「呪いの時代」内田樹著 
  * 「リスク」と「デインジャー」の二種類の危機       ー第10章 荒ぶる神を鎮めるー
東北大震災は想定を超えた千年に一度の事故。それでも東北は地震対策を最大限していたので、最大規模の地震津波にしては、
これでも最小の被害で済んだ。 しかい太平洋沿岸で近い将来、必ず大震災が起こるというから、大変な事態である。 
恐らく、日本経済を先導してきた東海地区も工場の移転が始まることになる。日本は、ますます疲弊することになる。
  ー以下の、「リスク」と「デインジャー」が分かりやすいー
≪ リスクレというのはコントロールしたり、ヘッジしたり、マネージしたりできる危険のこと。「デインジャー」というのは、
そういう手立てが使えない危険のことである。喩えていえば、W杯のファイナルを戦っているときに、残り時間1分で、1点の
ビハインドは「リスク」である。このリスクは監督の采配や、ファンタジックなパスによって回避できる可能性が辛うじてある。
一方、試合の最中に、ゴジラが襲ってきてスタジアムを踏みつぶすというのは「デインジャー」である。
対処法は「サッカー必勝法」のどこにも書かれていない。だが、そういう場合でも、周囲の状況を見回して「ここは危ない、
あっちへ逃げた方が安全だ」というような判断ができる人間がいる。こういう人はパニックに陥って腰を抜かす人間よりは
生き延びる確寧が高い。でも、いちばん生き延びる確率が高いのは、「今日はなんだかスタジアムに行くと厭なことが
起こりそうな気がするから行かない」と言って、予定をキャンセルして布団をかぶって寝ていた人である。9・11テロの日も、
「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気分がした」のでビルを離れた人が何人もいた。彼らがなぜ危機を回避できたのかを
エビデンス.ベースで示すことは誰にもできない。・・・
 ・・・ 東北大震災で、助かった人は、それが単なる偶然であり、生き延びたことに『理由』を求めるのは愚かなことである」と
言うような発言をしてはならない。それは死者を二重に穢すことになるからである。私たちがもし幸運にも破局的事態を
生き延びることがあったとしたら、私たちはその都度「なぜ私は生き残ったのか」と自問しなければならない。
「他ならぬ私が生き残ったことには理由がなければ済まされない」という断定は誇大妄想でもオカルトでもなく、
人間的意味を「これから」構築するための必須条件なのである。だから、WTCをテロの直前に離れた人が「なんだか『厭なこと』が
起こりそうな気がして」というふうに事後的に自分の「異能」を発見するようになるのは当然のことなのである。そうすべきなのである。
私が生き残ったことに意味があると思わなくては、死んだ人は浮かばれないからである。誰かがそう思わなければ、被害者たちは
殺人者の恣意に全面的に屈服したことになる。そして、その断定を基礎づけるためには、自らの責任で、長い時間をかけて、ほんとうに
デインジャーを回避する力が人間には潜在的に備わっている」ということを身を以て証明しなければならない。だが、私たちの社会は
戦後66年間あまりに安全で豊かであったせいで、危険をすべて「リスク」としてしか考察しない習慣が定着してしまった。
デインジャー」に対処できる能力はどうすれば開発できるのかについての「まじめな議論」を私はかって聴いたことがない。≫
 ▼ 去年春の事業の帰結は、9・11テロと、9・15リーマンショックと、3・11東北大震災の「デインジャー」によるが、
「リスク」レベルの要素が無かった、とはいえない。 それでも、当初からの事業設計に万一の「デインジャー」対策を組み込んで
いたので、九死に一生を得ることができたが? 「家族経営はしない(妻子を事業に入れない)」「家内の通帳は別だて」。
「予備資金の積立」は、9・11による売上減で青くなり、始めたばかり。これを一部でも使いざるを得なくなった時は、迷わず廃業と
決めていた。御陰で事業をたたみ裏山に辿り着いたが、下を見るとノンビリとした世界が見える。外海の超大津波が見えない!のである。
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3832, 毒を溜めない! 日々 ー2
2011年09月22日(木)
  * 言葉の毒は、人も自分も殺す魔物
 脳に毒が溜まる原因となる「毒のある言葉」を平気で話す人がいる。という私も、その手になるか。 怒りは感情の動物、それは仕方ない。
