朝日新聞の(耕論)「いま、一人前の条件」=規範ない、寅さんのつらさ」ノンフィクション作家・高野秀行が面白い。
私が一人前として自立できたと感じたのは27歳の時である。父が亡くなり、最初の事業を千葉で立上げと同時に結婚。
その時、石油ショックが起きて、ただ無我夢中の日々だった。両足に鉄の下駄を履き(結婚生活)、背中には創業と
いう重い荷物を担ぎ、よろよろと坂道を登っているような日々だったが、これが私の独り立ちであった。
 以下の内容は、世界における「一人前の条件」だが、やはり結婚が大きな目安のようだ。 
《 早稲田大学の探検部以来、外国人が入らないような辺境も含め、世界60カ国以上を旅してきました。
 その経験を踏まえて言えば、
・先進国以外の大部分の地域では、結婚しているかどうかが「一人前」の一つの大きな基準。20歳過ぎても独身だと、
 何か特別な理由、特殊な事情があると思われます。正確には子供が生まれて完全に一人前という感じでしょうか。
・かって半年ほど住み込んでいたミャンマー少数民族の村では、子供ができて初めてその人の土地がその人の名を冠した
「○○の畑」と呼ばれていました。一人前になることは、財産を含めて地域社会から認知を受けるという意味でもあります。
・長年、無政府状態が続いたソマリアの取材を続けていますが、ここでは「大人」という言葉に、成人という意味に加え、
「偉い人」「長老」という意味があります。長老はだいたい50歳以上、10人の集団に2、3人の割合です。
 人望や財力、教養があり、何か問題が起きた時に「あの人に相談しないわけにはいかない」というような存在です。
 氏族内のトラブルや他の氏族との争いでは、交渉の窓口になり、決定権や責任を持ちます。前例をもとに物事が決まる
 社会なので、年を重ねることは知識と経験をもつ貴重なデータベースということになり、尊敬されます。
 私はいま47歳ですが、日本も私が子供の頃はアフリカやアジアの発展途上国のように、結婚して家庭をもって
 初めて一人前扱いされるという感覚が一般的だったと思います。
・最近は日本を含めた先進国で、年寄りの経験値の意味が薄れてきています。情報技術を駆使できる若い世代が圧倒的に
 知識量が多い。従って社会的に年寄りが尊敬されることもなければ、年をとるメリットも感じられなくなります。
 何歳から何をすべきだ、この世代はこうあるべきだという決めつけがなくなり、多様なライフスタイルが認められるが
 ゆえに、単純に一人前とはこういう人といえなくなっています。
 例えていうなら、今の日本は山田洋次監督の映画「男はつらいよ」シリーズで、社会の規範にとらわれず、
 気ままに旅を続ける「フーテンの寅さん」が急増している社会です。 寅さんが増えると少子高齢化がさらに進み、
 社会が回っていかない。同時に本人もつらい。規範がない社会では自分でそれを作らなければならないからです。
 特に日本人は自分で自分の価値観を作ることが苦手。でもいったん自由になると、なかなか過去の価値観には戻れません。
「一人前とはこうだ」というモデルを強要しない社会は、「自由はつらいよ」ともいえるんじゃないでしょうか。  
        * 高野秀行 66年生まれ。早大探検部時代にコンゴを探検し「幻獣ムベンベを追え」でデビュー。》
▼ 私の人間としての一人前は、三年前の節目時。「なるほど、自立するとはこういうことか!」という感覚。
 家庭を持った時点の自立は社会で中だが、リタイアー後の自立は、社会の束縛?からの、自立になる。 (>'A`)>ウワァ
 いや、超越の方が正しい。真の孤独を味わうべき時に、自立できないでアタフタしている姿がイジマシイ :*1:
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4450, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー10
2013年05月23日(木)
            ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
 人生の大問題は死期が迫り、もう先はないと悟った時の恐怖である。脳溢血や事故で即死なら別だが、誰もが最期の最期に
行き当たる大問題。だから著者の言葉は平易だが、どれもこれも深い。死を扱っていると同時に、如何に生きるかの問題でもある。
この年齢になると誰も明日にでも突きつけられる可能性のある。だから「死を解決する登山道」という。初めは軽い気持ちで
読んでいたが、読むほどに哲学の総論を読んでいるようになる。 ーここまで書ききれなかった印象的部分を抜粋してみるー
