* 卒業40周年記念に参加してみた人間模様。
 
 1〜2年次の教養課程の同級生では、TVでよく見かける服部学園服部幸應と、大阪学院大学の白井総長が面白い存在。
服部幸應は実名が染谷で、当時は存在感が殆どなかったが、常に財布に10万円を入れているという話はあった。 
 一年留年をしてアメリカに行っていたのか、留年をしたためアメリカに行っていたのかはファジーである。 
 二次会のクラス会が彼のために開かれているかどうかは定かではない。 
・私が学生時代で一番親しくして、卒業まじかで大喧嘩をした石○譲○。ハッタリ屋だったが20年前のバブルの崩壊で倒産。
 借入金が280億で、ビルが17棟だったという。 前回は身を隠している状態で不参加だった。 
 三次会の最後は彼と飲んだが、二棟だけビルを隠して持っていて現在は、それが生活のベースになっているとか。
 更に、この恐慌で、経験を買われてコンサルタントもしているという。 
 バブル時の倒産劇は、人生の大きく覆いかぶさっているというが、そうだろう。
・クラブ関係では、神田周辺の菓子問屋に養子に行った男が土産として、仰々しい包みのお菓子をくれたが、家内が言うに、
「これって、前週に買おうと東京駅の地下の店のカリントウ。すごく有名だけど、わざわざ並んで買ってくれたのかしら」
 と言っていた。「まさか、そこの社長じゃないと思うけど、少しは有りえるかも」と答えていた。
 お返しで、新潟の酒を送ったところ、自宅に電話があり家内が出て「そこの社長なんですか」と聞いたら、そうだという。
 「先週、買おうと店まで行ったら行列で買えなかった。奇遇です・・・」家内は、本当か嘘か?その辺は調子が良いが、
 相手も悪い気がしないだろう。
・卒業してから数年後に、先ほどの石○譲○と、私の自宅に遊びに来た伊香保温泉の「村松屋」に婿養子に入った友人の根岸君。
 十数年前に脳溢血になって、九死に一生を得たとかで、半身不随になっていた。 それでも朝一の高速バスで來京し、
 最終のバスで帰ると言う。以前に一族の「いとこの会」を、その旅館で開いたことがあった。
・亡くなっている人はクラスの約一割である。   還暦を越えると、社会的に如何こうは、三番目か四番目になる。
                             10年後には出席できるかどうか。
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2665, 人生は儚いのか?
2008年07月22日(火)

知人の墓に、亡くなってから隔月にお参りをしている。たまたま散歩をする土手の折り返しの近くに
墓がある因縁のためだが。習慣とは面白いものである。両親の墓には年に三度ほどしか参らないのに。
その都度思うことだが、「人生は儚い」ということだ。
必ず、心の中で話しをするが、故人が語りかけてくる言葉は「生きているうち、こっち(あの世)は、ただ空」
そしてダメ押しに「もっと墓参りに来てくれ!」勝手に沸いてくる言葉でしかないが、それでも何かがあるのだろう。
故人と話しをしながら、思うことが、娑婆のことなど全て儚い夢でしかないということ。
そこで「儚いとは、如何いうことか?」を考えてみよう。それは生まれる前の無限の時間と、
死んだ後にも続く無限の時間を、死ぬと覚悟をした時に「あまりに小さな時間」を思い浮かんだ実感である。
だから、「幸福の4Fは克服できない苦難と悲しみ」というのも、言い得ている。
故人から学ぶことは、そのことである。 達成した幸福の喜びなど、酒を飲んで盛り上がれば、出来ること。
そこには、生きているうちに感じる儚さしかない。しかし、それを言えるのは達成をした経験のある人間しかない。
それも、これも、如何でもいいことだが!儚さと感じるのは、4Fの克服できない苦難と悲しみの意味を知らないからだ。
儚いというのは、「わたしの儚さ」である。「わたし」という有限の自分の、小ささをシミジミ知ることである。
その小ささの一番の意味は時間の小ささである。それも、他人と比べるのではなく、生前、生後にある
何処までも広がる時間に対してである。自分を取り巻く永遠の広がりの時間である。
そう感じる「わたし」は、実は過ぎ去った時間を振り返った時に「これ」から「わたし」になった言葉。
そうすると、「わたしの人生は儚い」は、その言葉に縛られた感情でしかないということになる。
人生を振りかえって長かったような、一瞬だったような気がするが、それは現在、そう思っている「わたし」の
言葉ということだ。 一年前の日記に「わたしの人生は儚い」と書いてあったのを読み返したとして、
あの日に、そう思っていた「わたし」がいた、というだけのこと。知人の墓参りに感じる「儚い」は、故人からの教訓で、
実は直面するだろう自分の死に対する、予行演習を勝手にしているということでしかない。
儚いと思ったら、現在直面している苦難と悲しみをジックリ味わえ!ということ。
故人の墓参りをして「儚い」などとは、自分の心が、都合のよいことしか考えていない、解りやすい事例でしかない。
 まあ、そういうこと! みも蓋もない話になったが。

