* 不幸になりたがる人たちからのヒント
どうも年齢のせいか、何かやろうとすると「めんどうくさい」が先にたってきた。
 先日 ーしあわせを感じる「技術」ーを図書館から借りてきた。
多くの人が「しあわせ」について書いている中に、精神科医春日武彦が、「不幸になりたがる人たちからのヒント」
で「めんどうくさい、が不幸のはじまり!」に、ハッとした。 そこで「人は基本的に現状を大きく変化させることを
望まない傾向にある。 たとえ不幸が持続することが火を見るよりも明らかであったとしても、現状維持を選ぶ人の方が多数派」
という。 その根底にあるのが「めんどうくささ」だとしたら、何とも人間は情けなく哀しい存在である。
 これは、人間は「低位安定」を心の奥に求めている結果ではないかと。「低位安定」から、どうすれば抜け出すことができるか?
これからの脱却は、「めんどうくさい」との戦でもある。著者は陳腐な結論とことわって、結局「早寝早起きと整理整頓」に、
つきると・・・ まずは暮らしを整え、生活を律していくこと。それができない者には、現状を変えようといこうとする力など
生まれない。不幸を願うものはいないが、不幸へと続くレールから外れようとしないものは多い。現状維持の方が楽に思えるからだ。
その「めんどうくさい」を突き詰めていくと、満たされてない何かが逆に新しい事態に直面するのを避けているのである。
 不幸系の人は身辺には寄せない。「めんどうくさい病」の一つに「自律神経失調症」という病がある。私の知人にもいるが、
問題にぶつかると後ろ向きになる。 常に周囲の欠点を探し自分を改造しようとしない。 その積み重ねの結果「めんどうくさい病」
に陥ってしまうのである。 常に夢見る男(おのこ)で、フワフワし同じタイプの人間と群れたがる。他人事ではない、年齢からくる
老いが「めんどうくさい」病に知らないうちに陥っているのである。 秘境ツアーにしても、事業にしても、ブログも、
自分が幸せと思えた瞬間は、それを乗り越えた結果であった。 しかし「めんどうくさい」も、すべて否定はできない。
自然体という生き方でもあるからだ。 低位安定で満足する層も世の中には必要。世の中は、それぞれの層の構成で成り立っている。
鼻声で、論語を言っている層も、ある層?だからだ。老齢化になったら、否が応でも低位安定になってしまう。
 面倒を克服するには、習慣化がよい。 それを積み重ねていけば良いが、それ自体が面倒か〜
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2997、定年か〜  ー2
 2009年06月19日(金)
 「うれしい定年 さびしい定年」ー 55歳からの賢い生き方ー   北 連一 (著)  
 私が会社から離れて家庭だけの生活になったとしたら、まず「家内との日中の折り合い」が大問題になるのは解る。
定年直前に「定年後は、私の管轄下よ!」と、旦那に一括を入れていたのをドラマで見たことがあったが、
深い男の悲哀を感じ取ったことがある。 実際の似た場面も立ち会ったことがあったが・・・ 
私など三連休になると、家内に顔をまじまじと見られ大きく溜息をつかれ嫌味が始るのが常。 
「妻への詫び状」という、妻に白旗を揚げた、だらしのない男たちの見本帳のような本を取り上げている。
人口問題研究所の統計だと、離婚した夫婦の男の平均寿命は、死別した人や配属者のある人に比べて10年ほど短いとか。
だから離婚も耐えなければならないのである。 ある生保の調査によると、女性の1割以上が
「夫と同じ墓には入りたくない」と答えている。 更に、ここで取り上げている30年前の『定年後』の内容が凄い。 
その著者は妻のことを「古猛妻」と命名している。 その妻に定年前に、「五箇条の御誓文」の提出を求められている。
一、午前中は一歩も書斎を出ないこと          二、小遣は現在の2万5千円
三、食事の内容には一切要求をつきつけない       四、仕事の上でやむを得ないと認める以外は外出を禁じる
五、これらを不服として大声を発することをしない
 これは実録小説といっているが、大筋は事実だろう。ここで著者は「定年に先立って、その後に来るものを詳細周到に
予測していたが、女房の支配権の無差別な拡大という致命的な問題をぬかしていた」と、予期せぬ事態に戸惑う。
「定年で自由の身になったと思ったのは春の日の蜻蛉に過ぎない。時間単位で公私を区切る近代的雇用とは
比べようもない、運命共同体的な四六時中の関係に女房がいた」と。まあ、大変なことである。
離婚をして独り暮らしをしている同年輩の人が実際に何人かいる。 やはり10歳は老け込んでしまっている。
 ここで一句 「 うれしくも 悲しくもあり 独り味 」 「 笑えるうち 笑っておけと 涙目で 」 
そう遠くない日が待っているが、その時は、その時であるとしか、いいようがない。 死んでしまえば同じこと!
