* ほんとうかいな?
 最近の発刊の「高校生でもわかる 日本経済のすごさ!」三橋貴明
を図書館で手にとって、目が点になってしまった。 
 ーまずは、その概略をまとめてみると・・・ー
「国の借金が大変だ」「これ以上の国の借金を増やし続けることなどできない」 テレビや新聞その他のメディアで、
有名タレントから経済学の博士号を持った「専門家」まで多種多様な人々が、「日本の国家財政が破綻に瀕している!」
と毎日のように繰り返し繰えしています。 しかし、国債金利の最低水準にある日本国の借金は世界の中で一番
余裕ある水準であること、世界中の政府が長期的に借金を増やし続けていること、政府であろうと企業であろうと
経済規模を大きくするに借金が増えるのは当たり前であるから「国の借金をこれ以上増やせない」ということが
真っ赤なウソである。 国の借金とは何だろうか? 公的債務、すなわち政府の借金は返す必要がない、と聞いたら、
あなたはどう思いますか。 恐らくそんなはずがない。 借金は.自分たちの税金で返すか、あるいは子孫に負担を
押し付けるしかないと、反駁するかもしれません。しかし、現実の世界では自国の借金を返している国など一つもない。
なぜ{一つもない}と断言できるのかと言えば、そもそも政府の借金を返済している国など世界に一つも無いからなのです。
一時的に「政府の借金が減ってしまった国こそあるものの、政府が自らの意志をもって節約に努め返済に勤しんでいる国など、
本当に一つもありません。 ましてや、国の税金で借金を返すなどと、本末転倒なことをしている国など皆無です。
 ポイントを言うと
●日本政府の借金は、世界中の国と比較して、それほど突出しているわけではない
●日本政府の借金の債権者は、実は日本国民である。
●日本政府の借金総額は大きいが資産も大きい。 あのアメリ力政府の二倍の金融資産を持っている。
●日本国家の純資産総額世界最大で、国家としては世界一番の金持ち国家
 〜〜
 どうも、この本の論法は落とし穴があるような気がする。金融資産の500兆円分はアメリカの国債を買わされてしまって
紙くずでしかないし、いつか爆発的なハイパーインフレになり、国家破綻になるのは目に見えている。
しかし、だから如何した。 国民の資産が壊滅するが、国家としては何ものも失われない。それでは、国民の金融資産、
不動産資産の価値の暴落があっても、その縮小した中では同じではないか、ともいえるのである。
 次回は、日本国家を家庭に例えて、説明をしている部分を紹介してみる。                             
                                   ー つづく
・・・・・・・・・・
2733, 米国金融恐慌の深層 −1
2008年09月28日(日)

