つれづれに

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 一月ほど前に、初孫の顔を見てきた。そして、昨日、この写真が送られてきた。
一月位経ってくると、日ごと会うたびに、何ともいえない愛情がわくと聞いたが・・・・



・・・・・・
1971.事業百訓・・・?
2006年08月26日(土)

事業百訓ー1995年(9)
H0701新年にあたり

 景気に対して超悲観的である。
冷戦の後の数年のこの文章はほぼ同じ悲観的見通しであったし、
当然その通りになった。
逆張り投資の当社にとってこの時期こそ機会到来である。
十五年間かけて地道に積み重ねてきたモア・スペシャル、
モア・ディスカウントのホテルフォーマットが主流と認知されてきている為である。
ここであらためて原点にたちかえり
十~二十年スパンの長期経営構想を深耕する年になる。

また経営戦略としてのフォーマットを練りあげる年でもある。
顧客の立場より、そのベーシックの部分を本質より整理する事が最も必要とされる。
日本でその視点より練りあげたホテルシステムはない、
それが可能なのは当社だけと自負している。
 
話は全く変るが、
関西大震災は今の日本人にとって大きなショックになる。
まさかあり得ないと(一部地震学を除いた)信じられていた
直下型大地震が大都市で発生した。
ある面でバブル経済の破裂より大きな混乱の要因にならなければよいが、
と考えてしまう。
今年のキーワードは“予測不能の事態の発生の多発”と、
社内的には“本業の核の追求”である。


H0701
事業百訓  

446 “ドーナツの穴”、あれこそ色即是空です。
  ああそれと小沢昭一がいった“色っぽい事をすると空しくなる。
 ”あれも、まさにその意味をいいあてている。 -永六輔
  447 業態とは損益分岐点である。-ヨーカ堂、鈴木社長
  448 「自分なりに」を禁句とせよ!
   自分を限界づけて、その範囲内という意味におちいってしまう
                    。-田舞徳太郎
  449 ほうたいをまいてやるなら、他人の傷にふれてはならない。-ヘッセ
  450 人の痛いのは三年でも我慢する。-ことわざ
  451 好きな事より、してよっかったと後で思える事をせよ。-ドバル
  452 真理はしばしば矛盾の中にある。
  453 釈迦については、人類史上最初に人間の肉体と人生より
  “精神”というものを抽出し、それを凝視し、よき作用を見、
   悪しき作用の機能を指摘した。
   さらに悪しき作用を押さえこむ処方まで与えた。
   それが仏教であるといえる。
   この凝視と方法に医学が気付くのに十九世紀末のフロイトまで
   またねばならなかった。-司馬遼太郎
  454 「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」
   私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」といわれました。
   大事なものは取られても生活を根底より覆されるような被害ではない限り、
   いつか忘れる。それで自殺した話は聞かない。
   しかし悪口を言われて死んだ老人の話や子供の話はよく聞きます。
   それは人をおいやり子供を精神薄弱にする力がある。
   ...私達は二つの尺度を持っている。
  「自分のする事は、そう悪くない」「人のする事は大変悪い」
   自分の過失を咎める尺度とは、全く違う。
   ...自分の未来を勝手に決めないで下さい。
   こんな未来しか持ってないと、わかった顔をしないで下さい。
   紙の書かれるシナリオと貴方の書かれるシナリオは全く違うのです。
   ...ドイツのことわざに“共に喜ぶのは二倍の喜び、
   ともに苦しむのは半分の苦しみ”があります。-三浦綾子



H0701
テーマ日記

 二年前より日記を“テーマ日記”方式に切り換えた。
なれるまでは大変だったが今ではけっこう面白い。
この文も去年の一月七日の“テーマ日記”が下敷きになっている。
思いつくまま“テーマ”書き、それをもとに内容を書く。
前日みた“TVドラマ”がテーマであったり。
前夜みた“夢”の内容であったり、“父の思い出”“年記”
(年末に日記風に一年をまとめた内容)、“読書感”であったり。
あとでふり返って読んでも面白い。
いかに普段あまり深く考えてない事と、その時点の自分の興味の変化がわかる。
“日記”より雑記に近いが…。(随想、随筆の難しさがよくわかる。)

H0701
バイオソニック  

林原バイオ研究所とパナソニックが共同開発した
“α波発生機”である。二ケ月前に新聞広告を見てすぐ買った。
平均して、一日二時間以上使っているが、これが凄い!
 使いはじめて一週間後に“気”が現象面の効果ではっきり出た。
二ケ月使った実感として
(a) 集中力が倍増、
(b) (集中力の為か)事実の本質の把握力が数倍増えたようだ、
(c) 継続力がついた(読書時間等)、
(d) 潜在意識?の世界に夢等で入りこむ回数が増えた。
(寝る前に聞くと“数十年前の自分がある物語の主人公になって…”とか、
“宇宙船で他の星に行った夢をみた夢とか”。
 夜二~三本立の夢をみる、そのほとんどを記憶している。)

毎日一時間の散歩時に深々呼吸しながら、これを耳にあて、
自分の魂が地球をはなれ、我々の銀河系の外に出て、
銀河をみているイメージを描いて歩く。
なにか“瞑想”そのものに入っているような“気”になる。
“気”が出た事も、この“バイオソニック効果”にしても
オーバーに表現すれば天地がひっくり返ったような気分だ。
現在、十八世紀の巨人・ステェデンボルグ伝を読みはじめたが
(科学から霊的世界まで見てきた男)
半分はこの霊的世界を信じられそうだ。