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2633, 娘に贈る12の言葉  ー2
 2008年06月19日(木)
 第一の言葉から要点を抜粋してみる。
 一言一言が、肯ける内容ばかりである。過去に上手くいったことを省みると、そのとおりである。
 考え抜き、調べつくして確信できたこと以外は失敗した。オリジナルはなく、周りの流れに従ったときである。
  ーー
1、他者に流されてはいけない
 ー他者に流されず、自分の頭で考えることー
・君には「君」という優秀なブレーンがいる。自分自身で調べ、考え、確信できることを見つけなさい。 他人に、
 たいていの問題に関しては、自分のうちに問題を解決する能力をもっているものだ。自分の考えに従って行動することだ。
・君のアイデアが笑われたら、それは成功へのサインだ。→大勢に従って、成功した人間は誰一人いない。
 以前、中国は投資するに値しない国だ、と言われていた。しかし、1990年代に投資対象と気づいたのだ。
 実際の中国を調べると、13億の人たちが懸命に働いていた。その上に、貯蓄率が35?もあり、それを投資に向けていた。
 そんな国が成長しないわけがない。ところがアメリカはどうだろう。、1990年頃の貯蓄率を4パーで、今ではたったの2パー。
 しかも深刻な借金を抱えている。他の人が常識に従っているうちに、中国に投資をした。 おかげで、700?のリターンを
 得ることが出来た。 世間の常識を疑ってきたからこそ儲けられた。 →世間の常識は疑うこと。
・オリジナルな「自分でいること」。色んな分野で成功してきた人は、誰のコピーをしていないだろう?
 ソニーをごらん、ソニーは周りとは違う。彼らは常に周囲と違うことをしてきた。 
 誰も歩まない道を行くからこそ成功をすることが出来る。
・私に従わなくて良い、ただモラルだけは守って欲しい。自分の頭で考えて正しいと判断したことなら、
 思ったとおりするがよい。自分が絶対に間違ってないと自信がもてるほどてっていてきに調べてからでないといけない。
・常に質の良いものを買うように。質の良いものは長持ちするし、より価値が高い。
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2007年06月19日(火)
2268, 今年のミス・ユニバースって美人?
                      ファァ(*つ●-*)*.;'Good☆Morning
TVで日本人のミス・ユニバースの女性を見て、違和感を感じていたら、夕刊フジのブログと、毎日新聞の文化欄の
「〈現在〉を読む」に論評が載っていた。誰も考えることは一緒である。 「少し可愛いいが、決して美人ではない。
生意気そうなところがマイナスで、差し引きゼロ。それ以上でも、それ以下でもない。
実際のところ、ミス・ユニバースの判断基準は理解できません?」というのが、両者の論評の概略である。
 ー以下は夕刊フジのブログの概要である。
 ーー
07年ミス・ユニバース世界大会で、森理世さん(20)が優勝し話題になっている。
日本人としては48年ぶりの快挙。昨年も、知花くらら(25)さんが2位となった。
日本も世界が認める“美人”輩出国となったかの騒ぎだが、テレビなどを見て、「可愛いが、決して美人ではない」
と思った方も多いだろう。果たして美人の世界基準は変わったのか。 専門家らが徹底討論した。
 【違和感】
「森さんは鼻がツンと上を向いている。日本人の(美人の)感覚とは違ってコケティッシュ系ですよね。
化粧をすると、昨年の知花さんと変わらない。スポーツ紙が、韓国代表と間違えて写真を掲載するくらい見分けが
つかなくなっている」 テレビや新聞で伝えられた森さんの顔を見て、女性を美しくするプロのたかの友梨さんも、
「顔立ちは際だってきれいというわけではない。おちょぼ口や色白など日本人の良さとは違って肌は白くない。
(日本の美人というより)アジアンビューティー的ですね。 日本人から見ると、アイシャドーはあんなに
濃くなくてもいいのにと思う」と指摘する。 漫画家のやくみつる氏は“美人ではない”と違和感を覚えた一人だ。
やく氏は、日本と外国の美の基準にも、「かなりズレがある。芸能人で、(森さんより)きれいな人はいると思う。
昨年も思いましたが、バチバチの派手な顔より、愛嬌のある顔が外国に受けるのかな」と、大きな違いを感じている。      
(字数の関係でカット2008年6月19日)
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2006年06月19日(月)
1903, 感動と感激についてー2 
        オハ (´・ω・`)(ω・`)(・`)( )(´・)(´・ω)(´・ω・`)ヨ? 