朝日新聞の昨日の「論壇時評」で社会経済学者の松原隆一郎氏が《金融危機の深層》として、
アメリカ発金融危機の本を評論していた。 内容が長いので二回に分けて掲載するが、
こと、ここに至って、冷静過ぎる内容と感じたのが私の感想である。
まずは、その内容の前半を・・・
 −−−
今月15日、米国四大証券会社の一角、リーマン・プラザーズが米国史上最大の負債総額約6130億ドルを抱えて経営破綻した。
山一証券の約125倍という巨額の負債だった。 公的援助を米政府が拒否したことが引き金を引いたと目されている。
翌16日、FRB(米連邦準備制度理事会)は一転して、株価が急落した米保険最大手のAIGに最大850億ドル(約9兆円)を融資すると発表、
発行済み株式の約80%を取得して、管理下で再建を図ることとした。
AIGは住宅ローンの証券化商品の元本を保証するクレジット・デフォルト・スワップと呼はれる金融商品を大鰍に販売しているため、
元締めの一つが破綻すれは世界の金融市場に大混乱が生じる恐れありと当局は認識したらしい。 
昨年8月の株価下落(サププライムショック)は、サププライムローンそのものの焦げ付きと証券化した金融商品の評価損によっていた。
ところが今年の第2四半期に至り欧米の主要金融機関は次々に巨額の損失を計上、「金融システム危機」が予感されている。
 *真実味帯びる悲観論*
こうした経済情勢に対し北野一は、いさ危機と認めながらも過剰反応を諌め、「実体経済の数字はそんなにひどくありません」
 「アメリカが駄目だと言われているほどにドルは下がっていないのでは?なかなかに打たれ強いですよ」と述べている。
 しかしその論拠の一つに「リーマン・プラザーズみたいな会杜でも公募.増資できている」ことが拳げられているから、
 悲観論が俄然、真実味を帯びてくる。
・「週刊ダイヤモンド」は悲観論の郵緬を分かりやすく図式化している。損失計上ー>貸し渋りー>景気悪化ー>焦げ付き増
  ー>損失計上の「負のスパイラル」が始動、大手金融だけでなく地銀・住宅公社からノンバンク、モノライン
 (証券化商品や地方債の保証会杜)までがバランスシートを悪化させ、もはや公的資金注入は不可避とする。
・水野和夫の推計によれぱ、米国の実質的な住宅価格はさらに34%は下落する。住宅ローン残高よりも安くなると金融資産を持たない
 多くの家計で差額が不良債権となってしまう。その紛額を大手金融機関の自己資本に匹敵する1・27兆弗と見積もれは、
 現在4千億Fルの処理進捗率はいまだ31%にすぎない。これからが危機の本番ということになる。
 公的資金の注入は避けられず、しかしその原資を調達しようにも増税は無理だから、国債を外国人、なかでも中東諸国や
 最大の貿易黒字国である中国に買ってもらうしかない。しかし国債に償還のあてがないとみなされれは、
 国際通貨としてのドル離れさえ起きる可能性がある、と言う。 
・さらに野ロ悠紀雄は、こうしたドル危機の「原因」はサブプライムショックであるかに見えるが、
 それはむしろ「結果」で真因はGDP(国内総生産)の5〜6%に膨れあがった米国の経常収支の赤字にあるとする。
 物価および利子率の差が日米間で3%あり、両国間で同一財価格が同一に、どちらの通貨で運用しても利回りが同じになるには、
 ドルが円に対し毎年3%減価(円高)しなけれはならない。ではなぜ経常収支赤字が減らなかったのか。
 それは円安を持続させ対米輸出を維持するために日本が資本提供をしたからで、しかしドルがードル70円程度まで低下する圧力は
 かかっていたから、いずれ何かのきっかけに解消されたはずだと推測する。
  −−−
 評) アメリ金融危機に対する多くの本が並んでいるが、今年に入り、その最右翼の悲観論者のいう通りになってきた。
ここでは最右翼の本は扱ってなかったため、迫力に欠けた内容になってしまった。 学者タイプの人のためか生々しさにかける。
初め取り上げている北野一は甘いのか、もし恐慌になっても、それさえ乗り越える国力がアメリカには有ると言うのか?
現在のアメリカの財政の破綻は明らかだが、資源・宇宙工学・軍事・情報関連も含めた国力の蓄積で立ち直りは早い、
というのだろうか?  野口悠紀雄の間接原因は財政赤字というのも、納得できる。このところ悲観論者の本を何冊も
読んでいるので少し冷静になることも必要だろう。ところで昨日のマスコミは一切アメリカの金融危機のことを扱ってなかった。
これも驚き。問題はあまりに深刻で恐慌を煽り立てることも出来ないのか、日本のマスコミが呆けているだけなのか。
  もう火がついてしまったことは間違いない。
 
