* 三鷹‘蝦蟇屋敷’界隈             「異郷日記」西江雅之
  何処にでもありそうな話だが、フィールドワークの言語学者が書くと、これほど面白い物語になる。私の去年春の見切りに対する
「下衆世界」の尾ひれ羽ひれの話も大方、想像できる。だから城下町の地元に帰って来てからは徹底的なアウトサイダーを決め込んだ。
 片田舎の城下町界隈の話の縮小版が、そのまま以下である。  ーその辺からー
≪ その後、わたしは"なごみ"の常連のようになった。掘っ立て小屋といってもよいような雑な造りの店内には、粗末な木製の椅子が
 わずか七つ、いつも下駄ばきの大塩さんがカウンターの内側で、ガス台の傍に置いた小さな椅子に俯き加減の姿勢で座っているだけでも
満杯といった極く小さな店である。客層は平均年齢五〇歳。なかには口の悪い強烈な酔っ払いも多かったが、誰もが一国一城の主を
自負しているような人物で、政治や文学、演劇などについて、相手構わず勝手なことを話していた。 ・・・(中略)
 その"なごみ"の大塩さんが店からブイと姿を消したのは、わたしが蝦墓屋敷に住みついてから数年経ってのこと。
常連の一人から聞いた話では、ある夏の日の夕方、一杯飲みに行こうと思い立って店に行くと、入り口が閉まったままになっている。
しばらく時間をおいて再び店に行っても、入り口は閉まったままである。休業の張り紙もなく妙だと思ったという。 その数日後、
大塩さんは幾駅か離れた町の病院で発見された。彼はそこで亡くなったのである。身元が分からないまま亡くなったので警察沙汰になり、
やっと身元が判明したということだ。この出来事を巡って、近隣の飲み屋では当然のことながら盛りだくさんの噂が出た。
真相を知っている者、真相を知りたいと思う者。好奇心に駆られた連中が、一時的に増えた。それだけで売上げがあがったと言われた
店もあるらしい。自殺説も多い。不治の病に悩んでいたという説、発作的な行為だったという説、皆が知らない所で何者かに脅かされて
いたという説、陰で巨額の借金があって悩んでいたという説、およそ皆が思いつく説が出揃ったころ、話題は自然に消えた。
わたしは彼の死の原因はまったく知らない。しかし、巷の隅で彼の死が話題となったころ、引越しの初日に。なごみを紹介してくれた
"稲穂"の女主人に路上でバヅタリ出会った。「あら!」と言うなり、「あなたも大変だったでしょう。数十万円の借金が、一瞬のうちに
パーになって困ったんですものね」と切り出した。 わたしには話の脈絡がまるで掴めない。だが、話を聞いていると、‘なごみ’の
主人は人知れずかなり多額の借金を何人もの常連からしていたらしかった。そして、わたしもその被害者の一人とされたのだった。
「借金のことなど、あの店で聞いたことは一度もありませんが」と、わたしは言った。「そうですか、あの方、やはりお金を借りられ
そうな人を選んでいたんですね」と、"稲穂"の女主人は、なんだか私が金のない人物であることを確認したかのように言った。
それは事実だが、とにかく大塩さんからは借金の話など聞いたことがないのも確かだ。しかし、もし噂が本当だとしたならば、
いつ見ても同じような質素な服を身につけ、今にも壊れそうな粗末な丸椅子に腰を下ろし、無口に客に応対していただけの人物が、
何百万円という金を如何なる目的で、誰のために手にしていたのかは不思議である。その後、ほどなくして、同じ路上で出会った
飲み仲間から「知ってますか?"稲穂"のママが亡くなったんです」と、話しかけられた。わたしは彼女の死因も知らない。
どうやら持病が元で、病で亡くなったらしい。 ≫
 ▼ 地元から車で一時間半に高田城下町や、新発田城下町がある。そこでは昔からの生活があり、土着の人間関係が長い町の歴史とし
  脈々と続いている。そして私の住む町の長岡城下町も同じである。 新発田出身者がUターンで帰り地元に住み、新潟で仕事を
  するとしたら、当然、地元の人間関係に深入しないのが生活の知恵。それと同じパターンを私も新潟で仕事、住むのは長岡にと、
