2007年02月16日(金)
2145, 「狂い」のすすめ −2
        才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
                              
この本は「世間」に対する私の鳥瞰視と同じトマリ木の目線である。第一章の「狂い」のすすめは、
「世間を幻覚と割り切ること。その為に自分を狂者と割り切ってしまえばよい。
世間は狂っているのだから、そんなものを元々相手にしなければよい。」

私自身の人生を振り返ると、「狂」が一つのキーワードであった。
狂を演じてないと、事業など立ち上げることができない。現状否定が事業の立ち上げの切り口であるからだ。
その辺の二代目が、その「狂」を冷笑しているのをお笑い芸人の目で、その反応を計算している自分の様も面白かったが。
現在もそうである・・。いや、狂いが目立たなくなったということか!
定年を迎えようとしている男が、急ごしらえの定年後の準備を始めている様は、コミックといえばコミックである。
「狂」になって一度自分を破壊しないと、定年後の第二の人生の構築はできない!
その意味で、この本は彼ら向きなのだろうが、はたして理解できるか?
この本では「狂者の自覚」という表現をつかっているが・・・
それまでの人生観を根こそぎ疑って、新しい人生観を構築しないと!それが第二の人生である。
この無自覚な連中を集めて商売にしようと目論んでいる人がいるが、その悪臭は自分では分からないだろ。
でも、その人たちに目先の安らぎを与えるどこが悪いか! という論法も成り立つが! どうでもよいことか。

 この本の中で一番気に入ったのは、ーカタツムリからナメクジへー というところである。
*そこを抜粋すると*
「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。
殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅である。
たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだとみるカタツムリでなく、貧困もよいものじゃないかという
ナメクジの目でみることができれば、素晴らしい旅になるはずです。
 インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、
「裸足のどこが悪いんだ、上等の靴を履かされて、重い鞄を持って塾通いと、
裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福なんだ・・・?」とね。

もう一つは ーついでに生きているー である。
「‘人生なんぞ無意味である'と言うのであれば、なんでお前は生きているのか?
それなら、生きている価値がないじゃないか」と言うが、その反論として、
「人生に意味がないなら、自殺さえ必要ないじゃないか」と反論していた。
そのうちにうまい言い方を考案しました。それは、人間は、−ついでに生きているーという言葉です。
人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。 別段、それ以上の意味はない。
人生に意味があり、目的があるとしたら、私たちはその目的に向かって邁進したくなります。
そうすると、競走馬的な人生になってしまいませんか。
 −−
まあ、一日一日を切断して、その一日を「日々是好日」と楽しめということだ。
二度とない人生、そして一日である。著者こそ、実際は逆に生きてきたし、現在もそうだろう。
悩める人に対して、そう教えるのが彼のお仕事であるから、それでよいが。
「人生に対して意味を求めつくしてこそ、その逆もさもありなん」と相まってこそ、人生無意味の意味が深まるのである。
「そんなこと、言われなくても分かっている!」というが、一応、念のため。カタツムリだものね、人生は。
 どっちも同じ? 喩えがね〜 同じか!

 カタツムリが、定年を向かえて、否が応でもナメクジになったとき、その人は如何すればよいか?ということだろう。
 こういうナメクジに新しい殻を与えようとしているのか、「あの人」は!それも既成品を。オーダー作れないもんね!
 その人たちは、今さら。 だから、安直な仕入れ品を当てがおうというのか!
 もともと安直な殻なら、その後の殻も安直で充分というのも理解できるが。
 でも、何かおかしな話である! まあ、考えるに丁度よい材料になるが。
                  b(^o^)ノ バイ!
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