注文をしていた電動自転車が一昨日届き、昨日の朝、さっそく試乗したきた。
自宅は長岡駅裏から歩いて10分ほどにあるが、長岡駅前から歩いて20分のところにある大手大橋まで12分で着いた。
信濃川を渡ったところにあるジャスコには15分、ユニ系のSCのアピタまでは20分かかった。そして、その先にある
長岡大橋から駅前近くまで戻って、家に着いたのが45分後であった。万歩計をみると、2500歩になっていた。
45分というと5500歩あるくから、半分近くこいだことになる。 疲れは、ウォーキングと同じぐらいである。

 これまでは月に一〜二度ママチャリに乗るぐらい。  一日一万歩を目指して歩いているので、自転車には
ほとんど乗ることはなかった。 だからスポーツタイプで、6段切り替えで、かつ一対二のアシストの自転車を
乗った驚きは大きいのは当然のことである。一対二のアシストというと、人が一の動力をかけると二倍の加速がかかるもの。
自転車は発進時の加速と、登り坂に力を要するが、その時に特にペダルに力が二倍加わるのだから、何か異様な感がする。
線路の下をくぐる地下道の登りとか、信号待ちの後の加速とか、大きな橋までの登り坂とか、けっこう起伏がある。
そのストレスがゼロで、平らの道路でペダルをまわす時の加速も三分の一で済むのだから、非常に楽になる。
電動自転車は、法律でアシスト一対一から、一対二が認められたことで、爆発的に普及するような気がする。
 ただ、通販で注文して送られてきた電動自転車を組み立ててくれた長男が忠告した「すぐに、盗まれるよ」
というのも分かる。小型のためボックスカーに、そのまま乗せる事が可能だからである。
一年ほど前に、家内に電動自転車を買おうかどうか相談したら、「友達が買って直ぐに盗まれてしまった。
まだ、珍しいからで、あと数年先がよいんじゃない」といって、買うのを止めた経緯もあった。
スーパーや、駅前などは、当分は置けないが、その時はその時ではあるが。 とにかく、驚いた!
それにしては次から次へと、色いろ買うかって? まあ、普段は慎ましくしているので・・・

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2766, こころと脳の対話 −2
2008年10月31日(金)