・・・・・・・・・
2007年09月28日(金)
2369, 大物の不在

産経新聞の、この日曜日の【論壇時評】10月号の中の「大物の不在」の論評の部分が面白い。
先日「ポスト・モダン主義」というテーマの内容で、{大きな物語=モダン主義の終焉により、大物が存在しにくくなってしまった。
存在したとしてもあまり脚光を浴びない時代になった}と、書いたばかり。そのことを宗教学者山折哲雄は、宗教学者の視点から、
多くの闘いを勝ち抜いて大物になっていった本物が現代には存在しえなくなったと指摘していた。
そのプロセスで早々に寄って集って引き摺り下ろされてしまうのである。
ーまずは、その部分を抜粋してみるー
  山折哲雄は、折しも「日本から『大物』が消えた」(月刊誌・諸君)と述べる。
大物を好まなくなった現代日本の文化状況と、大物と本物との違いなどについて語るのだ。
山折は最近亡くなった2人の政治家(宮本顕治宮沢喜一)の訃報(ふほう)記事に「大物」の形容詞が
使われていないことに着目。考えてみると彼らに限らず大学の大物総長、学界の大ボス、文壇の大御所、論壇の大家、
財界の大物…みんないない。なぜか。 ひとつには大量消費という時代の胃袋に消化(消費)され尽くし、
個人が大物にまで育つ余裕がなかったこともあろう。残るのは大量生産を担ったトヨタなどの組織ばかりである。
ところで山折の区別によると本物は、政治的利害に生きる大物と異なり、権威と真っ向から対決し、師殺し・父殺し
・神殺しによってそれを乗り越える毒々しい存在だ。しかし生命は、そうした死を通じてのみ次代に伝えられるのであって、
結局大物の不在は、師殺しにいたる対決自体を不可能にし、伝えられる文化を小さなものにしてゆく。
 たしかにテレビ時代を通じてわれわれは一貫して、他の人間をテレビ的サイズに
縮小して眺める視線に慣れ、今またネットブログの定着で、他人の思想・行動を高みから
安易に分析・評価する手段を得た。“見下ろす”視線の獲得は一瞬、自己の拡大を錯覚
させるが、そこに結ばれるのはどうやら卑小な自画像にほかならないようだ。
そしてみんな小物になった、か。・・・・      (評論家 稲垣真澄)(2007/09/23 )
ーーー
大物といえば、多くの戦いの末、元親分や師匠や、親などを倒し続けた存在である。
それが現代では、そういう存在を不可能にしてしまった。時代は、モダンからポストモダン主義になった今、
大物の存在価値がなくなってのである。現在の日本の首相を見れば歴然としている。
二代目の何の重みのない二代目のボンクラが次々と顔を出してくる。そして、その軽さは権謀術策の末に成り上がった、
昔の派閥のボスの二代目でしかない。また、ネットブログという手段も然りである。「見下ろす」視線とはよくいったものだ。
それからくる自己拡大の錯覚は、実際のところ身に覚えがあることである。平気で現首相を自分のサイズに縮小してしまっている。
今まで権威のある評論家が大新聞に論評してきたことがブログでは簡単に出来てしまう。
ということは、ブログこそ、ポストモダン主義の典型の存在といえる。逆にいえば、ブログを有効に活用して情報を消化していく
面白い時代になった。小松左京ではないが、SF作家でさえも、この時代の先が読めなくなったというのも至極尤もなことである。
この情報機器の進化は我々の予測を遥かに超えている。大物小物など如何でもよい時代になった。 
兎に角、こうなったら最先端の情報機器を可能な限り使いこなすしかない。それも楽しんで!

・・・・・・・・・
2006年09月28日(木)
2004, 「私」のための現代思想  −4
       (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ