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2007年07月22日(日)
2301, また地震!どうなっている?まったく! ?5

  まず今回は原発に絞って、これまでの問題をまとめてみる。
・世界最大規模の刈羽原発の真下に、実は活断層が直下に走っていて震度6強、
 マグネチュード6・8の地震が発生した。それは、日本の国家として最も恐れていた非常事態である。
・海岸線のため、それは普通の地震とは違い、一般住宅が1000世帯、半壊はその倍の2000?
 被害家屋が10000世帯にのぼった。それは直下型地震の上、地盤が弱いことが原因である。
 それからみて、原発の施設は想像を遥かに超える損傷を負ったと考えるのは妥当である。
原発は最大マグネチュード6・5を想定して設計されており、6・8とすると2,5倍の衝撃が
 かかっている。もし、中越地震並みに震度7だったら、マグネチュード7,2だったら、
 と想定すると、日本はチェルノブイユのような事故になっていた、と考えられる。
 日本壊滅?は、決して小説・映画の世界ではない!ということになる。
・マスコミで「この事件の結果、過去に原発反対運動の住民が言っていたことが、
 ほぼ正しかったことが改めて検証できた」と報じていた。 ということは、利権で推進した連中は、
 国家をあわや滅ぼそうとした輩として断罪に値する、ということになる。 想定外でしたとは、言いのがれはできない!
 そのトップだったのは誰かは周知の事実である。 その利権に屯したマフィアは誰か!
・3日前に私の知人が海水浴に行ったら、殆ど泳いでいる人が居なかったという。
・最も不運だったのが、外部の火災である。それがトップニュースとして世界中のマスコミに流れてしまった。
 このイメージダウンは最悪といってよい。彼らは、ことの真実を見抜く力がある。報道規制は彼らには効かないのである。
 それだけではない、インターネットで原発で働いている人から内部の生々しい状況が瞬時流されてしまった。
 さらに、消火が二時間も放置されていた事実も映像であるから、リアルである。
 消火が遅れたのは、被爆と火力を恐れて誰も近づけなかったというが・・
・おまけに、さらに震度6弱の余震がある可能性があるのに、 それが原発施設に及ぼす影響、危険に対して
 住民避難を検討した形跡が、どうもない。そういう私も、もう起きないだろうと実はタカをくくっている。
 これは自己責任のレベルの問題であるが。
新潟市に近い‘巻’という村で原発計画があった。 一度決まりかけた計画が、住民運動のため中止になった。
 かなり激しい住民同士の対立があった。しかし、この結果からみると反対住民が正しかったことになる。
 柏崎と長岡の関係と、巻と新潟は同じような立場にある。
 柏崎は経済波及を選択したのだ。決して政治家や建設マフィアだけが悪いのではない。
 これで、全国の原発周辺の住民は大きな不安を倍加したことになる。 特に、福井周辺には幾つかの原発がある。
 新潟北から神戸にかけての地震危険地帯の上にある。これら全ての廃棄を、真剣に検討すべきである! 
 もちろん、柏崎・刈羽原発の再開は、検討する以前の話である。『廃棄!』である。 再開など世界が許すわけがない。
 
