正月の5大新聞の年末年始の社会、経済など「どうなる日本」の解説や、対談を目を通してみた。
石原慎太郎の「日本よ」の辛口の論ぐらいが、納得したぐらいで、あとは殆んど見当たらなかった。
あまりに悪いから、マイナス論調のことを書けないのだろう。 当たり前のことだが、
・現状は恐慌そのものであり、既に二番底にむかっている
・デフレ危機の瀬戸際。 デフレ・スパイラルは5,6月辺りが危ない
アメリカから中国、インドなどに選手交代
・電気自動車などの新しい分野への転換期  
  等等が、問題と指摘していた。 
株価、為替は大きく揺れるのは必至である。
 私の商売の動きからすると、デフレ・スパイラルに去年の11月辺りから始ったと思われる。
社会的問題の、ホームレスや、失業の問題には、どの新聞も避けていた。
新聞では取上げないが、リーマンショック以来16ヶ月も、輸出入がマイナス40パーセントを続けてている。
輸出主導の経済のこの国では、この有り様では景気回復など考えられない。
藤井財務相が辞めたが、この国家予算と800兆の国債総額では、予算委員会の答弁は無理。
 なるほど百年に一度の恐慌とは、こういうものか!と実感する。
恐慌が二年目に入り、そのウネリがより大きく覆ってきている。 情報化、グローバル化は、世界を平準化する。
その中でアメリカの従属国家として平和を謳歌し、豊かさを享受してきた日本も、世界の普通の国家並みに
なるプロセスの入ったということ。 今年は政界再編成を含め、大波が次から次へと襲ってくる。 
憂鬱な10年に入ったが、割り切って身を委ねるしかないのか? 高度成長期を味わったので、
その段差の溝があまりに大きく感じる。 21世紀になって10年、その一端を経験しているが、成るほど、
断絶の世界である。 更に、ここにきて電気自動車と、ミニブログツイッターである。

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2835,夢の中に集中しすぎて、無呼吸に 
2009年01月08日(木)
 去年の暮れになるが、危ない夢をみた。何かの夢をみている中で、空の上から下をみると砂粒位の人が数人が見える。
それを神経を集中して見ようとしたあまり、夢の中の世界に集中しすぎて、生きている生身の本体が呼吸が
出来なくなったのである。 ハッとして夢から覚めたが、何分か息をしてなかったようだ。
必死に呼吸をして体に空気を入れるが、何ともいえない気分の悪さに見舞われる。
その時、「死ぬ時の感じがこんなものか? 友人はこんな気分で死んだのか!?」という死の恐怖感に襲われる。
そして数分の間、深呼吸をした後に目をつむると、その画面が再び自動的に現れ、そこに集中してしまう。
その繰り返しである。そして呼吸が出来なくなる。よほど、集中したのであろう。 恐ろしくて目をつぶれないのである。 
30分ほど寝室の暗闇の中で目を見開いていたが、恐ろしい不気味な時間であった。 無呼吸症候群ではないのだろうが、
高齢現象なのだろうか。書いていて思い出したが、子供の頃、父がイビキをかいていて急に呼吸が数分止まることがあった。
再び呼吸をしないのではと、耳を済ませたことがあった。以前NHKの番組で、無呼吸症候群を取り上げていたことがあった。
死に至ることもあるという。 毎晩、耳には耳栓、足の親指にはゲルマニウムのリンク、目にはゲルマニウム入りの
アイマスクをすれば、脳は熟睡した後の深夜にフル回転するのは当然だろう。夢は想像を絶するエネルギーを使っている。
特に耳は寝ている時に無意識で使っている外部センサーである。耳栓をすると、9割の音が遮断される。 
そのため短い時間で寝入ることが出来る。その結果として熟睡後に夢を集中してみることになる。 
