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「‘11年版ベストエッセイ集’人間はすごいな」 会田誠(美術家)
ーよかちん節の由来ー
これが??大学の大根踊りレベルだったら別に、そんなものだが、東京芸大の宴芸というから中和される。
それも自分の個展の入口に堂々と、というのも良い。品のないこと?この上ないので人には話すことでないが、面白さは格別。
卑猥な芸?も、書き方一つで抵抗なく読むことが出来る。若い時節の男の性欲は男なら分かるが異常に強い。 それを酒宴で、
露骨に踊ってみせるのも一興。 お神楽のヒョットコ踊りに、巨根の棒を振舞わして、オカメと踊るのを見たことがある。
その亜流だろうが、品はないが罪がない。 顔をしかめる人も多いだろうが、よくぞ・・である。 ー前回の続きからー
≪ 美術大学に代々伝承されてきた宴会芸に「よかちん」というものがあります。僕は今から四半世紀以上昔のこと、
美大の新入生歓迎コンパか何かの席で初めて見たように記憶しています。どんなものかというと、宴もたけなわな頃、
やおら全裸の男が登場し、一升瓶を股間に挟んだまま(だから一応性器は隠している)、手拍子をとりつつ"数え歌"を歌い始めます。
「一つよかちん、なんじゃいな。ひねれば、ひねればひねるほど、よかちんちん。あ〜あよかよか、よかちんちん」
この「ひねれば、ひねればひねるほど」のところで、一升瓶を男根に見立てたアドリブによる(この場合"ひねる")ゼスチャーが入ります。
口述的に受け継がれる芸なので、歌詞のバリエーションは様々なようですが、僕が知っているところでは、数え歌は以下のように続きます。
二つー振れば、三つー見れぱ、四つーよじれば、五つーいじれば、六つー剥けば、七つー舐めれば、八つーやれば、九つー擦れば。
そして十でとうとうよかちんちんー と結ばれます。つまりこのような色々な体験をさせれば、良いチンポ(よかちん)に成長するという、
まったくもって脳味噌パーな、でも憎めない庶民的下ネタ芸なわけです。あと、どうやらルーツが九州ということもあって、九州男児的
マッチイズムの匂いもぷんぷんと漂っています。 学徒出陣で出征する美大生を「よかちル」で送ったという、泣き笑いの昔話を
ネットで見つけたので、おそらく戦前からあったものでしょう。浪漫主義華やかなりし明治後期、青木繁など九州出身者が東京美術学校
(現・東京藝術大学)の乱痴気騒ぎの飲み会で、郷里のお馬鹿芸を披露して喝采を浴びたーそんな空想を僕はしてしまいますが、もちろん
定かではありません。いずれにせ、少なくとも僕が美大生だった1980年代後半まで、油絵科を中心に脈々と受け継がれてきました。≫
▼ この後の文章に、よかちん節があるなら、よかまん節があってよいだろうと、創作したのが面白い。私も、品位が邪魔をして?
そこまで思いもよらなかった。一升瓶の代わりに、ザルとは・・ とは。 Youtubeで調べたが、さすがに無かった。 ーつづき
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3614, 哲学は死の練習になるか
2011年02月16日(水)
* 哲学は死の練習になるか ー木田元
死についての特集の中に、木田元の文があった。なかなか考えさせられる
ーまずは、その抜粋からー
≪ 哲学者ハイデガーは『存在と時間』で「自己の死」についてこう述べている。 自己の死は「誰にも替わってもらうことができないし、
誰の助けを借りることもできず、それがくることは確実だが、いつくるのかは決まっておらず、その先にまわってみることなど決して
できない、自己の究極の可能性」なのだ、と。 そしてハイデッガーは、人間にとって「本来的な生き方」とは、この自己の死を
不断に見据え、それに覚悟を定めて生きる生き方、つまり「死に臨む存在」なのだと主張するのだ。
・・・ 自己の死についてのハイデッガーのこの見方はまことにユニークだが、まるで『はがくれ葉隠』のように、つねにおのれの死を
見据えて生きるというのが、いったいどういう生き方なのか、私にはうまくのみこめない。自己の死についてのハイデガーの
こうした主張に対しては、少し年少のフランスの哲学者サルトルも『存在と無』で異論を唱えている。
彼にとって死は私のすべての可能性を無にし、私の人生からすべての意味を除き去ってしまう、まったく不条理な偶発事なのである。
