* 倒産よもやま話(三年後の実感)
 倒産など、滅多にできない経験である。姉夫婦、兄夫婦の倒産劇を身近にみて、相談にのっていたのが予備知識に
なっていた。お陰で、右往左往することなく比較的冷静に対処できた。「人助けは、結果として自分のため」になる。
幼馴染が10年前に訪ねてきて、倒産の生々しい話をしていたが、姉・兄と共通する点が、弁護士などの代理人をたてること。 
そのための資金を必ず確保することを強調していた。それもあって、迷わず弁護士に依頼した。30年来の経理事務所の
合同センター内の弁護士に依頼することになった。兄の倒産も手がけていたので、内情を知っていたこともあり、順調に
手順が進んでいった。 無我夢中の渦中、何もかもが新鮮な体験で、ドラマの主人公のような気分。 過酷というより、
「痛・面白い日々」という感覚で、惨めとか、恥ずかしいなど、思う余裕などなし。動物的本能が自らをつき動かしていた。
 2011年3月30日午後5時に、担当弁護士の主導のもと、弁護士二人と、女子事務員と、私たち三人の役員が起立をして
礼をした後、「これで会社は消滅しました!」と宣言。その後、経理総務は全てが弁護事務所に引き継がれた。 
その時から、二人の役員は弁護事務所の引継ぎと、資産処分の補佐になる。 と同時に、私は倒産会社の前社長。
翌日の午前、弁護士と二人で、地元銀行に報告を兼ねた御詫びまわり。午後からは、従業員への事情説明と解雇の宣言。
その後は、取引先からの問い合わせは一切なく、私個人の身の回りの整理だけ。そのため、40年近い事業人生の緊張感が
切れて、浮いたような軽い気持ちになる。数日間は、町内と、取引先しか情報は流れてないため、普段通りだったが、
一週間経ってから、マスコミが騒ぎ出す。どのチャネルを回しても、倒産騒ぎ。それも、震災絡みもあってか、
日テレ「真相報道バンキシャ!」(毎週日曜18:00〜放送)から自宅に取材依頼の電話。尾ひれ羽ひれが流される位は
解っていたので、迷わず断る。東北震災絡みで、数軒のホテルなどが廃業・倒産をしていたが、規模から見て、当方が
最大規模の為、あわや全国版ニュースになるところ。 振返ると、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、「痛・面白い」
など、とんでもない事態ではあった。時間が経つにつれ、記憶の書き換えをするしかない典型的事例か! ーつづく
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4417, 閑話小題 ー昨夜は高校の同級会
2013年04月20日(土)
  * 審判のミスジャッジ
 一昨日の巨人対阪神戦で、一塁審判が明らかにセーフのジャッジをアウトにした。残酷なのは、走者の足が一歩先に塁に
着いているのをビデオで何度も流していること。後で注意勧告されるのだろうが。目から火が出る思いだろう。恐らく、
ビデオで流されているのだろうと気が気でないはず。甲子園の高校野球で審判のミスジャッジを見かけるが、これも純真な
子供の心を傷つけることになる。審判もミスをするが、致し方がないと割り切るしかない。ビデオの方が人間の目より明らかに
優れている。その結果の現象だが・・・ 試合が流れているため、ミスとしても後に戻せない矛盾がある。
これと同じことが、政治にもある。誰が見てもミスジャッジの政治判断としても、変えることが出来ない。私利私欲や党略で、
正当な判断が出来なくなり方向を誤ってしまう。
  * 昨夜は高校の同級会。
 昨夜は高校の同級会。幹事は気をゆるして酒が飲めない役回り。 このところ二回に一度は、私と幹事相棒Mの役目。
別に好きでやっているわけでないが、大学の寮とか、会社経営をしていた頃の宴会を含めると、間接を含めて二百回以上は
仕切りをしてきた。いや、もっと多いか。まずは盛り上げに役回りに徹すること。酒を飲むのも一期一会。人生を振り返ると、
いつも、「宴会とともにあった」。 気の合う相手であれば二人でも宴会。 ネットの「日本大百科全書」によると、
≪ 酒や歌舞などを伴う高揚した心の触れ合う機会。宴(うたげ)とも饗宴ともいう。また宴会の性格によって祭宴、祝宴、
 招宴、酒宴、狂宴などとよばれる。一般に宴会は季節ごとの折り目や人生の節目に行われ、忘年会や新年会が年末、年始と
 いう折り目に行われる宴会とすれば、子供の誕生祝いや結婚の披露宴は、人生の節目に行われる宴会ということになろう。≫ 
とあった。以前は、各家ごとに料理をつくって御客を招待したり、料理屋で宴会を開いたが、今では居酒屋の大部屋で開く
