* また一人、奥さんからの年賀欠礼の葉書
 また一人、創業時からの営業担当の奥さんから年賀欠礼の葉書が届いた。創業を始めて40年、地元に帰ってきて、
38年も経てば、その時節ということか。「東芝エレベーター」の営業担当の馬場さんで、この8月に亡くなっていた。
長岡の大手通四角の物件から始まって、都合、五台のエレベーターを入れていた。その都度、本当かどうか、ギリギリの
値段で入れていたため、会社から厳しい視線で見られていたとか。サッパリした性格で、私とは相性が合ったようだ。
 毎年、会社の忘年会に出席してもらった常連の一人。10年前に定年退職して、自宅近くの公用地・500坪を借りて、野菜
つくりをしていた。 定年後も、前の会社の事務所に訪ねてきたり、新潟駅前の町内の懇親会で酒を酌み交わしていた。
 彼から酒飲みで学んだことは、「自棄酒など、美味くない酒は飲まないこと。さらに落ち込む!」である。
長岡の実家の商業ビル建設を建てかえていた時の修羅場の姿を見ていた数少ない人である。それもこれも、過ぎてしまえば、
夢幻である。 当初からの忙新年会の上席で残っている?人は、数人だけになってきた。ワタナベリネンの武田さん、
インテリア山下の山下さん、ワシズ設計の鷲頭さんに・・ 「そのうち私も!」も、現実味を帯びてきた。
 「ひとは先、我は後」。        享年、74歳。 ご冥福を!
   * 昨夜は、高校同級生の偲ぶ会
 昨夜は、昨年の今頃に自死した高校の同級生の「K君を偲ぶ会」が長岡駅裏の居酒屋で開かれた。出席者は16名。
商売上の事由というから、他人ごとではない。 30年近く、この同級会は毎年開かれているが、常連組17〜8人のうち、
これで5人が亡くなった。幼稚園から大学までの同級生で、自死は始めてである。自死には、それだけの事由がある。
明るく、サッパリした性格の反面、神経が繊細。 高校では山岳部に属し、趣味は落語。 偲ぶ会の寄せ書きは、如何なことか、
と思ったが、色紙に、それぞれが一言、書き留めて仏前に添えてもらうことにした。
   * 雪下ろしの雷
冬の雷を「雪下ろし」という。11月の雷は初雪の前兆で、轟音がすざましい。その後の雷は、激しく降る合図になる。
今年も、例年と同じ下旬。直ぐに降雪するか、1〜2週間後に50センチ位の積雪になる。一度、消えるか、降ったり止んだりし、
1月半ばか、下旬に2M位の積雪になる。それが消えるのが四月の初旬の頃。
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4269, 閑話小題 ー虚無より傷心が上
2012年11月23日(金)
   * 人生、虚無より傷心が上?
 W・フォークナーの言葉に、「人生は虚無より傷心が上」がある。 両親が大戦の長岡空襲で財産の全てを失い、
第二の創業を幼児から少年期にわたり目の当たりにしていた。 そして自分も創業人生を過ごしたいと20歳の頃に決心し、
去年まで挑戦と挫折を繰り返した45年間だった。その心血を注いだ事業も、3つ(9・11、9・15、3・11)の歴史的震災?で、
呆気なく消滅してしまった。 口ではカラ元気なことをいっても、やはり深く傷ついている。とはいえ、「何も人生をかける
機会がない、虚無の人生」や、「上手く後継者の譲ったハッピーエンド」より、傷心している現在の方が良かったと思っている。
いや、自分にそう言い聞かせている。 節目には挫折感がともない、深く傷つき、虚無が心を覆う。 
何事もない虚無や順調な人生より、傷ついた後の虚無の方が、(ドーナツの穴のように)傷口が取り囲んで虚無を浮きだたせる。 
何度か、そこ知らないほどの虚無感に陥ったことがあった。半年位だっただろうか。何事にも自信が無くなり、虚脱状態で、、
ただ独り、極小に縮んで滅していくような妙な感覚。 現在も、ひとつ間違えると、陥る可能性があるのが解るので、
ブログを書き、スポーツジムに行き、読書をするなどで自分に隙を見せないようにしている。 ただ愚痴を言い、他人を標榜する
しかない老人を多く見てきたので、その愚だけはしたくない。しかし、知らぬ間に愚痴めいた独りごとを呟いている自分がいる。
先日も、近くの道路で大声で愚痴を喚きながら歩いている老人を見た。家内がよくスーパーで買物をしているのを見たというから、
痴呆の独居老人らしい。心の傷口が化膿しているのだろう。 男ヤモメの痴呆症は近くの親族は苦労する。
「人生、傷心、時どき虚無」か。いや、「虚無、時どき傷心、のち躁鬱」か。毎日が、心の天気模様のよう。
