たな知の技法」として肯定的に捉えるべきだとの意見もある中、私たちはネット上に広がる膨大な情報と
どう向き合っていくべきか考える。 (NO.2623) スタジオゲスト : 茂木 健一郎さん (脳科学者)
 〜〜
以上が概要だが、コピーと、貼り付けは、デジタル社会では当たり前になっている。私も、随想日記
で書くネタがないときは、キーワードの検索で情報を集め、要点をコピーして、張りあわせもする。
そのプロセスで思い浮かんだことを書き込み文章の体裁を作り上げることもある。
学生時代のゼミの論文も振り返ってみれば、彼方此方の本から抜書きをしたものを繋ぎあわせたものだった。
 それだけで精一杯だった。随想日記を毎日書く目的は、自分の日々の情報を第三者に公開することで、
まとめ上げることだから、それでよい。せっかくだから、自分の脳を通して情報を濾過して公開をする
ようにしている。そうしないと、何年後に自分の文章を振り返って読んでも面白くない。
最大の読み手は明日(将来)の自分である。自分の情念と苦労が見て取れる内容にしないと、後年に字数の
関係でカッの対称になる。実際に、毎日、(字数の制限がレポート用紙15枚分しかなく)カットしているが、
自分を切り裂くようつらい。それだけ、汗水を流しているのである。 この番組で、コピペの反対派と、
賛成派が出てきて話していた。賛成派の野口悠紀雄は、情報化の時代に、どんどんコピペをして、
そのプロセスで考えればよい。時間節約になるし、効率よく情報を吸収すべき、という。反対派の人は、
自分で考えることを放棄している。自分でジックリと考えることで、情報は身に付く。安易に情報を集め、
張り合わせるのは、いかがか?という。両方とも分かるが、それぞれの人によるだろう。
私は野口悠紀雄の説で、どんどん情報を吸収すべきである派である。使い分けをすればよい。
ネット上の日記のほかにもアナログの日記帳も書いている。自分の手で字を書くことも重要である。
これはコピペではないが、結構、レシートとか貼り付けている。
・・・・・・・・・・
2007年09月08日(土)
 2349.ベナレス・・・5
 ー多様なるインド世界ー
インドは日本のおよそ九倍にあたる三二九万平方キロメートルの面積を持つ。
これは西ヨーロッパの面積にほぽ等しい広さである。そこに現在十億を超す人びとが暮らしている。
多言藷・多民族の国家であることは言うを待たないが、宗教もまた多様である。
古代から育まれてきたヒンドウー教のほかに、仏教やジャイナ教が紀元前五世紀頃に相次いで生まれた。
(字数の関係でカット 13年9月08日)  
・・・・・・・
2006年09月08日(金)
 1984, バイアグラ        おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・ ねむ              
     (字数の関係でカット 11年9月08日)      
・・・・・・・・・
2005年09月08日(木)
 1619, 閑話小題
ー書くとはー
ー電波歯ブラシー
  (字数の関係でカット 09年9月08日)