ケースが多いという。 小・中学校、高校、大学の同級・同期会だけは、最優先に出席にしてきた。同級会は、魂の世界。
心の故郷が魂とすると、年々「遠き日は 年とるごとに 近くなり」というのが実感できる。結局、家に帰ったのが一時過ぎ。
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4043, 一時停止 ー3
2012年04月20日(金)         
  * 出会い ーフェルメール 1967年     「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 私がほんとうにフェルメールを見たのは、その本物を見たときである。本物を見たから、フェルメールが見たくなったのだし、
 旅に出ずに複製しか見る機会がなかったら、もしかすると一生私はフェルメールに気づかなかったかもしれない。 現代の進歩した
印刷技術は、複製と本物との差をだんだんに小さなものにしてゆきつつある。複製で見ても本物で見てもそんなに変わりはないという
絵画もあるだろう。複製を見ることが、本物を見ることにつながる絵画もあるだろう。だがフェルメールはちがう。複製と本物との間に、
越えがたい断絶がある。 あたかもヴィニールの花と、野の自然の花とのように。 あるいはこう言いかえてもいいかもしれない。
本物を見ても、複製を見たのと同じ感動しかなければ、私はその絵にほんとうに感動してはいないのだと。そういう形で感動した絵は
実は私にはまことに少ないのだが。  はじめて見たフェルメールに感じた気持ちを、そのときの状態のままにことばにすりとしたら、
それは「ああきれいだなあ、ほんとになんてきれいなんだろう」ということにしかならない。 美は人を沈黙させるという。その通りである。
その沈黙の中に、無数のことばにならぬことばがひしめいているのではないかと言う人もあるが、少なくとも私の場合、そう言えば嘘になる。
沈黙はもっと深く、ことばにならぬことばなどといった不純なものはない。しんとした純正の沈黙なのである。 
ことばはずっとあとになってから、やっと重い腰をあげる。その時でもことばは謙虚だ、ただいちばんふさわしいオマージュを捧げ、
絵の美しさにほんの少しでもあやかりたいと思うだけなのだ。≫
 ▼ 本物の絵画や美術品を数多く見てきた。TPOもあるが、その前で立ちすくし、身動きが出来なくなるがある。
  ダビンチのモナリザ、サンピエトロのミケランジェロピエタの像、ゴッホのヒマワリなどを目の当たりにした時の感動。
  対象が浮き出てくるようなエネルギーが満ち溢れていた。 特にゴッホのヒマワリは、周囲に誰もいなかったこともあり、
  10分間ほど、釘つけになってしまった。出会いである。  そういえば、近じかフェルメール展が日本で開催される。
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3677, 自己を見つめる −4
2011年04月20日(水)
   「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 節目どきは、境遇の節目でもある。特に乗り越えることが不可能と思える壁に直面した状況を「限界状況」と、ヤスパーが
指摘している。 その限界状況に「人生の不条理」に突き当たる。その時に、それまで隠されていた真実が現れ出てくる。
節目を打つとは、人生の不条理を受け入れ目を背けないことである。正中心一点無になり、変化を受け入れること。
  ー 第三章 境遇 ーから、抜粋
【 現在、変えることのできない定めを帯びた宿命的な境遇のなかへと投げ出され、置き入れられて、人生の途上にある。 
 その私たちの無に貫通された現世における存在のうちには、宿命的な境遇のもつ変えることのできない定めが刻印されている。
 ヤスパースが指摘するように、私たちの生存のうちには、どうしようもない「限界状況」が巣くっていると言える。 
 限界状況とは、それに突き当たっては、私たちは挫折し、崩れ去る崩れ去るような、乗り越ることの不可能な壁に直面した状況を言う。
 そうした限界状況に面座して、私たちは途方に暮れた困惑のなかで、解決しようのない自己の人生の不条理の根源的事実に突き当たる。 
 しかし、そのときにこそ、私たち自身の、ほんとうの「実存」が目覚めてくる。
 実存とは、私たち各自の生存の、赤裸々な真実、その拒否できない現実のあり方のことである。
 自己の実存を自覚し、それにもとついて生きるよりほかに、この世を生きる生の根拠を、私たちはもたない。】
