ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
  * 歴史の知識が、物事の理解の仕方に及ほす影響
【 歴史の専攻に費やした五年間(パブリック・スクールでの二年間と大学での三年間)は、一般的な遺産をひとつと、個別的な遺産を
いくつか残してくれた。一般的な遺産として私の頭のなかには、古代ギリシャかち現在までつづく西洋の歴史に関する概略的な知識が残った。
こうした知識は習得に数年間の研究を要するので、当然たいていの人は、いや、かなり高学歴の人でさえもっていない。
 物事の理解の仕方へのこの知識の影響は根深いらしく、私の考え方には、対象が音楽であれ、演劇であれ、政治であれ、哲学であれ、
ともかく決まって歴史的な側面が認められる。私にはあらゆるものを、その成り立ちや今後の展開といった観点から眺める傾向がある。
また、過去の人物をより広い文脈に置く傾向もある。そうやって、その人々が住んでいた社会の様子や、彼らが活動していた当時の状況、
その時代にはまだ起きていなかったこと、彼らが知リえなかったことなどを認識するのである。さらに私は、現実が絶えず変化しつづける
ことを踏まえ、‘現在には特別扱いすべきところなどない’とわきまえている。いま起きていることには特別な重要性がある、
そう思いこんでいる人が大勢いるようだが、私はそうではない。過去全体がいまへとつながっているのであって、かつてのどのいまとも
同じように現在は一時的なものであり、ときに総体としての過去のなかの一瞬にすぎなくなることを私は知っている。過去、現在、未来を
問わず人は誰しも、複雑で途絶えることのない大きな歴史の流れのなかの任意の時点に人生をはめこまれるのであり、その歴史の流れは
絶えず変化し、各個人の死後もつづいていく。その流れのなかに、ほかと比べて特権的な時点などなく、ほかより多少なりとも
絶対的な時点もない。こうした思いが私の骨の髄まで染みこみ、芸術と知的生活のどちらに対する態度にも行き渡っている。】
 ▼ ついつい我々は、「自分の生きてきた時代を特権的かつ絶対的な時点」と思い込んでしまう。それが自分が生きてきた時代という
  理由だけで・・ しかし過去を振り返れば、長い歴史の中の一コマでしかないは明白である。従って、日本史や、世界史を何度でも
  読み返し、自分の置かれた時代を冷静に見つめるため、地球儀と世界史の本を身近に置いておくべきである。グーグルアースとは別に。
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3441, 政治談議
2010年08月27日(金)
  * 小沢一郎が、民主党党首に立候補
 日本の歴史始って以来の危機の時期に、小沢が立候補を決断をした。
この恐慌を乗り越えるには、自民党民主党という枠を超えた大連合しかない。その断行は待ったなし。
管首相以下の三人が政権運営維持、難局に対処出来るなど考えられない。
面白いもので、小沢が立候補のニュースをみた直後、近くあった月刊誌の「現代・プレミアムーノンフィクションと教養」
を手に取ると、週刊文春などの編集長などをいていた花田紀凱小沢一郎批判をしている文に行き当たった。 
田中角栄直伝の集金システムの手法は、そのまま続いている。 
 ここで、1993年、小沢が新生党を結成した時に立花隆朝日新聞に痛烈な批判の文章を取上げていた。
【「羽田新党とは何か。あなた方は、要するに経世会の分裂した片割れではないか。経世会とは何か。要するに旧田中派ではないか。
 田中派とは何か。五億円収賄犯.田中角栄をかついで、日本の政治を十年余りにわたって目茶苦茶にしてきた徒党ではないか。
(中略) 田中が右といえば右、左といえば左に動いて、日本の総理大臣の首を次々にすげかえ数の力であらゆる道理を踏みにじってきた、
政治腐敗の元凶のような集団ではないか。あなた方はその中核だったではないか。(中略)金の力と数の力で政治を支配し、
権力のうま味を思う存分吸い取ってきたのが、あなた方ではなかったか。(中略)自分たちの過去にけじめもつけずに、何が新生だ。