ー感動と失望ー   
 感動・感激の反対語は何だろうか?
 期待以下の大きなマイナスギャップ、    
 期待>実感 → 落胆・失望  ということになる。
「大きな期待を持っていったが、何も感動することがなかった。がっかりした。」である。 
 西アフリカの旅がそうであった。期待が大きかったからだ。失望を少なくするには、まず期待を小さくすればよい。
失望・落胆も、振り返った時に心と魂に多く残るが、人の脳は無意識のうちに、記憶から排除をしてしまう。
感動・感激とは驚きである。驚きは、そのまま考えるヒントを与えることになる。驚きはギャップに対して起こる心の動きである。
ギャップを埋めるための知識集積が自動的に生じて、それが考えることになる。従って、人間の能力は感動・感激と、
失望につながっているといえる。 今年のワールドカップ・サッカー、日本チームに対しては過剰期待である。
今回の過剰の期待と落胆は、貧困層の広がりが原因という見方がある。
冷静にみるより負けるまでせめて夢みたいという気持ちの表れは、貧困層の考え方?である。
WBC(ワールド・ベースボール・カップ)で日本が優勝した時、期待を誰もしてなかった上に、
イチロウなど日本人選手と王監督の健気な姿に感動が生まれた。誰もがまさか優勝するとは思っていなかったから、
驚きと感動が生まれた。この期待をサッカーのワールドカップに当てはめようとしたが無理な話である。
いかに多くの感動・感激・感謝を積み重ねるか、反対に失望・落胆を少なくするかが、人生にとってのポイントになる。
これは意識をすれば、出来ることである。一流のものを見続けることである。
一流の人と多く接し続けることである。そこには、一流の人の波動が出ている。
そのシャワーを浴びればよい。ー話は少し違うが、先日の産経新聞産経抄の論評がよい。
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産経抄
「勝てば官軍、負ければ賊軍」とはよく言ったものだ。頼みもしないのに受信料をとりにくるテレビを筆頭に、
各メディアがサッカーW杯に出場した「青きサムライたち」をこれでもかと持ち上げ、
膨らみきったジーコ・ジャパンへの期待は初戦の完敗でみるみるしぼんだ。
▼にわかファンたちが口角泡を飛ばす居酒屋談議では、梅雨で曇り空が続くのも、株価が乱高下するのも、少子化に歯止めが
かからないのも、みんな下手な采配(さいはい)をしたジーコのせいだ、と言わんばかりの勢いで批判の矛先が監督に向いている。
▼もしあのまま1?0で逃げ切っていたら、同点にされたあと、駒野が相手ゴール付近で倒されたときに主審がPKをとっていれば、
ジーコは勝利を呼びこむ「サッカーの神様」として褒めそやされていただろう。勝負ごとはやっぱり勝たねばならない。
▼サッカーと戦争を比べるのは不謹慎極まりないことぐらい百も承知の上だが、敗戦がどれほどみじめかはサッカーファン
ならずとも身にしみる。戦後60年以上たっても、首相が靖国に参るだけで他国から悪罵を投げつけられている。
▼中国や韓国が「軍国主義の復活」と言い続けるのは両国の国内事情もあろう。
それより理解できないのは他国に迎合して、無宗教の追悼施設をつくるため首相の靖国公式参拝を「憲法違反の疑義がある」
と明記した中間報告をまとめた「国立追悼施設を考える会」の議員たちだ。
▼このヒトたちには、「靖国で会おう」と国や家族を守るため心ならずも散華した人々への感謝の念があるのだろうか。
会長は下半身スキャンダルで週刊誌をたびたびにぎわしたセンセイである。少なくとも小欄は、こういう人物に靖国問題
ついて指図は受けたくない。                   (。・ω・)ノ☆゜+.バイ!
