ー耕論「消費される物語」朝日新聞(4月22日)
    * 「消費される物語」 〜希薄化する挫折         夢はかなう」を引きずるロマン 竹田青嗣ーより
  物語といえば、劇場で演じられ、それぞれの役割がある。その物語が、右下がりで、大した意味のない役割としたら、
 生きている張り合いがない。そこには、夢も挫折も、ない節のない竹のようなもの。挫折には価値があるのである。
 今回の節目で、気づいたことが、これ! その挫折さえ持てないとしたら・・ 挫折感は、人を絶望に到達させる。
 その虚無を背景に、人生が新たな出発点になる。その以前に夢が持てないとなると、どうするのだろう。ーその辺りから
《  ◆ 希薄化する挫折
 一方、現代を生きる人々にとって、恋愛はもはや、それほど非日常的な体験ではないし、社会への高い理想を持つこともない。
欲望が「恋愛」や「理想」という形で結晶化しないため、我々の世代では当たり前だった「若い時に挫折し、自らの欲望を
かみ殺す」という重大な経験が起こりにくくなっている。 挫折が希薄化したことで、多くの人々が「いつかはみんなから
認められる」「夢はかなう」というナイーブなロマンチシズムを、年齢を重ねても引きずり続けているのではないか。
 あくまでも仮説ですが、佐村河内さんや小保方さんの成功物語が大きな支持を集めたのも、そうしたことが影響している
のかもしれません。「夢はかなうかも」と思い続けたい上に、うさんくさそうな話を疑うリアリズムを身につけていない。
だから物語をあっさりと信じてしまい、裏切られると本気で憤る。私自身はこの仮説を「真実だ」と結論づけるだけの証拠は
持っていませんが、貴重な示唆を与えてくれると思います。
 いずれにせよ、挫折がない、それゆえに自らの欲望と現実社会の折り合いをどうつけるかという筋道がはっきりしない
という問題は、現代に固有の危機だと思います。それぞれの時代で、常に本質的な危機がある。若い世代が中心になって
その筋道をつかみ、しっかりと表現することが、文化の大きな役割だと考えています。》
▼ 私たちの高度成長期の頃の「夢はかなう」は、当然のことであった。しかし、国家が衰退し始めた現在、大多数の者に
 とって夢の実現が考えられなくなった反面、挫折も希薄になっている。 小保方氏や、佐村河内氏の成功物語の崩壊も、
 また新たなる物語になる。私たちは、高度成長の経験と、バブルの破裂、右下がりの経験をしてきたが、団塊世代の子息
 以下の世代は、高度成長やバブルを知らない。だから、夢も挫折も、おのずから小さくなる。また、物語もミニになる。
 青年期から成年期の間には、夢と挫折が、大きは節目をつくる。 それが希薄化するのだから、気の毒といえば気の毒。
 私の事業の最後は、倒産という挫折?で終わったが、傷は少ない。準備期間15年を含めた45年の物語が、行蔵として、
 心の底に残っているため、諦めと同時に達成感がある。だから、毎日を、淡々と過ごすことが出来ている。
 実際のところ、「希望が持てないほど辛いことはない」のだろう。現代の若者は、その意味で、非常に辛いのである。
  で、仲間内の闘いの中で、相手を倒し、馬乗りになることで満足をするしかない、きめ細かい差別化の時代の到来!