ちゃんちゃらおかしい。」今回の秘書逮捕でようやく明るみに出かかっているが、以来16年、小沢は何ひとつ変わっていなかった、
のである。その小沢が、まかり間違えば総理の座につくかもしれなかった。なのに新聞は何びとつ書かなかったのである。
小沢が都心部に十数件のマンションの部屋を所有していることを週刊現代が告発しても、そしてそれを訴えた小沢が敗訴しても、
小沢の二つの政治団体が25億円ものカネを貯め込んでいることを『週刊文春』にしても、新聞は後追いしなかった。】 
 以上だが、それでも政治とは、泥の中から、自分の出番に一世一代の政策を実行することにある。
彼の出番は、自民党と官僚支配を叩き壊すこと、日本を真のアメリカからの独立を図ること。現在では100年、500年に
一度の日本の危機にあたり大同連合を組み、10年・20年続くだろう激動に対処できる枠組みをつくり上げることである。 
アメリカにとって、これはCIAなど総動員をかけて、潰すべき人物の筆頭になる。 恐らく、怪しげな死も充分にあるし、
マスコミを使った誹謗中傷の真っ只中に立たされる。 しかし政治家としては、死をかけるだけの価値ある役割である。
 綺麗ごとでは政治は動かない。 見渡しても、その役割を捨て身で出来る殺気のあるのは、他には見当たらない。
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3066,ウワサを考えてみる −2
2009年08月27日(木)
「うわさ」をもう一歩掘り下げて考えるために「オレルアンのうわさ」と「和服美人局のうわさ」を対比してみる。
似ているところは、バックにある犯罪組織の臭いと、性的な危うさ、そして「ユダヤ人経営者」=「女好き経営者」への虐め。
違うところはオレルアンが若い女性の間の噂だったのが、長岡は街の酔い客である。前者は根も葉もないデマだったと後で判明したが、
後者はファジーのままで終焉したこと。「うわさは愚者に始って、賢者で終わる」というが、冷静になれば風評ということが分かるはず。 
人は「事実より、信じたいことを信じる」傾向があり、心の闇に符号することには更に強くなる。
 「悟りとは、平気で死ぬことでなく平気で生きること」というが、うわさなど一々気にしていたら自分の世界を小さくするだけである。
特に地方では小さい世界を更に小さくしてしまうことになり、生き辛くなる。 女性週刊誌は芸能人の「うわさ」(とくに下ネタ)
を商売のネタにしている。逆に芸能人も売名のため、自分の方からネタを売り込む場合もある。「火のないところに煙がたたない」というが、
うわさをたてられた当人が火ではなくて、うわさを好んでする「劣化した連中の口が火元」になるから、複雑になる。
 中世の頃にあった「魔女狩り」や、第二次大戦の東京大空襲直後の「朝鮮人狩り」とか、デマが真実と信じられ殺害にまで至る。 
今では「2チャンネル」のサイトが、その機能を果たしている。人間の心の弱点には「自分の心の不安を言葉に言い換えた物語を
信じてしまう傾向」がある。それをついたのが新興宗教であり、占い師である。 週刊誌の記事は売らんがために、不安のネタを見出しにし、
あらゆる手法を使う。 それを額面どおりに受け止めるのも問題だが。 この選挙のキャンペーンにも、その不安を煽って物語をつくり、
自分を解決の主役にしている輩を多くみかける。 それを選挙民が求めているいるのだから、虚像でもよいから演じるのは当然のこと、
といえば、その通りだが。
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2701, 地球史における革命的事件
2008年08月27日(水)
  6500万年前に巨大な隕石が衝突し、恐竜が絶滅したというドキュメントをTVでみた記憶はある。
  この本で知ったことだ、米ソの核の爆発のエネルギーの1万倍の規模とは驚いた。
  当時、「もし核戦争で起こって核が全て使われたら人類を数万回は殺戮できる」と聞いていた。
  その一万倍の破壊が6500万年前に実際あったのである。 それが現代に来たとした物語の映画が幾つかみたが...