しかし、その場限りにすればよい毒言葉を、何度も何度も繰り返す。そのうち、その言葉がヘドロとして心に溜まり支配されたときに、
「怒り」が「怨念」に変わる。それは本人にとって猛毒になる。 怨念は相手を殺すが、自分も同時にやられる。「人を恨めば穴二つ」である。 
 9・15のリーマンショック以来、会社の売上の激減が続いてから、身近に中村天風の「箴言集」をトイレと、書斎の机近くの本棚に置き、
ことあるごとに読んでいる。状況が状況、どうしてもマイナーの気持ちになるが、天風の言葉は、それを半減させる効用がある。
何ども読み返すと、その味わいが深くなるのが天風の言葉。 天風の本は20数年前から読んでいるが、歳を重ねるほど心に響いてくる。
老化は人の心を冷やす働きがある。人間の肉体も生(なま)もの、古くなれば傷んでくる。 長く生きた分、娑婆の家賃は高くなって当然と
痛みを受け入れるしかない。マイナス言葉が特に人間の精神を蝕んでしまう。 しかし精神が傷むからマイナーの言葉に支配される側面もある。
人間で一番大事なのは健康だが、それに劣らずに大事なことは「驚く心」。 何にでも興味をもって、その存在に驚くこと。
「存在」と「認識」への原初的な問いかけである。「あれは、こう、それは、こう」と、何を見ても分かったと思い込んでしまうのが老い。
若いのに老化してしまっているのが大部分? 無知は老化に極似している。 家族や身近な人などの刷り込みで壁をつくりあげられている。 
それを一つ壊している間に、他の壁が、さらに立ってくる。 その壁が人間の脳には毒になる。 言葉は恐ろしい魔物の側面がある。
特に他者への侮蔑の言葉は、その人間の限界を明確に浮きだたす。 相手を傷つける数倍も自分を傷つける。それは弱者の武器になるが、
自分自身に対して返り矢になる。 特に老醜は心しなければならない。愚痴と怨念がそれだ。それにしても毒が底から沸々湧いて出る。
それを常に浄化しておかないと顔に出る。 やはり宗教しかないのか、人間は! 明るい天国か浄土のイメージが毒を消してくれるのか?
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3467, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー11
2010年09月22日(水)
  * アフリカに魅せられて ー5
 アフリカは、ケニアタンザニアに4回。 南アフリカ、西アフリカ、モロッコ、エジプト、それぞれ一回、そしてイスラエル
コースでシナイ半島に立ち寄った一回を含めて9回行ったことになる。あとエチオピアか、マダカスカル島に行きたいと思っている。
アフリカの魅力は手付かずの大草原と、そこに住む野生動物と原住民。それぞれの部落で社会形成が成されていて、彼らと我われの社会と
何が違うのだろうか考えさせられる。 父親がいて、母親がいて、子供がいて、それぞれの家庭がある。そして集落があって、酋長がいて、
一族を束ねている。その視点で現在の自分が住んでいる社会と何が違うというのだろう。ポストモダン主義は、それを指摘した。
現象の背後にある構造から、これまでの欧米=先進国という思い込みを根こそぎ疑問を持ち、未開発地域の人たちにも同じような文化が
存在している事実に注目した。戦国時代、そして江戸時代の日本に日本を訪れた宣教師や商人が、日本の文化レベルの高さに驚愕した
手紙などが記録で残っている。それがアフリカのマサイ族の部落などから感じ取ることが出来るのである。それはアフリカだけでないが。
初めてアフリカに足を入れる前までは、恐ろしく未開発で、文化程度の低い地域と思い込んでいた。しかし、サバンナで出会うマサイ族の
衣装と野生動物から身を守るために持っている槍の取り合わせは、決してパリの美しい女性のセンスにひけをとらない。
サバンナの背景にピッタリで様になっている。彼らは彼らで何処かの街の市場で、自分に似合った柄の羽織?を買い求め着ている。
それを上から視線で見る輩もいるが、現地でみれば自分の無知を知ることになる。 その視線で自分に流れている日常を見直すと、
小さな自分の世界を見直すことができるのである。
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3092,つれづれに ー閑話小題ー
2009年09月22日(火)
  * 自民党総裁選挙だと!