我われは深夜でも多くの雑音が入っているのである。起きたときに、そのことを殆ど忘れているだけ。 
チョットした工夫で不眠症が改善されるのである。睡眠時無呼吸症候群の定義を調べたら 
《「一晩(7時間)の睡眠中に10秒以上の無呼吸が30回以上おこるか、睡眠1時間あたりの無呼吸数や低呼吸数が
5回以上の場合。」とされており重度の症例では呼吸困難で死を招く。》とあった。
これからみたら、無呼吸症候群ではないが、肥満で鼾をかく人に多いようだ。
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2008年01月08日(火)
2470, アメリカをWeb世界に類推する                     
  「ウェブ時代をゆく」−4  読書日記
 現在のWeb世界の現状を、人工国家アメリカの建国と同じ位置づけをして考えているところが面白い。 
 また、否定的にみる傾向の強いアメリカをプラスの面から照射しているのも新鮮である。弱肉強食とはいえ、
 強者であればチャンスが開かれているのもWeb世界と同じである。
 これから考えると、Web社会は弱肉強食を強める可能性もある。逆に弱者でも、最低の保障も与えられる?が
ーその一部を抜粋してみるー 
「もしこの地球上にアメリカという人工国家がなければ、私たち他の一角にすむ者も息ぐるしいのではないでしょうか」
司馬遼太郎は「アメリカ素描」で、老境に入った在日の韓国人の、こんな言葉を引き、次のように書いた。
「いまもむかしも、むかしも地球上のほとんどの国のひとびとは、文化で自家中毒するほどに重い気圧のなかで生きている。
そういう状況のなかで、大きく風穴をあけたのが、十五世紀末の新大陸発見だった。(中略) 
文明のみであなたOKですという気楽な大空間がこの世にあると感じるだけで、決してそこへ移住はせぬにせよ、
いつでもそこへゆけるという安心感が人類の心のどこかにあるのではないか。この人のみじかいことばは、
そういう意味のようであった」(二〇頁)『アメリヵ素描』はアメリカ論の名著である。私も何度読み返したかわからない。
司馬の在日韓国人の友人は、司馬がアメリカに行くと聞き、冒頭の言葉を発する。
アメリカとまったく関係のない人がこういう言葉を発するのかと司馬は感慨を持ち、アメリカという国を、
「決して、そこへ行かないにせよ、いつでもそこへゆけるという安心感」を「人類の心」にもたらす存在と認識するのだった。
さまぎまな矛盾を炮えるアメリカのすべてを肯定する気はないが、「あなたの国の疲れた者、貧しき者を、私のもとに
寄こすがいい」で始まる「自由の女神」の台座に刻まれたエマ・ラザルスの詩に象徴される開放性と寛容の理想が私は好きである。
二〇〇一年の同日多発テロ以来その内向化や閉鎖性が指摘されるアメリカだが、人工国家アメリカの他国とは
全く違った開放性を私は相変わらず日々感じながら暮らしている。本書でたびたび登場したアンディー・グローブは
1956年、二十歳のときにハンガリ動乱に関わり祖国を脱出して難民輸送船でアメリカにやってきた。
アメリカに下り立つと歯医者.眼鏡、補聴器の費用から、大学の奨学金・教科書代・生活費の一部まで支援団体が支払ってくれた。
そのことに彼は感激し・アメリカでの自立に向け猛勉強し「自立の精神」でたくましく成長し、機会を与えてくれた
アメリカへの愛国心を抱く(アンディ・グローブ著一僕の起業は亡命から始まった!
一樫村志保訳、日経BP社)。私はこういう話を聞くとなぜか無性に嬉しくなる。
  (字数の関係でカット09年08日)
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2007年01月08日(月)
2106, それがどうした!それでどうした!