切腹を辞さないほどの死の覚悟を常に持つということは、欲の超越、自我の超越、生死という二項対立の超越だ。
・むしろ21世紀は、世界が日本化し、日本も日本思想に戻っていく時代なのではないかと思う。
 もちろん、ここでいう日本思想とは、明治に回帰したいという現代保守主義ではない。
 もっと前からの日本思想の原点は、無我・無私の心、静かな達人の心だ。
・自己保存本能を超越し、何の因果かこの世に生まれてきたことに感謝し、今この一瞬に集中してこの幻想としての自己の
 存在という奇跡を心から祝福する気持ち。悩みや我欲を超越し、世界を愛し、自分が世界と一体であることを喜び、
 それ以外に何も要らないし、もちろん手にも入らないことを理解する境地。身体で、感性として理解する境地。
・死本来の恐ろしさとは、無で「ある」ことでなく、なぜかいったん存在してしまったものが無に「なる」ところにある。
・感覚ではなく心の中の何かに向けられるクオリアを、志向的クオリアという。「死が怖い」という感じもクオリアだ。
 「怖さ」のぞっとした感じが心の中からわき上がってくる。
・人間として生まれ落ちて以来身に付けているこのいきいきとしたクオリア。これを失いたくないということが、死にたくない
 ということと、根本的な意味では同義なように思われる。このかけがいのないクオリアは、あろうことか幻想。本当はないのだ。
 脳の無意識の計算がやっていることなのだ。
・知情意のクオリアは結びつけ問題を解くためにあるのか? 僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんてなかった。
 何もなかった。無だ。ところが何の因果か、僕たちは、たまたま知情意のクオリアという幻想を持った生物として生まれ落ちた。
 だから、生きている感じがしている。
・僕は「意識は体験を記憶するために作り出された機能だ」と考える。意識は、主体的に行動を作り出すためにあるのではなく、 
 あらかじめ作られていた演技を体感し、体感したという事実を記憶するための機能である。
 僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんかなかった。何もなかった。無だ。ところが、何の因果か、
 僕たちは知情意のクオリアという幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから生きている感じがしている。
 しかし、ほんとうは人間もロボットと同じ自動機械なのだ。
・そもそも、自分が、自由意志や自由な知覚を持っていると思うから、死にたくないと思うのだ。
 ▼ 知情意のクオリアも、心の中の何かに向けられる志向的クオリアも、幻想でしかない。実際にそうなのだから、
  「死ぬのが怖い」というのは幻想そのもの。半世紀以上以前の中学校の頃、ひとり死を考えて、底知れぬ恐怖を
  覚えていた時を考えれば、その恐怖感は、幻想でしかないことが分かるはず。間近に迫った死を覚悟した時から
  死ぬまでの間に、それまで生きてきた全人生を生きる、という。その時に「これは幻想でしかない」と、思えるのか。
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4076, 老いの見本帳ーダークサイド ー1
2012年05月23日(水)
                「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著)
 面白い本を図書館で見つけた。一日一日、老いていく日々だが、どうも心は歳を取そこねている。実感がわかないのである。
この本は老いの見本帳、それも老醜の見本帳である。わざわざ自虐的な、マゾ的な、げんなりするような事が書いてある。
<・・人生など呻き声をあげたくなるようなことの連続ではないか。まして老いたら、それはそれで独自の当惑や「釦の掛け違い」、
 恥や失望や悔しさが待ち受けているに決まっている。ならばそのようなものを、まずは他人事として味わってみるのも一興ではないか。
 ・・ 気負った言い方をすれば、種々様々な悲しみや煩悶や屈託を見知ってこそ我々は豊かになれる。その上で若づくりする
 初老期を笑うのも結構だし、共感するのも結構ということになる。> と。  これまで両親、親戚、近所の老人を見てきた。
 それが何時の間にか、その仲間入りである。しかし歳を取りそこねているようだ。知的好奇心や、やりたいことがあまりに多い。
 気持ちが枯れてきた実感など、どう考えてもない。しかし鏡を見ると歳相応で、ますます怒りっぽくなっている!