 民主党が政権を取り、自民党が新たに建て直しのための総裁選挙が始った。早くいえば敗戦処理のための一期だけの総裁である。
三人がTVで議論をしていたが、民主党の閣僚の斬新さと比べたら明らかに見劣りがする。勝てば官軍、負ければ賊軍で、まともなのは
河野太郎だけで、二人はボケ。派閥領袖達が談合の結果、谷垣禎一を総裁にするために西村康稔をワザワザ擁立したのはミエミエ。
その筋書きを国民が見ていることを老害連中には理解できないのである。 恐らく谷垣になるのだろうが、その方が日本にとってよい。 
それだけ自民党が嫌われ、立ち直りが遅れるからである。今のところ政権交代は現在のところ、それを選択した国民の方が、驚いているはず。
数年間は自民党の、これまでの悪臭が際立ってくる。 官僚に牛耳られてきた結果の腐りが、である。
  * 図書館にて
 昨日の午後に自宅近くの図書館に入ったところ、入口近くカウンターの7〜8人の館員が一斉に私を見ている。
それも全員が立ち上がっていて氷ついている。 一瞬何ごとか竦んでしまった。 次の瞬間、一人の男が怒鳴りだした。 私が入って来たので、
中断したようだ。 ホームレスのようで目が据わっている。何かの欝憤を晴らしているようだった。 対応が悪かったのか?館内でトラブルを
起こして追い出され悪態をついたのか? ところが「俺は長岡高校が大嫌い」だとか、要領を得ないことをいっている。二メートルほどだったが、
強盗でもないので無視をして本の返却をした。あの館員達の顔からしたら、かなりの剣幕だったのだろう。館員が受付の外で対応していたが、
ああいうのは相手との間隔をつめて身体を逆に密着すると、相手も気が飲まれる。 それにしても、銀行強盗に出くわしたような雰囲気だった。 
ホテル業は1〜2年に一度、流しのヤクザが因縁を創作してトラブルの演技で金を強請にくる。
また酒に飲まれた機嫌の悪い客が怒りをぶつけてくる。現場は、本当に大変である。 
  * 5連休か〜
 秋の5連休とかで、高速道路の千円効果もあってか春のゴールデンウィーク並みのようである。この不景気の中、観光地は思わぬ特需で
息をついているという。私の方もだが。高速道路の無料化は地方にとっては大きなインパクトになるだろう。さっそく「知人の奥さんが
4名で東北まで一泊で遊びに行ってガソリン代と往復2千円を加えて、割ったら一人当たり交通費が二千八百だった」とかいう
話題が入ってきた。そうこう考えると、高速無料化は日本全体にとって莫大な経済効果をもたらすだろう。
学生時代のゼミの後輩が、その火付け役である。さぞ、鼻が高いだろう。
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2727, ザ・オオズモウ
 2008年09月22日(月)
  *大相撲が面白い!
 ロシア人力士の麻薬事件と理事長辞任の異常事態の中で大相撲が始った。一場所を中止をする位の大事件なのに、
それ以上は騒ぎ立てなかった。ロシア人が不服を申し立て、そこに注目させた戦術が良かったようだ。 所詮は、その程度。
これからも次々に同じような問題が起こるだろう。大相撲の始まりは、神社の神事で力自慢の余興から始った。 
歌舞伎と類推すると、その本質が見えてくる。その意味では、外国人に開放したことで割り切るべきは割るきるべき。
歌舞伎に外国人開放したと同時に、それは「ザ・カブキ」に変質してしまう。柔道が「ジュウドウ」に変わってしまったのと同じである。
大相撲は、「ザ・オオズモウ」になってしまったのである。それが不可能なら、システムそのものを変えるべきである。
それと「国技」とかいう名前も返上すべきである。外国人の総量規制を一部屋一人ではなく、一国一人とし、20人以内にすべきだろう。
一年に2度位、それぞれの部屋単位でドーピング検査をするようにして、問題が発覚する前に処分するべき。
もちろん、抜き打ちは当然に徹底すべきである。日本人と外国人のマリファナに対する罪悪感が違うから、尚のこと徹底すべきである。
  *立ちあいの厳格化で、朝青龍が引退?