  当然とってきた。しかし、仕事を終え、長岡だけの住処になると、そこは、江戸時代からの血筋とか何とかの暇人の小さな人間関係が
  続いている、がんじがらめに縛らた世界。上記のような魔女狩りのような噂話の丼池。そこが地元民の全世界、象の皮膚のヒダ世界。 
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3843, 閑話小題
2011年10月03日(月)
   *  つれづれに ー老後とは
 母親が38歳、父親が42歳の時に生まれたため、子供の時から二人の壮年から老年への移行期の姿を見てきた。
家は商売をしていたので、まず生存をしていくベースを確保する必死さが幼児の頃から生で伝わっていた。
生まれた時から毎日が戦争の真っ只中のような日々。 サラリーマン家庭からみたら異状の生活環境である。
ある意味、60年たった現在、やっと緊迫した日々から開放された日々になった。 逆に生涯殆ど勤め経験がなく、
独立独歩で生きてきたため、緊迫感が少し薄れただけで、勤め人が定年後に感じる「自由の不自由さ」は全くないのも事実。
 家に一日中居ても、家内の視線以外には、何の抵抗感も、何をして良いのかの戸惑うことも、皆無である。
元もと、商売上の付き合いも最小にしてきた上、肩書きを持ったら誘いがくるような慈善団体に入ったこともないし、
その中で威張ったり、競う相手の存在も殆ど居ない。 自分が自分であるために妨害するものは初めから振り捨ててきた。
それが多くの人たちに誤解を与えてきたが、自分が自分であることの方が良いのは、長年の読書で分かっていた。
そのためか、この生活の変化に大した違和感は少ない日々になっている。 元もと老後というだけか!
  * ゴッドファザー
 ゴッドファーザー?・?を一昨日、WoWoWで日本見た。 30数年前の封切りを映画館で見てから、TVで何度か見ているが、
その年齢ごとに受けとめ方違ってくる。 内容はギャング映画だが、権力の集中と決断をテーマにしたマネジメントそのもの。 
封切当初は、そのギャング世界の迫力と殺しあいの生々しさに世界中が驚きに沸きかえった。 人生経験を積んだ後にみる、
二代に続くマフィアのボスの物語は、また違って見えてくる。 事業の立ち上げと、その盛衰を経験してみると、あの緊迫感は
事業とて同じこと。 現在では家具とか、装飾にも目がいくが、ファミリーの人間模様が面白い。 
映画そのものは、やはり名作中の名作。7〜8年に一度は再放送されるが、名作は何度見ても、その都度、新鮮に感じる。
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3478, 15年前の韓国・国家破綻のすざましさ! ー1
2010年10月03日(日)
 ある月刊誌の「15年前の韓国・国家破綻のすざましさ」の実態のレポートを読んで愕然とした。
 「今すぐ取り組め生活防衛のための五箇条ー韓国に学ぶ国家破綻の恐ろしさー」
 15年前にIMFの管理下の置かれた韓国の姿は、日本の近将来図とみるべきだろうか。まずは、その一部から・・・
・韓国経済は、急成長していて1995年にはGDPの実質成長率が9%。だが、アジア通貨危機の波をモロにかぷり、
 98年には一ドル700ウォンだった通貨が、97年夏には900ウォンまで下落、11月には1000ウォンを突破し、
 98年には2000ウォンにまで下落した。三分の一である。
・この時、韓国には30ほどの財閥があったが、韓宝、起亜、三美など名だたる財閥が次々と破綻。
 さらに、銀行も次々と破綻して約半分になり、残った銀行でも、従業員の半分をリストラする過酷な再建策を断行。
・企業も、約半数が破綻し、何とか残った企業でも大幅なリストラが行われたので、たちまち失業者は150万人を超えた。
・混迷した状況にさらに拍車をかけたのが、IMF(国際通貨基金)の財政再建策。 破碇した韓国経済はIMFの管理下に置かれ、