台風もたまに来るが。 服装と、心と、身体の管理だけは十分に気をつけてないと・・  
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3894, ギリシャの次は・・ ー2
2011年11月23日(水)
  前回、取り上げたPIIGS国債の数値化を、改めて考えてみる。
 ・ ギリシャ    32.29%      
 ・ ポルトガル   11.52%
 ・ アイルランド   8.22%
 ・ イタリア     7.28%         
 ・ スペイン     6.43%     
ギリシャの32・29%からみる。EUが今回、国債の残高の半分を免責、
ギリシャが現在の国家の支出を大幅にカットしても、 数年もしないうちに行き詰まるのは明らかな数字である。
あくまで延命である。それに、他のPIIGSの金利も、この数値からみて、重体である。これらの国のトップは殆ど、
ここで変わったが、それで問題は片付いた訳でなく、間違いなく破綻が近づいている数値。もしもの話をしても仕方がないが、
日本国債が今後どうなるかである。現在の10年もの国債は1・47%であるが、何時、国際的 投機筋に狙われるかである。 
現在の利払いだけでも千兆の一%としても10兆円になる。その上に返済をしているので、既に国家予算の半分が、
国債に向けられている。ある日、国債に対して不信感から売り浴びせられたら、国債金利は高騰する。考えただけでも末恐ろしい。 
首相を一年ごとに変わるので長期的政策を持てずに、無責任の垂れ流しの予算しか組めないのが現状。 その破滅的システムが、
この数年、続いている。 アメリカにとって、それがベストのため変えられないこともある。5年、いや、もっと早くIMF
管理下に入って徹底的なリストラを行われるしか手立てはない。そのキッカケはハイパーインフレ? それでも消費税が5%で、
欧米の平均値の20%まで15%のノリシロがある。 また、国民の預金が1千兆円以上ある。 
それも、アメリカ国債を買わされている・・ ギリシャか、イタリアが破綻すると、リーマンショックの比較にならないほどの 
大混乱になるというが、その具体的な状況は誰も想像がつかない。 一線をひいてみると、なる程、より鮮明に見えてくる。
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3529, ハーバード白熱教室 ー1
2010年11月23日(火)
 一昨日(日曜日)のNHK・TVで15時から2時間、東京大学での日本版アンコールのサンデル教授の授業をを見た。
ハーバード大の彼の講義には、毎回1000人以上の学生が出席しており、1636年に創立された同大の歴史上、
最大の履修学生数を誇り、あまりの人気ぶりに、大学側は非公開の原則を覆し、初めてメディアに講義を公開した。
その一つを以前に見たが、私でも理解できる内容であった。 日本でのアンコール版は、一般から応募した1千人の生徒との
質疑応答を中心としたもの。 元のハーバード大の授業内容は、米国のボストン公共放送局が制作し、昨年、全米ネットで
放送した放送権を買い取ったNHKが邦訳をつけ、今年4月から全12回での放送を始めたもの。
東大の大教室には一般から募った1000人以上の参加者が詰めかけた。 彼の講義の特徴は、サンデル教授が提示した
究極の事例研究を通して考えさせていく手法である。 
 始めのテーマは「正義とは何か」である。 まず正義を、彼は3つ上げてた。
* 幸福の最大化 (ベンサムの最大多数の最大幸福)
* 人間の尊厳に価値を置く (カントの主張)
* 美徳と共通善を育む (アリストテレス) 
 初めのテーマは、(18世紀に実際にあった事件=)難破した船乗りが救助を待つ間、最も衰弱した1人を残りの3人が殺し、
その肉を食べて飢えをしのいだという実話を挙げ、「道徳的に許されるか」との問いを投げかける。 まず初めの学生は、
「3人が生き延びるためには必要だった」「被害者の同意があれば許される」という立場、しかし他の学生からは
「どんな場合でも殺人は殺人」「食人は許されない」という否定論が出てくる。色いろな議論の中から、初め上げたベンサム
カント、アリストテレスの立場の哲学を導き出し、会場の生徒たちを巻き込んでいく。サンデル教授は、学生たちの意見を
踏まえた上で、「最大多数の最大幸福を求める行為が望ましい」と主張した18〜19世紀の政治哲学者ベンサム功利主義が、
常に正しいとは限らないことを示唆したり、カントの立場も示唆したりする。