   まずは ーアマゾンの内容紹介よりー
 老いることは、むずかしい……「若さという神話」への無自覚で強迫的な執着は虚しい。 ならば、望ましい「年寄り」の適切な
モデルはあるのか? 歳をうまく取れないために生じる恥、勘違い、いかがわしい振る舞い。老人の不安に向き合ってきた精神科医が、
臨床現場での知見と数多くの文学作品の読解をもとに、老人の心に迫る。 哀しくもおかしな老いの見本帳
   = 序章 初老期と不安 =
 ≪ 人間の心を安定させ安寧を保つ装置のひとつとして、惰性というものが挙げられる。我々は基本的にマンネリに則って生きている。
 退屈で変化に乏しく、うんざりする。だがこの十年一日のトーンこそが我々に安心感を与えてくる。とりあえずこのマンネリに
しがみついている限りは、大きな聞違いや不幸は(たぶん)生じない。 自分の存在意義も生きている意味も現実の確実性も、
みんな惰性の中に埋め込まれている。 過去を振り返ってノスタルジックだとか懐かしいと感じられる事柄の大部分は、
リアルタイムにおいて惰性やマンネリに彩られていた事物なのである。
 日々の惰性がストップしたとき、そこに出現するのは異形の現実である。精神的にショックを受けたとき、生活の根幹を揺るがせる
事態に直面したとき、世界は親しみやすさを失う。当たり前の世の中が、よそよそしく違和感に満ちたものとして迫ってくる。
我々は孤独感と不安とに襲われる。それこそ実存的な風景とでも称すべきか。おそらく死とはこのような感覚の究極としてあるのでは
ないかと予感したくなるような風景に向き合うことになるだろう。我々は日々の惰性を憎みつつも、それによって安心感を得ている。
そしてときに訪れるささやかな絶望や悲しみを介して、惰性が、マンネリが失われる恐ろしさを薄々理解している。≫
 ▼ 「初老期の不安は、それまでの人生の惰性を失うのではないか?」という見方は確かに心当たりがある。老いとは、一日一日、
死にむかって歩いている時期にある。そして、それまでの人生の返り矢が次々と返ってきて弱者への道を歩むことになる。
  老いるのは、まず肉体からだが、それに従って確実に心も老いていく。それに気づかないのが老醜。如何に包み隠すしかない。
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3710, 自己を見つめる  ー番外
2011年05月23日(月)
   * つれづれに、早朝に・・
 あの日々から二ヶ月近く過ぎ、少し気持ちが落ち着いてきた。 しかし、いくら平気な顔をしていても、やはり一大事である。
数日前に、自宅に一本の電話がかかってきた。 家内が買い物に行っていたので私が受けた。 「日テレの番キシャの記者ですが、
震災の影響で廃業されたホテルの件の取材の電話です!」で・・・、拒否反応の感情が先に立ち、「そういうことは、
一切お断りをしています!」と、直ぐに切ってしまった。 当然といえば当然。 番組では当方は取り上げてなかったが、
「震災倒産」がタイトルで、東北から離れた地域の北海道とかの遠方でも、倒産が出始めてきたという趣旨の内容であった。 
 ところで、東京も含め関東甲信越以北のホテルは壊滅状態。東京の4月のホテルの平均稼働率が80パー以上だったのが、
半分以下まで落下したとの新聞報道があった。 それを見越して見切ったが、読みどおりホテルは壊滅状態。
実際のところ、前倒しを決断できる状態だったから、見切りが出来た。 が、月末の資金繰りに困るようだったら前倒しは無理。
 当方は10年前の9・11ショックで、売り上げが4年かけて3割以上も激減した上、二年半前のリーマンショックで、更に半減。
三分の一まで落ちていた。 それでも、借入返済の減額や、人件費などの政府補助で何とか遣り繰りしていた矢先の、この震災。 
シュミレーションをすると、半年後には丸裸。 今なら銀行債権以外は清算が可能。 それならばと見切り廃業を決断した。 