 IMFから金を貸じてもらい、その代わりに緊縮財政を迫られた。IMF財政赤字を減らして為替を安定させるため金利を上昇させたので、
 韓薗経済は大不況に突入した。健康保険などの社会保障は機能していたが、健康保険対象外の病気が多くあったため、収入が激減し
 家庭では病院に行くのをあきらめる人が急増。病院は患者が激減し、背に腹は代えられないと24時間診療する病院も出てきた。
・通貨が下落したことで、輸入に頼るガソリン・軽油などが暴騰したため、車に乗らない人が増えて道路は閑散とした。
 寒い中、灯油価格も高騰したので、人々は寒さに震えた。
・大学を卒業しても就職先がないので、そのまま大学院に進んでキャリアアッアする学生が急増したために、
 それまでガラガラだった大学院の入学競争率が二倍に跳ね上がった。
・いっぼうで、会社をクビになり、再就職もできず犯罪に手を染めるサラリーマンも急増。治安は極端に悪化し、詐欺も横行。
 混乱と不安が増す中で、テレビからは娯楽番組が消えた。こんな大変な時に不謹慎だという投書がテレビ局に殺到したからだ。
 破綻から一年間は、先が見えない中で、庶民の顔からも笑みが消えた。
 ▼ この続きは次回として現在の円安で300円になるというと、まさかと誰もが思うが、韓国では既に起こってしまった現実である。
 失業者も日本の人口の半分として、日本で300万人というと、これまた信じられない数になる。
 日本の政治も経済も自己コントロール不能となれば、韓国と似た道を歩くしかない。金利も今のところ1〜2パーセントだが、
 これも何時どうなるか分からない。隣国と臨戦状態の韓国と海に囲まれノンビリ構えている日本と、あまりに違う。  ーつづく
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3103, 終わりなき旅
2009年10月03日(土)
 「心に残るとっておきの話ー第九集」 
    ー終わりなき旅ーより
 これを読んで、深い何かに覆い包まれたような気になった。頭に残ったまま私の言葉で、その内容を書いてみる。
≪ ツアーに参加しようと飛行場に向かったが交通渋滞でギリギリに飛行機に乗ることになった。殆どの同行の人の顔も知らないまま
 飛行機の席に座ったところ、近かくの席の60代の初老の夫婦が赤ちゃんの世話をしていた。孫にしては両親がいないのでオカシイ
 とは気になりだした。スチュワーデスが声を掛けたが、赤ちゃんを見て変な顔をして行ってしまう。周りの人も何か変な雰囲気。
 そして飛行機を降りたところで、その赤ちゃんをみたら、何と人形だった。そのツアーの人たちは気持ちが悪かったのだろう、
 誰も近くに寄らない。ところが食事のおりに同席したところ、その初老の人が「変だと思うんでしょうね」と、事情を話し始めた。
 「二人とも教師だったが、なかなか出来なかった赤ちゃんが、やっとのことで授かった。ところが直ぐに亡くなってしまい、
 そのショックで妻は自殺を図ったりした上に、精神を病んでしまった。 その精神治療のために医師と相談した上に、せめての
 慰みにと人形を身代わりにして10年、衣服を替えたり、食事をしているふりをしたり、生きているように扱ってきました。 何で、
 こういう話をするかというと、あなたが初めて食事で同じ席についてくれたからです」という。それを聞き返す言葉がなかった。≫ 
 ▼ 大筋は、こういう内容である。何か、その二人の姿が目に浮かぶようである。 今でも何処かに三人で旅行しているのだろうか。
 ツアー、それも秘境ツアーには、色いろな人と出会う。 人生の甘いも辛いも味わいつくし、さて、あの世に行く前に
 チョッコラ世界の果てでも行ってみるか、みたいな人とか、博識の人とか、色いろな人生を背負ってくる人が多い。
  この二人の背負った運命と、ツアー舞台の組み合わせが、何とも悲しみが直に伝わってくる話である。
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2738, フォードが4ドル、GMが9ドル!
