「グーテンベルクの銀河系」マクルハーン著
   * 活字人間の形成
  −この著書を、レビューの書き込みなどをベースにして要約してみるー
≪ 現在、現実世界とは別にネット社会が形成されている。ネットの普及とスマートフォンの出現が、これを更に推し進めている。
 ところで、中世の三大発明(印刷、羅針盤、火薬)の一つの活字を用いた印刷が、それまで思いもよらない新環境をもたらした。
「声から文字へ」は人間の意識にとって大きな革命である。ルター、カルヴァンによる宗教改革。彼らが掲げたプロテスタント
教義「聖書のみ sola scriptura」を下支えするのが活版印刷。 堕落した権威の手から聖書を、あるいはイエスを解放する
この運動とて、マインツ発の偉大なる技術革命なくしては、そもそも成り立ちえなかった。グーテンベルクが刷り上げた最初の
テキストは聖書。それから一般の知識を伝えるメディアとして、「読書界」を創造されていった。 マクルーハンによれば、
アルファベットの発明と印刷技術の発明によって、西欧社会は「視覚」だけを異常に強調する文化をつくり出した。
固定された視点が捉える均質的な視覚情報 ─つまり印刷されたアルファベット─ のなかにあらゆる対象を写し取ることで、
西欧人はある意味で非常に歪曲された世界像、宇宙像を手に入れた。これをマクルーハンは「グーテンベルクの銀河系」と呼ぶ。
 西欧社会に現れた「グーテンベルクの銀河系」は、世界についての認識を単一の感覚に還元してしまい、単純な記号の直線的
配列によってすべてを表現しようとする。また、印刷されたアルファベットはそれ自体が意味を持つのではなく、あくまでも
「意味されるもの」の代理(=表象)でしかない。無文字社会の口語文化にあっては、言葉はそれ自体が豊かな「意味」を
まとったものとして人々の心に響いていたのだが、文字社会においては「意味」は形而上学的な世界へと追いやられてしまう
ことになったのである。 この「グーテンベルクの銀河系」は、西欧社会の「知」に推論の厳密さを保証する一方で、分析的理性に
偏重した視野の狭さをももたらした。 印刷技術の誕生は、単純な進歩ではなかったのである。
「どれかひとつの感覚が切り離されると他の感覚どうしの比率が必然的に狂って自己感覚が失われてしまう」のであり、
「五感どうしを切り離してしまう新技術には当然催眠効果があった」のである。
 それに対し、現代のラジオやテレビといった電波メディアは、「聴覚」を復活させ、「視覚の極端な優位」から「五感の調和」
へと人々を連れ戻す。 調和のとれた五感による世界認識のほうが、カトリックマクルーハンにとっては、神が創造した世界を
リアルに捉えられるということのようだ。そのかわり、この五感調和的で総合的なリアリティは、単線的な論理の筋道によって
表現できるものではない。世界は「場」のようなイメージで捉えられるべきであって、マクルーハンはその「場」らしきものを、
本書の活字空間のなかに描出してみせたのである。「メディアはメッセージである」という有名なテーゼに代表されるように、
メディアの「形式」が人々の精神文化にいかに強い影響を及ぼすか、というのがマクルーハン理論の最大の要点だとされている。
だが、訳者もいうように、五感の調和によるリアルな世界認識を復興させよ!というのが本書の核心的なメッセージではないか。≫
 ▼ 口語文化から、活字文化へ。そして今は「映像文化」へ、移り、今度はネット文化が出来つつある。口授から、書物へ。
  そして現在は、電子映像、電子書籍文化に移動しようとしている。それが現在、ネットで世界中を行き交う情報革命として、
  我われの存在意義を変えようとしている。 この数年来、手の平にのるスマートフォンタブレットPCが急速に普及している。
  文字に映像や写真が添付された情報が直接、ネットで個々の間に行き交う文化が生じてきた。これが時代を根こそぎ変えている。
  また電子書籍たるものが、読書界を大きく変えている。グーテンベルクの銀河系が、ジョブスの銀河系に移行始めた。
  その行き着くところは、未だ誰も知らない。
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3934, 新年にあたり ー2
2012年01月02日(月)
  * つれづれに
 スーパーイヤーになる今年、どうしても暗くなりがちになる。
2008年9月のリーマン・ショック以来、一年ごとに世界は大きく変化をしてきた。
去年も想像を絶する大事件が相次いだが、今年は、それを遥かに上回る可能性がある。可能性として考えられるのが、
・欧州発の世界恐慌 ー世界的株式と国債の暴落、食料品の暴騰・・・
・イランによるホルムス海峡の閉鎖と、閉鎖した海軍と軍事基地への英米軍の攻撃、イスラエル軍のイランの核施設攻撃等
・中国による支那海など周辺諸国に対する侵略
北朝鮮の政治的混迷・・
・日本の株式と国債の暴落と、円安など、多くのマイナス要素が山積である。
中国、ロシア、フランス、韓国などのトップの選挙がある。そのため現体制は人気とりの戦争をやりたがるのは、世のならい。
その意味でも今年は非常に危ない年。恐慌と戦争は、相互に影響をするため二重の危険性がある。 一兆円の70倍が7京。
その不良債権が世界各国に眠っている。それらを何時までもほうっておく訳にいかない。 日本国民の生活も、今後10年で
厳しい状況に追いやられる。それでも日本人は、それに適応するしぶとさがあると信じる。 アメリカに依存してきた日本が、
どこまで独立できるかだが、見通しはよくない。スーパーイヤーの断面をジックリと見ることになる。
ところで次の大地震、どこの国で発生するのだろうか? 