彼に言わせると、私の誕生が選ぶことも理解することもできない不条理な事実であるのと同様に、私の死も、理解したり対処したりする
ことのできない不条理な事実なのだ。ここで面倒な議論をする気はないが「自己の死」に関してだけは、私もサルトルに一票を投じたい。
こちらの方が私の感じ方に近いからだ。 ハイデガー自身、『存在と時間』で持ち出した死生観の根にあるのは自分の個人的信念で
あることを認め、どんな哲学的思索も、結局こうした個人的信念を出発点にせざるをえないのだと主張していたそうである。
・・・つまり、私たちは生命の大きな流れの中から飛び散った一滴のしずくのようなもので、しばらくはそうした個体とし生きているが、
やがてまた元の大きな流れに引きもどされ、蕩々と流れてゆく。それが個体にとっての死なのだ、とそんなふうに思うようになってから
体調が落ちて、あまり永くは生きられそうもないなという気分になったときも、それほどジタバタしなくなったような気がする。
こうした一種アニミステイックな死生観を整理し体系化すると神道のようなものになるのではないかと思うのだが、あまり体系化など
しない方がよいのかもしれない。 本当に死が間近にせまったとき、肉体的苦蒲のなかでこんなとりすましたことを
言っていられるかどうか自信がないが、これが今のところ私の死をめぐる想いである。≫
ー以上だが、言葉を持ってしまった人間は、他者の死を身近にみて、自分の死を思い抱くようになった。
死んだ人は、その瞬間に何もないが遺体が残る。それが死と勘違いするから、妄想が起こるのだが、その妄想を理性で
乗り越えようとしても、それも無理の話である。木田元は、滔々と流れていく大河に引き戻されて一滴が固体の死のイメージを
述べているが、毎年同じ木に咲く桜の花とも、それぞれのイメージがあるもの。
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3249, 最近のベーカリー事情
2010年02月16日(火)
* ベーカリーのファーストフード化
数ヶ月前から週に2〜3回は新幹線の改札口に近いベーカリーで通勤途上、昼飯用のパンを買っている。
サンドイッチや、ナンで惣菜を包んだものや、カレーパンなど種類が多くあり、値段の割りに美味しい。中でも食べられる。
300円から500円で済み、外食の半値で済む。他に構内スーパーにある弁当とか、専門店街の菓子屋が売っているオニギリを買っている。
その御蔭か週一も外食に出なくなった。要は気晴らしに出ていた外食が面倒になったのだ。
ところで、知人が「カテゴリーキラーの外食が新潟郊外の青山に去年の暮れにオープンした」と話してくれた。
・テイクアウトも、イートイン(店内でも食べられる)も出来るベーカリーで、レストランのような外観と、
イートインのできる客席はレストラン風
・ポイントは、コーヒーが無料で、二杯目が20円
・家族3~4人で、1500~1800円で食事のできる店というのが受けている・・・
その話を聞いて、「ラブラ万代の地下にあるベーカリーが、コーヒー無料にして、その脇にある自由食事スペースの
テーブルと椅子をレストラン風にした感じ?」というと、その通りという。 成るほど、親子三人でパンやミニピザを
2〜3個ほど食べても、コーヒーが無料なら2000円以下で済む。 長岡と新潟の新幹線構内にあるベーカリーで、パンを買った
お客にコーヒー無料にすれば、客は何割か増えるだろう。 イートインの客単価は下がるだろうが、客寄せになる。
考えてみれば、好調のマクドナルドは、コーヒーなどが付いたセットが300〜600円だから、
別に、取り立てていうことでもないじゃないか、ともいえる。パン屋のファーストフード化ということか。
一時、焼きたてのパンを出すファミレスがブームになったことがあったが、何時の間にか萎んでしまった。
あらゆる業種が恐慌の中で知恵を絞って集客をしている。最近では、回転寿司が「握りセット」を始めてきた。
10カンを違う種類にして安く出す。 スーパーの弁当も300〜400円が中心。500円といえば豪華にさえ感じる。
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2009年02月16日(月)
2874, 成長モデルから 脱成長モデルへ −2
「規制されたモデル」といえば、戦後日本の20数年の日本経済のモデルが理想であるが、これは成長モデルそのもの。