 2008年10月03日(金)
 アメリカ株式市場で史上最大の暴落で金融恐慌の様相を示してきた。この影響で世界中の株価が暴落を始めている。
それにしても、火の手のまわりが早いのに驚かされる。 今回のサブプライム問題は1〜2年で収束するほど生易しくない。
火の手が早まれば銀行閉鎖など何が起こるか分からなくなる。アメリカは、この火消しにドルの輪転機をフル回転すしかない。
その結果、金融破綻というハイパーインフレが待っている。欧州では、次から次へと銀行の国有化が始ったというし、
取り付けが静かに進んでいる。金融システムの崩壊は、まず弱者に皺寄せがくる。 一波として大量の倒産が数ヶ月後に始る。
身一つで山の上に逃げなくてはならない具体的な行動とは、金を買うぐらいのことしか思いつかない。
情報化社会は以前のような情報コントロールが不可能になる。今年に入って、悲観的な本を何冊か読み、資産防衛セミナーで
知ったことは、あまりに危ない世界経済の実態。この半月だけでも、劇的な世界の銀行の破綻と、再編成が生じている。 
これは既に金融恐慌である。世界恐慌に入ってしまったと仮説をたてて、現在の動きをみると、一連の動
   (字数制限のためカット2010年10月3日)
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2007年10月03日(水)
2374, 人は60歳で何をしたか −3                 
  「人は60歳で何をしたか」藤原治・著    ー読書日記
著者・藤原が60歳の時に「人は60歳で何をしたか」の本の準備をしてことになり、それ自体がユーモアに聞こえてくるし、
本人が一番勉強になったはずである。それにしても、選りすぐった人たちとはいえ、そのエネルギーは強い。
彼らに一致しているのは、この時期は「起承転結」の「結」の時期ではなく、起承転々の「転」である。 
最後まで転げまわるのも良いものである。この本では、古今東西の大家の「60歳の時点」の創作を具体的に提示して、
そのプロセスで、その人となりの精神を現わそうとしている。 著者は私と同じ年齢になるが、比べようもない
知識の広さと深さに大きく溜息をつきながら読んでいる。 それよりも紹介されている人たちに驚かされる。
比較しようということ自体が、おこがましいのは解っているが、それでもである。殆どの本がそうだが、「まえがき」に
多くの著者が言わんとすることが凝縮してある。その中に「定年退職する人には、職探しの前に自分探しをする人が多いという。
企業を離れたとたん、個人としてのアイデンティティの確認に苦しむという話をよく耳にする」とあったが、解るような気がする。
会社という制服を着てきた人間が、それを脱いだ時に初めて自分に直面する。自分=「私」は哲学的にいうと、過去のトータルの
「・・」である。それが制服を脱いだと同時に自己喪失感にとらわれ、個人としてのアイデンティティの確認を求めざるを
得ないのは当然のことである。 その辺のことを、この本の中では解りやすく説明している。
 ー P・7
それまでの自分は、会社の規範の中で生きてきた。異動や転勤があり、人生の生き甲斐も家庭の悲喜も、
会社の意思で決定された。そのような企業組織に対する依存度が高い人ほど、人生が変わってしまうのが定年。
会社の出世コースを外れた人ほど、第二の人生を生き生きしているという。 そこで生き甲斐を見出せないためか、
会社以外に自分探しをしているためである。還暦とは、稀有な長生きの先に、僥倖として新しい人生が開けたという考え方だ。
60歳まで無事生きれたのだか、これを契機に新しい人生を生き直してやれというから、哲学的な概念である。
定年はそれまでの縛りがなくなることだが、還暦は新しい人生を生き直すことである。
