* 花火が途中で中止、残った花火はどうなる?
「隅田川花火大会」が7月27日にあり、2020年の東京五輪招致を祈願してオリンピックをイメージした花火などが
打ち上げられたが、雷雨のため開始から約30分後に中止になった。同大会が中止となったのは初めてのこと。 三分の一も
上げないうちに中止ということで、貧乏人の私たちは気になるところ。 その疑問を朝日新聞で取り上げていた。
隅田川の花火の場合、保険が80万円がかけてあり、実損はない。筒に花火を入れて置くため雨で湿気てしまい再利用は不可能。
化学薬品で処理した後に水で流すという。隅田川の場合、6千数百万の実損は保険屋が受ける。花火師も当日は冷ひやだろう。
* お盆か〜
お盆については毎年のように書いているが、早朝の三つのお寺の墓参りと、夕方の改めて家内との菩提寺への墓参り。
盆・暮の実家帰りの大移動も日本の風物になっている。 中国も旧正月前後の40日間で延べ31億人が鉄道、バス、飛行機などの
交通機関を利用するそうだ。 日本も時代は変わって、墓参りも以前ほど重きをおかなくなってきている。 私など、仏間の
一角にパソコンデスクを置いて、一日4時間以上もいるので、今さら墓参りの必要もない。 墓参りを何故するか?
の哲学的質問に、「故人を偲ぶとき、他に行くところが無いため」というのがある。 実家に仏壇があり、盆暮は昔からの
長期休暇で帰省も東洋的である。 寺への挨拶も、家族形態が家から個人に重心が移っており、以前ほどの重さがなくなった。
時間的には一年の3分の2だが、気持ちの上では折り返しになる。我家は、正月には一家が集まるが、盆は兄夫婦がくるだけ。
年寄のレジャーの趣むきということか。その中で、寺院経営も年々、厳しさを増しているだろう。私自身、このHPが墓とみなし、
死後の墓参りより生存中の墓参りをしてもらっているので、今さらお盆という気持ちが強い。しかし、先祖供養も必要である。
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4158, 閑話小題 ーアイスキャンディー
2012年08月14日(火)
* 今日は御盆二日目
先日から御盆のため民族大移動が国内外に向け始まった。13日は早朝、三つの寺、夜は菩提寺に二度目の墓参り。
盆暮れは日本特有の恒例の里帰りも良い風習である。不景気で世相が暗くなるほど、こういう行事は大事にされる。
しかし家族主義から個人主義へと考え方が変わる中で、こういう風習も廃れるのは避けられない。ところで墓とは何だろうか?
多宗教の日本人にとっての心の拠りどころ。最後は、あそこに入るという共同幻想があり、祖先の霊が眠っていてイメージがある。
私は自分のHPを墓場とみたて、死んだ後より生前供養に毎日来てもらうイメージがある。ところで百年、二百年先には、家の墓が
残っているかというと、旧家意外は、ほとんど残っていない。本家の墓があるが、一人息子は独身で、やはり百年?。
昨日も、両親に因縁があった無縁墓に花一輪をたてお参りをしてきたが、これも百年。 ところで御盆の13日の早朝、
オリンピックの閉会式のためか人も疎ら。こんなことは初めてである。閉会式の方が優先ということ。お寺も不況業種の典型である。
* アイスキャンディー
子供の頃、街中の「行楽」というラーメン屋のアイスキャンディが夏の名物で、アズキアイスとミルクアイスの二種類があった。
今は店も無くなり、私が知る限り一軒だけ昔のスタイルのキャンディ屋が残っている。10年位前になるたが、たまたま、熱暑の中、
雁木通りを歩いていて見つけた店で、さっそく10本買って帰ったことがあった。 ところで一昨日、近くのスポーツジムの帰りに
スーパーに寄ったところ、オバサンが美味しそうにキャンディーを頬張りながら出てきた。 買い物を終え出口近くに行くと、
サービスカウンターでキャンディーを売っていた。オバサンを見なければ見逃していたが、5本買って家に帰って食べてみたが、
思ったより小ぶりで味は今イチだった。 それにしても、子供の頃に食べた行楽のアイスキャンディーは美味しかった!