 この授業で奇妙な既視感が浮かんできた。 そう、私が度々、ここで書いてきた、学生時代の人事管理の武澤ゼミでの
放課後の週二回のゼミである。 人事上のトラブルを、ある一管理職が書きつらねた難問の文章を渡され、次回に、
それについて15〜6人が議論する。 初めはランダムに背後にある問題を抉り出して、最善の解決策を考え出していく。
次々と、問題に対する意見を搾り出すが、そこには教授が難しそうな顔をして目たないように座っている。
したがって甘い指摘は許されない緊張感が張り詰めている。 もちろん甘い意見は、その後の誰かに指摘され潰される。
2時間の議論を終えて部屋から出たときには、太陽が黄色に見えるほどだった。そこで思い知らされたのは絶対的知識不足である。 
一年前の欧州一ヶ月の旅行で破壊された固い壁が、さらに粉々になっていた。時間をかけ考え考え考えること!人生それしかない。
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3154,低反発マットと腰痛
2009年11月23日(月)
 低反発マクラを使ってみて想像以上良かったので、居間用のクッションとしてマクラにバスタオルを巻いて使っているが、
その後、ベッドに低反発マットを敷いて寝ている。 使い始めて2ヶ月ほど経過するが、マクラと共に非常に良い。
腰痛も少なくなったようである。 寝返りが、これまでの半分以下になったようだ。それと横向きが少なくなった。
人は平均、左右、仰向けなど平均10回ほど寝返りをするが、それが4〜5回?ほどになった。だいたい寝返りの時に
目がさめるから、少なくなった分、良く寝れることになる。それは腰や肩の部分が身体に合わせて包み込むような感じで、
マクラと首も同じである。実感として、寝心地が二倍は楽になったようだ。 これだけは実際に数ヶ月、寝てみないと
分からない。 特に腰痛の人にはお勧めである。 この特徴は身体との接点の部分だけが沈み込むことにある。 
シートの方が身体に合わせてくれるのである。 誰もが寝入りの数時間は熟睡するが、その後、身体と布団の接点部分の
重圧で寝返りが多くなる。  ところで、ビックカメラには低反発のマクラ専門コーナーがある。 
私のはニトリで2千円だが、そこは4千〜2万以上。どこが違うのか聞いてないが、低反発の沈み具合が違うのだろう。
 他にマットの素材にゲルマニウムやセラミックが混入されているのもある。 (私は、枕の下にゲルマニウム石を置いている)
 低反発マットもニトリで6980円の値下がり品を買ったが、通販では1〜2万円が通り相場である。
ベッドには、低反発枕と、その下にゲルマニウムの鉱石、それに低反発マットをセット、目にはゲルマニウムアイマスク、
耳には、100円ショップで買った耳栓をしている。 その積み重ねの結果は充分出ている。
 良さでは、低反発マクラ、マット、耳栓、アイマスクの順である。就寝は人生の三分の一を占める割に、人は無頓着である。
この低反発マットを使って気づいたが、ウォーターベッド、これ良いんじゃないか? もちろん、ハンモックも良いが。
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2789,人生ゲームを楽しまむため、生まれけん! −2
2008年11月23日(日)
  人生ゲームの基準を、私ならどのようにするかを考えてみる。
 昔から言われているように「良く遊び、良く学び、良く働く」を目安にすると解りやすい。
 ・どのような趣味をもって、ライフワークにしてきたか。
 ・どのような仕事に従事して、楽しんだか。
 ・長年かけて教養を積み上げてきたか。
 ・それらを達観できる視線を、自分の孤独の世界で創りあげたか、である。
 人生の価値基準は心の内の問題だから、第三者がとやかくいえることではない。この4つを、どうバランスよく拡大、
深耕したかを、自分のゲームとして楽しんだかが人生ゲームを楽しむことと、定義づけてみた。
鼻歌を歌いながらスキップするしかない場面も人生には往々にある。人生には、ある程度の長生きも必要である。
人生を楽しむには、楽観的で、能動的でなければなるまい。そのためには、常に楽しい明日をイメージして、
その実現の準備を地道にすることだ。耳には、何時も心地良い音楽を流すことは、誰でもできる。 目は、大自然の風景や、
美術館で良い絵や陶器をみたり、本やネットで良い写真や、ビデオで映像をみることができる。 鼻や口は、
季節季節の新鮮なものを食べればよい。 誰でも、身の回りに楽しめることは、幾らでも転がっている。