結果からみて、「少し早めの見極めは打撃は半減、少し遅めは打撃が倍増?、その差は4倍」と、実感している。 
 兄と姉の倒産劇を身近で相談に乗っていたから、断末魔の苦しみを肌で感じてはいた。「金がないのは首がないのと同じくらい苦しい」
が生前の父の口癖であった。それは「日々の資金繰りに追われることだけは避けろ」という教え。 それだけは避けたいと思っていたが、
こういう結果で終わっても、資金枯渇の苦しみは殆ど経験しないで済んだのは救いである。 どっちにしても人生は甘いものではない。
生きてきた、そのままが、返りや矢として自分に戻ってくる。プラスにもマイナスにも。 「これが、生きるということだったのか。
それならば、もう一度」という二ーチェの言葉は、なかなか言えないが、人生全体から搾り出しても言わなければ・・
 9・11、9・15、3・11と歴史的経済震災と自然震災に続けて直撃をされると、運、不運とかいう以前の諦念の問題になる。
学生時代に合気道の経験があるが、そこで学んだ一番の教えは危機の際の「引き」である。 危機に出会うことを避けるのが真の極意だが。
 来年に入ったら、謹慎期間が(私にとって)終わるので、倒産劇の悲喜こもごものミニ講演を受け付けます。
ここに書けないことが、けっこうある。 個人的には、何時でも・・・臨場感があって、面白い材料がタップリ・・・ 味付けもして?
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3345, 閑話小題 ―つれづれに
 2010年05月23日(日)
  * トヨタのレクサス
 先日、車検に出していた車を引き取りに行ったところ、30分ほど待ってくれというので隣にあるトヨタの中古車センターで車を
見ていたところ営業マンがよってきた。そこで時間つぶしの事情を話したが、ついつい「高級車か、スポーツ車で面白そうな車があるか?」
といったところと、マークとレグサスを見せてくれた。私は先代の車をいれて22年間、ソアラに乗っている。現在の車は18年も
乗っているが今でもエンジンの衰えが全くない。 で、外からはレグサスを見てはいたが、運転席に初めて座ってみた。何か違うのである。 
偉くなったような選ばれし者といって気分になるのである。 自動車も18年もたてば車も格段に進化しているのである。
二年前の車で、600万が367万円。 個人として買えないことはないが、リーマンショック後の恐慌の世。
この暗い世相で無ければ、おそらく買っていただろうが。もっとも、最近は遠出は年一もないし、乗るのは市内のみ。
 良く稼ぎ、良く遊ぶためにも、景気回復が待ち遠しいが、当分は無理。  TVでも買え換えるか。
  * ペット大嫌いな人と、インコ
 去年の10月に、メキシコ・コガネインコを飼ってから7ヶ月になる。家内がペット大嫌いで、買った当初は居間の
ベランダに鳥篭があることもあり、一月ほど居間に用がある時以外は、立ち寄らなかったほどの拒否反応。
ところが現在は、休日など見ていると一日数回は、籠前に置いてある簡易イスに座ってインコと戯れている。
インコが人に時々必死に呼びかけてくるのを聞くうちに情が移ったようだ。あれだけ、嫌っていたのに。
小桜インコを5代(匹)飼っていた十数年は、全く感心を寄せなかったのに。犬と同じ位の感覚で人の気持ちを察知する。
そして、自分をかまってもらいたいのである。今まで鳥を多く飼ってきたが、自分の糞が好物というのは始めてである。
ウサギが、そうだと聞いたことがあったが・・・
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2970住まうこととさまようこと ー2
2009年05月23日(土)
  * まずは「住まうこと」とは
 住まいは、外壁で外と内の世界が分けられており、昼は外が光の世界になり、夜は逆に内側が光の世界に逆転する。
