「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
    * 「懶」 ー心の余白
「『ものうい生活』の中に自らなる別天地に休んじ、楽しむことを気取ることが懶惰」というらしいが、これが、この年齢で、
少しは分かってきたようである。事業を立上げ、軌道に乗せて暫くの間、何もすることが無い日々の別天地を知っればこそ、
この懶惰の味わいが分る。振返ると、あの退屈の懶惰こそ、お宝だった。その合間の、読書や、秘境ツワーなども、それだ。
《 谷崎潤一郎は、1930年に『懶惰の説』という随筆を書いている。西洋の人々がいかに活動的であり、精力的であるかを
例示し、これに対し東洋の人々がいかにものぐさで、面倒くさかり屋であるかを対照的に書いている。懶惰の代表者は誰か。
物語のなかでの人物ではあるが、物臭太郎三年寝太郎)の名をあげている。
 さて、瀬惰とはなんだ?.
「『ものうい生活』の中に自らなる別天地のあることを知り、それに安んじ、それをなつかしみ、楽しみ、或る場合には
そう云う境地を見えや気取りにするかの如き傾向の存すること」 瀬惰心という言葉があるとすれば、この谷崎の定義は
その一面を言い当てている。むろん、西洋人にも瀬惰心の人がいるし、東洋人にも活動的な人がいるのはいうまでもないが、
あるていど類型化しないと、論旨がはっきりしない。 瀬惰をよしとする人は、年中あくせくしてきりきり働く人を冷笑し、
ときには俗物扱いにする。朝から晩までせかせかと動き回る人を嗤う傾向がある。
 一方、瀬惰心に批判的な西洋人は、浮世を捨てて山の中に隠遁し、独り瞑想にふけっているような人物を聖人とは思わない。
高潔の士とも思わず「一種のエゴイスト」にすぎないと切り捨てる。浮世を離れて「何もしないでいる」などということは
西洋人にとって「悪徳中の悪徳」なのだ、と谷崎は書く。
 もっとも、谷崎自身は、瀬惰心というものに、一定の共感をもっていたことはたしかだ。
「とにかくこの『物臭さ』、『億劫がり』は東洋人の特色であって、私は仮りにこれを『東洋的瀬惰』と名づける、
 というとき、自分にもまた、その東洋的瀬惰なるものの血が流れているという自覚があっただろう。 》
▼ 事業を目指し、準備15年間、そして立上げ、最後は、津波で流され終わった私の事業人生。 それを全面否定され、
 あざ笑われているような内容である。それも、あと一年で古希になろうとした現在に気づいた底浅い己には、この結果が
 似つかわしいと独り納得させられる。 心の余白など埋めぬがよい! いや、埋めようがない!
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4408, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −6
2013年04月11日(木)
     第五時限 「うふふ力を磨こう」  ー「隠居大学」天野祐吉、お相手 坪内捻典
   * 俳句はゲーム感覚で楽しむ
 母が50歳の頃、それまでの苦労のため重症のウツ病になり、数年かけ独り立ち上がったが、子供なりに壮絶さを垣間見た。
88歳で老衰で亡くなったが、医師の要請による解剖で心臓の四分の一が壊死していた。第二の人生の40年近くは、趣味の
世界に徹底していた。舞踊、謡い、茶道、写真、短歌、どれもこれも負けず嫌いで、ある領域まで達していた。晩年、母親に、
「一番、極めたのは何?」と訊ねたところ、短歌という。 老年の趣味といえば、短歌と俳句と川柳がある。
  ー 次の箇所は、短歌と俳句の違いを端的に示している ー
≪ 坪内:俳句的人間と短歌的人間って呼んでいるんですよ。ぼくの中では、つぶあんは俳句的人間、こしあんは短歌的人間。
 天野 どういうところが、俳句的、短歌的なんでしょう。
坪内 そうですね、まず、俳句は、自分の言いたいことを言わないんです。これは、つくるときにも意識しておくといいと
 思うんだけど、いちばん言いたいことを言わないのが、俳句がうまくなるコツですよ。よく、「わたしのこの俳句は
 こんなところがこんなにいいんです」と、自分で一生懸命説明する人がいるんだけど、そういう人はあまりうまくならない。
 自分の俳句についてしゃべらなくて、人の意見を聞いている人が、うまくなるっていうか、俳句向きだと思います。
天野 主体性のない人がいいんですね。
坪内 そうです。無責任で主体性がないんでいいんです、できるだけ(笑)。
天野 自分ってものを、強調したがるような人は……。
坪内 それはもう、あきらかに短歌の人です。短歌は最後の七七で、自分の言いたいことが言えるんですよ。
 俳句には、その七七を言わない醍醐味というのがあります。
天野 そうか。これは短歌じゃなくて狂歌ですが、「世の中に金と女は仇なり早く仇にめぐり会いたい」というのが
 ありますよね、これも、言いたいことは最後の七七ですもんね。
坪内 俳句だったら、最後の七七はいりません。    ・・・(略)
天野 言いたいこと言わないなんて、欲求不満になりませんか。
坪内 そう思うのが、こしあんの人の特色なんじゃないですか(笑)。俳句的つぶあんは、言いたいことを言う欲求より、
 自分の言葉を他人がどう読むか、っていうほうに欲求や興味がいくわけです。
天野 じゃあ俳句は、こう見て欲しい、感じて欲しい、こう解釈して欲しいっていうのは、表には出しちゃいけないんだ。
坪内 いけないってことはないけど、出さないほうが俳句らしいでしょうね。
天野 お話を聞いているうちに、「三月の甘納豆のうふふふふ」がなんだか、これまでとは違うふうに思えてぎました。
 なるほどねえ。今日、帰ったらさっそく俳句、つくってみようかな。・・・ ≫
 ▼ 「俳句は、ひとりきりで捻っていく人はうまくならない。それは自分を読者にしていまうから」に、ドキッとした。
  句会では、たいてい作者名を隠す。それで非難されて恥ずかしいと思ったら句会に入れない。恥をかくから上手くなる。
  この随想日記、だから公開しているが、あくまで自分中心。 毎日、書き続けていると、誰かの嘲笑を独り感じる。
  そこで、馬鹿丸出しを曝してよいものか?迷いが出る。しかし、人間には露悪趣味が心の隅にある。露悪とエゴと
  無知を偽善で包んでいるのが人間の本来の姿と思って開き直るしかない。私が短歌を書いたら、ほぼ狂歌だろう! 