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 2006年07月22日(土)
1936, ローマから日本が見えるー14
                   (≧∇≦)オハヨウ~ゴザイマス!
 第6章 勝者ゆえの混迷ー3
  ー同盟者戦役ー
マリウスの改革は、特に志願兵の導入は『誰の既得権をも損なわない』という意味で利点があったが、
思わない副作用をローマにもたらすことになった。志願兵の導入は元老院の力を最終的に削ぐ作用を働かせていく。
ローマ連合に属している同盟国や地方自治体の市民にとって、兵役はいまだに義務のままだった。
彼ら非ローマ市民たちは、直接税を納めた上に『血の税』としての兵役に就く義務が課せられていた。
これに対してローマ市民は兵役が免除され、しかも直接税はもともと存在しない。
これではあまりの不平等である。こうして起こったのが「同盟者戦役」である。
イタリア半島の比較的貧しい8つの部族が一斉蜂起したこの戦争は、さすがに苦戦を強いられてしまった。
結局この戦いは、戦闘に勝ったローマが大幅な譲歩をしたことで完全に収拾する。戦役の二年目にあたるBC90年の冬、
ローマは「ユリウス市民権法」を制定、同盟国に暮らす市民がローマ市民権を自由に取得できるようにした。
かってガイウス・グラックスが市民権改革を提案したのは、30年前のこと。人間とは、厳しい現実を目の前に
突きつけられてしか改革はできない。 しかし、この市民権を開放をしたのは大英断であったと言うべきである。

  ースッラの登場と改革ー
マリウスはもともとローマ市民権さえ持たない出自で、軍団畑をたたき上げでのし上がってきた。
そして40歳でユリウス一門のカエサル家の娘と結婚する。
カエサル家はローマでは2流の家柄だったが、これで名門につながることになる。
マリウスが48歳のとき、北アフリカで問題が起こし、ハンニバル戦役時代に
ハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスと同盟して戦った騎馬民族ヌミディア王国がローマに敵対する。
この戦闘に副官として参加し、功を上げたマリウスは執政官に当選する。マリウスが職業軍人を生んだことによって、
ローマ軍団の私兵化が問題になる。その後のポンペイウスカエサルが軍団を自由に動かせ土壌を作ったことになる。
その後暫くは平穏な時代を過ごしたローマだが、市民権問題にことを発した同盟者戦役がおこる。これは、内乱と
いうにふさわしい戦役であった。しかしこの間に小アジアの勢力であるポントスがローマに反旗を翻し、ローマ領に侵攻。
同盟者戦役を和解で切り抜けたローマは、この戦役で功のあったスッラにオリエント戦線を担当させようとしたが、
マリウスがこれに抵抗した。スッラはイタリアを抜け出し編成中であった軍団を擁してローマに進軍。
これを制圧。武装クーデターによってローマを制したスッラだが、彼は私利におぼれることなくオリエント戦線の
重要さからギリシャに入る。しかしローマの後をたくしたキンナがまたもや反旗を翻しマリウスは復権し、ローマに戻った
彼はスッラ派の人々を片っ端から処刑をする。その直後にマリウスは病死。あとをついだキンナは小アジア
ローマ正規軍を送る。一方スッラはギリシャで侵攻してくるポントス軍を数度に渡って破り、陸路小アジアに進撃し、
ローマ正規軍を打ち破る。このようにしてスッラは小アジアの安定とギリシャの制圧を完成。
キンナはスッラとの決戦をギリシャで臨み、2年の戦いの後にスッラの勝利に終わる。
そして今度はスッラがマリウス派勢力を処刑していく。当然マリウスの甥でありキンナの娘の夫であったカエサル
目標にされます。当時カエサル18歳。しかし若年で何ひとつ政治活動をしていなかったことを理由に度重なる
助命嘆願にスッラも仕方なく承知する。この時、スッラは ”君達にはわからないのかね。 
あの若者の中には100人ものマリウスがいることを”といったという。スッラの条件はキンナの娘との離婚だったが、
カエサルはこれを拒否。カエサルはイタリア中を逃げまわり、ついには小アジアにまで落ち延びる。
スッラは様々な改革をしたが、元老院の強化こそがローマを栄えさせると考えて、それに沿った政策をとる。
後年2流の家系であったカエサルが、妻の血筋の庶民派として地位を確保していったのは当然のこと。
名門貴族の出身ならば元老院への道は開かれていたが、平民貴族や平民出身者にとっては護民官から元老院に出馬が道。
ローマの重職は元元老院議員であることが暗黙の了解であった。
しかし次第に大きくなる護民官の力がローマの弱体化を招いたと考えるスッラは、これを押さえ込んだ。
スッラは私利私欲の少ない人で、58歳で引退後は別荘で暮らしながら死んでいく。
           i (ω・`) bai  
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2005年07月22日(金)
1571, 五稜郭