     b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪よう♭さん♯
「それがどうした!」 究極の開き直りの言葉である。そして「それでどうする」が、ギリギリのところで思考から
手順への転換点への切り替えの最後の言葉となる。「エ・アロール それがどうしたの」は渡辺淳一による小説作品に
なっている。フランスのミッテラン元大統領が、女性問題について質問した記者に対し、応えた言葉「それがどうした」
もコミック的である。人は他人の誹謗とか中傷に弱く、常に不安感に悩まされる動物である。
この中傷・誹謗や不安感のために人生の一番大事なチャンスを逃してしまう。
その時の悩みに対して、「それがどうした!」「それでどうした!」と開き直ってみると、
ほとんどは何ということもない。 そうでもないか?まあ、話を逸らさないために、そういうことにしておく。
「それがどうした!」と開き直ったとき、その対象を考え始める基点とするか、思考停止にするか大きな分かれ目になる。
その対象の問題の本質の「正一点中心無」に向かって開き直って掘り下げていくか、中断するかの分岐になる。
掘り下げると、殆んど「そんなもの、何とことない!」に行き着く。関西で「何ぼのもんじゃい」という言葉もあるが・・・
事業を一つ立ち上げる時、常にこの言葉と向き合うことになる。
「それでどうした!」そして、「それが何だ?」「それでどうする?」とつづき、「それしかできないのだから、しかたない!」
となり、そしてあとは「なるようにしかならない」となる。 その繰り返しの中から手順をみつけていく。
先日、飲みにいったママさんが、あるお客に「御前はこの辺の飲み屋の中で評判が悪い!」と言われた、
と深刻そうな顔をしていた。「ああ、引っ掛け言葉にやられたな!」と。
これは定食屋の定番言葉で、迷っている時ほど、これにやられる。
卑しい「世間屋」のあれらの「低俗男」が何も考えないで、二軒で同じような話を聞いていう、引っ掛け言葉である。
「週間ポスト」「週間現代」「週間文春」の低俗記者の記事レベルの売らんかなのタイトルレベルの引っ掛け話である。
その程度の話を一度いった連中は二度と身辺から遠ざけてきたが。 それでも寄ってくるが・・・   
長岡のある不動産関係の??の男に「あんた、不動産仲間の中で評判悪いよ!」と言われた事があった。
ムッとして思わず言ってしまった。「私にとって最高の褒め言葉として聞いておく!」と・・・
これが本人にとって大うけをしたらしく、それをその連中に言って回ったと言う。
これだけ侮蔑した言葉は無いだろうがますます、世間屋様に嫌われたか!  それがどうした!
父親の下で「うだつのあがらない二代目」などの小池宇宙の世間屋様の商品に対し、「それがどうした」
「それがなんじゃい!」を自分の脳を守る「超越確実言明」にするしかない。 
石ころが遠くから見れば同じような砂利でしかないが、ただ変形度がおおきいだけ!じゃないかい、
という声が大きく聞こえてくるが。「それがどうした」そして、「うんで〜?」と呟いていれば知恵が出てくるから。
ゴミ取り言葉!  蝿取り言葉! か? そんなところだ!              
              ウンジャ(o ・д・)ツ 蝿、いやバイ!
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2006年01月08日(日)
 1741, 教養とは −1
「教養の意味」を検索で調べてみた。   (/´Д`)/Hei !!!!!
                    (;¬_¬)  sonnnamon 今日用がない monn!
・高く評価される人間性の背景となると想定される知識・経験。         
           勉強勉強!!((φ(◎ロ◎;)φ)))ウラウラウラー!!
・(一般には)一人前の人間が当然持っているべきと考えられる一定レベルの知識や 常識を持っていることは当然として、
  古典文学や芸術などに対する幅広い知識を備えており、 かつ、それらの知識が品位や人格およびものごとに対する
  理解力・創造力に結びついている状態を指す。       
 ーギリシア語ではパイディアであり、意味は「子どもが教育係に指導されて身についたもの」のこと。
 ー英語ではcultureで「粗野な状態から耕された、人の手を経たもの」、
 ードイツ語ではBildungであって「つくられたもの」のこと。それぞれに教養の捉え方に対する文化的な温度差がある。
  学問や芸術および精神修養などの文化的活動のことを指す。
  伝統的に西欧の大学で扱われていたリベラル・アーツに相当するものとしても捉えられる。         
  大学の専門課程以前に身に着けておくべき幅広い知識。
  社交界や人付き合いの場面において、洗練された会話や身のこなしができる能力。乂(^^ )ノ (ノ^^)八(^^ )ノ
   ー以上が検索で調べた内容である。
 私が理解していたのは「教養=過去に蓄積された知識・経験で全て忘れた後でも残っている素養」
 という言葉である。「高い人間性の背景になる知識・経験」というのが解りやすい。
 私など無教養を自認しているのは「高い人間性とは、程遠い生き方をしてきた」からだ。 ( ゚д゚)ンマッ!
