かなしみの詩 ー「10歳の放浪記」その後ー  上條さなえ著

 たまたま図書館で、ある本を必死に探していたら偶然、あの「10歳の放浪記」の続編が目に入った。
今年の1月の発刊だから、最近に図書館に入ったばかりだろう。 図書館の天使が導いたのだ。「10歳の放浪記」では、
その後、養護学園に入るところで終わった。その「おわり」に、その後の「非情な虐めがあった」と書かれていた。
 学園の中では、一人ひとりの幼い子供たちの哀しみがあり、本人の哀しみの傷があまりに哀れ。
11歳といえば自分を考えても、厳しい人間関係の基礎が出来る時期である。 不幸な子供たちほど仲間への虐めも辛らつになる。
その中で彼女の逃げ場がトイレと誰も居ない図書館。 そこで、自然と本を手に取るようになる。
そして、そこで先生に手渡された石川啄木の詩集「一握の砂」。
  いのちなき砂のかなしさよ  さらさらと  握れば指のあひだより落つ
いのちなき砂のかなしさよ という言葉が、さなえの心を捕らえたのだ。「かなしさ」を表現してもいいのだという驚き。
  かなしみといはばいふべき  物の味  我の嘗めしはあまりに早し
この歌に出合った瞬間、さなえの胸に吹き矢が当たったような気がしたという。
そして歌集の啄木の写真をみつめ、もしかしたら11歳の初恋だっかかもしれない、と。
山本先生に「啄木の歌をいくつ覚えた?」と聞かれ首をかしげた。「うーん、80ぐらい・・かな」
「一番好きなのは?」 「みんな好きなんですけど・・・」少し考えてから言った
 かなしみといはばいふべき 物の味  我の嘗めしはあまりに早し
山本先生は、黙ってきいていた。 そして、「早苗ちゃん、早苗ちゃんは食べることが好きだね。食べ物にはね、
うま味、塩味、あま味、から味、さんみがあるというけど、僕はもう一つあると思っているんだ」
「かなし味、かなしみという味を知る人は琢木もそうだけど、人にやさしくなれるんだ。とっても大切な味なんだ。
早苗ちゃんは、かなしみの味を知っているから、いい子なんだね」私は俯いたまま涙をこぼした。
わたしは、やっぱり山本先生のような先生になりたい。
 〜以下は、この本の紹介文〜
 昭和36年、10歳のホームレス生活を経てたどりついた学園で、11歳の著者を待っていたのは…。
愛情あふれる先生と、それぞれに事情を抱えた生徒たちとの出会い、将来の夢、友情、勉強する楽しみ、
そして、文学への目覚め…。「10歳の放浪記」の著者が描く、再生の物語。児童文学作家・上條さなえ、渾身の自伝第2弾。
 養護学校に暮らす子どもたちの中でもひときわ貧しい風体の主人公・早苗は、意地の悪い男子生徒などからいじめに遭う。
それでも、思いやり深いよい先生に恵まれ、たくましく生き抜いていく。また、石川啄木の短歌との出合いから
読書の楽しさに目覚め、そのことが、のちに児童文学作家として立つ原点となる。
 《竹田養護学園での日々は、ホームレスだったわたしの再生の日々でもありました。(中略)わたしは山下先生との出会い
 により、「教師」になろうという夢をもちました。その夢が、どれほどわたしの励みになったことでしょう。
 友だちのいじめに耐えられたのも、夢のおかげだったと思います。また、わたしはホームレスの日々を経て、
 強い少女になっていたのでしょう(「おわりに」)》