外部空間の環境と、家の内部空間、その両者の布置が、部屋の雰囲気、広がりを決定する。住居は、壁で囲まれ、
垣をめぐらしている。それは自然に対する防禦でもあり、人間に対する遮断でもある。また住まいは上下の構造になっている。
ここで、「空間の詩学」という本を紹介し、その中の「家とはまさに「垂直的な存在」であるとして、次のように述べている。
「垂直方向は地下室と屋根裏という両極によって確保されている。この両極性の特徴は、大変深くおよんでいるために、
非常に異なった二つの座標軸を開いてみせる。屋根に関しては屋根裏では、人は梁全体の硬い骨組みがむき出しになっているのを、
見ることができる。そこで大工の手堅い幾何学にあずかるのだ。 そこで、地下室はどうであろうか。きっと、そこは役立つものと
考えるだろう。便利さの合理性を幾つかあげるだろう。しかし、そこは家の暗い存在、地下の威力をわけもつ存在である。」 
殺人事件の映画では、刑事が犯人の家に踏みこんで調べると、そこには地下があり、殺人のための道具や、
死体があったりする。 逆にファンタジー映画の場合は、屋根裏部屋の箱の中や、見知らぬドアに、
光が満ちていて、別世界への入り口になっている。 屋根裏部屋は最も孤独で静寂な上昇の象徴でもある。
私が4?10歳まで育った商家では、戦後の数年後に建てられた4Fのビルであった。
1Fが店、2Fが事務所と倉庫、3Fが台所兼食堂、そして家族の住居、4Fが従業員の宿泊部屋、そして街全体を見渡せる屋上。
まさに垂直的な存在、そのものであった。幼児期の、そこの体験は、まさしく小説のような生々しい物語の連続であった。
住まい、商いが、混同した楽しいが、しかし戦いの連続の世界であった。 そして、ついに大事件が幾つか発生した。
それは、ここでは省くが。 住まいは、外と内があり、内の中にも垂直と、横断(機能別の空間)があった。
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2606, 脳内会話
 2008年05月23日(金)
昨日の新聞の広告欄にー「脳内会話」の法則ー成功も幸福も3つの言葉で手に入るー
という本が紹介されていた。さっそく、検索などで、その3つの言葉を調べてみたが、何処にもない。
そこで新潟駅の本屋に行ってみたが、やっとジュンク堂に、その本を見つけた。
しかし、色いろの場面で、幾つかの3つの単語があっただけで、それほど目新しい内容でなかった。
もちろん買わなかったが、それでは私自身の脳内会話の3つの単語を幾つか考えてみることにした。
擬人法で、
・まずは *絶対肯定君、(反対の *絶対否定君)
・次は *欲望君、 ( *真面目君)
・最後は *冷静君 ( *情念君)  としてみたが、どうだろうか。
数日以内に、この6人に問いかけをして、脳内会話をしてみる。
ところで、脳内会話は、読書や、日記、そして独り言などで、誰もがしていること。
この随想日記や、バードウォッチなども、独り言そのものである。
私は、亡くなった父親と対話することが度々である。
「ところでお父さん、貴方なら、この問題を如何考えるだろうか?」とか、
「兄のこの件に関して、如何判断する?」などなど・・・
他にも、大学ノートに「モーニング・ページ」を毎日のように書いている。
白紙に9つの桝を書いて、その真ん中にはハートの絵と、その外側に心臓の絵を書く。
そして思うままに、ペンの動くままに書き込むのである。
 ≪字数制限のためカット2012年5月23日≫
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2007年05月23日(水)
2241, ヤバいぜっ!デジタル日本 ー2
         o(゜∀゜)o オッ ヽ(゜∀゜)ノ ハー
二ヶ月前に家内がワンセグの携帯電話を買ったのをキッカケに、私も三年前の携帯電話を買え替えた。
前の携帯電話とは全くの別もので、ミニ・パソコン?ではないかと!