なら積極的に新しい人生を探してみて、第二の人生を深くしていって方が良いに決まっている。
 ー P・8
精神科医の中沢正夫は、その著書『人生が二度ある』の中で、
第二の人生計画を練るにあたっての原則を次のようにまとめでいる。
1、第一の人生のなかでの自分とは、自分にとって何であったのか、見きわめること
2、何をしたいのかは徹底的に個人主義的に考えること、配偶者にもそうしてもらうこと
3、計画は終了・完成を目標としないこと  4、道草・浮気の旅を心がけよう
5、働くこと、社会参加することを中心に  6、世にはばかるパワフル・シルバーに
7、挑戦を一つ入れること         8、記録をのこそう
9、早めに計画をたてる         10、もう遅いという人へ
これに加えて自分探しの要諦について、評論家の佐高信は「会社への『離塁感覚』を持て」といっている。 
作家の堺屋太一も「職縁から離れる時だ」といっている。この離塁感覚というのは以前の組織にいた時の自分を引きずるなということ。
あくまで自分の頭で自由に決めることを前提に、自分探しをすべしということであろう。
考えてみれば会社を去るわけだから、束縛されるものはもう何もない。 時間の過ごし方も、考え方も、
自己を規制するルールもまったくないのである。ある意味で、こんな幸せなことはない。
とはいえ、具体的にどうすれば自分探しができるのか。初めての経験だから、途方に暮れる人も多かろう。
僕は気に入っている作家の60歳の著作を書斎で探してみた。文豪といわれた人たちが、60歳という人生の切れ目で
なにをしたかを調べたくなったのである。通常、著作の是非は内容で諭じるもので、60歳という視点で各分野の作品を
斬ることは、おそらく誰も試みたことがないように思う。その還暦調査を手掛ける前に、実はふたつの予感があった。
一つは、巨匠たちが節目ということを意識して、 自分の代表作をものにしているのではないかという予感。
二つ目は、この調査が新しく第二の人生を模索する人たちの、参考資料になるのでは
 という予感。そして、調べていくうちに、二つの予感が正しかったことを確信した。
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 以上だが、過去に何回も書いてきたが、座卓犬が突然、首輪をとられ家の外に放り出されるようなもの。 
 家の外は、誰も見向きもしないし、何処の犬だったなど通用しない。そうすると放り出された野犬の群れに入るか、
 他の家の屋外犬として軒先に入るしかない。それともさっさと一匹狼として、街の外に出て自然の中の餌を探すか。
 逆に考えれば、そのまま老いた座卓犬でいるより、余程よいかも?
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2006年10月03日(火)
2009, ドイツ病に学べ
    (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ
毎日新聞」の日曜日(10月01日)の、ー本と出会う=批評と評論ー の「ドイツ病に学べ 」の評論がよい。
「日本に次いでGDP世界第三位を誇ったドイツが、EUのお荷物となっている」
 というニュースは何度か目にしてきた。その詳細が現地に住んでいた著者の眼で書かかれている。
*その惨状といえば、19パーの消費税、実質16パーという高失業率、リストラ、旧東独の苦闘、 高い給料と強すぎる労働組合
旧東欧諸国に逃げ出す企業、年金制度、等々 問題が山積みである。「まだまだ日本は、ドイツに比べたら恵まれている?」とさえ思える。
しかし、現在の日本に酷似しているから驚きである。それにしても、東西冷戦時代の優等生だったドイツと日本の凋落は激しい!