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2283, 10歳の放浪記
         才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
 この日曜日の朝、偶然にBS・NHKハイビジョンで「私が子供だったころ」を観て、思わず涙が溢れてしまった。
昭和25年、東京生まれの児童文学作家・上條さなえさんの実話。10歳の時、父親が事業に失敗し家族離散、
父親と池袋でホームレスの生活を1年過ごし、その後児童福祉施設を経て、後に小学校教員になった経歴を持つ。
その過酷な子供の頃の生活を「10歳の放浪記」と題して本にした。あまりにも悲しい過去のため出版は躊躇していたが、
出版社から「いじめ問題や親子問題が多い現実にひとつの警鐘を」とくどかれ思い悩んだ末、出版したという。
この本を忠実にドラマ化したのが、TVの内容であった。
 ーその大筋を書いてみるー
不動産業をしていた父が事業に失敗して一家は離散。父と東京・池袋の簡易宿泊街で暮らした。
酒浸りの父に代わってパチンコでかせいで夕食にありつく毎日。
高度経済成長期の昭和35年の頃の、学校に行けなかった1年間の生活を淡々と描写してある。
父とふたり、池袋のドヤ街でその日暮らしをしていた彼女を支えてくれたのは、街で出会ったパチンコ屋の兄さん、
やくざのお兄さん…など普通の人々である。弱者に対して優しかった時代であった。そこは池袋駅西口を背にして
左に数分歩くと、東京芸術劇場がみえてくる。目的地はその斜め向かいにあるホテルメトロポリタンだ。
かつてそこには1泊100円の簡易宿泊所があった。昭和35年、小学5年生上條は、当時43歳だった
その日暮らしの父親と2人、やむなくのホームレス生活だった。
10歳という年で、道にお金が落ちていないか、道をさまよい、パチンコ屋の前で玉を拾い、パチンコをする。
1個、2個、3個と球が無くなり、4個目にチュウリップに入り玉が出る。5個目の球が、途中でひっかかると、
隣のおばさんが「このスイッチを押すと店員さんが来てくれるよ」と、教えられ、ブザーを押す。
そこの店員が機械が壊れたと思い「どうしたの」聞いた。さなえは自分がどうしたのかと聞かれたと思い
 「お父さんが病気なの」とかぼそい声で答えた。それを聞いた店員は気の毒に思い、多くの球が出してやる。
さらに金に換える方法を教えてくれた。教えられて行った景品屋のヤクザが同情して、高い値段で買い取ってやる。
それから毎日、パチンコに通い、生活を支えた。しかし、ついに父が言う、
「なぁ、なこちゃん、父ちゃんお前を育てるのに疲れちゃったよ」
「なこちゃん、死のうか」 しかし、「子どもって、かなしいよね。大人に決められたら逆らえないし、
 どんないやなことだって、がまんしなきゃならないもんね」
「でも、なこちゃんは幸せだよ。お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、いるから」。
 いつも友のこの言葉を反芻(はんすう)し、壊れていく父を励まし、生き抜く。
こうした放浪の状態では、学校に通えなかったが、簡易宿泊所でドリルを使って勉強したり、ヤクザから算数を習ったり、
映画館に通い洋画の字幕などを見て勉強をする。お金がないのに映画館に通えたのは「中に父親がいるの。探してもいい?」
と受付の人に言って、映画館に「フリーパス」で入っていく智慧を使う。
 また、当時の米国のケネディ大統領の演説「国が何をしてくれるかではなく、国のために自分が何をできるか」をTVでみて、
「親が何をしてくれるか、ではなく、親のために子供が何をできるか」に切り替えて、親のために宿泊費を稼ぐ動機にする。
 見かねたヤクザに説教された父親は本人を養護学校に入れる。ドヤ街生活が長く貧しく、服装も他の子供とは
異なっていたこともあり、そこでは壮絶なイジメにあうが、「いじめなんてなんでもない、それより、
帰る家のない明日泊まる所や、食べることの心配をする生活のほうがどれだけ大変か」と子供心に思い耐える。
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    以上であるが、感動的だったのが、そのドラマを収録している場面に、
    当の上条さなえが入ってきて、子役に涙しながら抱きついたところである。
    どんな気持ちで、当時の自分と抱き合ったのだろうか?
    学生時代、よくあの辺の映画館に行ったので何かドラマがリアルに思えた。
    色いろな人生があるものである。
   私が10歳の頃を忠実に書いたら、これまた面白いだろう!