H0703
事業百訓

455 行動の動機が、行動の本当の判断基準である。
 みかけ上は同じような行動を千人がする。
 本当はその動機が違えば、みな違うものである。
<なぜなら行動とは意志のことだからである。>
しかし意志は行動と同じではない。
<行動せずに考えたり、意志したりすることは、
そこにチャンスが存在するとしても“壺”の中の炎や、砂にまかれた種と
同じである。燃えずに消え、芽を出さずに死んでしまう。>
仏教徒と同じようにスウェデンボルグは、
人間とはその人の意志した行動の総和だと断言する。
<人間の霊的肉体とは彼が自分の意志によってした行動以外の何ものでもない。>
そして<天国への道は、この世の外にあるのではなく、この世にある。>
(スウェデンボルグ伝より)
456 自分の“木”をみつけるべし。さがしつづければ、
 ある日その木はどれだと判るはず。(山尾三省
457 (a)七千万年前に原始ザルが生まれ、
  (b)二千年前に霊長類が生まれ、
  (c)七百~八百万年前に今の人類の原型が生まれた。
  (d)一万二千年前に農耕がはじまり、
   地球上に三百~四百万人の人類が存在した。
   人類は“森林”の中で天敵がなかった。
   その為自らのうちに敵を持つシステムをつくっていった。
   (戦争という)―河合雅雄


H0703
ブラジル旅行記

“行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。
カーニバルはリオディジャネロだけでなく、全国津々浦々の都市で行われており、
四日間全国がお祭りの為休みとなる。
その最も有名で世界的に知られているのがリオのそれなのである。
リオのカーニバルのランクがA・B・Cとなっており
Aランクが9チーム、
Bランクが15~16チーム、
Cランクは数十チームとなっている。
AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー800mを
80分の持時間で踊りながら行進する。

そこは六万人の観客席があり、審判席で厳格に審査され、
その年の優勝等順位があらそわれる。
そのチケットは一般の人はほとんど入手不可能である。
TV新聞等で目にするのはCチームが街頭で行進するものでしかなかった。

チームは四千名が1チームで構成されており、
それが約500名×8チームに細分化され統一のコンセプトのもとに
仮装が華やかにつくられている。
音楽も各チームごとに毎年新しいコンセプトのもとに
有名作曲家が名誉をかけてつくる。
その作曲も採点の大きなポイントになるという。

一日6~8チームが夜の七時より翌朝の七時まで延々と踊りの行進が続く。
観客席もその行進曲にあわせて半数以上が踊っている。
音響もすさまじく隣の人の声は全く聞こえない。
上位数チームが翌週の土曜日に優勝をかけて再び行進がおこなわれて、
優勝チームは10億以上の賞金がつき、
かつ翌年に向けてのよいスポンサーが約束される。
その年の山車とか衣装は翌年に持ちこさずすべて破棄するという。

カーニバルをみていて“気”とか“色即是空”とか“禅の悟り”が、
すべて含まれている。
東洋的なこのような言葉が小さくみすばらしくさえ思えるくらいだ。
ブラジルの印象を書くと、
“サッカー”と、“サンバ”(カーニバル)と、“森林”と、
イグアスの滝”そして“汚職まみれの国”である。
さらに加えるなら“まずしさ”である。


H0705
バンジージャンプ

 ナイアガラの二倍の落差のビクトリア大瀑布に息をのみ、そのまま進むと、
ジンバブエザンビアの国境を結ぶ小説等で有名な鉄橋がみえてきた。
よくみるとバンジー・ジャンプで丁度人がとびおりたところであった。
思わず“私もやりたい!”
今年の五月にニュージランドで43mの高さを挑戦!
今度はその二倍あるという。

現地案内人の黒人女性も、私の気迫におされてOKの返事!
一度国境を出てまったく無国籍の橋の上へ。
国境警備員も本当かと何回も念を押した。
そして……。
飛び込み台に立って気がついた高さと恐怖心は正比例である事に!
氷つくような恐怖心!後ろをふりむいて“やっぱりやめた!”
という一瞬の気の迷いを振りほどいてジャンプ!
何と次の瞬間思いもよらない脳の奥より声!
“目をあけてみてみろ!”
何とそこには高速道路で170?のスピードで車をはしった時の世界と、
同じような空をとんでいるような感覚。
いやに緑の木々の印象の強い光の中をつきぬけていく風景がみえてきた。
さらに恐ろしいのは50m位の中間で何分か宙づりになり、
橋まで再びひきあげられるまでの恐怖であった。
(次はヘリコプターよりのジャンプ!?)


ニュージーランドバンジージャンプ

四十三mの渓谷の吊橋より足首に一本のゴム紐をつけて飛びおりるゲーム。
まさに“身も氷るおもい”そのものであった。
あの飛びこみ台は死刑台と同じ感覚ではないかとその瞬間思えた。

立って下を見た瞬間まさに金縛りそのもの。
自分は何でこんな事をしてしまったのか。
まさか自分がここより飛びおりる?
…本当に恐怖のどん底とはあの瞬間であった。

そういえば現地の日本人ガイドが私の申し込みに、
四回も私の目をみて念をおしたのも頷けた。

また、その後にのったジェット・ボートの現地の運転手が、
その事を聞き真面目な顔で“クレージー”。
(ニュージランド、クラフトチャーチ)