 何故必死に本を読むかというと、「せっかく人間として生まれたなら、可能な限り人類が蓄積してきた文化を知りたい」
 からである。「教養は愛の別名」というのがある。 愛[*´ω`人´ω`*]愛
 「既存の学問分野を縦断しながら、人生への愛を学ぶのが教養」というとなお納得できる。 
  豊かな人間性の背景になる経験・知識というのが一般的な意味である。
                ~~匸Pヽ(・ω・`)コーヒーデモノモウ…  つづく
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2005年01月08日(土)
 1376, 日常最上
書店で「日常最上」という言葉に目が吸い寄せられた。日常の何げない生活の中にこそ、実は最上の時間である
という意味である。それに気がつくのに、何年かかったことか。この随想日記に「22・23歳の日記」を書き写してきたが、
三十数年ぶりに読み返してみると、当時の「日常の何げない些細な友人との会話や議論、そして感情の起伏や感動全て」
が光り輝いていたことに初めて気づく。現在でも日常の些細なことが全てが実は最上ということに気がつけば、
毎日が充実した生活を過ごせるのである。あの35年前に、そのことに気がついてはいなかった。
それを今にあてはめて考えてみればよい。逆に言えば、日常にドップリつかってる俗世間を否定するのではなく、
その俗世間そのものを味あうことがも必要である。以前読んだ本で、印象的な内容があった。
「神様に過去の、ある一日に戻してあげる」と言われた人が、昔のある日に戻ったという。
両親・兄弟がいて幼馴染の友達がいて、何げない全てが光り輝いていた。何故その時、それに気がつかなかったというと、
「どうでもよい事」ばかりに気がいっていた為だった。日常最上は「生きていること、そのこと」が素晴らしいということである。
悩みも、恐怖も、不安も、怒りも、全てが最上ということに、気がつくことである。
「生まれてこなければよかった!」なぞ言語道断である。そう思える人が多いが。他人から見たら、そう思われているのだろうが。
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2004年01月08日(木)
 1009, 心を軽くする言葉
何気なく図書館で借りてきた本を読んでいたら,ある項目にこの言葉があった。
そうそう手軽に「心が軽くなる言葉があるのだろうか」と思いつつ読んでみて、ナルホドと思ってしまった。
この随想日記も考えてみたら心を軽くする効用がある!を軽くする映画シリーズは「男はつらいよ」であるが、
少しテーマから外れるか。私自身にとって「心を軽くする言葉は何だろうか」と考えてみた。
「何とかなるだろう、何とかならなくなったら、何ともならないでよい。ただ問題の中心点からは眼はそらさないこと、
最善を尽くすこと。何があっても卑しくはならない事、そして人を騙さないこと」ということか。
この本の中で、ある女性には魔法のような呪文があるという。引用の引用になってしまうが。
「どうにもならないことは、どうでもいいことだ」この一説を目にしたとき、スッと肩の力が抜けたという。
努力のかぎりを尽くしたのに成果が出なかった。といって、誰かを傷つけた訳でなし、死んだわけでもない。
どうしても必要なものなら何とかなったはずだから、どうにもならなかったことは、それだけのものでしかなかったのだろう。
これがその人の解釈だという。本人にとって正しく魔法の呪文だったのだろう。この文章を書いていて、気がついたが
今実行している「ありがとう」という言葉の呪文こそ「心を軽くする」言葉である。ウォーキングをして、
1千あたりからスッと気持が軽くなるのが解る。 この本ではシンプルな例として 
・「時間はすべてを解決する」
・「小さなことは気にしないことだ。そしてすべてのことは小さなことだ」があった。
 ところで、この不景気ほんとうに心が重くなる。心のレッスンと受け止めて、日々過ごしているが。 
・・・・・・
2003年01月08日(水)
 640 ,ラスベガス
去年の年末にBSTVでラスベガスのショーを連日放映した。その華やかさにただただ驚いた。