「おもしろきなき世を おもしろく」は、長州藩士、高杉晋作の辞世の歌である。
彼が死ぬ間際に、そばにいた野村望東尼(福岡の女流歌人)が受けて、「すみなすものは心なりけり」と下の句をつけたというが、
成るほど上手い歌である。 いずれにしても、ゲーム化した段階で、自分を客観視する冷静さを持つことになる。
何が起きても 「その時は、その時。 それも、また娑婆経験」と、魂が、自分の心に語りかける冷静さこそ
ゲーム化で身に付けることで可能になる。 人生を振り返ると、全く下手なゲーマーの自分が見えてくる。
そういえば、最近、「人生ゲーム」というゲームがマスコミで話題になっている。ウィキペディアによると、
【 原型は1860年ごろ、イギリスの印刷業の社長Milton Bradleyによって考案された「The Checkered Game of Life」。
  日本版は、1968年、株式会社タカラ(現タカラトミー)から発売された。 タカラトミーの発表によると、日本版の累計出荷数は
 1000万個を超える。 ゲームシステムは、双六の発展形。ゲーム序盤のルーレット目によって「人生の筋道」が決まり、その後の
 人生が左右されていく。プレイヤーはサイコロではなく「ルーレット」を回し、人の一生になぞらえたイベントをこなしていく。
 現在でも改良版が発売されているという、息の長いゲームである。】  面白そうなので、一度してみたいものだ。
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2007年11月23日(金)
2424, 四四太郎の日記 −9            (ヾ(´・ω・`)ノオハヨウ(o´-ω-)o)
一年ほど前に、新しいブログ「四四太郎の日記」をつくってみた。
すぐネタが尽きたのと、幼稚に思えたことで一年間、放っておいた。 先日、バードウォッチのコーナーに
久々に悪戯の貼りつけがあったのを機会に、新しいブログに切り替えようと思いたった。
そこで多くのブログを実際に立ち上げてみた結果、去年開設したブログが(私にとって)ベストと判断、
ブログ名を「四四太郎の日記」から「バードウォッチ」に変えて、再スタートを切ることにした。
全く記憶から消えてしまった自分の書いたブログを、第三者の目で読んでみた。読後感として、それほど幼稚でもなく
400年前からみた現代の現象が書いてあり、本当に?祖先様が語りかけている感覚になってしまった。
{「私」の中の<私>の中核の《私》}とコンタクトしているからだろう。「チロリ、チロリ、チンチンチロリ」ではないが、
週に一度、曜日でも決めて、御先祖様に出てもらうのも悪くは無い。このブログの内容は記憶から全く消えていたが、
四四太郎に最近?亡くなった縁者を連れてきてもらい、実際に?話し合うのも面白い。何か神がかりになりそうだが、
恐らく面白い出会いと、意外な対話になるだろう。書くということは、 不思議なことである。
 ーー
ところで、いま、その「四四太郎」が語りかけてきた。
 *宗親(ペンネーム)
【おい、宗親よ、何で一年間も放っておいたのだ。せっかくワシという先祖のブログを立ち上げていながら!
 字数の関係でカット(2011年11月23日)
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2006年11月23日(木)
2060, あたりまえなことばかり −14
            (o_△_)oゴロン(o_ _)o.。o○グーオハヨ〜           
{人が死を見るのは「死体」であって、「死」そのものではない。
「存在しないこと」であるところの死が、目に見えるわけがない。
見えるのは物質としての「死体」なのである。しかし、多くの人は、この両者を混同する。
死体を見たことによって、死を見たと思うのである。見たことで、死を理解したと思い込む。
こうして、自分の死の観念を、他者の死体という現実で、現実のものと思い込む。}
 恐らく人類の一番の思い込みが、死であろう。 無を言語化したのと、死を言語化して、
それに恐れおののいているのに酷似している。 尽きる間際の混乱を恐らく恐れているのだろうが。 
「生など一瞬の稲妻でしかない」と、思いつつ恐怖のどん底のパニックなりつつ、
ヨタヨタと消えていくのだろう。 面白そうだが・・せめて極上のモルヒネで最高の気分で         
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他者の死はなぜ悲しいのかー?