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2011年01月02日(日)
「語りえぬものからの問いかけ」 ー東大駒場〔哲学・宗教・芸術〕連続講座ー
   《「言い表せないもの」の詩学 −チュッチェフ『沈黙』の逆説 ー沼野充義 》の沈黙」
  * 究極の逆説
 ー まずは、沈黙せよと言いながら、沈黙を破り、この文章を書いている矛盾そのものが、以下に書かれている ー
【 ーそもそも「沈黙」をめぐる詩が存在するということ自体、なんだか妙なことではないか、ということなのです。
「何を言っても他人には理解されない、何かを口に出したら嘘になるのだから、沈黙せよ!」と主張している詩人がみずから
 その主張に従ったら、詩は書かれなかったはずではないか。そもそも「沈黙せよ」という主張を言葉によって行なおう
 とすることのうちに、矛盾がひそんでいます。厳密に論理的に考えると、これは「クレタ人はうそつきである、
 とあるクレタ人が言った」という、あの有名なエピメニデスのパラドックスにも似た状況でしょう。
 もっとも、私は哲学にも論理学にもまったく疎いのですが、言語芸術を多少なりとも扱う立場からあえて理屈をつけると、
 その「矛盾」とはこんなふうに説明できるのではないでしょうか。 つまり、
  ;言語とはそもそも「何かを言い表す」ために人間が獲得した道具である、
  ;しかし、その言語をもってしても「言い表すことができないもの」がこの世界には存在する……。いや、ここまでならば、
   特に妙ではありません。 どんな道具にも、どんな技術にも限界がある、それだけのこと。しかし、その先に、もう一つ、
  ;その「言い表すことができないもの」について、それでもわれわれは何かを言い表している、なぜなら少なくともそれが
 「言い表せない」ということをわれわれは言っているのだから、という段階が付け加わると、やはりこれはなんだか妙な事態、
 ここにはどうも解きほどきがたい厄介な問題が含まれているのかも知れない、という気になってきます。
  無意味な屁理屈のように聞こえるかも知れませんが、ある意味ではこの厄介さこそが言語による表現の本質ではないでしょうか。
 言語によって何かを表現しようとするものは必ず、その表現の限界に行き当たります。「言いたいことが自由に言えるから、
 それがそのまま作品になった」とのんきに言っていられる文学者は、じつはまだその限界に突き当たっていないだけでしょう。
 真の創造のプロセスは、むしろその先にあります。「言い表せない」ものに向き合ったとき、それでもなおかつそれをどうやって
 言い表すことができるのか、この観点からすれば、文学的表現だけでなく日常言語でも常に使われる直喩や隠喩、換喩といった
 比喩的表現の数々も、「言い表せないもの」をなんとかして言い表そうとする人類の古くからの努力の結晶ではないか、とさえ
 思えてきます。本来、比喩とはあるものを、それ本来の名前で呼ばずに別のものの名前を持ってくる、という手法です。
 どうしてものや現象をそれ本来の名前で呼ぶことができないのか、それは究極的に、言語が不完全なものだからです。 ー 】
  ==
  沈黙するしかない弱者にとって、「語りえない」はありがたいことなのか、それとも、この言葉に反発を持つのか?
 どうであろう。言い尽くせなくとも、限界の範囲の言葉で残しておく必要性はある。 チュッチェフの詩「沈黙」は素晴らしい!