  その御陰で、恐竜が絶滅して人類の祖先が生まれる環境が出来たのである。
  1000万年遅れれば、我々人類の祖先さえ、まだ地球上に存在してないのである。
 以下は「レンタルの思想」を読んで、さっそく取り寄せた本にあった地球にとっての革命的事件の内容を抜粋した。
               「地球システムの崩壊」松井孝典著  −読書日記
 *地球史における革命的事件
K/T境界層と略称される地層がある。絶対年代では、6500万年前の地質のことである。この年代を境に、生物の絶滅が起こっている。
それぞれの地層にふくまれる化石に基づいてその年代が決められる地質年代では、その前後の年代を、白亜紀第三紀命名して区分。
それぞれの年代の、外国語表記の頭文字がKとTなので、その境界の地層は、K/T境界層と呼ばれる。
この地層は世界中至る所に分布する。もちろんわが国にもある。・・・・ カリフォルニア大学の、アルパレスという地質学者を中心とする
チームが、そのK/丁境界層で、イリジウムという元素が濃集している事を発見し、それが巨大な隕石の衡突によってもたらされた、とする
学説をサイエンス誌に発表したのである。 それが地球史観においてなぜ革命的なのかといえぱ、従来、地質学の根本原理といわれていた
「斉一説」を否定するものだったからである。斉一説とは、前にも紹介したように、現在生起する自然現象が過去においても
同様に起こったと考え、従ってそれを前提にして、地層に残された記録を解読しようとする考え方のことである。 
天体衝突のようなアドホックな現象を排除して、地質詑録の解釈をするのがより科学的、ということで導入され、悟奉されてきた。 
その後一〇年くらい、この論文の妥当性に関し、論争が読く。論争に終止符がうたれたのは、1991年のことだ。
メキシコのユカタン半島において、その地下に6500万年前に形成された。
(字数の関係でカット08年8月27日)
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2007年08月27日(月)
2337, 郵便配達夫シュバルの理想宮  −1
   (字数の関係でカット08年8月27日)
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2006年08月27日(日)
1972、事業百訓ー1996年(10) 
  (字数の関係でカット08年8月27日)
   ーH0805 エジプト、トルコ感激の旅  ーエジプト編ー 
 まさにタイム・スリップして数千年前の古代を旅している日々であった。まず最初に訪ねたのがカルナック神殿
“まさしく驚愕!”直径が二mの石の大列柱が百数十本並ぶ神殿。これが三千数百年に!周辺の王侯貴族を驚かす為に造られたというが、
今まさに自分が、目を丸くして驚いているのだ。 歴史が私という小さな存在を見下ろしている。 日本ではまだ縄文の時代、
これを造りあげた高度の技術があったのだ。壁に刻みこまれたレリーフ、古代文字、現地のまだ若い日本人女性ガイドの熱心な説明も手伝い
古代文明の世界にタイムスリップした気分になってしまった。 空に天を指すオペリスクとラムセス?世などの王や神の像の数々、
今まで何度か海外旅行をしていながら、何故ここにもっと早く来なかったのだろうか?と考えてしまったほどだ。
 次に行った“王家の谷”。ここは何代の王様の墓が、 かくれるように数々掘られている集団墓地だ。
この中で英国の考古学者カーターの執念でつきとめられたツタンカーメンの墓室にも入ってみた。
 また、夕日の長い影を落としていたハトシェプスト女王の壮麗な葬祭殿と、そこにやはり刻まれていたレリーフの数々。
その帰りにたちよったネクロポリスの麗に立つメムノンの二体の巨像の神秘的な光景も印象的であった。
その翌日行ったアブジンベルの大神殿、小神殿、のラムセス二世等の巨大な立像も実際そこに立ってみて古代歴史の深さを実感。
またアスワンのナイル川で乗ったのんびりした“ファルーカ”という小さな帆かけ舟の夕日の中での“ひととき”も、
一瞬の中に永遠を感じる事ができるようだった。
 旅の後半になってカイロに入ったが、ナポレオンが言ったという“四千年が諸君を見下ろしている!”という、
まさに異様なイスラム社会が大きなカルチャーショックになった。丁度、ラマダン(一ケ月間の日の出から日の入りの断食の行)
という事もあり、異様さがさらに目立ち、我々日本人は西欧社会に感化されているのが対比する事ができた。
 早朝、街中とどろくアラーラの祈りのスピーカーの音も異様そのものだった。我々の目からみると、接するエジプト人全員が金に汚い詐欺師、