 最近になって気力が衰えていた朝青龍が、両手を確実についての立ちあいのため不調である。この力士の特技が立ちあいの張り手である。
下位の力士が横綱に張り手は出来ないのを逆に利用して張り手を武器にしていた。地位を利用した戦術と感心していたが、両手の手つきでは、
張り手がやりづらくなった。これで、力が半減してしまう!数場所以内の引退もあるだろう。新たな戦術をつくりだして再出発するには
気力が衰えている。しかし、ヒール役としての彼の役割は、あまりに大きい。前の理事長が擁護していたから、あれだけの不祥事の中、
引退をしないで済んでいたのだから、これまでの所業の積み重ねからして、新理事長の下では早々の引退だろう。
元もと芸能的色彩の強い業界だから、麻薬あり、リンチ殺人あり、八百長あり、それはそれで結構じゃないか! その辺が結論。 
 後記)2002年〜4年にかけて大相撲を取り上げていたが、成るほど時代は大きく変わっている。
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2007年09月22日(土)
 2363, 郵便配達夫シュバルの理想宮  −2
シュヴァルの凄さは、理想宮が明らかに意味あるものなら解るが、今でいうテーマ・パークを、誰の理解もされずにただ黙々と石を集め、
自分の心の命じるまま理想宮をつくり続けたことである。ただ、そのプロセスの中で生甲斐を感じていたはず、もし感じてなければ
続くわけがない。他の人から見たら何ら意味もないことを、自分でも意味など考えてなかったのだろう。
あるのは、それに取り組んでいるときの何ともいえない喜びである。続けているうちに評判を聞いた外部の人が見に来て褒めてくれたこと、
認めてくれたことなどで、意味を見つけていったのである。それは結果として、潜在意識の具現化につながっていく事になる。
そのテーマ・パークはみる人の気持ちをうつのである。もちろん、周囲の人は、その奇異な建物をみても理解などできようがない。
むしろ外部の人は、それを冷静に客観視できるから興味も加えて評価が可能になる。創造者は、まずは気違いにならないと
新しいことは創造できない。そして周囲は、その姿をみて、気違いという。 だから面白いのである。
 ーその部分を抜粋したみるー
  ー村の気違いー
シュヴァルは、村では最初から異端者であった。農地を持たない、という一事だけでも、村において、人を異端者と
するに足りたであろう。そのうえ彼には、孤独癖、厭人癖があって、周囲の生活に決してなじむことができなかった。
パン屋をしながらの数年間の放浪は、そのことを示している。郵便配達という職業は、この異端を一時期
蔽い隠していたけれども、彼が宮殿を建設しはじめるに至って、この異端は露わになり、決定的なものとなる。
{近所の人たちは、私の毎日の石運びに気づきはじめました。彼らは最初、道路管理官に売るための資材を私が集めている
のだと考えました。やがて私は、そうではないことを覚らせました。《じゃあ、どうするんだ》と彼らは訊ねました。
 (以下、字数の関係でカット2008年09月22日)
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2006年09月22日(金)
1998, 「私」のための現代思想  −2  
   (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜  −読書日記
第一章 「私」を縛るものは何か ー
 ーまずは問題とはー
まず「我われの世界は正しいのか」という問題をまず考えなくてはならない。
我われの世界には正しい部分と、腐った部分がある。《「世界」と「私」は、ともに腐っていく》という方が解りやすい。
この世界で自分が腐っていくのを実感することは、さらに腐敗にまみれないようにするためには、非常に重要である。 
我われを拘束する要素として、<言葉><価値><社会>が考えられる。
 ー言葉ー
私たちは<言葉>を使ってこの世界を認識し、他者に何かを伝えます。言葉は「思考の枠組み」であり、
便利な道具ではあるものの、逆にその「枠」の外には出られないという意味で束縛となる場合がある。
 ー価値ー
私たちは何らかの、<価値>を求め、それに照らし合わせて自分の行動を決定したり選択したりします。
自分が重要だと考えている<価値>そのものが、私たちを束縛している場合がある。
 ー社会ー
この枠組みは、私たちがよりよく生きるために構築されてきたものですが、そこに窮屈感や閉塞感が出ることがある。