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3194, 句読点とは妖精のようなもの! ー1
 2010年01月02日(土)
毎日、文章を書き続けていると、文章作法で色いろの問題にぶつかる。といって、誰も教えてくれない。
小説(の書き方)などには、作法の習得は、多くの本を読んでの我流という。「文章の書き方」とか、「小説の書き方」とか
いう講座もあり、経験則を教えているようだが、突きつめると独学しかないようだ。 とにかく量をこなすしかない。 
まずはテーマと構想をたて、とにかく書いていく。そして起承転結の体裁を整えて、その後に、添削するしかない。 
そのプロセスで更に考えるのである。そこで一番の問題は、「 、」と「。」である。 後者は、とにかく三段論法で
「。」で締めればよい。しかし、「、」となると、難しい。 何かの本で、「ね」と入れて、ゴロが合えばよいとあった。
 「片耳の話」秋山駿著、の中に【句読点とは妖精のようなもの】という小項目があった。
ここで「泰西の画家が、裸婦のオヘソを、しかるべき位置に遅疑なく描くには、30年かかったというが、
句読点の置き方にも、それに比されるところがある。」と、あった。  句読点の打ち方に何か法則があるか調べたが、
それは、本人の息のつき方と同じで、決まりないという。 それが読むものにとって、奇異であれば問題である、等等で、
エイヤッと、これまで書いてきた。 量をこなしているうちに、自然と収まるようになってきた。 
裸婦のヘソの位置と同じで「量を書くしかない」ということ。 この文章でも、句読点の位置には違和感がないはず?。 
この随想日記を書き始める前の文章の句読点は、ところどころ変なところで、うってある。秋山駿は、そこで「句読点は、
文章の流れの裡に内在し、言葉の連続の間に出没する、何か妖精のようなものだ。自分勝手にならないし、私の要請を聞かない。
あちらが戯れに出現したり消えたりするーその音調に耳を澄ますしかない。」いうが、なるほど納得する。 
句読点とは、そういうものか。毎日、句読点と闘っているからこそ、その辺は納得できるのである。    −つづく
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2829, 新年に、つれづれなるまま!
2009年01月02日(金)
 *年金でも貰うか
1月15日の誕生日で厚生年金が満額貰える年齢(63歳)になる。65歳かどうか迷ったが、貰うことにした。
といって、月あたり20万円の厚生年金と、家内の給料と、年金が満額まで貰えるまで減額した?万円の私の給料の総額では、
一割ほど手取りが少なくなるが、よしとした。これで会社の役員賞与を350万もカットできる。今年は更なる経費のカットが必要。 
中小企業は辛いが、スリルとサスペンスが面白い! 早く貰わないと、今後日本の年金そのものがどうなるか分からない。
「60歳までに、したいことを全てやってきた」という満足感があるので、金銭欲も、それほど無くなった。
次が家内が厚生年金を満額貰える年齢がポイントとなるが。そういう年齢になったということだ。
 *年始のTV番組
年始の一週間分のTV番組を見ると、どの局も地味なものばかりである。大不況のためスポンサーが節約したのだろう。 
あまり声高に言わないが、2009年は大恐慌突入の年になり、大荒れになるのは周知の事実。といって、どうすることも出来ない。 
大荒れの中で身を委ねるしかない。
 *新幹線がガラガラ
年末の29日・30日の新潟行きの9時前後の新幹線は、例年は座れないほどである。それを覚悟をしたが指定席も、
自由席も三分の一も乗っていない。今までなかったことである。恐らく、高速バスとか、夜行列車とかに分散したのだろう。
 *イスラエルが変
イスラエルの政情が変になってきた。イラン攻撃への一つの動きなのだろうか? そのためか原油が少し値上がりに転じた。
これも計算の上なのだろう。もちろん、攻撃を事前に知った資本が原油先物を買い増しているはず。
こういう時期は戦争に目を向けさせて、思い切った政策を採るのが常套手段である。
 *昨夜は殿町で・・
 (字数の関係でカット2011年1月2日)
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2008年01月02日(水)
2464, ロールモデル             d・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ○〕
ウェブ時代をゆく」−3  読書日記
  著者が見出したという「ロールモデル」という言葉が面白い。
 人間は、自然と色いろな付き合いの中で、何人かの「ロールモデル」をさがし、無意識で真似をしているうちに
