先日、立川談志のテレビインタビューを見ていたら「ミューズが降りた」芸について語っていた。
年に2〜3回はあるという。 話芸の中の人物に魂が降りてきて、自分でも信じられない芸になる。
その幾つかの中の一つの「芝浜」の録画を放映したが、何度か観たことのある録画。
名優の演技には、度々あるのだろう。 森光子の放浪記の演技の中でも多くあったはず?。
談志曰く、「その時の芸は自分でも抱きしめたいようだ!」
 ーネットでミューズを調べてみると・・・
ー「ミューズ とは、ギリシア神話に出てくる、文芸・音楽・舞踊・哲学・天文・芸術一般などの女神たちの総称。
個々の女神は、Muse ミューズで単数の形になります。 大神ゼウスと、記憶を意味するムネーモシュネー女神の
あいだに生まれた、9人の姉妹とされている。ー
 芸の中の人物を演じていると、その人物が自分を観ている錯覚を覚えるという。 
霊感の鋭い人の感覚は、鈍い人に解りようがない。
スポーツ選手でも、政治家でも、一番勢いの乗っているときは、誰でも神がかる。神?が本人を使っている状態か。 
頭に浮かんだイメージに自分を通してエネルギーを入れると、魂が入るということだ。 
芸術品もミューズが降りた神の仮の姿とみれば、違った面も見えてくる。
私の同級生の兄が「能」をしているが、「能の世界は現実か、現実が幻想世界か、混同することがある」(新聞紙上)
と、同じようなことを言っているのだろう。
 ところで私にミューズが降りたことがあっただろうか? いや、誰にもあることでしかないか?
言わないだけ、表現する場がないだけ、表現方法を知らないだけ、それだけ人間の脳力は深いということ。
 (後記ー偶然、昨年書いた、「ごっこ遊び」が、関連したような内容。)

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602, ごっこ遊び
2008年05月19日(月)
        
 ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。
ーまずは「ごっこ遊び」を、ー辞書で調べてみるとー

ごっこ遊び(ごっこあそび)はこどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって遊ぶものである。
通常、○○ごっこというように、何かの名前をつけて呼ぶ。 何かの職業のまねをして遊ぶ場合や、
テレビやマンガのヒーローやヒロインのまねをして遊ぶ場合がある。
こどもはあこがれを抱いた対象ならどんなものでごっこ遊びにしてしまうので、
「わんちゃんごっこ」や「お人形さんごっこ」 など大人の予想しないごっこ遊びを始めることがある。】
とある。 子供の頃に、多くのごっこ遊びをした記憶がある。
最近は、若者の間にアキバ系で「メイドカフェ」なども、「ごっこ遊び」そのもの。
他にも、ロールプレーイング・ゲームがある。元々は戦争シミュレーションゲームから派生したアメリカで考案された遊び。
参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイヤーキャラクター)を操作し、一般にはお互いに協力しあい、
架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームの一種。
様々な設定と制約の元で、空想上の世界で物語の登場人物のように活躍できる。
考えてみれば、世の中の多くは「ごっこ遊び」のようなもので、国が発行している札だって、所詮は紙切れでしかない。
それに価値があると国民が思い込んでいるから価値があるのであって、冷静に考えてみたら、それって印刷された紙切れ。
子供の頃に紙に書いた紙切れで御店屋ごっこをしたのと何が変わるのだろうか。
お互いに思い込みをして演技をしている「ごっこ遊び」に過ぎないのだ。
その最も滑稽なのが、青少年期の恋愛である。 お互いに理想的な男女を演じる姿も微笑ましいが。
そして、その段差があまりに大きいため、幻滅の時期の白けも大きくなる。成田離婚が、その典型である。
「振りをする」というのも疲れるものだろうが。 世の中、それぞれの役割がある。
その役割をこなすには、まずは「振り」から始めなくてはならない。ぶりっ子という言葉があるが、
これは「振りっこ」のミエミエのことである。俳優も「ごっこ遊び」に徹することから始まり、
最後も、俳優という仕事で配役を「ごっこ遊び」として楽しむところにコツを見つけるのだろう。

まあ、人生ごっこも面白いと言えるかどうか?
                        ヾ(??????)ノ