結局は資本主義経済はバブルの繰り返すしかないのである。その本質はネズミ溝であるからだ。
その繰り返しの中で、自由と平等を如何に両立させるかという難しい問題は人類の永遠のテーマと重ねる。
突き詰めると、どれもこれも共同幻想でしかない。 共同幻想でしか人類はコントロールできないとすれば、
共同幻想の「正・反・合」を繰り返すしかない。 更に前回に続いてポイントの部分を抜粋する。
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*『自由放任的競争』から『規制された競争』
「ケインズが終生説いたのは、実は、グローバリズムへの警戒なのである。
『頽廃的で国際的で個人主義的な資本主義が世界をかけめぐり、国内経済を破壊することこそ、彼は恐れたのである。
『それは、知的でなく、美的でなく、公正ではなく、有徳ではない。われわれは、それを嫌っている。
いまやそれを軽蔑し始めている』とさえ彼は書いている。この『資本の気まぐれな浮動』から、一国の経済を守らなければならない。
それこそが、ケインズをして、政府による資本の管理と公共投資を唱えさせた理由なのである。そして、住宅、個人的サービス、
都市の美観、地方生活のアメニティ、といった『国際商品ではないもの』をこそ重視したのである。」
−−
「今回の危機をきっかけに、世界秩序は、アメリカ一極構造から変わっていくかといえば、アメリカと中国の綱引きになるだろう。
中国は、製造業が成熟しきらないうちに金融が拡大するといういびつな経済構造のため、経済を膨張させていかないと国がもたない。
(字数の関係でカット11年02月16日)
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2008年02月16日(土) 2
509, 新・知的生産の技術 −2
好感の持てる人である。東京の知人が言うには「最近、東京では健康を兼ねてスポーツタイプの自転車でチョットした移動に
活用している人が多くなっている。」という話を聞いたばかりなので、成るほどと感心した。この人の場合は、
携帯用のナビまでつけている。ナビは個人の行動まで自由にしているようだ。ここまで電子機器が発達し、ソフトも高度化したなら、
己を空しくして逆に無駄取りをして合理化に徹したほうが良いに決まっている。その意味で、この本は批判が多いかもしれないが、
見習うべきことがあまりに多い。ここまでグーグルが世界の人たちに支持をされるには、それなりの内容があるはず。
なら、限度のある自分を徹底的に排除をして、己を空しくして圧倒的なベストに従ったほうが良いという
彼女の問いかけが、シンプルで訴える力がある。
・補助脳としてのパソコン
・フォトリーディング、親指シフト、マインドマップなど、じぶんなりのOSを整え
・アナログとデジタル入力のバランスを使い分け
・マスメディア情報を減らし、実体験、他者体験、良書を三大情報源とする。
・自分以外の感覚器、特に耳をもっと活用する
・そして睡眠はよくとり、運動をよくする
だいたい、これにブログや日記、メモをよく取ること、これが言いたいことである。
大部分が進学にエネルギーの大部分の人が取られているとき、このような合理性で自己研鑽に
勤めれば、そこそこのことが出来ることだ。
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2007年02月16日(金)
2145, 「狂い」のすすめ −2
才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
この本は「世間」に対する私の鳥瞰視と同じトマリ木の目線である。第一章の「狂い」のすすめは、
「世間を幻覚と割り切ること。その為に自分を狂者と割り切ってしまえばよい。世間は狂っているのだから、
そんなものを元々相手にしなければよい。」私自身の人生を振り返ると、「狂」が一つのキーワードであった。
狂を演じてないと、事業など立ち上げることができない。現状否定が事業の立ち上げの切り口であるからだ。
その辺の二代目が、その「狂」を冷笑しているのをお笑い芸人の目で、その反応を計算している自分の様も面白かったが。
現在もそうである・・。いや、狂いが目立たなくなったということか!定年を迎えようとしている男が急ごしらえの定年後の準備を
始めている様はコミックといえばコミックである。「狂」になって一度自分を破壊しないと、定年後の第二の人生の構築はできない!