・・・・・・
4425, 閑話小題 ー今時のプレハブ住宅は二ヶ月で建つ
2013年04月28日(日)
   * 今時のプレハブ住宅は二ヶ月で建つ
 5年程前に裏隣の古い貸家が壊され二軒の住宅が建った。そして三軒目のプレハブの着工が、この4月10日に始まった。
その知らせに、完成が二ヶ月後のの6月10日とあった。以前は、住宅は最短で半年から一年だったが、今時のプレハブは
工期が二ヶ月とは驚き。 まず基礎工事に二週間。 次に外壁工事で、周囲に足場をつくり、柱を建てていく。
この連休が終わるころまでに外壁まで完成し、内装に一ヶ月かけて完成のようだ。
 最初の二軒は貸家で、その借り手は両方とも既に居なくなり、一軒は空いたまま。表通りの方は小さな小物雑貨店だったが、
夜逃げ。その後、ファッション衣料店だが、私の感覚では、この入り込んだ立地で商売が成り立つのかさっぱり分からない。
で、三軒目の住宅の着工。 子供の頃近くに建前があると父に手を繋がれ見に行ったもの。それより、2〜3歳にかけて
実家の店兼住宅のビル建設の最中にあった。住んでいる家を近くにあった300m先の公会堂の前に曳いていき、空いた
ところにビルを建設をしたが、幼児ながら、毎日、父と建設現場に行ったときのトキメキが、今でも忘れられない。
その幼児体験が、ビル建設マニアになったのだろう。 新築は夢があってよい。
  * 目的に合わせて人集めをするのではなく
 もう十数年経つが、ドキッとした言葉があった。《 起業では、何かをしようと適材を集めるのでなくて、優秀な人材を
確保してから、何をするか、どうするかを考えるべし 》 まず有志が集まって、何の事業を始めるところから考えるのが
理想なのだろうが。 創業というと、一人の強力な個性が必要になる。 黒澤監督の「7人の侍」は、盗賊から村を守るため、
かき集められた浪人が、圧倒的多数の盗賊と闘う。これは目的に合わせた人集めの典型。このことは、教養についてもいえる。
何かのために知識を得るのではなく、知識のための知識のベースが、まず必要。それが教養である。大学も4年のうちの
二年間が一般教養、あとの二年間が専門課程になっている。人生を振り返ると、本当に必要な知識は、哲学、文学、倫理とか、
経済の基礎知識であった。教養課程は、その導入知識を広く教えてくれる。大都会と地方の差は、そういう人材が身近にいるか、
いないか。40数年の独学では限界があった。 「限界は誰でも到達するが、問題は、その先!」の意味を実感する日々。
・・・・・・
4051, シングルイン、31年間の総括 ー10
2012年04月28日(土)
   * つれづれに ー あれから一年
 去年の3月30日17時に会社を閉鎖して一年余りになる。激しく落ち込むと覚悟はしていたが、思いのほか平静の日々を過ごすせた。
会社経営から開放され現在でも宙に浮いたようで、長年、重荷を背負っていたことに改めて気づいた次第。 日が経つにつれて、
前倒しの決断をして本当に良かったと実感している。 しかし世界も日本も国債と株価も何とか持ち堪えている。 早ければ、
去年の11月、遅くとも今年末と思っていた 辛うじて4月末現在、何とか維持し現在に至っている。 世界の銀行と政府、企業の
金庫の中に六千兆円の十倍の6京円の不良債権が塩漬けになっている。 何時、それが表面化するか時間の問題でしかない。
 一番早く表面化しそうなのが欧州だが、日本も、中国も、何が起こっても不思議でない。日本は福島原発事故も解決したわけでなし、
かつ原子炉54基すべてが、止まったままである。 更に政変含みの状態。 年末の米国と韓国の大統領選挙まで持ちこたえるのか。
会社名義のホテルと駐車場抵当物件の処分が終わり、個人住宅も家内が買い取って全て終了した。ホテルも今までのホテル名で再稼働を
始めたという。有難いことである。 普段の生活が、もう少し手持ち無沙汰で暇を持て余すと思いきや、全く、それはない。 
 反面、倒産は倒産、犯罪者に近い目で蔑視される事実に驚いた。一般債権は、ほぼゼロ。社員への退職金の満額支払いは出来なかったが、
国の一部たて替えを含めると平均八割近く支払ったが、残債は残った。 一般債務分で補填すべきだったか? 30年間の担当だった