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3793, スポーツジムの景色 −3
2011年08月14日(日)
4ヶ月でのジムの運動効果はどうか? というと、体重は元もと早朝のウォーキングと、サイクリングの効果で、
適正体重を20年以上は保っていた。そのため、減増はないが、頬の弛みは無くなり体調は非常によい。
二年前に3〜4年に一度の重い腰痛になってから、色々の腰痛対策の工夫をしたプラス効果は出ていた。 しかし4月からの
午前中のサイクリングを含めた三時間の運動は、これまでの足腰の関節を鍛えなおすに効果的。この数年来、足腰の関節が固まった
感じが、このジム通いで半分はとれたようだ。 あと4ヶ月後の年内には、さらに一絞りした身体が出来ているはず。
ジムでは、常に各種エアロビックと、イージーライン(インストラクターの指導下、6つの器械とステップ台で運動を繰りかえし
一周する)などのプログラムが開かれている。 別にマッサージルームか、ランニングマシーンか、筋トレマシーンで独自に過ごせる。
時に昼をマタイダときは、外出も可能。 謹慎の身?にとって、昼間に息抜きできる場所が存在しているのが有難い。
喫茶店替わりである。 これはアメリカで出来上がったサービス業態だろう。 ースポーツクラブをウィキペディアで検索すると
【 スポーツクラブは、各種の運動施設と専門の指導員を有する施設。フィットネスクラブとも呼ばれる。 定義は明確ではないが、
たとえば日本の経済産業省の特定サービス産業実態調査におけるフィットネスクラブの定義は、「室内プール、トレーニングジム、
スタジオなど室内の運動施設を有し、インストラクター、トレーナーなどの指導員を配置し、会員にスポーツ、体力向上などの
トレーニング方法などを教授する事業所」とされ、室内プールの他に室内運動施設を有しない事業所は除外するとされている。】
▼ 私の通っている「ホリデイ」は、これにサウナ、風呂、マッサージルームが加わっている。またランニングマシーンはTVつきである。
ポイントは施設に多くの種類の施設を備え会員数を集めること。今月から極端に会員数が減ったため?、値段を平均一割程度下げてきた。
この施設も半年以上もかけて完成した。しかし完成して僅かで東北大震災の直撃である。大型設備投資の難しさを他山の石として
見ていることになる。 漫画喫茶はモバイル携帯電話と、iPadなどのタブレット型パソコンが直撃している。いずれにしても恐慌である。
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3428, 今日、我が家に新しいテレビが
2010年08月14日(土)
八年近く使ったテレビを、地デジの切り替えとエコポイントもあり、ここで切り替えることにした。 そのため今年に入ってから
「どの機種を買おうか、何時買うか」をゲーム感覚で、家電店、そしてネットで、集中した。 昨年からはバックライトのLed方式のTVが
最近、家電売り場で目立っていて、買うならこれと決めていた。 ところが、この春のエコポイント制限期限が終了間じかになると、
3Dテレビが脚光を浴びてきた。既存のTVを売り切った後に、これ。 そうすると今度は3Dテレビに気持ちが移った。
(字数制限のためカット2012年8月14日)
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3053,人を殺すということはどういうことか −2
2009年08月14日(金)
「人を殺すとはどういうことか ―長期LB級刑務所・殺人犯の告白」 [著]美達大和
現役無期懲役受刑者の言葉だけに、一言一言が重く深く響いてくる。受刑者の大部分が罪など悔いてないのである。
犬や獣のような連中が殆どで、自分の欲望のためなら他者の生命は全く価値も尊厳も感じないと暴露する。
照魔境で照らすと、多くの悪魔の姿が映っているに違いない人たち。 著者は、ここで罪の深さを知り、
カントなどの哲学書から「天上の輝く星、そして内なる良心」の重要性を語る。
「内なる良心に目覚めることこそ殺人の罪を償う道」であることを獣のような仲間をみて実感する。
P−10ー 生命を奪うということは、生命だけでなく過去の記憶や未来の希望も全て破壊し尽すということなのです。
それ以外にも、さまざまな負の感情を植え付け、歳月の経過と共に風化させるどころか、増殖させてしまうことに