自分の個性を作り上げているものだ。技術や文化に関する知識だけではなく、人間の行動パターンでも、
巨人の肩の上に立つことが可能であるという考え方である。企業では、ベンチマーキングという手法でモデルとなる
会社の優位点を真似るが、何故か人間の行動パターンについてはマネをする手法を敢えて取上げない。
子供には、偉人の伝記を勧めるが、大人になると見向きもしなくなる。「ウェブ時代をいゆく」で、「ロール・モデル」
という言葉で上手く手法として提示している。 学生時代に「ロール・プレーイング」という役割演繹をゼミで一年に
わたってしたことがあったが・・・ それは、問題が起こった当事者として解決方法を実例を元にするものだが。
 ーP−119・ 120
 著者の梅田望夫の 『ロールモデル思考法』とは、その答えを外界に求める。 直感を信じるところから始まる。
外界の膨大な情報に身をさらし、直感で「ロールモデル(お手本)」を選び続ける。たった一人の人物をロールモデルとして選び
盲信するのではなく、『ある人の生き方のある部分』『ある仕事に流れるこんな時間』『誰かの時間の使い方』『誰かの生活の場面』
など人生のありとあらゆる局面に関するたくさんの情報から、自分の合うロールモデルを丁寧に収集するのである。
自分の内から湧き出る何かが具体的に見えなくとも、「ある対象に惚れた」という直感にこだわり、その対象をロールもでるとして
外部に設定する。そしてなぜ自分が惹かれたかを考え続ける。それを繰り返していると、たくさんのロールモデルを発見することが、
すなわち自分を見つけることなのだとだんだんわかってくる。自分の志向性について曖昧だったことが、多様なロールモデル
総体として、外部の世界からはっきりとした形で顕れてくる。そのときどきのゴールとなり「けものみち」における灯台になるのだ。
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この思考法は『大事なのは、「自分はこれをやりたい」というものを見つけること。それが人生で一番大切なようだ。
・・自分が何にむいているのか、何がすきなのか、見つけるのはやさしくない。それでも何とか見つけ出さなければいけない。』
小柴昌俊の言葉からそれを見つける方法とは何か?を著者は考えた末に外界の偉人のモデルをみつけ、その行動、
考え方を真似ることを提案した。面白いといえば面白い。無意識で誰もがしてきたことだが・・・
また偶然に、去年の同日に彼の前著の「ウェブ人間論」の読書日記を書いていた。無意識が呼ぶのだろう?( ^_^)/バイ
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2007年01月02日(火)
2100, ウェブ人間論  −1  (~Q~;) おはよう〜〜   ファ〜
この本は確かに面白いが「ウェブ進化論」ほどの衝撃度はない。
しかし二人の対談からウェブの世界の中で人間がどのように変化していくのか、多くの示唆がある内容であり、
ウェブ進化論」のフォローという面では、ベストと言える。面白そうなところの抜粋と意見は次回にするとして、
    まずはー紹介文ーを直接読んだ方が解りやすい。
    ーー
ウェブ人間論 」(新潮新書) 梅田 望夫・平野 啓一郎著
 ー内容説明ー
 (字数の関係でカット2009年1月2日)
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2006年01月02日(月)
 1735, 内福について         オハヨウゴザイマス  o┐ペコ
先年の暮れ、東京のある会で新潟の県民性について話した。「新潟県は一見貧しそうだが、実情は内福な家が多いのですよ。
特に中越地震の被災地区の辺りは、裕福なのですよ。間接的に雪の融け水が豊かな農産物や鯉・畜産にプラスになっている」
といったところ、居合わせた4人がぽか〜ん、として「『内福』という言葉も、字も知らない。如何いう意味ですか?」という。
子供の時から両親が「あの家は地味だが内福だ」が日常用語であったので、知らないということに驚いてしまった。     
そして、その場の‘主の立場’の人が、「貴方のいう内福は豊かとは違う!」と発言。
 それに対して「ヨーロッパのイタリアとかフランス人も、実際の生活は実収入より豊かな生活をしているというが、
彼らは豊かではないと言うのですか?」というと、「豊かとは思わない」という。そこで
「私は家内と、この十数年で三十数回地球の秘境旅行をしているが、これは豊かといわないのですか?」と訊ねると、
「それは豊かといえる。しかし、地味な生活に甘んじて遊びも控えているのは豊かとはいえない」との答え。
それも一理ある。私の従兄弟に一億以上の貯金がある?という噂がある60代半ばの独身男がいる。
見たところ地道な生活をしており、殆どお金を使っていない。< ;`∀´>マジっすヵ!!