NHKの紅白より豪華で格段の差があった。センスといい規模といい比べること自体が可笑しいといってよい。
アルゼンチンでタンゴのショーを見て圧倒されたとき、ラスベガスのショーはこんなものでないのだろうと思った。
先日図書館で借りてきた本に偶然そのラスベガスを書いてあった。 浅田次郎の「絶対幸福主義」である。
彼は仕事の頭の切り替えにラスベガスに年5^6回行っている。そこでこの街をわかりやすく描写している。
ーラスベガスというのは、カジノだけでなくホテルもレストランも、全体が堅気ではない。
すべてが遊び場、夢の世界なのです。だから24時間、私を別の自分にしてくれる。こんな街は世界に二つとないでしょう。
何を求めて年に5回も行くかというとリフレッシュのため。いやリライフー生き返る・蘇生するという造語を言わせてもらう。
まずホテルからして面白い。私が滞在しているのは「トレイジャーホテル」ですが。
その名のとおり、コンセプトが「宝島」。で、地下のフロアーに行くと海賊がウロウロしているんです。
隣の「ザ・ミラージュ」は、ホテルそのものがジャングルになっている。
その隣の「シーザーズ・パレス」は、古代ローマそのままの内装なんであります。
街そのものがワンダーランド。ディズニーランド顔負けであります。
意外と思われる方も多いでしょうが夫婦や家族ずれで来るとさらに楽しいところだ。
どこに行ってもきれいだし、治安がいいし、買い物をするにも世界一というほどショップが揃っている。
洒落たレストランもそこらじゅうにある。この街の健全性に、私は感動してしまいました。
と同時に、いかに日本人が博打を罪悪してるかを再確認しました。
 ーー
等々、目に浮かぶような描写である。俗っぽく言えば「如何にお金を持つことが大事であるかと、
またそれを使うには能力が必要」ということだ。私の場合は秘境旅行を、そのままこの文章に当てはめることができる。
「こちとらは、ニセモノのジャングルや古代ローマや宝島じゃないぞ。
本物なのだ」というのも金と能力の限られた人間の負け惜しみだ。一度ラスベガス行ってみたくなった。
何時も乗換えで飛行場から遠く街を眺めていたがこんな楽しい街なら行ってみたい。
金をたっぷり持った人種に圧倒されて帰ってくるのが目に見えているが。
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2002年01月08日(火)  
 294、正面突破しかないのでは?
今の日本は6掛け規模に収縮になるべき立場にある。何をもって6掛けかはただ勘であるが、間違いはない。
今の生活を維持をしようとして、それを嫌がりどんどん銀行から金を借り、雪達磨式に借金が年収の10倍以上に
増えていった家庭の状態と仮定できる。今もその範疇より一歩も出れない状態にある。「こうすれば、よくなるという」
視点より脱却しなくてはならない時期に来ている。やはりクラッシュに向かって正面突破しかない。
もっとも自然にそうなっていく。しかし今の評論家のほとんどが、この視点から一歩も出ていない状況である。
ソ連の崩壊までの前提と、それ以降の前提が全く変わってしまった。
アメリカの優待の立場が消滅してしまった、その事実が解ってない。解っていてもどうにもならないのだ。
この10年ああすれば、こうすればと小出しにいろいろやってきて気づきはじめた。
一度清算しなくては、これを小泉首相が建前で言った。しかし見ていると、まだ腰が引けている。
恐らくクラッシュがおきるだろう、いやおき始めたと言ってよい。
仕方がない、いや長期的にみたらよいことだ。大津波がきている、しかし全ての知恵を使って各自が自助努力するしかない。
恐ろしいことだが!近じか地元の大手の建?業が倒産するとの噂も入ってきた。
・・・・・・・
1月8日  1969年
9時過ぎに起床。 10時半に両親と料理屋の「青木楼」へ行く。11時から実家の店の新年会だ。
70人ほどの会であった。 大広間にこれだけ集まるとさすがに凄い。
終了後店の二人の女性とボーリング場に行く。 その後4人が来る。6人の女性とのボーリングは楽しい。
その後、ゴーゴー喫茶に行く。 一時間で切り上げて一人で帰ってくる。
家に変えると、株屋の田中さんがきて父と話をしている。 22時に就寝。