【 ハイデッガーが述べた通り、私たちは、それぞれ何らかの世の中に投げ出されと「被投的」存在である。
 その「現事実性」を引き受けて生きていかなければならない存在である。その存在としての自己を生きていかなければならない
 辛い気分を取り払い、重みや憂いを取り払い、それらを忘却させようという気晴らしや、慰めを求めて、無邪気な明るい朗かさ愉悦を、
 好んで受け入れようとする傾向にある。しかし、そうした気晴らしが、瞬時の儚いものということを骨身で知っている。
 その人生の底を見つめ、底知れぬ深遠を予感し戦慄をする。その深遠が、「限界状況」の時に直面する実在である。】
 ▼ 自己を見つめるとは、節目の境遇の人生の底を見つめ直すことと、言われると、挫折体験を振り返ることになる。 その意味で、
   挫折体験の中には多くの教えがある。 が、時間がたつにつれ、それを忘れてしまうのが人間の性である。そう人間、皆、馬鹿!
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3312, ゴールドマンを訴追
 2010年04月20日(火)
 1929年から始った世界恐慌では、その直接の仕掛け人達が多くが逮捕された。
しかし、これまで逮捕までされたという話は聞いてない。 何か不思議な感がしていたが、
やっとSEC(証券取引委員会)が訴追に動き出した。 アメリカは金融マフィアが仕切る国でも、歴史に残る
犯罪を、このまま見逃すことは歴史が許さない。以下は、毎日新聞の数日前の社説だが、毒入り債権を欠陥車に例えるとは、
トヨタの喚問もあったこともあり比較するに分かりやすい。例え話は本質をより分かりやすく整理してくれる。
  〜まずは、その部分から〜
  = 毎日新聞社説: 「ゴールドマン訴追 金融危機解明の弾みに」 =
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
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2937,レーシック専門眼科医院
 2009年04月20日(月)
姉三人が私と同じく強度の近視。 その姉三人とも「矯正手術をうけて良かった」という。知人の何人かが経験者、聞いてみると
白内障の手術時にレンズを入れたが、出来たらやらない方がよい」と真剣にいう。 迷いに迷っていたが、去年の半ばに、
春先になったら決断しようかと決めていた。そして春は過ぎようとしているので、 検索に「新潟 レーシック」といれたところ、
何と自宅から数分のところの所在地に「長岡眼科医院」が、あった。三年前ぐらいに出来た(眼科らしくない)ミニ結婚式場みたいな
医院があったが、まさか、そこが気にしていたレーシック専門眼科とは思ってもみなかった。本気にならないと見えてこないものである。
(字数制限のためカット 2012年4月20日)
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2573, 「好き」という言葉の重み
 2008年04月20日(日)
「好きと嫌いじゃどれほど違う、命ただやるほど違う」という川柳があるが、これほど人間の本質をあらわしている言葉はない。
私も好みの激しい人間だが、この感情は、何に由来するのだろうか。「あの男は好かん」とか、「あの女性は私のタイプだ」とか、
思うにつけて、その意味を考えたことがない? 育ってきた環境が似ているとか、教養レベルが同程度とか、趣味が一緒だとか。
反対に「俺は堀井が嫌いだ」と何人から言われたことか。でも、相手が相手だけに心の底では?私の経験上からみて「嫌い」いう言葉は
禁句である。 いわれた方が、それで一生恨まれるからである。犬でも猫でも、相性があるから、これだけは如何にもならないことと
割り切るしかないのか。私の好き、嫌いの基準は娑婆経験の中からハッキリ自覚している。女性は長女、血液型A型、教養と品性があり、
顔はノッペリ。 優しい雰囲気があり、明るい人である。大体、好きなタイプは概ね、これを満たしていた人。興味のないタイプは、
冷たいタイプで、神経質な近寄りがたい正統派美人と個性的な自意識の強いタイプ。 殆どいないが!コンプレックスの強い人。 
犬でいうと、宅上犬タイプが好きで、シェパード、コリーのような人は苦手。同性は、品性と教養のない人と、社会的な肩書きだけで
人を判断する人とか、チャラチャラした人は苦手。商工会議所、ロータリー、ライオンズとかの人間関係に没頭している人種。
それと女性関係に派手な人。軽薄な二代目。 もう一度いうと、品性のない人!。 それをいったら、地方では誰も相手に出来ない?