気がつき愕然としました。・・・・私は殺人には償う術はないと思っていますが、それではどのように生きればいいのか
について、懊悩してきました。 ・・・考え続けるほどに、人間の原初的な善の心の発掘が必要だと知りました。
・・・「獄」という字は、獣や犬がものを言うと書きますが、実際に生活してみると、そのとおりでした。
正常な感覚を持っている者は本当に少ないのです。
P−250ー 私はここで服役するまで、人はもっと自省し学習すると思っていましたが、現実は違いました。
(字数制限のためカット2010年8月14日)
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2688, 「エリック・ホッファーの 人間とは何か」
2008年08月14日(木)
ー遊びをせんと生まれけむー −読書日記−
亡き佐治敬三氏がサントリーの会長だった頃(1995年頃)、
口ぐせのように言っていた言葉に「美感遊創」がある。
・「美」は、羊が大きいが語源。大きく艶やかな羊の美しさを表わしている。美に感応する心である。
・「感」は、 感性、感動、共感。 旅に出て自分の世界の外に出会って感動したり、絵画、音楽、映画、演劇などに
感動することが人生を豊かにしてくれる。
・「遊」は、神代の昔から人間にとって一番大事なこと。 「遊びをせんとや生まれけむ」と「梁塵秘抄」
にあるように、人間は「ホモ・ルーデンス」。 遊ぶことで人間性を回復し、活力を得る。遊び心。
・「創」は、新しい断面、局面を切り開いて、個性のある創造をすること。一瞬の新しいものへのシュンパツ力。
以上だが、この4つが人間の心の豊かさの要素である。 確かに、人生はこれを磨くプロセスであった。
この中でも、「遊び」が、人間にとって最も有用な行為になる。
「エリック・ホッファーの 人間とは何か」という著書に、遊びについて次のように述べている。
《実用的な道具はほとんどすべて非実用的な関心の追求や暇つぶしにその起源がある。
最初に家畜化された動物ー小犬は、もつとも役に立つ動物ではなく、もつとも遊び好きな動物であった。
猟犬が出現したのはかなり後のことである。最初に家畜化された動物は子供たちのぺットであった。
おそらく,植物栽培と灌漑も、初めは遊びとして行なわれたのである。 車輪・帆、煉瓦なども遊びの中で
発明された可能性が強い。 たとえば、南アメリカのアステカ人は車輪を使わなかったが、
足の代りにローラーをつけた動物の玩具をもっていた。装飾が衣服に先行した。
(字数制限のためカット2010年8月14日)
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2007年08月14日(火)
2324, 嘘でしか語れない真実もある! (。・・)ノぉはょぅ♪
芥川龍之介に「人生には嘘でしか語れない真実がある」という言葉がある。その典型的なものが旧訳・新訳聖書。
あのような奇跡などあるわけがないが、あの話を通して事実では語りえない真実を語っている。末期がんの患者に、
「あなたは助かりませんよ」と知らしめることが、いいのか? 死ぬ直前まで嘘で固めて、気づかないようにしてやる方がいいのか?
これは誰も判断の出来ないことである。日本には「嘘も方便」「嘘からでたマコト」という言葉があるが、時には嘘も大事なこともある。
女性の化粧など、嘘で固めた外形?ではないか。 いや、真実を引き出す行為か? プロの物書きは、まずは真実を伝えるためなら
平気で嘘を書きなさい!と教える。読み手は些細なことが事実かどうかより、真実を伝えてくれることを望んでいる。
「正直に拘ると、人生あまりに窮屈で面白くなくなります」という言葉が浮かんできた。
何処かの小説で誰かが言っていそうである。詐欺師など、嘘のプロが普通の人を如何みているのだろうか?
少なくとも、言葉の効用を知り尽くしている。 嘘にも色いろある。相手を陥れる嘘や自利のための嘘は結局は
自分に跳ね返ってくる。相手のためになる嘘は、それがプラスになり生きてくるものである。嘘でしか語れない真実?
ー以下は字数の関係上、カット。(09年08月14日)-
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2006年08月14日(月)
1959, 人生を物語るとは? −1 (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜
* 人生を物語るとは?