その意味で、この本は彼ら向きなのだろうが、はたして理解できるか?この本では「狂者の自覚」という表現をつかっているが・・・
それまでの人生観を根こそぎ疑って、新しい人生観を構築しないと!それが第二の人生である。
この無自覚な連中を集めて商売にしようと目論んでいる人がいるが、その悪臭は自分では分からないだろ。
でも、その人たちに目先の安らぎを与えるどこが悪いか! という論法も成り立つが! どうでもよいことか。
この本の中で一番気に入ったのは、ーカタツムリからナメクジへー というところである。
*そこを抜粋すると*
「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。
そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅である。たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだとみるカタツムリでなく、
貧困もよいものじゃないかというナメクジの目でみることができれば、素晴らしい旅になるはずです。
インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、「裸足のどこが悪いんだ、上等の靴を履かされて、
重い鞄を持って塾通いと、裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福なんだ・・・?」とね。
もう一つは ーついでに生きているー である。「‘人生なんぞ無意味である'と言うのであれば、なんでお前は生きているのか?
それなら、生きている価値がないじゃないか」と言うが、その反論として「人生に意味がないなら、自殺さえ必要ないじゃないか」
と反論していた。そのうちにうまい言い方を考案しました。それは、人間は、−ついでに生きているーという言葉です。
人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。 別段、それ以上の意味はない。
人生に意味があり、目的があるとしたら、私たちはその目的に向かって邁進したくなります。
そうすると、競走馬的な人生になってしまいませんか。
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まあ、一日一日を切断して、その一日を「日々是好日」と楽しめということだ。
二度とない人生、そして一日である。著者こそ、実際は逆に生きてきたし、現在もそうだろう。
悩める人に対して、そう教えるのが彼のお仕事であるから、それでよいが。
「人生に対して意味を求めつくしてこそ、その逆もさもありなん」と相まってこそ、人生無意味の意味が深まるのである。
「そんなこと、言われなくても分かっている!」というが、一応、念のため。カタツムリだものね、人生は。
どっちも同じ? 喩えがね〜 同じか!
カタツムリが、定年を向かえて、否が応でもナメクジになったとき、その人は如何すればよいか?ということだろう。
こういうナメクジに新しい殻を与えようとしているのか、「あの人」は!それも既成品を。オーダー作れないもんね!
その人たちは、今さら。 だから、安直な仕入れ品を当てがおうというのか! もともと安直な殻なら、その後の殻も安直で
充分というのも理解できるが。 でも、何かおかしな話である! まあ、考えるに丁度よい材料になるが。 ^o^)ノ バイ!
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2006年02月16日(木)
1780, 他罰の人 (`・ω・。)っノXXXX>C【才ノヽ∋―】゚+。*゚+。
ある本で「他罰」という言葉に行き当たった。他罰性は、現代のキーワードといって。特に情報社会の病巣といってよい。
自分のマイナスすべてを他人や社会のせいにする傾向の強い人間は何処にもいる。
私がタレントの‘みのもんた’を嫌いなのは、職業柄もあるが、他罰性が非常に強いからである。
まあ観ている方も他罰を一緒に楽しんでいるから本人の責任だけではないか。 ~~旦_(^O^ )
人生の後半に(いや前半もそうだが)明るい生活を送っている人の分析がある。
・縦と横の人間関係がキッチリできていて ・本業以外にライフワークを持っていて
・何ごとも前向きで楽観的で ・他罰性が無いこと
それと(私の意見だが)奥さんが明るい人である。逆に社会に適応できない人とは
「他罰性が強く、そのため人間関係が崩壊、何ごとも後ろ向きで、趣味が少なく、暗く温かみが無く、
そのため神経症になっている人」である。 ゙o(≧◇≦*)o o(*≧◇≦)o"ダメ ジャ〜!!
誰の中にもある毒素であるが、その傾向が強いか弱いかにある。
私が敏感なのは、他罰性の強い人間である。自分の中に、あるから嫌なのだろう。
その傾向の強い人種は常に攻撃対象を探している。それを思いつくまま挙げてみると ユルサン![(#▼皿▼)]ムキッ
親が悪い、友人が悪い、学校の先生が悪い、上司が悪い、会社が悪い、政治が悪い、社会が悪い、等々 社会的貧者に、
この傾向の強い人が多い。「人生は最も偉大な言葉」とは‘自分の生きてきた全て(人生)が何もいわなくても全ての自分を
語っている’ということ。その中で一番の問題になるのが他罰性といってもよい。ルァァ!! (*`д´ノチキショ! (`?´)ゴルァ!!