経理事務所の担当が言うには、「本当にキツイのはこれから」という。 その意味が、まだ分からないが、差別?蔑視からくる世間様の
何なのだろうが・・ 今のところ「シラミ!」の10回の呪文で、気持ちの処理が可能。 自分を含めシラミはシラミ。
 スポーツジムと、iPad、シネマ通いと、図書館の御蔭で何とか精神を保っている。 好きなことだけが出来るからである。
アウトサイダーに徹してきたのも、結果として良かった。小さな襞(地域)の中で、煩わしい因縁社会に組み込まれない生き方が、
ここにくると楽。 一歩、年金生活に入ると景気とか社会に対する温感が鈍くなる。 景気は最悪の筈だが、直接の悲鳴が聞こえない。
・・・・・・
3685、 自己を見つめる −9
2011年04月28日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 孤独については、これまで何度も書いてきた。結局、人間は独りでは生きられないのである。
しかし孤独は、世間とかいうのがある限り必要である。私の出身校の「長岡高校」の校是が「和同」の精神である。
和して同ぜず。 和せ、同じになるな!である。これは、それぞれが孤独を守る中から生じてくる。
ここで孤独について、ニーチェの体験を指摘している。 孤独の素晴らしさを「私の故郷」の良さに譬えているのは言いえて妙。
  ーまずは、その部分をー
【 ー孤独の大切さー ニーチェはかつて、孤独を「私の故郷」と呼んで、その至福にみちた優しさを讃えた。
孤独が終わるところ、そこに「市場」が始まり、世間の大人物や大俳優たちの騒々しさが耳を圧し、毒をもった蝿たちの
うなりが聞こえ、小人物たちの刺が私たちを突き刺す。そうした騒がしい市場を離れ、海辺に出て、高い品位をもって沈黙し、
岩陰にそびえ立つ大きな樹木を見よう、とニーチェは誘う。その樹木のように、静かに耳を澄ましながら、存在の声を聞こう、
ニーチェは促す。そのとき、ニーチェは、「孤独」の素晴らしさを、「私の故郷」と呼んで、その声が、なんと優しく、
また至福にみちて、自分に語りかけてくるか、ということを打ち明ける。ニーチェは、そのとき、あらゆる「存在」が、
「言葉」となって自分に開かれてくると言い、存在の内奥の秘密を宿した言葉の小箱が、一気に開かれ、ありとあらゆる生々流転が、
その秘儀を語り始めようととするかのようだ。 このニーチェの体験は、すべての人間の体験だと言ってよい。
言い換えれば、孤独とは、そこで私たちが本当の自分を取り戻し、改めて純粋に、自分自身と世界の人間のすべてを見直し、
存在の真相に触れ直す瞬間なのである。実際、私たちは、物事のほんとうの姿が何であるのかをよく熟慮しようとするときには、
世間や俗事の雑音を一旦は遮断しなければならないことをよく心得ている。たとえば、他の人々と大勢で、がやがやわいわい騒いで
いるときには、私たちは、ほんとうに自分らしく純粋に物事を見直し、考え直し、正しく事態を把握する余裕や冷静さを
持つことができない。 人間は、それほどまでに非力なのである。 】
▼ 世間や俗事の雑音を一旦、遮断するため孤独になるために、古典などの世界に浸ることが最も手短である。
 それか、一度自分の住んでいるところから外に出て、純粋に物事を考え直し、冷静さを保つことが必要である。
 宇宙の塵でしかない己を自覚すること、しかし、その塵の素晴らしい存在である一度だけの人生を自覚するためにも。 
 ・・・・・・・
2010年04月28日(水)
 『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著  −2 
* 理性は絶対を求め、「理念」を生みだす  
学生時代の問い「理念の意味は何か?そして、その理の意味は?」が、40年以上経った現在、その答えを見つけたのである。
何か微妙な感覚である。 理念が理性の「何故?何故?」を徹底した問いの極限というから、眼から鱗である。
  ーまずは、その部分を抜粋して考えてみる   P−24
≪ 理性的とは、「なぜ?ーなぜならば」という仕方で物事に筋道をつける能力である。それも、どこまでも道筋をつける能力である。 
というのは、「何故?ーなぜならば」の関係は原則的に一組でほ終わらないからである。一つの「なぜ?.」にいったん「なぜならば」