幕末の混乱期、軍艦・開陽丸を駆って官軍と戦い蝦夷地に共和国を樹立しようとした男たちがいた。
この時期、オランダに派遣されていた榎本は帰国、同じ幕臣として勝海舟の幕引きに反発。
新政府に不満を持つ幕臣新撰組の土方と合流して未開の地・函館の五稜郭に共和国を樹立する。
そこで、官軍の参謀に就任した薩摩の黒田了介(後の内閣総理大臣黒田清隆)率いる軍と熾烈な戦いを繰り広げる。
その戦いの中で、榎本の人柄を知った黒田は全面降伏を勧め彼の命を救う。しかし土方など幕府方の残党は殆んど
ここで最期を遂げる。やがて刑期を終えた榎本は新政府のロシア交渉特使として活躍する。
阿部公房が「五稜郭」という小説で、榎本武楊が政治的に江戸幕府の残党を纏めて整理する
役割になってしまった矛盾を書いている。 学生時代に読んで、その複雑多層の立場を初めて知った。
攘夷か開国か、尊王か佐幕か倒幕か、公武合体か。それらの混沌とした中で維新の歴史は作られていったが、
その中で榎本武楊の果たした役割は、結果として皮肉な結果をもたらした。
阿倍公房の小説は、函館の五稜郭で負けた幕府軍の囚人300人が脱走して、厚岸(あっけし)の海岸から上陸、
山の奥深くへ消えていった、という地元の伝承をもとにそれを追う男の話から始っていた。
蝦夷共和国」という、とんでもない構想に魅力を感じて読んだが、実は?その背後の複雑な背景を抱えた
夢の世界であったという阿倍公房の世界観があった。もう三十数年前に読んだ本だが印象に深く残っている本である。
 ーーー
ー榎本武楊ー 1836-1908
江戸御徒町生まれる幕臣、幕府留学生としてオランダへ3年造船、機械が学ぶため留学し滞在地で国際法を習得、
開陽丸回航と共に帰国、帰国後幕府海軍教官として基礎を築き海軍副総裁となる。
戊辰戦争では、江戸陥落後に徳川残存艦隊を率い蝦夷箱舘へ脱出、蝦夷地を占領『蝦夷共和国』を樹立し総裁になるも、
明治2年函館戦争で降伏。新政府に拘束された後、敵将であった黒田清隆の強い要望により新政府に仕官し北海道開拓使に任官、
その後日露関係の外交交渉の為、海軍中将に任官するとともにロシア派遣特命全権公使となり力を尽くした。
ちなみに彼は明治22年子爵の爵位を受け明治23年文部大臣に就任した。生前最も愛した向島にちなんで、
その地の木母寺境内に銅像が建てられ、その後現在の梅若公園内に整備された

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2004年07月22日(木)
1206, 「半落ち」ー 映画感想

30万部を越すベストセラー記録を樹立した横山秀夫ワールドの最高峰
半落ち』が映画化され、今年の1月に公開された。そのDVDが、もうレンタルショップにあった。
さっそく借りてきた見たが、素晴らしい内容であった。 見おわった時、涙が知らずと溢れ出ていた。
あとで家内から聞いたが、みた人のほとんどが泣くという。 私の感想文は、最後に書いてある。
 ー解説と内容(ホームページよりコピーしたもの)を貼り付けておきます。
 ー解説ー
(字数の関係で中略カット弐千八年七月二十二日)
 ーーーー
< 感想>
母をアルツハイマーで5年半、看護した経験があったので、主人公の深い思いに感情移入をしてしまった。
そして、それに関わる色いろな立場の思惑や利害も、身に憶えのあることばかりで、主人公の心の壁を探っていく物語は、
そのまま自分自身の心の壁を抉りだしているようであった。そして、当時の自分の心の姿が浮かび上がってきた。
辛く悲しい母の姿と家族の、それぞれの立場で必死に生きていた当時の日々がリアルに浮かんできた。
しかし、そこには底知れぬ暖かさがあった。アルツハイマーの身内を抱えた崩壊一歩手前の家族が、
どういう気持ちで毎日を過ごしているか、この映画は深く入り込んではいなかった。それも、しかたがないが。
高齢化社会の、大きな問題がアルツハイマーである。どこの家庭でも、ぶつかる大きな問題でもある。
いまの寝室の寝ているところが、母の寝ていたところである。
アルツハイマーになった母が夢で月に二回は出てくる。 母は今でも私の中では生き続けている。