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死は観念である。 人が、自分の死をいう観念を、現実のものと思い込むに至る経過について考えてみたい。
死ぬことを知らない人は死なない。レトリックではない。「意識そのもの」とは、「存在すること」に
他ならないからである。「存在しないこと」としての死は、意識そのものには存在しない。
「存在しないこと」という観念が存在するのでなくては、人には、死ぬということはないのである。
言葉の抽象度が高すぎるので、いくらか具体的に考えてみたい。生まれて初めて人の死に出合うのは、誰か他者の死である。
自分の死に出合うことはありえないから、人は他者の死に出合う以外ない。
おそらく、幼少の頃、誰か身近の人の死を見る。 「死を、見る」     ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪
しかし、ここでは細心の注意をはらって考えたい。人が死を見るのは「死体」であって、「死」そのものではない。
「存在しないこと」であるところの死が、目に見えるわけがない。 見えるのは物質としての「死体」なのである。
しかし、多くの人は、この両者を混同する。死体を見たことによって、死を見たと思うのである。  (~Q^(^┰^;)ゞ
当然である。「存在しないもの」としての死が、存在するものとして見つかるわけがない。
こう考えると、自分の死だけでなく、他者の「死」もまた「存在しない」。そもそも存在しない死に対し 
「死」と名づけたことにより、死は存在していることになったというのが真相なのである。
  字数の関係でカット(2007年11月23日)
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2005年11月23日(水)
1695, 辺境へ −1   ー 読書日記
 素人の身として辺境へは、ツアーでしかいけないが、「辺境・秘境」をキーワードにして、この十数年近く アフリカ、南米、
シルクロードなどを家内と共に行ってきた。図書館にあった、「辺境へ」−大谷映芳著ーはもう5~6回以上借りてきて読んだ。
 そして、ついにインターネットで新・中古本だが、買ってしまった。 写真も、文章も体験をそのまま書いてあるので、
心に直に迫ってくる。この本で、著者が一番思いの深いの7ヶ所を紹介している。チベット・ヒマラヤを除いた5ヶ所
 訪れているので、私にとって非常に魅力のある内容で、何回読んでも飽きることはない。        
   まず著者の大谷映芳の「内容紹介文」をコピーしてみる。  
 ー「ニュースステーション」で、高視聴率を獲得した“秘境ドキュメント”。
  ブータンギアナ高地、ドルポ、アフリカ大陸グレート・リフト・バレーなど、その取材は、全世界の秘境と
 言われた地域に及ぶ。今は亡き冒険家の植村直己や夭折した写真家・星野道夫、グレートジャーニーの関野吉晴氏ら
 その旅の思い出とともに、こうした世界の秘境エリアをレポートしてきた著者が綴る紀行と貴重な写真を多数掲載した写文集。
  ーこの本の7ヶ所とは、   w*1wワオッ!!
 ヒマラヤの王国ブータン/ 南米大陸ギアナ高地/ 南米パタゴニア/ 西ネパールのドルポ/ アフリカ大陸の
 グレート・リフト・バレー/ 北極圏のグリーンランド/東チベットのヤルツァンポで、写真とともに紹介している。
 その写真が素晴らしい。また人々との出会いなどが中心に書かれているのも特徴。
 現地で出会った人々の話や、亡くなった冒険家の植村直己さん、写真家・星野道夫君、探検家の関野吉晴さん等の話も面白い。           
  ー彼のこの本に対するコメントも良いー
「地球上にこういう素晴らしい所がある事を知ってもらいたいし、そういう場所が冒されつつあるということは人類にとっては
非常に危機的状況であると思うんです。 そしてこういう本を書くと改めて日本の事を思うんですね。 
比較というんですかね。∩゙ヽ(。・ω・。)へ   (以下、字数の関係でカット09年11月23日)

*1:´ω`