この人は間違っても豊かとはいえないし、内福とは言わない。内福という言葉を知らないことが驚きであった。
越後長岡の典型的な方言だろうかと 「検索」で調べたら、小説の一節に「以前は内福であったが、現在はそうでもないらしい」
というのがあった。それからみると方言ではなくて、死語になってしまったようだ。内福は、「収入内でヤリクリして
それなりに豊か?な生活をしている状態」である。これからの日本の生き方のヒントが『内福』の生き方にあるのではないか。
  書店で『300万で豊かに暮らせる方法』みたいな本がならんでいるが。
                      ヾ(●´∀)ノ" また〜♪
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2005年01月02日(日)
1370, 酒についてー3    ∪ヽ(●-`Д´-)ノ彡☆ 酒持ッテコーイ
正月早々、また酒についてを書く。前回書いた「作家の酒についての名言」の続きである。
  感想も含めて考えてみる。
  −−
・酒に限らず言えることですが、人間のつくり出した
 『楽しむためのもの』を、不必要に恐がらずに、みくびらず、使いこなして、
  『楽しむ』ことを覚えれば、それだけ豊かな時間を過ごせるわけでです。
   ー豊かな人生、豊かな青春が。     −吉原幸子 ( ^_^)/q□☆□p\(^_^ ) カンパァーイ
   my感想ーその反対も多く過ごしてきた。 みくびったためだろうが。
・酒は、その土地の文化の結晶なのである。       −田村隆一
   my感想ーその土地土地の酒は、景色、人間に劣らず個性がある。
    新潟の酒、沖縄の泡盛、世界各地の葡萄酒、ビール、そして中国の紹興酒などなど。
     そこの肴を一緒に飲む酒は、何よりも絶品である。
・深まってくる秋とともに飲みたくなるのはやはり日本の酒である。
   一人で部屋で仕事から解放されたあと、魚のひらきなどを焼いて飲む。
    この時のものさびしさは、やはり捨てがたい。        −三木卓
   my感想ーそれで二日酔いをしたら馬鹿?
・女を口説くときは酒はあったほうがいいものだが。が、酒を飲むときは、女は要らないサカナである。−荻昌弘
   my感想ー?   ?!    クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)"
(字数の関係でカット2009年1月2日)
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2004年01月02日(金)
1003, 「2004年日本経済」ー読書日記
  ー円高デフレの恐怖が襲来する。
この人の本はバブル発生時から一貫して「日本経済悲観論者」である。
 中長期的に振り返ってみると、この人のいうとおりになっている。
  ー印象に残った順に列記してみる。
・2005年のペイオフが一つの鍵になる。金融再々編成によって残る大手銀行は二行になる可能性も。
  メガバンク国有化は、日本経済の信用を損なう、そうなる前に再編成をさせる。
・いまのデフレとは、銀行の信用デフレが発端である。 銀行がその役割を終えてしまった。
・さらにリストラ、倒産はつづく。日本経済は根幹から音を立てて崩れはじめている。給料はまだまだ下がり続ける。
アメリカは内部崩壊をはじめてきた。この円高ードル安は、日本では更にデフレ圧力になる。
・EUも深刻なデフレに向かっている。 ドイツ経済が日本化をしていく。
 元東ドイツの住民が社会主義的な政策政党に票を入れ始めた。 その為ドイツ経済は競争力を無くし始めた。
 日本の生産地が中国に移動したのと同じ現象がドイツと元東欧諸国と同じになってきた。
円高は100円を割る可能性を含んでいる。79円も割る可能性も十分考えられる。
 この水準を割り込めば日本経済は完全に息の根を止められる。
 この大不況の中、何とか持ちこたえられたのは輸出のおかげである。 円高はドル安になるといくことである。
 この輸出が円高で激減する可能性がある。またアメリカの国債を持たされた日本は実質の回収が落ちることになる。等々である。
 実際に事業現場に立っていると、この内容は決してオーバーに思えない。新潟駅前の夜は、火が消えてしまった
 ように静まり返っている。 何処の会社も経費節減の為に2時間以内は日帰り圏にしてしまった。
 この数年間でビジネス客は3分の1に減ったという統計も出ている。「2003年日本経済」では副題はー世界恐慌の年になる!
 であった。実際のところは恐慌にはならなかった。だから「今年は、この人のいう通りにはならない」と考えるのはおかしい。
 この本では人口の問題には触れてない。 数年先から、本格的な人口の減少が続く。他には若い人の質の低下の問題がある。
 まだ何とか持っているのは、団塊の世代が踏ん張っているからである。 こと日本に関しては悲観的材料が多すぎる。
 生存対策をまずは第一にしなくてはならない時代である。この情報化社会は世の中を激変させている。
 健康食品も本も、インターネットで注文するようになった。近く「ユニクロ」があっても、インターネットで注文をする。
 電化製品も必ず「価格ドットコム」で最低値段を調べて、近く大販店で値段交渉をするようになった。
 まさかこんな時代をみることになるとは思ってもいなかった。
 大不況になっているのではなく、違う時代への過渡期の整理過程と見るべきなのだ。
 整理されないよう自分を変えていくしかない。 会社も自分も社会もである。