「 こころと脳の対話 」  潮出版社   河合隼雄 茂木健一郎
 第二回 箱庭と夢と無意識 
    《箱庭のなかの「生」と「死」》の要点からー
 京都にある河合隼雄の研究室で、「20数年ぶり」という箱庭づくりを終えた茂木健一朗。
  ー茂木の箱庭を見ながらの二人の対話のポイントをまとめてみたー 
 ーーー
 河合隼雄はまず「意識と無意識の関係」を提示する。 箱庭で、ニワトリなりゴリラなどのアイテムを手に取る。
ここですでに、アイテム(意識)の背後にその人の無意識ーとば口ーが関わってくる。
「たとえば、ニワトリならニワトリが、心のなかに残っているわけですね。で、帰ろうと思ったら、本屋でニワトリの本が
パッと目に映ったりするとか。必ず買って読もうと。 それが、ユングのいう「シンクロニシティ」です」(P・102~103)。
この時、箱庭で選んだニワトリと本屋で見つけたニワトリとは因果関係はないです。大切なのは、自分の無意識と外のものとが
呼応するというほうです。 なぜか知らないけれど、箱庭の前に立ったらニワトリというアイテムを手にしてしまった。
そして、帰りに本屋に寄ったら、ニワトリの本にパッと目がとまって買ってしまった。
私のなかになぜかニワトリというかたちで無意識が働き出して、それがニワトリの本と呼応した。これが「シンクロニシティ」。
「意味ある偶然の一致」です。 ここには科学的な因果関係はまったくありません。でもこころにとって「意味」があるんです。
「この非因果的ということがものすごく大事なんです」と。河合はこの無意識の非因果的連関のなかに、臨床の中でクライエント
(患者)の生きる「意味」と「可能性」を探りだしてゆく。「とくに近代科学以後は、因果関係を知るというのはすごく
便利なことで、役に立つことでしょう。 因果関係がわかったら、こちらの意図で操作できるわけですから。
だからそっちへ行きすぎて、非因果的連関を見る態度を失ったんじゃないかと、僕らは思っているんですね。・・・・ 
僕なんかは、この非因果的連関のほうをけっこうおもしろがって見ているわけですね。 もちろん因果的にはつながらないんですよ。
ただ、ミーニング(意味)はあるわけだから、そのミーニングを知ろうというわけですね」。
(箱庭の世界は)「わからない。わからないのが大事なんです。だから、それが「可能性」なんです。だからこれを続けると、
その可能性が活躍したりするんですよ。 可能性がもう出てきてる。自分でもわからない可能性があって、そのへんが活躍しだす」
ーー                                                (本書より)。
解)
以上だが、「箱庭で、ニワトリなりゴリラなどのアイテムを手に取る、その背後に既に無意識ーとば口ーが関わってくる。
 それが既にシンクロニシティーの強力な引力になっている」というのが、この本の一番の要点である。
 たまたま本屋で、ニワトリの本を見つけたことと、因果関係はないということがものすごく大事というのが、面白い。
 その本屋になくても違うところで、違うニワトリの本を見つけるんじゃないか、それはそれで、意味ある偶然の一致になる。 
 人との出会いも似たようなもの。 ここでも、述べているが、全てがシンクロニシィテーである。
 たまたま何かのアイテムにエネルギーが集中しているから、その対象に意味ある偶然の一致が現れてくるだけ! なるほど。
                                          −つづく
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2007年10月31日(水)
2402, 独りでしていて唯一惨めでない行為
                        才ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪
  以下は、林まり子の「読書はじめ」というエッセーであるプロは同じ文章でも、読んでいて読者を引きつける力が違う。
 ここまで書けるには、この随想日記を一万は書かなければならないだろう。すなわち現在は2400であるから、差し引き
 7600÷365日=21年以上はかかる。 いやあと10年、いや5年はかかる。文章力は何をさておき、まずは絶対量である。
 林まり子と比べること自体が無理があるか? しかし、血の濃さは段違い此方が?? まあ、相手が女である。
 本の世界は読めば読むほど、その引き出しの中身の深さと引き出しの多さに茫然とさせられてしまう。
 もっともっと、読んでおけば良かったと悔やまれる。自分の無知蒙昧に知れば知るだけ読書量が増えているということである。
 林まり子は、家内がファンである。というと、私は読む気がしなくなる?ときどき手にするが血は濃い。
 もちろん女と男の差があるが。 現在の私の読書に対する気持ちに酷似している。 ・・まずは彼女の文章から・・
ー『読書はじめ』 2007年ベスト・エッセー集よりー  
「あなたのおかげよ。ありがとう」友人から礼を言われた。彼女の長男が、この冬中学受験をすることになった。
しかし下町の小学校なので、中学受験をする子はほとんどいない。塾通いが知れてから、学校で仲間はずれになってしまった。
休み時間、たったひとりで過ごさなくてはならなくなった息子に、彼女は私のエッセイを読ませたという。
そこには、こんな一節があった。「本をよく読むからといって、そう頭がよくなるわけでも、立派な人になるわけでもない。
  しかし読書というのは、ひとりでしていて唯一みじめでない行為だ」(中略)
ー以下字数の関係でカット2008年10月31日ー
 −−−−−
解) 人間の知識量など、たかが知れたものだ。ソクラテスのように、それを真に知っているかどうかというと疑問である。
しかし、知識は‘金銭や財産の質量’から見たら遥かに大きい絶対量の差が出る。 桁が全く違ってくるから恐ろしい。 
また、それが情報社会の凄みである。「ひとりでする行為で惨めでない唯一の行為」というが、ウォーキングや、
昼飯を独りで食べていくのも、夜に居酒屋に独りいくのも、図書館や本屋に本を探しに行くのも、何も惨めではない。
読書の効用を言いたかったのだろう。また、読書は著者やカメラマンなど作品の世界に入っているのだから、
惨めの逆の世界である。 まあ、理屈は止めておくか!
              グッ。・:*:☆w(´・з・`)バァイ
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2006年10月31日(火)
2037, 躁鬱病について −5
                才八∋ウ_〆(∀`●
 「夫はうつ、妻はがん」―夫婦で苦境を踏み越えて ー ?   小川 宏 著  
ー主観をこめた概要であるー
・31年前に糖尿病になり、ストレスなどが重なり15年前の平成3年に「うつ病」になった。
 癌と同様に、糖尿病は普通の人の三倍も「うつ病」になる可能性が高くなる。 その伏線がそれである。
・当時、彼はモーニングショーなど活躍したアナウンサーだったが、自分の事務所を任せていた弟がお金を使い込んだ
 トラブルが「うつ病」の 直接のキッカケだったという。
うつ病になった直後の平成3年に電車へ投身自殺をしようとした一瞬、
「自殺は愚か者の結論なり」という言葉がよぎり自殺をとどまった。
・その事情を知った妻に病院に連れて行かれて、本診の前の、問診で「親戚で神経系の病気をされた方はいますか?」いわれ、
「はい、その昔、叔父が神経衰弱と言われました」と答えた。 本診の結果、その場で入院を命じられる。
(帰りに自殺を決行の危険がありと診断) その 三ヶ月後に退院。 {うつ病に遺伝があるとはね〜}
・入院直後の医者の注意が印象的である。「うつ病だけは自分の意志で直そうとしないでください。
 ですからこの病に関しては‘闘病’という言葉は当たりません。上手く付き合えば‘心の風邪’のようなもので個人差はあっても、
 完全に直ります」 この言葉で心が励まされたという。
ー以下字数の関係でカット2007年10月31日ー
            (*^_^*)\          ー つづく
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2005年10月31日(月)
1672, 聖荊の奇跡