夫婦間など、男女間のトラブルは他罰から生じる典型なことである。 自分のことを考えてみれば家内との喧嘩は何時も、
どちらが悪いかの言い争いである。 会社組織も他罰の牽制で成り立っているといっても過言ではない。 ーつづく
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2005年02月16日(水)
1415, NHK視聴料について
数年前から、NHKの視聴料の支払いに対して疑問を持っていた。そして、最近起こった不祥事事件である。
自宅で三紙とって日経新聞を止めて、WOWOWに加入。次に新潟日報を止めて、薄型TVを購入した。NHKを止めて、
CSに加入したくなるのが当たり前のことである。以前から会社で支払っているNHKの視聴料の支払いに対して、
何時止めるかタイミングを計っていた。「宿泊のお客は自宅で視聴料を払っている。それが何で、ホテルの客室の視聴料を
払わなくてはならないのか!おかしい?」と考えて当然である。先日のラグビーの番組の中止(途中から抗議殺到で放送したが)で、
切れてしまった。会社に行って早速、「NHKの支払いの必要無し!」と宣言をした。ところが、呆れた顔をした支配人
「10数年前から、一円も払ってません!」私「・・・・」やるべきことは、やっていたようだ。
個人は、結構NHKの番組みで楽しんでいるので払っている。
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2005/01/31 ー1399, NHKと朝日新聞
(字数の関係でカット09年02月16日)
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2004年02月16日(月)
1048, デート・カウンセラー
最近、TVが面白い。特にBSTVが色いろな世界を鋭く切り取っている内容が多くなった。普段知ることができない世界を垣間見れる。
一昨日のBSの、[地球ウォーカー]のニューヨークのデート・カウンスラーの目を通したドキュメントがよい。結婚相手を見つける
チャンスが少ないのが大都会の独身者の悩みという。特に女性の場合、チャンスが少ない。大都会は同姓愛が多くて、出会いパーテーを
開いても男性の数が少ないのが悩みになる。10対8といっていたが、実際はもっと少ないようだ。この33歳のティナというブロンドの
デートカウンセラーの目を通したニューヨークの独身女性の結婚問題を掘り下げていた。女性20人位のセミナーで色いろの
講義をしているのだ。現在、学生時代の日記を書き移しているが、男の立場からみても合点することが多い。
結論からいうと[ありのままの自分に自信を持って、オープンに積極的にあれ。但し、これには守るべき原則がある!」という。
ーその原則とは
・直前(その場)のデートは断る4日後に引き延ばすこと ・相手の言動を分析しない勝手な分析などしないで軽く考えること
・女性の場合、支払いは相手に ・あせりは絶対に見せない
・メールの返事は3回に一回ぐらいにしておく 等々である。
この番組に出てきた独身女性を見ていると(いや大方)、男性不信の人が多い。前の男性が駄目であっても次の人が駄目とは限らないのだ。
(字数の関係でカット11年02月16日)
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2003年02月16日(日)
683,まれに見るバカ−読書日記-3 ー 続く
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2002年02月16日(土)
333、20歳の頃 −1
立花隆の「二十歳のころ」が面白そうなのでネットで買い寄せた。本屋で立ち読みをしていたが、実際に買い読み始めるとこれが面白い!
立花隆と東大の立花ゼミ生が「各界著名人や無名の人の20歳のころの事」をまとめたものである。一番の人生の不定形の可能性の塊の
ころである,と同時に一番不安定のころでもある。そして一番その後の「人生の基盤」を作っている時期でもある。
私の周辺の人を見ていると「大学時代何をしていたか」で人生が決まってしまう。その頃遊びほうけていたり、ただ漫然と
大学生活を過ごしてきた人は、今もその延長にいる。人生の要所であることに若さゆえ気づかない。「さすが立花隆!」と思うのは、
「ホームページ上でサイバー大学という形」で進めていったことである。ゼミのメンバーと同じ年代の人と普通なら、
これをやらなくては絶対会えない各界の人から、色々な啓示を受けたことだ。それもホームページ作りを通してである。
まったく羨ましい限りである。人生のOFF−J−T,いやOFF−L(LIFE)−Tそのものだ 私の二十歳頃を近くに書いてみよう。
それより学生時代の頃になるか。 屋上から「通行人の自分」を眺めているみたいで面白い。
ー2004年2月16日記
この文章が、恐らく「22歳の日記」を公開するキッカケになったのだろう。