(以下は字数の関係でカット08年10月3日)
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2004年10月03日(日)
1279、イチロウの大記録
それにしても、イチロウの記録には驚いた。絶対無理といわれていた257本のヒットの記録をついに破った。
これで、歴史に残るスーパー・スターになった。相手チームの選手も祝福してくれるのだから、それだけ凄い記録ということだ。
これほどの歴史の残る大記録を、日本からの輸出品(完成品)で通用したことは、驚くべきことである。生のドラマを、劇場的雰囲気で
見れるのだから素晴らしい。昨日は、この試合を初めから終わりまで見た。野球の試合をフルに見たのは、数年来初めてである。
イチロウが初めて打率を日本でトップをとった20歳の頃、森・元監督が、あるセミナーで「王や長島より数段上の天才バッター」
といっていたことが頭によぎる。しかし、ここまでの大選手とは思ってもいなかった。以前にも書いたが、彼のある言葉に注目をした。
ートップクラスの投手の一番得意の決め玉を待つ、他の選手は得意球を避けて甘い玉の来るのを待っているが、自分は違うー
超一流の投手なら、驚くだろう。「奴は俺の得意玉を待っている、挑戦をしようというのか?」「それなら、受けて立とう!」と
いかないのが、人間である。今だかって、その経験がないからだ。相手が、得意の玉以外を待っているから、得意球が効果を上がるのだ。
    (字数制限のためカット2010年10月3日)
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2003年10月03日(金)
912, 開発部門ーベンチャー
 人間も組織も、自然に任せておけば、「最良」を避けて「良」だけをする。いや良だけでなく、悪をする。
そこで「組織にとって最良とは何かを考え実行する部隊」となる職種とはなんだろうと考えたら、開発部隊であろう。
それも3年〜10年後の新しい事業の開発行為を専門に動く職種である。 これを組織的に創るとしたら、「経営・戦略開発室」
いや「経営企画室」である。ラインやサービスとは独立をして「情報と経営・戦略の立案」に専従する職種だ。
組織的ベンチャー部門ということ。この激変の時代、常にその変化に対して自己革新を続けなければ、すぐに陳腐化をしてしまう。
そのこと自体も判らなくなるのが組織いや人間というものである。
 ところで、8月21日から開発専門を一人独立をさせた。毎日、情報とりを開始をした。勿論、ラインの仕事を一切なし。
新プロジェクトの開始である。 二年前と三年前に一ヶ月間だけ期限を切って、二人に開発休暇を与えた。期限を切れば、
ラインの視点を超えることができないことに当時は全く気がつかなかった。悪く言えば、本気にはなれなかったのも当然である。
開発の必要性に気づきだしたのに、あと一歩であった。問題の大部分は組織図にあるというが、その通りだ。
人間そのものの素質という面もあるが、システムー仕組みの問題点として問題点を捉えてみるべきだということだ。
 開発行為は『外』に対する働きかけて新しい事業チャンスを模索することだ。自分の庭の中には地表深く掘り下げれば
多くの金塊があるかもしれない。それに気づくためにも、一度外に働きかけなければ。少なくとも事業に関しては、
庭の中にいては何も見えてこない。 小さい会社は社長そのものが一番の仕事になるのだが。
 金物屋はホームセンターには変身不可能である。それまでの常識がバカの壁になってしまうからである。
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[170] 忘れられないお店ー2    2001/10/03
その店(池津屋)で10年生活した事になる。すざましい日々だっだ。その後長岡駅裏の台町の今の‘父ちゃんラーメン’のところに、
高校を卒業するまでの8年住むことになるが。衣料のデスカウントハウスのはしりで、全国的にも有名な店であった。
‘1Fが店’‘2Fが荷捌きと倉庫と事務所’‘3Fが住居’‘4Fが直しと女子寮’になっており、全宇宙が圧縮されているよう。
ネコのタマとサルのタローと犬のコロが同居していた。 そのビルと大手通りが私の遊び場であった。 かなりマセタ餓鬼だったと思うが、
誰にも可愛がってもらった。特に綺麗な女社員が入ってくると、ぴったしくっついていた。競合店が出ると子供心に心配で一人偵察に行った。
毎日の売り上げが気になり、必ずレジを覗いていた。両親が従業員の評価をしていると聞き耳を立てて聞いていた。
倒産夜逃げはごく当たり前の日常の話題であった。今でも年に2〜3回はその頃の夢をみる。でもクリスマスといえば皆でツリーを作ったり、
正月は家族と従業員全員集まりご馳走を食べたりして年越しをしていた。