これらは「束縛」となる場合と、「自由になるための武器」になる場合がある。 この束縛から脱するには、
これらを得なくてはならない。 得るためには、まずは言葉・価値・社会とは何か知らなければならない。
 まずはーー《言葉》についてーー
言葉の機能の中心には「分類」があります。これは、言葉は「私たちが知覚したものを分類する」ために用いられるという意味である。
私たちが「何かを学ぶ」ということは、ー社会において重要とされている分類基準を自分のものとするーということを意味しています。
このとき私たちは、少しだけ「自分を殺す」ことになります。それが「大人になる」ということであり、「社会化する」ということです。
フランスの精神分析家のピエール・ルジャンドルは =換言すれば、「 自己と世界に対する関係は言葉のスクリーンを経由する 」ということ。
 人間のアイデンティティには複数の水準がありますが、自己への同一化(それが主観的なアイデンティティ形成です)と、世界の同定および
世界への同一化ということです。その全てにとって前提となるのが言葉のスクリーンなのです。
自由に「思考」するためには =「他人の考えるように考える」ということは、重要である反面、「他の人が考えるようにしか考えられない」
という状況を発生させてしまう。そのときに人は「言葉による束縛」もしくは「言葉の専制」を実感します。 そうならないために
‘社会の側の分類規準は便宜的なものでしかないことを、しっかりと把握しておかなくてはならない。自分を殺さずに、社会の側の分類規準と
上手くやっていかなければならないが、そのとき重要なことは、「言葉の主人は自分である」という意識を持ち続けることである。
すなわち言葉は、自分を拘束するものではなく、認識の道具であり、意思伝達の道具であり、思考の道具である。
(以下、字数の関係でカット2009年09月22日)
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2005年09月22日(木)
 1633, 閑話小題
 ー雲を消すー
(以下、字数の関係でカット2011年09月22日)
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2004年09月22日(水)
 1268, 大相撲に思うーつれづれに
大相撲が始まると、相撲について書くのが恒例になってしまった。場所ごとに刻々と、相撲の様相が変わっている。
最近は、朝鮮相撲、モンゴル相撲、レスリング、そして日本相撲の「国別異種格闘技」の様相に変ってきている。
(以下、字数の関係でカット2011年09月22日)
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2003年09月22日(月)
 901, 相撲を考える
 大相撲が昨日で千秋楽、朝青龍が優勝をした。他の格闘技も多くできたこともあるが最近の大相撲はつまらなくなった。
つまらなくなったという点で、今のプロ野球に似ている。NHKのBSでメジャーリーグを見るようになってから、全く見なくなった。
以前、「過去の相撲の大一番」を特集していた。子供の時から相撲が好きであった事もあって、ラジオやTVで大一番は殆ど見ていた。
  (以下、字数の関係でカット2008年09月22日)
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2003年03月12日(水)
 707, モンゴル大相撲
 先場所の各段の優勝は序二段を除いて全て外人が取ってしまった。
今場所からは、両横綱とも外人である。外人力士が50数名いるうち8割がモンゴル出身である。
  − 以下字数の関係でカットー2007年9月22日
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2002年09月22日(日)
 527, 大相撲ー頑張れ武蔵丸
 まさか貴乃花が千秋楽で同点決勝に持ち込めるとは思ってなかった。
もし優勝をしたら大騒ぎになるだろう。こういう時に勝つのが大スターであるが、彼はそれを持っている。
  (以下、字数の関係でカット2010年09月22日)
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[154] 性善説性悪説   2001/09/22
 以前、身近に[おれは性善説だ]と口癖の男がいた。本当に性善なら‘それを売り言葉に使うのがおかしい’
という事も解らない。人間なんぞ性善も性悪もごちゃ混ぜになっているもの。
(以下、字数の関係でカット2012年09月22日)