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2003年07月22日(火)
839, あいうえおー生き甲斐測定法

今やっていることが、生き甲斐があることか、天職か、ベストかどうかの
判定基準として、あいうえお生き甲斐測定法がある。
「あ」は、アイデア 
「い」は、インタレス
「う」が、ウォーク
「え」が、エキサイティング
「お」が、オーナーズシップ
  この内の一つは抜けていてもよいが、二つ以上の場合情熱が感じられなくなる。
「あ」は、要は自分のアイデア、企画かどうか。
「い」は、興味、関心のこと。
「う」は、歩くことで、行動につながる。待っていたり行動なしでは何も始まらない。
「え」は、エキサイティング。燃えるような情熱の涌くこと。
「お」は、オナーズシィップ。自分でやり遂げたという喜びや自負心ー行蔵です。
 これは藤本儀一の『人間ほど面白い動物はない』サンマーク出版ーの最後に書いてあった内容である。
創業では、これが一つでも欠けていたら上手くはいかない。これを満たした上で総てを注ぎ込んで
初めて動き出すものだ。この5つを満たす為には、いつも随想日記で書いているように、
「自分の好きなことを見つけて、それに集中する」しかない。私自身、好きなことをして生きてこられたことが
一番の誇れることだ。この随想日記で一貫して私も主張してきたことである。最後に『楽しかった!』
と言い切れる生き方である。『好きなことだけをして生きていく』には、それなりのノウハウと能力と環境が必要である。
 その方法論を具体的に解りやすく書いてある本があった。初心者向きで、どちらかというと
先人の知恵を租借している内容だ。といって好きなことをしてきたと自分で言い切れることがよい。
以下、インターネットで調べてコピーしておきます。
 ・・・・・・
「『好きなことだけをして生きていける人』はここが違う」 中川 昌彦 (著) 
 ー内容ー
(字数の関係でカット2008年7月22日)
 
・・・・・・・
2002年07月22日(月)
464,煮た豆

母から聞いた言葉で印象的な言葉で「煮た豆」がある。もう出来上がってしまって芽が生えて来ない豆をいう。
人間に喩えると「もう出来上がってしまって、潰しのきかない人間」をいう。
この言葉は自分の自戒の言葉であり、常に前向きでチャレンジと変化と闘いを自分に課し続ける姿勢だ。
ある同?会の大部分が煮た豆だけでなく、納豆のようだ。腐ってしまって、お互い粘粘している。仕方がないが、
もうオカラのような人もいる。豆の質も10歳で殆ど決まってしまうらしい。「3歳では遅すぎる」という
ソニー創立者井深大の本があるが。私の見るところ、95?はいや99?はその範疇だ。
もっともその時の優等生も大部分がただの人だが。私のよくいう子狐は「煮た豆」が必死になって
「生豆」を演じている姿だ。いや「生豆」を粘々で絡もうとする姿だ。そういう自分ももう煮た豆か?
こういう文章を書いているといろいろ気づきがでてくる。

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2001年07月22日(日)
[83] バイキングについて

ー北欧旅行記ー 
バイキングは今より1200年前突然始まり200年で終わったそうだ。キリスト教の影響ではないかと言われている。
面白いのは相続は末子相続で、長男次男はある年令に成ると家から出て行くそうだ。
海は日本の場合お堀の役割だが、夢に向けての希望という。1000年前のバイキングの船がそのまま
発掘されて展示されていた。一艘40人ぐらいの定員で50艘位で攻めていくそうだ。
アメリカまでも行っていたそうで、コロンブスの発見より5^600年さかのぼる事になる。
それにしても金髪で背が高く足が長い、それに美男美女である。料理も上手い!厳しい自然だが資源に恵まれている。