自分の人生を振り返り、現在への筋道をたどって、その意味を考えるという、人生の総括である。
悪く言えば自分の人生を絶対肯定化、正当化しようということになる。 自信が無いからか? はたまたドブ沼のドロさらい?
いや宝探し? 自分の人生を物語ることが、自分の人生の意味づけなら、「物語の意味は何か?」を、考えてみる必要がある。
哲学者のリクールは『時間と物語』の中で、「物語」の本質は「筋」の存在にあり、「筋」とは不調和なものを調和の中に組み込み、
そのことによって不調和なものを理解可能 なものとし、感情の上でも受容できるようにするのだと論じている。成る程!そういえばそう。
哲学者は上手く真理をつくものだ。「物語」とは「筋」に 沿って配列された出来事の連鎖ということになる。たどってきた過去を振返り、
現在という到達点に至った道のりの要所ごとの出来事を再編成していく作業が、その人の物語になる。
ーある本に「物語」について解りやすく書いてあった。
先ず、それを紹介してみようー
自分の人生を回想的に語るとき、
・第一に、 私たちは人生において 経験したことのすべてを語ることはできなし、語ろうとも思わない。
「語るに値すること」「語ってもよいこと」「語るべきこと」といったフィルターを通過した出来事のみが語られる。
回想とは模写ではなく、抽象である。
・第二に、 私たちは人生において経験したことを、たんに時間の順序に従って語るわけではない。
一見、そう見えるかもしれないが、実は出来事間の因果関係、起承転結というものがそこでは意識されている。
語り手は、「人生上の出来事を因果の連鎖によって結びつけることによって、自分がかくかくしかじかの人生を歩み、
別の人生を 歩まなかったのはなぜか、ということを説明しようとしている」のである。
・第三に、私たちはそうした 因果関係の連鎖として語られる自分の人生に対して、「幸せな人生だった」とか
「つらい人生だった」とか―実際の評価はもっと複雑であろうが、何らかの評価を下している。
このように個人が自分の人生を回想的に語る(抽象し、説明し、評価する)
とき、そこには「人生の物語」のパターンが 先行的に存在している。
だからこそ私たちは、それほど苦労することなしに自分の人生を語ることができるのである。
また「人生の物語」のパターンは、人生を回想的に語る場合だけではなく、
これからの人生を どのように生きていこうかと考える場合にも役に立つ。
子供は「人生の物語」と出会うことによって、「人生」に対して自覚的(目的論的)になる。
日常生活を構成する諸々の活動が「人生」として 組織化されてゆくのだ。
「人生の物語」には四の類型に分けられる。
・まずは努力と上昇を二大要素とする「成功の物語」 ・そして「幸運の物語」
・「挫折の物語」 ・「堕落の物語」
「幸運の物語」とは「努力せずに上昇する(棚からぼた餅)」 物語であり、
「挫折の物語」とは「努力はしたが上昇できなかった」物語であり、
「堕落の物語」 とは「努力せずに下降していく」物語である。
「成功の物語」こそが近代社会における「人生の物語」の正本であり、
他は正本の正統性を際立たせる ための異本である。
とくに「堕落の物語」は反面教師として「成功の物語」とワンセットで取り上げられることが多い。
ー以上である
実際の人生の総括とは、混沌としたドブ沼からこれらの要素を探し出して、ドロ(成功・失敗・挫折・幸福)
を抜き出していく作業である。成功とか、挫折とか、堕落とか、幸福とかは、二次的なものでしかない! ーつづく
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2005年08月14日(日)
1594, 犬の散歩
毎朝、ウォーキングをしていると、犬の散歩の人と行き会う。行き会う人の半数近い。何時も思うのは、犬と飼い主が似ていること。
特に年配の人と犬は、長年の付き合いのせいか、そっくり。顔つきや体型が似てしまうのは同じ環境にいるためだろう。
以前も、散歩の犬に関して少し書いたことがあるが、時代時代に犬の流行があるようだ。ハスキーが多い時期があったり、
ラブラトール・リトリーバーやゴールデン・リトリーバーだったり、最近はポメラニアンやミニチュア・ダックスフンドなどの
小型卓上犬が目立つ。実家では、必ず犬を飼っていた。そして、それぞれの犬の思い出が多くある。まぎれこんだり、拾ってきた犬で、