 社会は本来、我われがよりよく生きるためにつくられた筈だった。しかし社会そのものが私たちを束縛し、
苦しめている現実がある。そのような束縛から逃れ、「自由」を手に入れるために、<社会><言葉><価値> 
から一段上に立って見直す必要がある。この本では、その「もう一段上の視点」を <世界>と<物語>であると考える。
次の章では、その<世界>と<物語>について考えることによって、束縛から逃れる方法を模索しているが、
ここでは他人の集まりの社会について説いている。社会といえば、もっと身近で世間様がある。 
その辺の卑しい?人の目を言うが・・。社会と世間は、他人の集まりという面では共通だが、至近の人間関係を世間という。
その世間を卑しいというのも、問題があるか?地方で大きな壁になるのが人間関係の固定化からくる。
へドロ社会ー世間になる。「馬鹿の壁」と割り切るしかないが、その一員でしかないのも事実である。
     その壁は、所詮その社会の一員である自分自身そのものになる。      
 《 社会についての要点を抜粋してみる》
第一章 「私」を縛るものは何か ー
ーー≪社会≫についてーー
 ー 「生ー政治」 ー
フランスのフーコーは、「生かしつづけることを基本的として採用している政治」のことを、「生ー政治」と表現している。
そこでは、「生かすこと」が政治の基本原理であり、それに則った施策が実行されます。この生かすとは「≪身体≫を生かす」
ことを意味しています。すなわち、生物的な「生」を継続して維持するために、さまざまな政治的営みを行うことが、
現代の基本的な手法として存在しているわけです。そして、それは管理のための「究極の語彙」として意味を持っています。
《国を生かす、地域を生かす、国民を生かす、社会資本を生かす、のが政治の目的ということか!》
 (字数の関係でカット2008年9月28日)

・・・・・・・・・
2004年09月28日(火)
1274, シュリーマンの話−2

シュリーマンの「語学習得法の秘密」ー
シュリーマンにとって、語学力が最大の武器であった。 語学力の方法として、「当時売れていた小説を、丸暗記をする方法」
を取っていた。ストーリーは解っているので、意味は敢えて考えなくてもよい。
更に一ヶ国さえマスターすれば、他の外国語も同じ小説で、同じプロセスを踏めばよい。(詳細は後記) 理に適っている。
若いときにこれに気づいていれば全く違った人生が踏み出せたのにと、今さら悔やんでも仕方がない。いや実をいうと、
高校に入学をしたときの英語の先生が、殆んど同じ方法を教えてくれていた。右の耳から入って、左に抜けていっただけなのだ。
バカの壁にしっかりと囲まれていたのだ。「全く、もう!」である。 以下は幾つかのHPから抜粋し、まとめてモノである 
 ーー
シュリーマンは、1820年にドイツの一寒村に牧師の子として生れ、貧困の中から商人として巨万の富を築き、
その富を使ってトロイアなどエーゲ文明の遺跡を発掘した人物である。
彼がどうして巨万の富を築くのを可能にできたのか。それは、彼の類まれなる「語学力」にあった。
10数カ国語を自由自在に駆使し、他の商人よりいち早く情報を把握してビジネス・チャンスを次々に掴んで富を築いていった。
彼は「多くの外国語を極めて短期間に習得した語学の達人」と言われているが、その「語学習得法の秘密」は
どんなものであったのだろう。シュリーマンの学習法は、物語を丸暗記するという特徴的な方法を取っている。
英語では、当時よく読まれていたゴールドスミスの「ウェイクフィールドの牧師」とウォルター・スコット
「アイバンホー」を丸々暗記している。物語を丸暗記する方法は、ストーリーがあるので記憶に残りやすく、
文章を丸々憶えるので熟語やコロケーションなどの言いまわしがそのまま身につく。
この方法で、彼は英語を僅か半年でマスターした。
更に以下の勉強方を工夫していた。
・非常に多く音読すること。        ・決して翻訳しないこと。
・毎日1時間あてること。         ・つねに興味ある対象について作文を書くこと。
・これを教師の指導によって訂正すること。 ・前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦すること。
・彼はさらに、会話をものにするために、その外国語が話されている
 教会にかよって説教を聴き、一語一語を口真似する方法もとっていた。
以下はジスの関係でカット!(2007年09月28日)同日のクリックをしてください)

・・・・・・・・
533, 離婚事情

  • 2002年09月28日(土)