 母の短歌より: 窓の下 逆巻く波のはげしくて わが生涯の縮図の如し:  大仕掛け 空を焦がして彩どれば 
   中天の月いろを失ふ:  若き僧 煙草の吸いがら 投げ捨てぬ 早朝のホーム 一点のしみ:  青き田の
   水に浮かべる没つ日を 絵心あらば 描かむものを: ものかなし 豆腐屋の鈴流れきて 秋の夕暮足はやに来ぬ
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4034, 幸福になるための五箇条
2012年04月11日(水)
                   「幸福になるためのソフト」の五項目 ー中川昌蔵
  「今日一日 親切にしようと想う。」
  「今日一日 明るく朗らかにしようと想う。」
  「今日一日 謙虚にしようと想う。」
  「今日一日 素直になろうと想う。」
  「今日一日 感謝しようと想う。」
「以上のことを、実行してはだめです。意識して実行すると失敗します」。意識するとエゴがでてしまいます。
   そういう想いが、いつも体の中にある人間になるのが一番いい。 潜在意識に刷り込むのが良い。
▼ 老齢とは、この逆になっていくことをいう。「しようと想う;なろうと想う」が良い。パソコンかトイレに貼っておくと良い。
   「今日一日、しん(親切)、めい(明るく)、にかけ、謙虚に、素直に、感謝しようと想う」と憶えればよい。
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3668, 節目どきに ー3
2011年04月11日(月)
  これまでと違う日常に入って、10日になる。もっと、その変化に違和感を感じるかと思いきや、それが全くない。
恐らく10年以上、一日2〜3時間を集中し、蓄積してきたこのHPのためである。事象の変化に対して、脳の外部化した基地が、
ここにあるためだろう。 ある人に「HPに偉そうに書いているが、現状のその様は何だ!」と、酒席で言われたが、その通り。
その時に「少なからず経営に携わっている限り、赤裸々に曝け出すブログを書くのは如何なものか」と、他の人から忠告された
言葉を思い出した。 毎日の記憶をHPの中のブログに記録したり、読書の感想を書き残したり、毎日一文を書き始めた時から
何かが確実に変わっていった。 脳の外部化で、因縁のある人の何人かと繋がっている実感があるのが心を広く明るく自由にする。
心は言葉である。毎日、言葉として表出していれば、現象が変わったとしても、気持ちの芯が乱れることはない。
毎日、書き続けているのは、経営を良くするためでない。経営は失敗すれば、全責任はトップにある。
何を責められても言い訳は出来ない。 立場的に、赤裸々に自分の心を露出すること自体が大問題である。 ギリギリのところで、
表現を注意していても本音が表出してしまう。 しかし、その何倍も、書き出し、公開することの効果を感じ取っている。
だから 偉そうに! と言われても、その通りと認めざるを得ない。初めから覚悟をして書いている。5年、10年後から振り返ったとき、
書いた時々のマイナス、プラスなど、如何にでもよいことを毎日、過去の文章を読み返していて分かっている。以前に都銀の担当に、
「借りた金は、返すな!」という読書感想文を書いたのを読まれ、貸し剥がしをされかけた事があった。その上に、いわれのない?
数百万を強奪?されたことがあった。 それなりに、書き、表現していると周囲に波を立てることになる。しかし、その蓄積が、
このような節目どきに、安定した心を保つことが出来る。その時に、書く内容に力を落としたら、その分だけ心に違和感が出てくる。
先月末を持って、数ヶ月、節目ということで、休もうとした。しかし、あと一月で、まる10年に辿りつくまで書くことにした。 
結果からして、心を乱さないためには、休まないのが正解であった。 で、・・・
   2005年04月11日(月) 1469, 負い方ひとつで、重荷も軽い
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3303, 人みな骨になるならば ー10
 2010年04月11日(日)