とはいうが、それはそれでよい。そういう御前さん、どうなの?といわれるが、他人に厳しく自分には甘い? 
 ところで好き嫌いということは、如何いうことか?相性ということ? それとも持って産まれた先天的な本質。
これだけは、どうにもならないこと?好きなことを選んで、それを一生を通して追求することが、幸せと不幸の分かれ目になる。
好き嫌いが、先天的なものとすれば、この道理は正しいことになる。 神=自然が与えた本質的素養だからである。
シカゴ大学の心理学者ミハイリ・チクセントミハイによると、人間には“フローの状態" と呼んでいる精神状態がある。
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
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2007年04月20日(金)
2208, 下流志向                  おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ       
 一週間前の毎日新聞・文化欄「本の現場」のコーナーに、「下流思考」著者の内田樹氏へのインタビューをまとめた、
{ 若者はなぜ学ばず、働かないのか<「下流志向」内田樹著 講談社> }という記事があった。
本屋では平積みであったが、数回立ち読みをしていた。面白そうだが、買うほどでもない本と判断していた。
この記事と書評で八割は把握できたようだ。言わんとしているエキスを著者から引き出している。
 ー毎日新聞のHPに記事があったので、コピーして置きますー
  ーーー
◇固まった頭をぐちゃぐちゃに
 フランス現代思想の研究者にして武道家が「学力低下」「ニート」という若者をめぐる二大問題を論じた。
約2カ月で10万部と、この手の本としてはかなりの売れ行きだ。丘の上に南欧修道院を模した校舎が建ち並ぶ、
神戸女学院大(兵庫県西宮市)で話を聞いた。「ここより美しいキャンパスは見たことがありません」という。
  (字数制限のため中略 2010年4月20日)
 ■人物略歴  ◇うちだ・たつる 神戸女学院大教授(フランス現代思想)。
   「『おじさん』的思考」「先生はえらい」ほか。 毎日新聞 2007年4月13日 
▼ なるほど、と納得する。学生時代は寮生活、ゼミ、クラブ、世界一周旅行と当時としては恵まれた経験を多くした。
その中で一度、「固まった頭がぐちゃぐちゃ」になった経験があるから、その重要性が深く理解できる。馬鹿の壁を一つずつ
叩き壊す経験をしたが、振り返ってみてどこまで壊してきたのか?疑問である。何も壊していなかったのか、いや壊した!の、
自問自答である。その時に生の言葉を発していたかどうか分らないが、傷口から出る血のような言葉であったことは間違いない。
  ー 著者の次の指摘も、ずばり急所をついている ー
    (字数制限のためカット 2012年4月20日)
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2006年04月20日(木)
1843, 桜の話            才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
近くの福島江の桜は昨日・今日が満開である。「花」と言えば桜を意味するくらい桜は日本人にとって特別な花である。
今年の花便りだと桜の当たり年のようだ。私のHPに投稿してくれる井上さんのHPも、桜の花が多い。
長岡にも幾つかの桜の名所がある。自宅から数分のところにある、福島江の桜と悠久山の桜だ。毎年、開花を楽しみにしている。
5年に一度は大当たりの年になるが、今年はその年か如何か?桜をぬきにして日本人の自然観や人生観を語ることは出来ない。
文学・能・歌舞伎・絵画のどれをとっても、桜は大事な役割を果たしている。日本人の考え方や生き方を表しているとも言える。
春になると「桜前線」が天気予報のように(今どこが満開かと)放送される位だ。十数年前の話になるが、私の近くに住んでいた
従兄弟が、桜の散り際を待っていたように「自死」をした。その納棺の儀式の時、桜吹雪が部屋の中に吹き込んできた。
ゾクッとするような不思議な体験であった。5月3日に、その法事に行くことになっている。(*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?