現在は三組に一組が離婚するそうだ。先日ある会で年配の女性が面白いことを言っていた。
「現代は少子化の為、嫌だったらいつでも帰ってきてもいいと娘を送り出す。
更に子供を連れてくれば一緒に暮らせるからだ。一子、二子の結婚でお互いに希少価値がある。
だから平気ですぐ離婚をする」といっていた。数年ぶりに知人に会ったら同じような事をいっていた。
息子が子供を連れて離婚をし、裁判で息子の方が親権をとったという。息子1人では育てられないから、
引き取って育だてているといっていた。でも新しい子供が家庭に入り楽しそうであった。
それにしても三組に一組は多い。わからない事は無いが、長く連れ添っていれば愛情がわくものを?
一家族に一人はいることになる。親子三〜四組うち一組になる。ということは、この文章を気をつけて
書かなくてはならない事になる。読んだほぼ全員傷つけかねない。実際のところ、そこまで多くない。
以前TVで、離婚をした中年の女タレントと数人が口をそろえて「離婚をして本当によかった!!」と言っていた。
それを黙って聞いていた小沢昭一が「苦労を友にしてきた連れ添いと歳をとって、昔の楽しい思い出や苦労話を
お茶を飲みながら、しんみり話す味もいいもんだよ」と反論。気の強そうな女性たちにとってカウンターパンチに
なってしまい、その場がシーンとシラケの場になってしまった。居ればうるさいし居なくては寂しいのが夫婦というものだ。
離婚をした独り者の飲み屋のママは連休が嫌だといっていた。どうにもならない気持ちになるという。
家族の基本はやはり夫婦である。現在の少子化もひどい、平均1・3人。人口維持の為には2,1人が必要という。
少子化が進めば更に離婚率が増すのだろうか。好きになる相手は自分の持ってない部分をある人に惹かれる。
うまくいっているうちはいいが、一つかみ合わくなると破綻しやすくなる。
昔、足入れ婚というのがあった。結婚の籍をいれず仮結婚をさせる。今も同棲があるが、
周囲も仮結婚と認めて合わない時はいつの間に別れさせてしまうという。

・・・・・・・
[164] 目的と手段
 2001/09/28

 目的の達成の為の手段’がときとして逆転してしまうから面白い。
‘手段の目的化’に転化してしまう。旅館やホテルの二代目にそういうのが多い。
営業の為のゴルフを始めたのが、いつの間にかゴルフが目的になり、営業が反対に手段になってしまう。
何処でもある話と同時に,自身にも過去に数え切れないほど経験がある。
手段を楽しむ事は大事だ、そうでなくては目的は果たせないといっていい。
といって目的を忘れて手段に没頭してしまうのが、人間の人間たるゆえんである。
 以前‘ダンスと歩行’という文章を書いたが(後記)その喩えがピッタシである。
目的は達成したと同時に次の目的の手段になる。ドアについたら次の部屋のドアへの出発点になる。
至近の例で旅館の二代目が商工会議所の部会の長に選ばれ、イベントにウツツをぬかし廃業に追いこまれた例。
どこかの街のことだが、やはり二代目が青年会議所理事長になり‘街の活性化’とかを政治家やゼネコンに煽てあげられ、
真にうけて社長業を放棄・・・・・、いまや????とか。まあこれだから娑婆は面白い。
 目的が何かも解ってないから、手段が出てこないのか。そう考えれば彼にとって逆転も何もないのか!
そのあたりが本当のところか?ーー他人のことをいえた事か!どこかの馬鹿(私のこと)、
自画自賛のホームページにウツツをぬかし、つまらん事を飽きもせず毎日書いて。
馬鹿の脳内をさらけ出し恥さらして!−カミサンには冷笑され・・・・。ーー
ーーーーーーーー
* H0609歩行とダンス
 丸山圭三郎と黒鉄ひろしの対談集で“歩行とダンス”という二人の対話が面白かった。
“ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段。ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的。
それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか!?
ありうる!”という。 非常に含蓄のある面白い内容である。人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容である。
今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、“よしこの仕事とチーク・ダンスをして、ドアまでいってやれ”
と一人笑った。 大手商社に勤めている友人と酒をのみながら右の話をしたら、本人いわく
“私はさしずめ、ホーク・ダンスだな!。好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間でまわってくる。
それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!”当意即妙であった。
 ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、それをダンスとしてリズムをとりながらパターンをマスターし、
かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。
ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。そしてその反対に逆の人も。