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2005年06月19日(日)
 1538, 銀座24時-女たちの戦い
昨夜のTVスペシャル  
ードスペ! 「欲望の巨大街・銀座24時-女たちの戦い」銀座の象徴・“高級クラブ”の舞台ウラにカメラが潜入!!ー
 というTV番組の見出しにつられてみた感想である。二時間という時間がアッという間に過ぎ去った。
次から次へと、多くのケースを映し出したからだ。 人間観察という面で人間社会を赤裸々に見せてくれる世界である。
[高級クラブ・内幕もの」は随想日記でも何回も取り上げたが、見ている分には面白い。この不景気で銀座のクラブの多くが
淘汰されたが、その中にあってしぶとく生き残っている店があるのだ。まず一番印象に残ったのが 
ー30歳新人ママ…涙の生き残り大作戦であるー
昨年11月にオープンしたクラブに半年間密着したもの。その店を仕切るのは、同じグループ店のナンバー1ホステス。
一般ホステスと、ママの立場の違いを開店前から映し出していたオープン時は、彼女を目当てに客が押し寄せる。
しかし高級クラブ業界では、開店3カ月までは"ご祝儀黒字"。それ以降に店の真の評価が分かるものだ。
正念場を迎えた新ママに、ホステス同士の内紛というトラブルが降り掛かる。さらに、黒服といわれるスタッフ役の
男達とホステス達とのトラブルが発生。黒服の長であるマネジャーといわれる立場は、オーナーである会社側にある。
雇われママはホステスと黒服との間で苦闘する。それらの多くの障害を一つずつ乗り超えながら、店を切り盛りする。
そして、一人前のママに育っていく。一晩で、数百万をつかっている生の現場をカメラは正直にとらえている。
数万もするドンペリが、どんどん注文される。果ては百万のドンペリを注文した場面もあった。
また、誕生日に100万の指輪に10万の花を添えてホステスの贈る場面も。 あるホステスが給料明細も公開した。
時給4万円、それに指名料が加算される。24歳のホステスと、27歳のモデルのお客の奪い合いの実態を冷酷に追っていた。
黒服が辞めたホステスの客を、二人のホステスに競わせるのだ。銀座クラブの掟として、店では客の馴染みホステスが決まると
「永久」に固定化される。しかしホステスが辞めた場合、客に指名権が与えられる。店として、それを争わせる。
そのプロセスをお客に楽しませるのだろう。そこで、あらゆる手段で指名権を得ようと店の外で女の争いが始る。
結局は、新しく入った27歳のモデルが勝ちを収める。下手なドラマよりズット迫力があった。
TVでは取り上げることの出来ない「下ネタ」が、背後にあるのだろうが、まさか茶の間には出せない。
実際は凄いのだろう?エログロ番組になってしまう。早朝から、こんなことを書いている自分が面白い? いや、馬鹿か!