  ー幾つかの花に関する和歌・俳句をHPからコピーしてみた。
世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし    在原業平
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なり      細川ガラシャ
人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂いける         紀 貫之
こえぬ間は 吉野の山のさくら花 人ずてにのみ ききわたるかな      紀 貫之
みよしのの 山辺に咲けるさくら花 雪かとのぞみあやまたれける      紀 友則
色見えでうつろうものは世の中の人の心の花ぞありける           古今和歌集
願はくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ           西行
(以下、字数の関係でカット2009年4月20日
 ▼ 桜は死の匂いがする。 一瞬にして咲いて散るからである。それが、また良い! 今朝は強風が吹いている。
  こういう日の強風は、何か腹立たしくなるものだ。     ε(´',_c')зβyё☆βyё
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2005年04月20日(水)
1478, 居酒屋放浪記
土曜日は家内と至近にあるサエゼリアか、歩いて十数分の駅周辺の全国チェーンの居酒屋に行っているが、もうソロソロ飽きた。
そこで、昔からの居酒屋をあらためて見直すことにして三週続けて行った。今更の感もあるが、年齢もあるのだろう。
家内はもう行きたくないというが。最近、BS・6で「吉田類の居酒屋放浪記」を放映している。平日の19時半に放送しているが、
毎日これを見るのを楽しみになっている。全国のレトロな居酒屋を訪ね歩く内容だが、吉田類と現場で酒を飲んでいるような
カメラ目線がよい。先々には、何十年も積み上がられた味と雰囲気が漂っている。
店と料理と親父・女将とお客の醸しだす暖かさがよい。それと、その地域の日本酒の紹介も時々ある。
以前に「居酒屋の親父」のミニ小説?を書いたことがあったが。男の楽しみは酒と女と博打であるというが、
軸は一つという。間違いなく私は酒である。そういえば32年前に初めての創業で貸しビルつくった時に、その中に
「養老の滝」を立ち上げて経営したことがある。二年間だったが、忘れられない経験だった。酔っ払いの恐ろしさ、
嫌らしさ、そして面白さをジックリ味わった。居酒屋は客としてはよいが、自分がやるものではない。
カウンターの外と内側は全く違う世界である。人間、酒が入ると別人になる。歪みと誠実さなどの人間性がそのまま露呈する。
割り切ってみれば、これほど面白いものはない。人生の縮図が、そこにある。 書き出したら止まらない。
▼ これからは私の文に戻るが、東京の中野の居酒屋もよかった。創業以来47年の女将と、それ以来のお客との会話が
 何とも味があった。苦しい時の居酒屋の酒の味の何とも心の気休めはなかった。神戸のガード下の中華料理店の油に
まみれたモツの炒め物とか、おでん屋(関西では、たしか関東煮といった)のスジ肉の美味しさ。誰もが、甘じょっぱい
酒のつまみの思いでは数知れずあるだろう。今度、養老の滝の立ち上げの時の話をジックリ書いてみよう。
あまり思い出したくないが、書きたくなったということは、その時のことを受けいれる余裕が出てきたのだろう。
その時の相棒もこのHPを見ているとメールが入った。
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2004年04月20日(火)
 1113, ヘビー級の醍醐味 ー2
 ー家内性手工業ー
昨夜、世界ヘビー級ボクシングを見ていたら、アナウンサーが面白い言葉をいった。IBFの世界チャンピオンのセコンドが
何とトレーナーが父親で、カットマンが母親であった。 
 (字数制限のためカット 2013年4月20日)
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 2003年04月20日(日)
746, 笑われている自分を笑っている面
 数年前の話である。 
高校の同級生が、ある会ー精神修養団体支部ー主催で講演会をやるから、聴講して欲しいと頼まれた。
 (字数制限のためカット 2013年4月20日)
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2002年04月20日(土)
 382,能力とは
人間の能力は無限だ。問題は発揮できる環境をどうやって作り上げていくかだ。それを伸ばす為に、
人生設計ーグランドデザインが必要である。それを前提にして目標の設定を立て、その達成のプロセスと
その結果が能力。
(字数制限のためカット 2013年4月20日)