“騙すより騙されるのが悪い!”“車は轢かれるほうが悪い!”とか、それがイスラム教という。 カイロ郊外にある二百五十万個の巨石を
積みあげたピラミッドも本当にすばらしいの一言。考古博物館のツタンカーメンの黄金のマスクと財宝をみた瞬間、身ぶるいをしてしまった。
まだ今にも起きあがりそうなラムネス?をはじめとする数々のミイラも数千年をこえ、不死への激しい希求を魂に語りかけてくるようであった。
   ーH0805 エジプト、トルコ感激の旅  −トルコ編 ー
 トルコといえばキノコ岩等の奇岩の群れカッパドキアが有名である。トルコ中央に位置しているアンカラの南東に広がる高原地帯にある。
中世にイスラム教徒の圧迫により逃れ逃れたキリスト教がたどりつき、奇岩をくり抜き洞窟教会や住居をつくりあげた聖地。
まさにSF映画やアニメ漫画に出てくるような現実ばなれした奇景そのもの。“本当にここは地球上?”と息をのんでしまうほど。
 その近くにあった地下都市・カイマルクも異教徒からの目から逃れる為の秘密地下都市群。あちこちに蟻の巣穴のように縦横に掘られており、
地下のマンションと形容できた。一万人以上が何世紀にわたり隠れ住んでいたという、信仰の深淵さをみた思いであった。
そして、その帰りのバスの中より夕景の“大きな 丸い真赤の月光”も生まれて始めてみる生涯忘れられない光景であった。
 イスタンブールの地下宮殿と呼ばれている地下水道の貯水池“イエレバタン・サライ”も非常に印象的なものであった。
十二列×八mの列柱が336本整然と並んでおり、その一本の柱の下に神話に出てくる女神、メンドーサの石首が土台になっているのが神秘的。
バック・グランド・ミュージックにベートーヴェンの第九が厳かに流されていたが、その場の雰囲気にぴったりであった。
 トプカプ宮殿では、かのオスマントルコ帝国が、何世紀にわたって世界中より集めた秘宝がところ狭しく展示してあった。
リンゴ大の四十数カラットのダイヤモンドや純金の椅子には驚いた。宮殿もその絢爛たる宮廷生活をしのばせ、四〇〇年間のスルタン(皇帝)の
日々が目に浮かぶようだ。 また、イスラム寺院のブルーモスクやアヤソフィアも、その荘厳な内部も圧倒された。
私自身、気功をやっている為か、右手がいたくなるほど、しびれがきたのには驚いた。 これだけの深い歴史の国に四日間だけで、
ほんの一部しか触れる事はできなかったが、この国の“光”の一部はしっかり見たつもりである。 最後に行った巨大市場、スークも面白かった。
五千の貴金属、みやげ物を売っているが、ほとんど偽物の金銀の貴金属商品という。そういう目でみると逆に面白いものばかりであった。
殺人的なスケジュールの十日間の旅であったが、中味の濃い感動・感動そして感激の日々であった。   (H 8年.1月30日〜2月8日)
   ーH0807  インカ帝国<夢の旅> ーマチュピチュの遺跡編  ー
 ペルーはインカ帝国がスペインに滅ぼされるまで文字が一切ないという不思議な文明の国であった。
その為かプレインカ(インカ帝国以前の文明)と、インカ帝国がより神秘的にナゾめいて来る。
その圧巻がマチュピチュの遺跡である。高度三千三百mのインカの首都であったクスコよりバス、登山列車、
登山バスを乗り継いで四時間あまりの行程。 四千〜五千mの山々の谷間に、突然小さな(といっても二千三百m)
山が見えてきた。
 そこに空中都市といわれるマチュピチュの遺跡が、霊界のように造られていた。まさに地上世界ではなく「あの世」を思わせる神秘的、
霊的、宇宙的な別世界である。エジプトのカルナック神殿をみた時の驚き!と同じか、それ以上の驚嘆に一瞬につつまれてしまった。
あれだけTVドキュメントと写真でみていたのに、“現実にみると全く違う!” 神秘的あまりにも神秘的、いや霊的神性という言葉が、
ぴったりとする! 本当に地球は広いそして深い!とあらためて実感した。 この空中都市は、インカの人々がスペイン人より逃れる為と
復習の為の作戦都市といわれている。そして突然、この都市を焼き払い奥地へと消えていき、 まだ発見されてない地に伝説のそして
幻のビルカバンバの都市を建設したという。マチュピチュを去る決意をした人々は老人と“太陽の処女”たちを殺し、その一角の墓地に葬った。
この遺体がこの遺跡が発見された時に一緒に発見されたという。私もこれだけの異界文明の“すごみ”を経験するのは生涯で初めてであった。
 まさにSF小説の地を夢で浮遊しているようであった。
  ーH0807インカ帝国<夢の旅>  −ナスカの地上絵編ー 
 AC百〜六百年の昔、海岸から三百八十kmの乾燥地帯に一つの文化が栄えていた。