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2737, 1929年の世界恐慌とは?
2008年10月02日(木)

 昨日の毎日新聞の 「なるほどドリ」質問、 というコーナーの記事が1929年の大恐慌と、今回の金融危機
対比して説明している。これによると全米の銀行の半分が倒産、それにともない企業も倒産ラッシュで、
三年で失業者が4人に1人の割合になり、これが世界第二次大戦につながっていった。
この「世界恐慌」に酷似している、というから恐ろしい。 ともにバブル崩壊が引き金!という。
29年の世界恐慌に詳しいアメリアの学者がインタビューで「今回の方が遥かに規模が大きく性質が悪い」とコメント。
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なるほどドリ  株価が大変なことになっているね。
記者 先月29日の米ニューヨーク市場のダウ工業株30種平均は前週末比777泌下落し、
  史上最大の下げ幅でした。 グリーンスパン米連邦準備制度理事会(FRB)議長は
 「100年に1度の危機」と言い、1929年の「世界恐慌」に状況が似てきたとの懸念も出ています。
Q 世界恐慌って歴史の教科書で読んだことはあるけれど。
A 世界全体の経済が破綻してパニックに陥ることです。1929年10月のニューヨーク市場にした世界の金融危機と、
  その後の長期的な不況を指しています。
Q 今と似てるの?
A バブルの崩壊がきっかけという点が共通しています。世界恐慌の時には、第一次世界大戦後の特需や
  工業化による空前の好景気でダウ平均は直前の5年間で3倍に急伸しました。
  今回もダウ平均は過去3年で2割以上、住宅価格は5年で倍に上昇しています。
 「株と住宅は上がり続ける」と過剰な投資を膨らませた金融機関が、急落によって巨額の損失を抱えたのです。
Q 恐慌でどうなったの?
A 不安に駆られた預金者の取り付け騒ぎに発展して銀行が相次いで破綻し、米国内の銀行の数は約半分に減りました。
  融資が受けられなくなった企業の倒産も粗次ざ、3年後には米国の全労働者の4分のーが失業しました。
  影響は世界に及び、失業者の増加による社会不安はドイツ、イタリア、日本でファシズムの台頭も招きました。
Q 怖いね。世界経済はこれからどうなっちゃうの?
A まずは金融危機を止めることです。日米欧の中央銀行は銀行の資金繰りを支えるため、
 29日に35兆円の追加資金供給をしました。金本位制で金融政策の自由度が低く、国際協調の枠組みも
 不十分だった29年当時とは違い、危機を未然に防ぐ仕組みは整っています。
 「暗黒の月曜日(プラックマンデー)」と言われた87年10月の大暴落は大量の資金供給で危機を抑え込みました。
Q 安心していいのかな。
A 米国は大統領選挙中で、日本も総選挙が予想されています。
 「政治的空白」で有効な手が打てなければ、 さらに混乱する可能性があります。
  〜〜〜
  現在進行中の金融危機は、歴史的事件として記録される出来事の序盤が始っただけ。
  朝起きると、欧米発のニュースで「マサカ」の事件が待っている。
   出来ることなら、楽観的なレベルで終わって欲しいが、そうはいかないだろう。
   まずは、弱いところから大きな影響が出る。

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2007年10月02日(火)
2373, 人は60歳で何をしたか −2
 「人は60歳で何をしたか」藤原治・著   ー読書日記