パスカルといえば、「パスカルの賭け」ー後記ーがよく知られているが、それと同じくらい有名なエピソードがある。
(日本ではあまり知られてないが) ー[聖荊の奇跡]である。この奇跡を見たパスカルが[パンセ]を書く大きな動機になる。
姉の娘マルグリットが、目の病気になってしまう。多くの医者をまわっても誰も治せない状態で、症状はますます悪くなる。
その間に、姉のジルベットは修道院に娘を寄宿させる。しかし目の腫れ物が肥大して、膿がでて、鼻骨も侵されてしまう。
ある日、修道院に展示されていた聖荊(キリストが磔にされたときに、頭につけていたとされる荊の冠)
の一部がにマルグリッドの患部が触れると、たちまち腫れ物は消え、完全に病気が治ってしまう。
これは宗教裁判所からも、奇跡として公認されている。この出来事を身近に見ていたパスカルは、信仰が揺るぎないものになる。
彼は、この出来事を契機として人間の回心を願い[パンセ]の執筆に入った。ところで、私に奇跡を貴方は信じますか?
と問われれば、信じる方を選ぶ。手品もどき宗教のトリックでなく「人知のはるか及ばない出来事はありうる」という意味で、だ。
全く、穢れてない少女が純粋に信じ念じたことが、何かのキッカケで細胞レベルからの変容も不思議ではない。
パスカルの賭け’
「神を信じて、本当に神が存在すれば天国に行き、もし存在しなければ天国も地獄もない。神を信じないで、もし神が存在すれば
地獄へ行き、存在しなければ天国も地獄もない。ゆえに、神の存否が分からない時は、神を信じたほうがよい」  (パンセ) 
 ダメもと、の信仰論がおもしろい

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2004年10月31日(日)
1307, 一冊のアルバム