と答えても、その答えに対して再び「なぜ?」と問いうるし、そのまた「なぜ?」へとさかのぼりうる。 理由のそのまた理由……、
原因のそのまた原因……、という具合にである。そのようにして、「どこまでも」ということは、「徹底的に」という意味になる。 
そして「徹底的に」ということは、究極に迫るということ、すなわち、最後には「極限」にいたるということである。 
それは、理性が推理の能力であるということと表裏一体である。 ある物事(結果)の理由や原因には、そのまた理由や原因がある。 
すなわち、いったん「なぜ? なぜならば」の推理が開始されるや、その鎖は原理的にどこまでもさかのぼる。ということは、
理性は原因のそのまた原因、そのまた原因のさらにそのまた原因、等々の果てに、必然的に究極原因を求めざるをえなくなる。
要するに、理性は極限に迫らざるをえないのである。 いわゆる「理を通す」とは、そういうことである。・・・・
・・(中略) 冷めた言い方をすれば、理念は理性固有の本性や関心から理性自身によって生みだされ、現実社会に合理的な脈絡を
つけるために、現実社会のかなたに「投影」された像に他ならない。 それは現実社会を合理的に読みとくためには、
はなはだ有効であり、それどころか不可欠でさえある。 ところが、ひとたび投影され現実世界と融合した像は、いつしか
現実世界の一部はおろか、その全体として実在するかのように、うっかりと思われてしまう。 ちょうど、熱心な観客が映画の
スクリーンの中に、あたかも実在の世界があるように思い込んで、感動したり憤慨したりするように。 このように、
理念は「功」と「罪」の両面性を持っている。 この両刀論法、すなわちパラドックスの原因とオーバーラップする。
この理性の両面性事態がまさしくパラドックスである。 このパラドックスこそ、アンチノミー(二律背反)に他ならない。 
その理性が意志をコントロールし、決定をする。 ≫
 ー以上だが、我が社の理念とか、私の理念とかで、使うが、まずは理性から考えていかなければならない。
 そうすると、やはり何故、自分は目指すのか、そして、何を目指すのか、その根拠(理性=理由)を明確にし、
それを突き詰めたのが会社理念となっていく。 それが個人としての私の行動指標なら、その根拠の明示が必要になる。
 ・・・・・・・・・
2945,タレント知事をどうみるか? ー1
 2009年04月28日(火)
最近、一時なりを潜めていたタレント知事がマスコミで注目を浴びている。青島幸男横山ノックなどで選挙民は、
その正体を見てあきれ果てたはずだったが、再び田中康夫、東国原、大阪の橋元知事、直近では森田健作が千葉県知事になった。
田中にしろ、橋元、東国原知事も、現在見るところ、最大限にタレントの経験を生かしているようだ。産経新聞のオピニオンという
コーナーで、その功罪を浅野志郎と佐高信が論じていた。浅野は、タレント議員を肯定する立場で、佐高は否定する立場である。 
まず浅野は「知名度で圧倒的有利なのは言うまでもない。外に対する発言力に長けている。マスコミに面白がられて目立つことも悪くない。
また政治的未経験について、「ほとんどの知事は政治未経験者だ。これは決してマイナスでなく、むしろメリット。僕は国家公務員を
23年7カ月間務めたので、知事になったとき行政についてはお手のものだったが、大きな改革や新しい発想をする時はマイナスになる。
センス・オブ・ワンダー』、つまり驚きを感じる心が必要だ。東国原知事橋下知事は県(府)庁に入って驚きの連続だったと思う。
 (字数制限のためカット2011年4月28日)
・・・・・・・・
2581, 連鎖する大暴落 -3
2008年04月28日(月)         才ノヽ∋?_φ(゚▽゚*)♪
この本の「まえがき」に「アメリカがいよいよ暴落する。・・・少しだけアメリカから離れましょう。
自分の財産を守りたかったら、ここで『損切り』を敢行すべきである。
 (字数制限のためカット2011年4月28日)
・・・・・・・・
2007年04月28日(土)
2216, 中村うさぎ               才八∋ウ_〆(∀`●)
  「女殺し借金地獄」 ー読書日記
書き写しながら、何でこんな文章を自分が?時間を潰していて、果たしてよいのだろうか?