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2004年06月19日(土)
 1173, つれづれなるままに
・先日、競売物件の新聞公示欄を見ていたら、近くのホテルが売りにでていた。富士銀行が80億の金を出したホテルで
何と3億1500万の値段であった。金に余裕があったら買いたいぐらいだが、色いろ権利が入り組んでいて力に余裕
がないと手を出せないのが残念だ。バブルの大きな傷を残した一つの事例である。それにしても、この差額は実際誰が損を
こうむるのだろう。間接的に国ー国民なんだろう。二年前に、このまん前のホテルも20数億が3億5千万で、競売が落とされた。
・最近、昼飯を食べにいってもお客の少ない。そういえば、私も昼飯の単価が2?3割も下がっている。
近くに牛丼の「松屋」ができ、他がランチの値段を下げた為だ。。・一昨日は、宅建主任者の3年に一度の講習会。
長岡郊外のハイブ長岡であった。大きな会場で500人位が受講していた。初めて時計を持たずに行ったのが正解で、
あっという間に時間が過ぎた。危険物取扱者の受講もそうであったが、真面目に講義を聞くのがポイントである。
せっかく時間を過ごすなら、その時その時のテーマの中心から目をそむけないのがよい。宅建の内容は聴いていて面白い。 
法律の改正の変化が世相を現している。何事も、まともに聴いているとなかなか面白いものだ。大學時代がそうであった、
授業とは面白くないという概念が根本から崩れた。特に専門コースに入ってから面白くなった。
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2003年06月19日(木)
806, 『自分様と馬の骨』 読書日記
 ーなぜ認められたいかー
「ぶざまな人生」「わたしを認めよ!」「まれに見るバカ」等、彼の文章のタッチの面白さに、次々に買って読んだ。 
人間の一番の本音をあまりにもシビアに書いている。先日、図書館でこの本を見つけたときは、しめたと内心叫んだ。
早速読んでみるとやはり面白い。「わたしを認めよ!」の続編であり、何ともいえない力がこもっていた。
彼のいっていることは別に難しいことをいっているのではない。
・自分を持して一生懸命に生きればよい、
・ダメならまた自分を立て直してやり直せばよい。たとえそれがぶざまな人生であっても。
「懸命に生きる」とは「自分ひとりの関係」である。それが自分様であり、自己が自分になっていくことだといっている。
人間は自分はとるに足りない馬の骨と思うことに耐えられないのだ。特に比較において。友人との年収の差、学歴の差、
同業他社との利益の差、性経験の差において、馬の骨として、耐えられないのが人間であると主張。 創業を経験すると、
人間観が変わるーこれは私だけでないと思う。自分の骨の髄のエゴイズムを知ることになるからだ。その骨の髄のエゴイズムから、
出発をしなくてはならない。それを嫌というほど、自分に対して思い知ることになる。表層で生きている人は、創業のそのリアルな
姿を見て冷笑する。しかし、自分がその立場になれば全く同じ利己主義に落ちざるを得ないことに気がついていないのだ。
また環境がそこまで追い詰めない。創業は自分ひとりになって、その一人の内語から出発をする。
自己から自分へのプロセスの始まりである。馬の骨からおれ様への本質的な転換を事業で始めることだ。
ー「自己」と「自分」のちがいについて書いてあるのを少し抜粋してみるー
「自己」とは匿名的個人のことである。それゆえに、一人ひとりの「自己」は同等の存在価値を持つ。
世界の人口の数だけ「自己」がいる。他方、「自分」とは何々の某という名前を持った、世界のなかでただ一人
の、この自分のことである。この「自分」に価値がある。
・「あなた」も「わたし」もおなじ個人だから、おたがい大切というのが「自己」
・「おまえ」は「わたし」でないから、「おまえ」がどうなっても知ったこたないというのが「自分」 
この二重性を生きているのが人間である。
 ー以上である。
何故ここであえてこの問題を出すかというと、「他人とは何か」を知ることが生きていくうえの一大事である。
それが自分を知ることになる。その自分の骨の髄はエゴイズムー利己主義でしかない。
そこのところを知らないと、自分の中の悪魔と神と出会うことがない。
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『自分様と馬の骨』
 勢古浩爾 著 長岡中央図書館 2003年6月15日
・・・・・・・
2001年06月19日(火)
 [57] 3D-ホームページ
今日は午前、午後パソコンずけだ。 午前はインテリア山下の南雲さんと、富士総業の小竹さんと
3d開発の増嶋さんだ。 そして夕方はパソコン教室だ。 パソコンはやはり凄い世界だ。
このホームページの作成だけでも、背後に多くのエネルギーが入っている。
何気なく見過ごしている中に、情報がびっしりつまっているのだ。 情報革命は時代を大きく変えるだろう