ある月刊誌が贈呈として昨日、会社に送ってきた。 そこに作家の新井満が寄稿していた文章が
「60歳以降に何をすべきか」というテーマ。よくある偶然の一致であるが、それにしても不思議である。 
ーまずは、その内容をコピーしてみようー (百楽ーケイアイ出版)
*以前、禅宗の高僧と対談をしたとき「座右の銘は何ですか」ときかれ、お互いに色紙に書くことになった。
お坊さんは、たしか「誠」だった。で、私は「余命7日と想え 何をなして何をなさざるべきか」と書きました。
余命10年と思うと、まだ余裕があるから、死と生について真剣に考えるのはもう少し先にしよう、となってしまうが、
余命7日と想うと、本当にすべきことと、する必要でないことを区別せざるを得なくなるでしょう。そうすると生き方も
変わってくる。「死を考えることは、生を考えること」だというのは、このことなんです。(中略・・・)
私は若い頃から死と隣り合わせで生きてきましたから、死から生を考えるというのは当然のことなんです。
今年の春に自由訳の『老子」という本を出しました。 60歳になったら、どう生きるべきかという内容です。
老子という人物は2500年前の伝説的な哲学者ですが、その思想は難解中の難解といわれています。
私はその思想を、無謀と知りつつ4つに分類しました。1つ無欲、二つ目は謙虚、三つ目は不浄の徳、つまり争わないこと。
4つ目は貢献の徳、社会貢献です。 老子で有名なのは「上善如水」。
水のように生きるのが最高のライフスタイルだといっています。水ほど自己主張しないものはない。
丸い器に入れれば丸くなり、四角い器に入れれば四角くなる。こんな町に従順で弱々しいのに最終的には岩をも砕いてしまう。
万物を潤し、万物に恵みを与えながら、決して威張ることなく、常に謙虚だ。
人間はこの水のように生きるべきだ、というのが老子の基本的な考え方です。この水の生き方はとても参考になります。
それに基いづ明いて、私は人生3期説を考えました。人生、90歳まで生きるとしましょうか。それを30年ずつで区切ってみる。
・最初の30年は、自分探しの時代。
・30歳から60歳までは探した自分を実現する自己実現の時代。
・60歳以降は、自分や家族以外の人間、あるいは人間以外の命のために何が出来るか考える時代。つまり老子の分類でいえば、
 人生の晩年は社会貢献の徳を実現しようという提案です。 これは、あくまで理想論ですがね。
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以上であるが、三期説にしても、5期説にても、その説を立てる論で幾らでも理屈はつく。
5期説とするなら〜20歳、40歳、60歳、80歳、80歳以上の五期に分けることができるが、三期説の方が解りやすい。
三期説で考えると、一番大切な時期は三期目ということになる。人生の収穫期ということになり、一番に充実した日々になる。
一番良くないのは、何も考えないことである。 何も考えないと、どうなるのか? 
あの8〜9割の方の群れている老人達。 表面は楽しそうだが、心の空虚は群れていては埋めることはできない。 
ところで、「人は60歳で何をしたか」藤原治・著で取上げている人たちは、その後も、二期を続けた人たちである、
そうすると荒井満とは少し違ってくる。 片方は世に、それなりのことを達成した人と、凡人は分けて考えるべきか?
ただ生き方を考える上では、藤原治の方が参考になるが。

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2006年10月02日(月)
2008, 「私」のための現代思想  −6
          (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜

 ー 先に概要を説明しておくと、
 明治以降、日本人が信じてきた価値観がここにきて大きく崩壊している。
ポストモダニズムが日本にも浸透してきたのである。「一流大学を卒業して、一流企業に勤め、そして家を建て・・」
という価値観が根こそぎ信じられなくなってきた現状の原因を、解りやすく説明してある。
現在は、自分で「小さな物語」を創作していく時代である。「小さな物語」は「大きな物語」の裏づけがあればこそだが、
それが無くなった中で創作していくのは並大抵のことではない。
各自がそれぞれの「捨てられない物語」を受けとめて、能動的に生きることが自分の「小さな物語」を究極的に生きることになる。
 ーーー      
第二章 「私」はどこで、どのように生きているのか −2
 ーリオタールの[大きな物語への不信]ー
  *人とは、[物語駆動装置]である
 我われは[何らかの物語]を遂行する生物体です。物語の遂行を止めたとき、私たちは[死]という物語を遂行し始めます。
 この物語は、長い時間をかけて遂行されるものばかりではありません。[次の試験で、良い成績をとる]というのも物語ですし、
[明日の試合に勝つ]というのも物語です。すなわち、生きること自体が、物語を遂行することと同義語です。
 少し前までの社会には「大きな物語」が存在していた。この時代の大多数の人間が採用していた物語のことをいいます。
 たとえば、[一生懸命勉強をして、よい大学に入り、よい会社に入って、高い給料をもらい、結婚して、子供を育て、家を買い・・」
 ということを大部分の人間が望んでいた時代も過去のものになりました。この時代の[尻尾]は、現在でもかすかに残っています。
  (以下、字数の関係上中間カット08年10月2日)
 ーーーー
 評)ほんの数年前まであった誰もが信じていた[大きな物語]がいつの間にか消え去ってしまった。 
 現在の日本は正にその混乱の真っ只中にある。その一つにグローバル化と、情報化社会の本格的な到来がある。
 大きな物語など虚構でしかないことが情報化のために露呈してしまった。
 といって、小さな物語は自分で創作しなくてはならない厄介なもの。
ポストモダニズム]は情報化社会の結果である。特に数年前からのインターネットの「ブログ」が、
 ポストモダニズムをさらに加速させるだろう。 明治以降、日本人は大きな物語を信じ生きてきたが、
 もうそんなものは小説か映画の中でしかない。 それまでの大きな物語は、お笑いでしかない。
 自分自身を考えてみても、元々信じてはいなかった?が、さらに50歳の頃から小さな物語を大切にするようになった。
 そして「大きな物語」の価値体系が残っている自分の構図が見えてきた。この本も、それに気づかせてくれる内容である。
                                 モーニングコーヒーでも!( ^-^)_且~~~  
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2005年10月02日(日)
1643.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・2
 ー 人間勉強 ー
こういう商売をしていると、社会の裏側をストレートで見せつけらる。人間社会は複雑怪奇で難しね。
こちらからすると、カウンターの向こう側はどのお客も一緒よ。 いや基準はどれだけ気持ちよく飲んでくれるかだけさ。
しかし当人は違う。唯一の威張れる場所なんだ。 どの客も大して変わらない。ところが当人たちは違う。
それぞれが全く違う世界に生きているかね。そしてそれぞれが他の世界を知らない。特にそれが激しいのが「先生」と名の付く人種。
よくいえば純粋、悪くいえば社会音痴。あれがよく先生と呼ばれると感心するね。 あとは社長といわれる連中。
この不景気ほとんどの社長は元気が無いね。 それと教養が無いのが多いね。自分たちでさえも売り上げを上げるため、
必死に毎日知恵を絞っているのに。彼らはただ毎日の売り上げの事しか頭がないんだよな。それは営業課長の仕事じゃないか。
営業課長の仕事だけをやっていて社長業を全くしてないと、銀行の「偉いサン」がいつもこぼしているよ。
まあ彼らのトップも似たようなもんだがね。

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2004年10月02日(土)
1278, 人生(時間)のセイムスケール−2