と自責の念にかられる内容である。男には、こういう文章はかけない?ものである。
アル中の、買い物依存症の、バカ女が、それを売りに捨身で文章にして、生計をたてているだけの本でしかない。
それもブランド買いの世にも哀れな気の毒な底の浅さを売りに!その哀れな女のサガが共感を得るのだろうが・・。
(字数制限のためカット2012年4月28日)
・・・・・・・・
2006年04月28日(金)
1851, ローマから日本が見えるー7     才ノヽ∋?_φ(≧ω≦*)♪    ー読書日記
 千年以上にわたって広域の多民族を支配し続けたシステムの根幹とは驚くほどの合理的、かつシンプルで、
それぞれの民族にとってもプラスでなければならない。そこは突き詰めた組織の経験則の宝庫のはず。
その秘密が、『組織のローマ』の中で解明されている。時間をかけて写すだけの価値は充分にあった。
過去より現在の方が果たして進歩しているのだろうか? 宗教は人間にとってプラスだったのだろうか?
それは神のみぞ知る?である。著者はローマ帝国史を読んでいる時には、自分が皇帝になったつもりで
読むと良いといっているが・・・ しばし、皇帝になるのも良いものだ!
 ーーー
 第4章 『組織のローマ』、ここにあり
前章で述べた「リキニウス法」で、100年にわたる貴族と平民の対立は解消へと向かう。
この決断が、驚くべき決断であり、どの社会でも起こりえる階級対立は『取りこみ方式』で解消しようと
したのはローマのみであった。その選択が結果として正しかったのは、その後のローマ史が明らかにしています。
僅か100年前にケルト人によって、あわや滅ぼされそうになった民族がイタリアの覇者になれたのは、
貴族と平民の融和政策であった。平民の中から優れた人材を集めて、その人材を元老院を中心とした
統治体制の中で活用していくやり方を、今日の表現に変えると、「組織力」という一語に集約される。
 ー二つのネットワークー
歴史家リヴィウスをして『アレクサンダーをも退けたに違いない』といわせたローマの組織力は何も、共和制度だけに
負っていたわけではない。リキニウス法以後のローマには、同時代の他の国の持ってない二つの大きな武器がありました。
・一つは、モノや人を動かす上でのネットワークとしての道路網。
・もう一つは、ローマを中心とする、国家間のネットワークとしての「ローマ連合」。
この二つのネットワークの力で、ローマはイタリア半島の覇者になり、その後には地中海の覇者になるのです。
実はこの二つが同じコインの裏と表になるのです。別の言い方をするならば、
・道路網がハードウェアなら、
・「ローマ連合」がソフトウェアであった。
歴史家プルタルコスは、ローマが他を圧して大きくなった理由として次の一言に要約しました。
「敗者さえも自分達に同化させる彼らのやり方ぐらい、ローマを強大化に寄与したことはない」
この美徳はロムルスの時代にすでにサビーニ族との同化において現われていたが、それが王政から共和制に
移行した後も変わることがなかった。
  ー次回は、その「ローマ連合」の内容である」   ーつづく   o(▽^*)ノ~~=バイ?バイ♪  皇帝諸君!
・・・・・・・・ 
2005年04月28日(木)
 1486, 男と女
男と女を語らせるなら、「オカマ」が面白い。その話が面白くて一時オカマバーにかよったもの。
あからさまな女の本音を聞かせてもらえたり、突如、男に変身?する身の変わり方が絶妙である。
 (字数制限のためカット2013年4月28日)
 ーその一部を抜粋してみるー

・・・・・・・・・・
2004年04月28日(水)
 1121, 平均寿命100歳!
新聞を読んでいたら、「今世紀後半に平均寿命が100歳になるとなるかもしれない」とあった。
 ーその概要を書いてみるとー
 (字数制限のためカット2010年4月28日)
・・・・・・・
2003年04月28日(月)
 754, サエゼリアで思うこと
 サエゼリアのことは、よく事例として書くが更に書く。先日の新聞でスパゲッテーを何割か値下げを発表した。
 (字数制限のためカット2010年4月28日)
・・・・・・・
2002年04月28日(日)
 390, 因縁と果報
因は直接原因、縁は間接原因。 果は直接結果、報は間接結果。 嫁を求めている男が、ある知人の家に遊びにいて、
妹を見初め結婚をした。因が嫁を求めていたである。縁がタマタマ遊びに行ったーこれが間接原因である。
(字数制限のためカット2013年4月28日)