雄雌関係なく「コロ」という名前であった。しかし結婚をしてからは、家内が犬が大嫌いで「飼うこと相成らぬ」である。
もし人生に幾つか悔いが残るとしたら、その一つが「犬が飼えなかったこと」である? といって、いま現在では躊躇する。
そういえば、最近「雑種」をあまり見かけなくなった。どういうことだろう? 恐らく放し飼いが全く無くなって、
チャンス?が無いのだろう。ところで、雑種を三匹連れているオジサンが、いつも口笛をふきながら歩いているが、その口笛が
聞きほれるほど上手い。その三匹の犬、飼い主に似てか?すれ違う犬に大きく吠え掛かる。
口笛と犬の吠え声で、その存在がわかる。ところであるベストエッセイ集に「犬に似る」というエッセイが微笑ましい。
そしてプロの文章はすばらしい。
最後の文章を抜粋してみる。
ー犬に似るー
ついでだが、犬と飼い主はたいていの場合、そっくりである。ずんぐりした人はずんぐりした犬をつれているし、
短足胴長の犬の飼い主は短足で腹が太い。 それでは、いつの間にか名前が平仮名の「そら」に落ち着いたわが家の犬はどうか。
しばらく前まで、スマートで端正な犬だとうぬぼれていたが、このところ、目の青色は薄くなり、鼻の頭は白く乾いている。
猫やカラスを追いかけるとすぐに息を切らす。息を切らすと、はあはあと長く舌を出し、腹を大きく波打たせる。
どったと寝転がっていることも多い。 そのそらのようすは私にそっくりらしい。いや、私がそらに近づいたのだろう。
先日、家の前を通っている二人連れの会話が聞こえた。「ここの犬、この家のご主人とそっくりよ。毛の色も一緒だし、
体格もうりふたつ」「へえ、じゃ、どっちが犬かわからないわね」 私は思わず吠えそうになった。 (坪内稔典 俳人)
最後の一文がきまっている。
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2004年08月14日(土)
1229, 死亡欄
この数年、新聞を見ていると死亡欄に目がいってしまう。それも自分より年齢の下の数をさがしてしまう。
傾向として40歳台から死ぬ人がおおくなる。反面90歳後半や100歳という人も結構多い。時々、子供や20歳そこそこの死亡も目に付く。
やはり女性は80歳台、男性は70歳台が多い。それぞれ一行の名前と年齢の中に膨大の人生が詰まっていると思うと人生の深さを感じる。
(字数制限のためカット2011年8月14日)
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2003年08月14日(木)
862、「財産を無くす人、財産を残せる人 」 ー読書日記
ーデフレ経済下21世紀の日本型蓄財術- 清水洋/著
ー以下は字数の関係上、カット。(03年08月14日)
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2002年08月14日(水)
487,アメリカンインデアン
以前‘アメリカンインデアン’について書いてある本を読んで仰天した。口伝で代々受け継がれてきた内容が
3万年以前のものだたりする。その内容がどうも正確なのだ。特に「一万年前にシベリアを通ってベーリング海峡を渡る」
の内容もあるという。
(字数制限のためカット2011年8月14日)
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2001年08月14日(火)
[107] 「私の死亡記事
「私の死亡記事」‐文芸春秋
図書館で何気なく借りてきた本だが、これが面白い!各分野の有名人に「物故者の解説を、当の本人執筆という点である」
そのお願いの文章が、前書きになっているところがまた面白い。 よくこれだけの有名人が真面目に、あるいはふざけて
書いているのがいい。まず自分の死亡時期の設定、そして死亡原因、生前の業績を当の本人が書くのだから。
どちらにしても真剣に書いてあることは文面よりわかる。特に生前の業績に対しては意外と自己正当化しているのが可笑しい。
−私も書き始めたが侘しくなってきた。死亡時期‐父と同じ71歳(そうすると後16年の時間)
・死亡原因‐酒の飲みすぎによるショック死。
・生前の業績ー書くに値せず。
・葬式方法は葬式坊主に一円の金も払わないようにとの遺言の為に音楽葬、但し身内のみで。近じか真面目に書いてみよう。