地震に明け暮れているので、話題を変えてみる。事務所の移動で、秘境ツアーなどのアルバムを整理していたら、
未使用の小さなアルバムが出たきた。一面一枚の20枚しか貼れないが、台紙のあるチャンとしたアルバムである。
買っておいて忘れたのだろう。そこで、「さてどう使おうか?」と考えてみた。
その結論として、「過去の旅行のベスト20枚」を貼り付けることにした。そして、それが良かった。何度みても飽きない。
私にとって、どんなものより素晴らしい宝物である。「これは!」という写真は、一回の旅行に数枚はある。
それを更に、20枚に集約したのだ。開けば、それだけでハイになる。 アルバムはそうそう開いて見ない。
いちいちアルバムを開くのが面倒だからだ。 それなら数千枚の写真を、二十枚に纏めればよいのだ。 
そして、常にカバンに入れておくことにした。詩も、言葉の中に全てを集約して残すのだから、究極の凝縮のカタチである。
母が多くの道楽の末に行きついたのが「詩」であった。
事業にしても、お金にしても、不動産にしても、写真にしても、古道具にしても、後継者にしても、残るのは、
生きてきた実感としての「真実としての言葉」と「写真」「信頼」そして「子供」だけである。
話しが大きく逸れてしまったが、貼ってある順に紹介してみる。
パキスタン桃源郷といわれているフンザ近郊の小高い崖の上で一人で、足を開いて片手を上げているショット
パキスタンカラコルム・ハイウエーのがけ崩れの落石の中、現地人に手を引かれ走り抜けているショット
・機上から、天山山脈を撮ったショット
タンザニアの大晦日の現地運転手の特別招待のパーテーで、多くの運転手たちと 0時を過ぎた瞬間の写真
フィンランドの登山列車で、トンネルの合間のビューポイントの滝で、一時停車をして写真を撮っていた。
 ところが、 急に音楽が鳴り出して遠くの滝の岩間で赤いドレスの女が踊りだしたショット(列車のお客に見せる為のショー)
・スイスの山頂の氷河に着いたが、霧で視界はゼロだった。その時、霧が急に風で飛ばされ、氷河が自らの姿を現した。
 家内と二人、感動で呆然として氷河の美しさに見とれていた。 
 ー帰国後、同行の人が、そのショットを上から撮っていてくれていて、送ってくれた一枚
・スイス・マッターホルンでの凧揚げのショットと、マッターホルン
・モロッコマラケシュの「ジャマ・エル・フナ広場」の夕景
・モロッコのサバクで撮った、朝日が写しでした「私たちの砂上の影絵」幻想的な極上の写真
・ヨルダンのぺトラの前でのショット
シナイ山の山上でのショット
・フィジーでパラ・セーリング(モーターボートでパラシュートを引っ張り空を飛ぶ)で、
 空から撮った写真と、地上からそのショットを撮った写真
リオのカーニバル
・北スペインのパンプローナ牛追い祭り。最終日のファイナル・ギャザリングで、大衆が踊り歌っているショット
ギアナ高地でボートからテーブル・マウンテンを写したショット。 それと機上から撮ったテーブル・マウンテン
・メキシコのテオティワカン遺跡の、「月のピラミット」の頂上からのショット
パルミラ(シリア)列柱通り
ケニアのヌーの河渡りを見たあとの帰り道、夕陽と雲の織りなす夕景
・ワニとシマウマの死闘のあと、最後にシマウマが陸に逃げ切った瞬間のショット (私の人生の最高の一枚である)
・ネパールのカトマンズ近郊の山から、ヒマラヤ山脈を望む
イスラエルマサダの砦の山頂からのショット。ユダヤ人1000人が自害した時の闘いの生々しさが、今も残っている
・そして、最後はブラジルのイグアスの滝をヘリから撮ったショットである
  以上だが、恐らく死ぬ時、この一冊を抱きしめているだろう。

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2003年10月31日(金)
940, ゲーム理論ー2

ミニマックス理論」と「囚人のジレンマ」はゲーム理論の大きい柱になる。
囚人のジレンマ」は「自分が一番得をしたいと思って選んだ選択肢が、
結果として最適でないものでなくなっている」、それを互いにゲームで競う。
ーそれでは「囚人のジレンマ」とは?
 泥棒の嫌疑がかかっている二人が警察に逮捕され、独房に入れられている。
ただし、物証がないため証言だけが頼り。 そこで警察側は2人に次のような条件を提示した。
1)・2人とも黙秘すれば、証拠不十分で両方が懲役一年
2)・2人とも自白すれば、両方が懲役2年
3)・1人が自白をし、1人が黙秘をすれば、自白側は無罪、黙秘側は懲役3年                 
ー以下は字数の関係でカットー2007年10月31日ー
                     ーつづく
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566、 2002年10月31日(木)
1968年9月22日 ーセミナーハウス二日目ー

8時10分前に起床、同室者はまだ二人とも寝ている。 朝食後、セミナー開始。
 ーケーススタデー
討論開始、いい加減なことをいって恥ずかしい! もっと深く考える必要があった。ほかの人がよく学んでいるのが判った。
考え方もベースができているのに今更の感がする。昼食後、全員で相模湖へ行く。私と大島君と東レの研修員3人と同乗する。
ー君は一年後輩、呼び捨ては同期、さん付けは東レの研修派遣の人ーで使い分けているー
東レの野村さんの女性論が面白い。冗談と真実の紙一重の話がさすが大手の人事部の人はセンスが違うと感心した。
車が逸れるが、現地で落ち合う。 早速、釣りをする・・帰りは高木の車でセミナーハウスへ帰る。 高木の人間的魅力の深さに驚く。
再び「愛」について討論、最後に国家愛に行き着く。印象的だったのが「所詮バケツいっぱいの精液が、愛でしかない!」
が印象的だった。 終了後、焼き鳥とビールで夜半の12時過ぎまで語り合う。