謎の地上絵で知られるナスカ文化である。彼等は何を思ってか九百k?にわたる広大な大平原に直接、
三角形の図形と線の動物、虫、植物、宇宙人(?)の絵を描いた。
(その絵と同じものが当時の土器に描かれているので、彼等の時代に描いたのが判明できたという。)
 その地上絵は飛行機ではじめて発見、判明された。それが何を意味しているのか、
宇宙人説、空飛ぶ人間説、星座をあらわすカレンダー説などあるという。
灰色の土地を十cmも削ると黄色の地面が出てくる。それを三十cmの巾で十〜三百mにおよぶ絵をえがいている。
その数がペルー全土で二百以上あるという。そしてその多くがナスカに集中している。
 セスナ機で二十分位飛んだ大平原にあちこち見えてきた。
本当に宇宙人にみせる為としか思えない。“UFO”のまさに世界である。
少なくとも、このフライトの間は宇宙人は本当に存在しているのでは?と確信したくなる光景であった。
ハチドリ、クモ、コンドル、サル、宇宙人の絵と、その背後に何キロにわたる縦横に描かれた直線は、
誰に見せる為のものであろうか不思議そのものである。
 編みあげの髪の毛のインデォのおばちゃん、アンディスの山脈、チチカカ湖にすむ原住民の素朴な生活。
そして世界の七不思議といわれる巨石建設の技術等に、強烈なペルーの魅力的な世界が今でも脳裏に
やきついてはなれない。高山病に悩まされ死ぬ思いであったが、そんな事は些細に思わせるほどの
聖なる不思議な日々であった。
 (次の南米はペルーの反対側にあるキアナ高原にある世界最後の秘境、テーブル・マウンテン)ーH08年6月6日〜
ーH0809 大地の果て南アフリカ
 はじめに南アフリカに注目した時、何と遠い国かと思ったが、
 英国・ジンバブエ・ボツナワと飛行機を乗り継いで本当に“遠くへ来たものだ!”と実感した。
 わずか十一日の間にこれだけ多くの見聞と感激と驚きを経験できるとは…。
 ツアーの同行者十名が二十〜五十回以上のリピーターが大部分で、トラベルにつきもののトラブルを
 全員で逆に楽しむ強者ばかり。そのためかストレスが最小に済んだ事もあって、非常に楽しく味わい深い旅行であった。
・ 一番の圧巻はジンバブエにある世界三大瀑布の一つのビクトリア滝であった。
 リビングストンの発見したこの滝は幅千七百m、落差百五mあり、
 まさにあのイグアスの滝に匹敵する壮大かつ豪快な男性的な景観であった。
 またそこでの超恐怖体験のバンジージャンプは、この旅行のすべての記憶を消しさる位の強烈な体験であった。
・また次に行ったボツナワ共和国のチョベ国立公園でのサンセット・サファリと、
  翌朝のポート・サファリもケニア・サファリと違った味わい深いものであった。
  野生の象がハトやスズメのように街の中へ入りこみ、木の葉を食べているのには腰を抜かさんばかり驚いた。
  そしてロッジに帰ってくるとホテルの柵の入り口に、やはり五〜六頭 木の葉を食べていた。
  ケニアの殺気だった緊張感がまるでなく、田舎の、のんびりしたアフリカ…
  という感覚であった。ここでは象があまりに増えすぎ間引をしているという。
喜望峰も感激の連続であった。 大地の果ての峰の左にインド洋、右に大西洋という。
  ここでしか見られない高台で海をみとれていると、何と!クジラが泳いでいるのが見えたのだ!
  これこそ喜望峰での最高の見ものであった。 また喜望峰に来る途中でたち寄ったミニ・クルーズでの、
  数千頭のオットセイの群れの岩場も印象に残った。帰路にたち寄った小さな湾の野生ペンギンの群れに
  一〜二m近くまで近づき顔をつきあわせたのも、自分が人間である事を一瞬忘れてしまいそうであった。
南アフリカといっても、ヨハネスブルクは一千万人近いロスアンゼルスを思わせる大都会であった。
  ケープ・タウンも人口百三十万人の高速道路、高層ビルがたちならぶ超近代都市であった。
  反面、地方の大部分が超貧困層の黒人が占めており、まだ深刻な人種対立が根が深いようだった。
  現地の年配の英国人妻の日本人ガイドの視点よりみる、人種間の対立の話を聞くうち、あくまで我々は生活者でなく、
  旅行者(通行人)でしかない事を思い知った。まだまだほとんど書けないほど多様な旅行であったが、
  どこに行っても人間の普遍性とそれぞれの文化の多用性、特殊を見ることができるのが旅行の最大の収穫でもあった。                                        H 7.10/27〜11/6
  ーH0809 愛と憎しみと価値判断ー
(字数の関係でカット09年8月27日)
  ーH0811  人生の楽しみ方ー
 (字数の関係でカット09年8月27日)