このHPにあった「アンソロジのコーナー」の内容が濃い。「死の瞬間に何人も悟るだろう。

    • 人生の目的なるものが、いかにばかばかしいことであったかを」(山田風太郎)などは、

虚無の境に立ったときに「人生の目的とやら」が、卑小なことと直感するのだろう。
人間の本音が、あまりに辛辣に次々と書いてあるが、それでいて、何かホッとするから不思議である。
★「人生は日常の反復である。だが、いつのまにかずれが入りこみ、
 同じ行為が変質してしまう。反復とずれ、それが人生の時間の意味だ」(吉田喜重
★「神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す」(山田風太郎
★「人はだれでも可能性を持っている。自分の中にある埋蔵資源をできるだけ発掘して、
 それに形を与えていく。 それが生きるということの意味です」(鶴見和子
★「私の人生は失敗の連続だったが、その都度、全力を出して失敗してきた。
 失敗も全力を出せば満足に変わるのである」 (佐藤愛子
★ 「絶望は人生の通過点に過ぎない」 (梁石日
★「線路を走る列車のように、人生は見えないレールの上を走っていく。そして、終着駅が近いと知ったとき、
 〈別の人生もありえたのでは〉と夢を見る。 しかし、列車を乗り換えることはできない」(田中 誠)
★「我が命は地球より重い。他人の命は犬より軽い」(山田風太郎
★「人は生まれ、苦しんで死ぬ。人生の要点はそれでつきている」(正宗白鳥
★「みんないう。いつか死ぬことはわかっている。しかし、「今」死にたくないのだ」(山田風太郎
★「幸福な人々の死だけ悼もう。つまりごく少数の人々だけを」(フロベール
★「---いろいろあったが、死んでみりゃ、なんてこった、はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、みなの衆」
                                       (山田風太郎
★「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」(橋本多佳子)
★「死が生にいう。〈おれはお前がわかっている。しかし、お前にはおれがわかっていない〉」(山田風太郎
(以下、字数の関係上カット08年10月2日)

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2003年10月02日(木)
911, 恥ずかしい話

 誰も長く生きていれば、他人に言えない恥ずかしい話は幾つかあるものだ。
露悪趣味的なところが、この随想日記の特徴の一つでもある。そこでまずは自分の経験談を幾つか書いてみる。
・早速、昨日の朝のJRの改札での失敗談だ。新幹線の回数券数枚を背広の胸ポケットに入れておいて、
改札の直前にとり出すのが習慣になっている。昨日そのチケットを出したら、改札の駅員が奇妙な顔をした。
今までなかったことだ。よく見たら名刺であった。妙な顔をするのも当然である。
前日に名刺交換をした名刺を回数券と一緒に、胸ポケットに入れていたのだ。
回数券は名刺と同じに作られている。普断は乗車券しか入れないが、それを忘れていた。
そういえば数ヶ月前、無人改札機に名刺を入れたことがあったが。
・男の人は度々経験するのが、ズボンのチャックの閉め忘れである。特に朝、慌ただしく出てきたときなどに多い。
学生時代、都内をズボンのチャックをしめ忘れて半日、いやにすれ違う人が自分の顔を見ていることに
不自然さを感じた事があった。そして、その原因を知った時の恥ずかしさは今でも憶えている。
・紙が顔についていた。ハンカチを忘れた時に、パッケージのチッシュで汗を拭いていた。
トイレで鏡を見たら、チッシュの紙が顔についていた。 紙を顔に付けて歩いていた! ー露悪主義?ハイ!
・法事で靴下に大きな穴が開いていて、全員の前で姉に大声で注意されたこと。
などなど、数えればキリがない。忘れることができるから、生きていけるのだろう。
選挙に出て落選するのも、傍で見ているより本人は (;一_一)(+_+)(^^ゞ(-_-;)という。
 以前にも書いた事があるが、インドのデリーで長蛇の車のラッシュの中、ツアー仲間の中年の女性客がお腹?を壊し、
公衆の面前で上半身が見える中、用を足したことがあった。本当にはずかしい思いだったろう。
 作家の椎名誠が週刊誌の連載で、新宿駅でトイレに間に合わなく・・・
その前後の詳しい内容を書いていたが、さすが作家だと感心した。大好評だったそうだ。
 心の傷にならないためには笑い飛ばすしかない。それを重ねているうち、面の皮が厚くなるのだろう。
 しかし羞恥心も人間にとって一番大事なことだ。 品位にかかわってくるからだ!
 