ーある時間の断面 −
                 1968年 9月23日  
 ーセミナーハウス三日目ー
8時10分前起床、食後、討論に入る。「将来の日本」についてのパネルデスカッション。
パネラーは田口、石川、小島、鳥山、高嶋さんであった。小島君の安保、自衛隊の批判に反論が出る。 
かなり白熱した内容であった。昼食後一時に解散。高木の車で帰路に着く、東名高速は初めて乗ってみたが
名神より車が多く外国に行っているような錯覚におちいった。帰寮後、夕飯に出ると大学の知人にばったり会う。
ITAという海外旅行研究会の部長で、昨年欧州行きで知り合った。
寮の近くにバイトに来ているという。奇遇であった。私の部屋で話をする。アメリカに留学するという。
何か考えていることや話している内容がスケールの違いを感じた。 圧迫を受けてしまった。
彼を見ていると自分にもその力がある筈なのに、どうしてこうも違うのだろうか?同じ力がある筈なのに。

              • -

感想ー段々と社会に出る切迫感がこれからの日記に出てくる。 かなり無理をしている自分がそのまま書いてある。
 自分の子供を見ているようでもある。丁度息子の歳ごろだ。 でも行動的であったのに驚いてもいる。
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2001年10月31日 [204] 霊体質ー3
 今まで起きた実際の事実を書く!信じようが信じまいがその人の判断だ。
 シンクロニシテー(意味ある、乃至考えられないような遇然の一致)と重なっている。
1、5〜6年前柏崎の義父の葬式の帰り、峠で行く先々で7〜8回虹ができその下を通った。
  100回以上そこを通ったが虹が出たことは初めて。かつ虹の下なぞ通ったのも初めての経験である。
2、近くの堀井といううちの分家にあたる従兄弟が、7〜8年前「自死」をしたときの事。
  丁度通夜の日、ジャイアンツの二軍が悠久山で試合があった。 それで天侯を憶えていたが、
  午後3時過ぎに突風がふくと天気予報がいっていた。3時に納棺であったが、その時突風がふき桜の花が納棺の最中吹荒れた。
  終わったと同時にピタッと止んだ。彼は毎年桜の花を写真に撮るのを趣味としていた。
  その年は桜の当たり年で、私もかなり多くをとった。彼もそれを覚悟で多くの写真を撮っていた。
3、母の葬式の日、‘おとき’のかえり天気なのに突然雨が降ってきた。涙雨といってよくあるそうだ。その時初めて知った。
4、昨年東京の叔母の葬式の時、丁度焼き場に遺体が行っていて、式場で家族以外が待っている時、急に気分が悪くなった。
  ハッとした、今叔母が私の処にきているのが解った。横を見ると鏡のついた柱があった。「鏡は霊を呼ぶのかーと思った」
  ということは、10年前に抜けた霊体質がまだ残っているのかもしれない。また以前の文をコピ−しておきます。
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  S6201霊的体験 2001/10/31
 私には少し強めな霊的感覚があります。今回より数回シリーズで実体験を公開する。
“A”さんが数年前になくなった時の事です。同じ会社仲間だった“B”さんと十日町の彼の家へおまいりにいった。
その途中の車中で“B”さんと般若心経の話になり、そこで彼の供養も含めてお経をとなえた。
その後、Aさんの家の確認のため車をとめ地図をみた。そして何げなく“B”さんの顔をみると、彼の顔がまっ青になっていた。
やはり車中で“C子”さんの話をしていた。“A”さんが入社試験にやってきた時、彼(A)が優秀という事であり、
同じ十日町出身の美人C子さんにお茶を出させ、郷里の話をさせた。そのせいかどうか彼は私の思いどおり入社した。
そのおもい出話をした事であったのか数万分の一、いや数十万分の一の確立で彼女の家の前に車がとまったのだ。
十日町に出店をした時、彼女の家の前を“B”さんが通って知っていたのだ。私がそこに“偶然”(?)車をとめてしまった。
“B”さんはあまり霊的な事を信じない人ですが、その時は最後まで信じられないという風だった。
私自身またかというのが実感だった。その日一日“A”さんがニコニコ私達を見守っていたという何かを感じとった。