この本に、私が感じとったことや知りたいこと、その方向がわかりやすく書いてあった。
 ーまずは面白そうな部分からー
*インターネットの本質  ーP・29
 インターネットとは何か?「バラバラで始まった世界のあちこちのネット同士を乗り入れ可能にするために、
 同じ技術を使いましょうという約束事である」 すなわち技術的約束事である。同じ技術的約束事を持っている
同士であれば、アメリカでも日本でも、どこからでも、必要なサーバーやクライアントに入ることができる。
またどの場所でも、それが可能であるのが利点というなら、デスクトップよりノートパソコン、さらには片手で扱える
携帯電話が、より有利になる。すなわち、技術的約束事を持った携帯電話、もう少し言うと、携帯トリプル?が
これから世界を席巻するということになる。
  携帯トリプル?とは、いわゆる携帯電話のことだが、それは既に単に電話ではない。
・メールやブラージングもでき、  ・ラジオも聞け、TVも見れ
・カメラもついていて、      ・GPS付や財布にもなりはじめている、
これは、もはや電話ではない。だから、この進化し続ける複合機を、便宜的に携帯トリプル?と呼ぶことにする。
この携帯トリプル?はマイクロソフトインテルの牙城ではない。国産OSを開発したり、リナックスなどに注力するより、
携帯トリプル?をどうすればよいか国際的戦略を組むほうが日本として大切なことになる。
インターネットは所詮、携帯トリプル?のバックテクノロジーに過ぎないことが、だんだんわかってくるだろう。
人々の生活を激変させるのは、インターネットではなく、携帯トリプル?である。インターネットは所詮、技術なのだ。
携帯T.?は、ハードやコンテンツではなく、まだまだスタイルを作ることができる。
その使いこなしの先端に立っているのが、いまの段階で日本人である。
ーー
 *携帯トリプルーが、パソコンの未来 ーP・30
実際、携帯T・?はパソコンの問題を多く解決している。
まず、小さい。安い。通信が殆ど落ちない。画面が固まらない。
所有者の身元が比較的しっかりしている。課金が簡単など挙がればきりがない。
すなわち、携帯トリプル?は、パソコンの未来なわけだ。
見方を変えれば、パソコンで今やっていることは、数年後には携帯トリプル?でも出きるということである。
   ≪字数制限のためカット2012年5月23日≫
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2006年05月23日(火)
1876, 10年後に後悔する事とは?            おはよ?!(*^ワ^*)i 
あるHPを見ていたら、次の言葉に引きつけられた。
  ≪字数制限のためカット2010年5月23日≫
・・・・・・・
2005年05月23日(月)
 1511, 子供や若者が変!
 (以下、字数の関係上カット 12年05月23日)
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2004年05月23日(日)
1146, {上に立つ者の道}三十ヵ条
{上に立つ者の道}三十ヵ条がよい。
  (以下、字数の関係上カット 09年05月23日)
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2003年05月23日(金)
779, 茨城 のり子の詩
       (字数の関係でカット2,008年05月23日)
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 2002年05月23日(木)
415、「テーマ日記を書き始めて一年 ー2」
 ≪字数制限のためカット2012年5月23日≫

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