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537, 緩慢なる自殺

  • 2002年10月02日(水)

 十数年前の東京の経営セミナーで、漢方の薬局を経営している人から聞いた話で、今でもその忠告を守っている。
  ーその内容は
・白砂糖は毒そのもの、絶対に口にしないこと! ーコヒーに入れて飲むのが一番悪い。
・缶ジュースも毒そのものー冷やすと甘味が薄れる為、甘味料を異常に入れてある。特にコーラは要注意、
 どうしても仕方なく飲みたいときは スポーツ飲料にすること
・インスタント物も可能か限り口にしないこと、やむをえない時は冷凍食品にする事。
・内臓ものも口にしないことー焼き鳥とか、レバ焼き。
 ラーメンもたまに食べるのはいいが、常食にしないこと−中華そばの汁は骨とかでダシをとってある。
・マヨネーズも危ない。今は動物性から植物性に変わっているが、ドレッシングがよい。
今考えてみて、それを実行してつくづくよかったと思う。今の人を土葬にしても骨が腐らないためにそのまま残るという。
防腐剤のためだ。 長岡のあるホテルの人から聞いた話だが「裁判調停の為長期で泊っていた母と子が数ヶ月間、
3食カップヌードルを食べていた」と聞いたことがある。 聞いただけでゾッとした。
農家は農薬を使っている現状を知っている為、自分達の口に入れる作物は無農薬しか口にしない
という話を聞いたことがある。こうなるとエログロの話だが実際のところそれに近いのだろう。
今になって狂牛病が大問題になっているが、知る人ぞしる話である。
「それでも世界で一番長寿なのだから心配することはない」というのは見当違いで、それは今のお年寄りの話。
そういう食品を若いときに口にしてない。今の30~40歳以下の人はその保障はない。
「インスタント物」「缶物」「砂糖などの糖分」は口に入れないことだ。そうしないと緩慢なる自殺になる。

・・・・・・・
[168] 忘れられないあのお店−1
 2001/10/02
 このキーワードを聞いただけでも、ある年齢を超えた人なら深い思いに駆られる。
初めてのデ-トで入った店とか、初めて一人で入った店とかのことだ。
これをキーワードに過去をさかのぼると、無限に近い記憶が戻ってくる。
考えていたら予想を超えて、全く違う思いが底より湧き出してきた。
それが意外と?長岡の大手通りの‘生家の池津屋’という店だ。
要するに幼児体験の自身のアイデンデテーに立ち返るということだった。
 私が3歳の時に両親が当時ビルを建設をはじめた。その時に仮店輔で木造の家を、厚生会館(前は公会堂)の前に引越した。
家の下に、丸たんぼうを入れて移動したのだ。個人の申請として全国で初めてのビル建設だったという。
 昭和24〜25年の頃で、その時のことをハッキリと覚えている。ビルの完成、そして引越し、仮ネグラの二階の奥の記憶!
 今の緊張感の数倍あった!当時の方が圧縮された生々しさが有った。
あの白壁の匂い!そして三階への引越し。四階に従業員のねぐらと倉庫。
子供ながら色いろあった。それが(トップページの倉蔵の写真)の中にある。
考えてみても、異常体験だった。でも刺激的で悲しくもあり、楽しい毎日であった。
10人の家族と20人以上の従業員の戦場のような毎日!そのまま描写したら、面白い小説になるような日々の連続であった。                                 −つづくー
もし高いというなら、古本屋かブックオフで買えばよい。それでも高いというなら、図書館がある。
主知主義ではないが人間として生まれてきたからには、知る事が最も優先されべき権利であり義務でもある。
知れば知るほど知らない事が増えてくる。 知っただけその周囲の未知の部分が増えるからだ。

                        バイバイ!(゜▽゜*)ノ~~